日本書紀に出てくる 武烈天皇・継体天皇・蘇我馬子・推古天皇・聖徳太子・天智天皇・天武天皇 ゆかりの場所をGoogleマップにマークしました。もう50年以上前に修学旅行でいって 石舞台や薬師寺でみんなで撮った写真が残っています。ちょっと前に 法隆寺や薬師寺を廻ってきました。どこも広大で数多くの立派な建物がゆったりとあって いにしえの権力者がどれほど力を持っていたのか?。ゆっくり明日香の方にも行きたいなと思います。
西東社「地図と写真から見える 古事記・日本書紀」 山本明 著 を図書館で見つけました。
昭文社「地図でスッと頭に入る 古事記と日本書紀」 監修 瀧音能之
を参考に Googleマップにメモを作ってみました。
古事記 上巻の舞台(神武天皇 誕生まで)ゆかりの地は こちら
古事記 中巻の舞台(神武天皇~応神天皇)ゆかりの地は こちら
古事記 下巻の舞台(仁徳天皇~推古天皇) ゆかりの地は こちら
Googleマップ

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古事記 最後の部分
清寧天皇 ➡飯豊王 ➡顕宗天皇(袁祁)
雄略天皇の皇子 第22代 清寧(せいねい)天皇 亡き後 皇位継承の資格をもつ者が誰もいなり、市辺之忍歯王の妹である飯豊王(いいどよのみこ) 治めていました。その後 市辺之忍歯王 の子 意祁王(オケ)と袁祁王(ヲケ)が見つかり 袁祁が 第23代 顕宗天皇 に即位。
————————-『 古事記』 報復の繰り返しが終わり 推古天皇まで系譜を示し 終える —————
仁賢天皇➡暴虐な武烈天皇➡血統絶える
第23代顕宗天皇(袁祁)が亡くなり、子がなかったので 兄の意祁が 第24代 仁賢天皇 となった。
仁賢天皇の死後、武内宿禰の後裔と伝えられる 大臣 平群真鳥(へぐり の まとり)が勢いを増し 政権を牛耳る。その真鳥の 息子鮪(しび)と 仁賢天皇の皇子 小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき:武烈天皇)が物 部氏の娘 影媛 を巡って争います。求婚していた影媛を 鮪に奪われ、わかさざきは怒って 豪族の 大伴金村に命じ 平群親子を 殺害し平群氏を滅ぼす。わかさざきは即位し 第25代 武烈天皇 となるが 目を覆う残虐行為(妊婦の腹を裂いて胎児を見る。生爪を剥いで芋を掘らせた。木に登らせ弓で射落とす。女を裸にして馬と交尾させる)を繰り返す。一方酒と女に溺れ 乱れた生活を送り、在位8年で死去。子がなかったため 仁徳天皇からの血統は途絶える。
※日本書紀の武烈天皇の悪行は創作されとみられる。中国の儒教の思想で 武烈天皇を暴君化することで 次の王朝を正当化するためだった。
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奈良県桜井市 海石榴市(つばいち)跡:万葉集・日本書紀・枕草子にも登場する海柘榴市は、わが国最古の市。影姫の慈愛の伝説や恋の歌をかけ合う歌垣の舞台として知られた。
奈良県天理市 和爾下神社(わにしたじんじゃ):武烈天皇の愛した「影媛伝説」ゆかりの地で、参道沿いにひときわ大きい歌碑もある。
奈良県香芝市 武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵(かたおかの いわつきのおかの きたのみささぎ):志都美神社の北側に隣接しています。
応神天皇5世孫 継体天皇
子供のいない武烈天皇が死ぬと、大伴金村らの豪族が皇位継承者を探し出したのは 越国(日本海沿岸域北東部)にいた 応神天皇の五代目の子孫 男大迹(おほと)王 が 第26代 継体天皇 に担がれ 妃となったのが 第24代 仁賢天皇 の娘 手白香皇女(たしらかのひめみこ)です。反発する豪族があったため 宮を点々として大和入りに20年もかかった。
その頃朝鮮半島では 新羅が 日本と親しい 百済や任那(みまな)に圧力をかけてきた。ヤマト政権が朝鮮に出兵しようとしたところ、負担を強いられていた 筑紫君磐井(筑紫国の豪族) 達が 新羅と結んで、磐井(いわい)の乱をおこした。ヤマト政権が遣わした 物部麁鹿火によって鎮圧され 、これによりヤマト政権の九州支配が強まった。
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・福岡県八女市 岩戸山古墳:北九州最大の前方後円墳は 筑紫国の豪族 筑紫君磐井が祀られる。
・大坂府枚方市 継体天皇樟葉(くずは)宮跡伝承地:越から迎えられた男大迹王は 継体天皇として樟葉で即位し、5年にわたり宮を営んだとされます。
・京都府京田辺市 山背筒城宮跡地:継体天皇は河内国樟葉宮で即位、山背国筒城宮へ都を遷した。その後 弟国宮 として遷都しますが、その地が長岡京市北部だと考えられています。
・奈良県桜井市 継体天皇 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)跡:継体天皇は 宮を点々として20年もかかって大和のこの地に都を遷した。
・福井県福井市 足羽神社:継体天皇を祀っている。
物部氏と蘇我氏
継体天皇の死後、3人の皇子が 第27代 安閑天皇、 第28代 宣化天皇、 第29代 欽明天皇と即位します。
欽明天皇の時代に仏教が百済から伝えられます。物部氏は仏教の受入を反対し、蘇我稲目が仏像を自宅に祀ります。物部守屋が疫病を反対に蘇我氏の寺を焼くなど激しく対立します。
欽明天皇の子が 第30代 敏達天皇で、亡くなると、蘇我馬子が 第31代 用明天皇を即位させた。それに対し 物部守屋が、用明天皇死後、穴穂部皇子を推したが、蘇我馬子は 厩戸皇子(聖徳太子)らと 挙兵し 、物部氏を滅ぼした(丁未の乱または衣摺の戦い)。その後馬子は 第32代 崇峻天皇を立てて 政権を牛耳ります。自分が傀儡であると気づいた崇峻天皇は反発し 馬子に暗殺されてしまう。
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・明日香村 飛鳥寺:日本初の本格的な寺院で 蘇我馬子が自宅を寺にしたものとされる。現在は江戸時代末期に再建された本堂を中心とするこじんまりとした寺ですが、創建当時は五重塔の東・西・北に3つの金堂が立ち、それらを中門から延びる回廊が囲む、巨大な寺院でした。仏師 鞍作止利(くらつくりのとり)によって造られた釈迦三尊像(飛鳥大仏)は 現存する日本最古の仏像といわれる。
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■大阪府八尾市
八尾市を拠点としていた豪族 物部守屋と 聖徳太子・蘇我馬子の間で仏教を巡る戦いとなりました。
・弓削神社:物部氏の一族である弓削氏の氏神。
・大聖勝軍寺:聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさに勝つたので、この寺を建てたという。
・八尾市太子堂物部守屋墳:聖徳太子は 敗れた物部守屋を葬ったところと伝えられている
・樟本(くすもと)神社(北木の本)・守屋首洗池:聖徳太子が物部氏に攻め込まれたときに そばにあった椋の木が割れて開き 身をかくまわれて難を逃れ、打ち滅ぼし 物部守屋の首を洗ったとされる池。
推古天皇の皇太子 厩戸皇子(聖徳太子)
崇峻天皇が暗殺されたあと、 蘇我馬子に推され 日本初の女帝 として 第33代 推古天皇 が皇位に就いた。厩戸皇子は皇太子として叔母 推古天皇の摂政となり、29年の間 務めた。仏教を根幹とした政治を行い 冠位十二階、憲法十七条の制定をして、官民の心得を示し、律令制の基礎固めを行った。遣隋使として小野妹子を派遣し、隋との国交を開き、大陸文化を採り入れ文化の向上に力を入れた。これが飛鳥文化と呼ばれている。
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■聖徳太子創建7か寺
・斑鳩町 法隆寺:用明天皇が自らの病気平癒を祈って発願、推古天皇と聖徳太子が607年に完成させ 世界最古の木造建造物として、世界文化遺産に。広い境内には、1400年間の歴史を伝える、さまざまな時代の仏像・建造物が残る。
・斑鳩町 中宮寺:聖徳太子が母、穴穂部間人皇后のために建てた御所跡を寺にしたと伝えられ、大和三門跡寺院の一つ。本尊の菩薩半跏思惟像は 気品のある微笑みを浮かべている。
・斑鳩町 法起寺:聖徳太子ゆかりの岡本宮を太子の遺命で、子の山背大兄王が寺にしたとされる。世界最古の三重塔が残る。
・大阪市 四天王寺: 蘇我馬子と物部守屋が争った際、聖徳太子が四天王の像を彫ったところ戦いに勝利し、このお礼に太子が四天王寺を建立したと伝えられる。
・明日香村 橘寺:聖徳太子誕生の地といわれ、壮大な伽藍配置を誇ったが 何度も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎が当時を物語る。室町時代の聖徳太子坐像、善悪2つの顔が刻まれた二面石などがある。古事記には垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来している。
・京都市右京区 広隆寺:国宝の弥勒菩薩像で名高い。 推古天皇時代に建立されたという京都最古の寺で、『日本書紀』によれば、渡来氏族の秦河勝が聖徳太子から与えられた仏像を本尊にして創建したという。
・葛木寺:まだ場所が確定していません。
・奈良市 元興寺:蘇我馬子が創建した飛鳥寺を、平城京に移して造営したのが元興寺です。聖徳太子 像が祀られている。
・奈良県 王寺町 達磨寺:瀕死の旅人を見つけた太子が、衣食を与えて看病したが、翌日死亡し 葬ったところ数日で遺骸が消え 太子が与えた着物のみが残っていた。達磨の化身と考えた太子は、堂を建て自らが彫った達磨像を安置したといわれる。聖徳太子像が祀られている。
・奈良県 斑鳩町 法輪寺:父聖徳太子の病気平癒を願った山背大兄王によって建立されたと伝えられる。創建当時の建物は現有していないが、発掘調査から七堂伽藍を完備しており 7世紀の創建と分かった。飛鳥仏が安置されている。
・京都府長岡京市 乙訓寺: 推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したと伝えられています。 一時,空海が別当を務めたことから真言宗となりました。早良親王の幽閉地として有名です。
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・明日香村 向原寺:江戸時代に建てられたお寺ですが、仏教伝来し 最初に伝えられた仏像を祀っている。聖徳太子が仏教を取り入れた時代に朝鮮半島の百済が戦争になって日本に援軍を依頼され お礼に 仏教と仏像をもらった。30cmの金銅観音菩薩立像で、江戸時代に頭部だけが発見された。
本堂のそばに 推古天皇豊浦宮跡が 40年前発見された。蘇我稲目の邸宅が 孫にあたる推古天皇の 豊浦宮になったと考えられる。そして蘇我稲目が仏像を自分の邸宅に祀り のちにお寺になったと考えられる。
物部氏は仏教を入れたくなかったので 仏像を盗み出し 池に投げ入れたという伝説がある。
・雷丘東方遺跡(小墾田宮推定地):推古天皇は即位した豊浦宮からに小墾田宮(おはりだのみや)へ遷都を行いました。小墾田宮は南門から入ると左右に庁(朝堂)が並び、その北には大門があって天皇が座す大殿へ通じていた、と『日本書紀』に記されています。
・奈良県斑鳩町 白山神社:聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ往来する太子道(筋違道)沿いにあり、太子が休憩したと伝わる「腰掛石」や「駒つなぎの柳」などがあります。
・奈良県三宅町 屏風杵築神社:聖徳太子が法隆寺建立のために通ったとされる「太子道」沿いにあります。聖徳太子にまつわるものも多く、拝殿には「聖徳太子接待絵馬」が奉納されています。
・滋賀県大津市 小野妹子神社(唐臼山古墳):我が国初の遣隋使の使節団長として活躍した小野妹子の墓と伝わる古墳。ヤマト朝廷の官人層だけが造営できる巨大な箱形石棺状石室が露出している。

中大兄皇子(天智天皇)
山背大兄王 (聖徳太子の子)の死
聖徳太子が 死去したあと、蘇我馬子の横暴さは目に余るものとなり、馬子が亡くなると、息子の蘇我蝦夷(えみし)が大臣職を継承。628年 推古天皇 が皇位継承者を指名せずに亡くなったため、有力豪族の間で争いが起こります。
蘇我蝦夷は 聖徳太子の子 山背大兄王が皇位に就くことを恐れ、敏達天皇の孫 田村皇子(第34代 舒明天皇)の即位を強行します。
舒明天皇が亡くなると、舒明天皇の皇后 宝皇女(第35代 皇極天皇 )を即位させる。蘇我蝦夷・入鹿の専横が続きます。権力争いで 蘇我入鹿は 聖徳太子の子 山背大兄王を 斑鳩宮 で襲撃し自害に追い詰めました。
乙巳の変
蘇我氏の増長に危機感を抱いた反蘇我勢力は、舒明・皇極天皇の皇子 中大兄皇子と中臣鎌足を中心に、天皇を中心とする国家体制を目指し、蘇我入鹿暗殺を計画。645年 に乙巳(いっし)の変が起こります。蘇我親子は 天皇をさしおいて祈祷を行う、勝手に自分達の墓を作る、無断で冠位を与えるなど振る舞っていました。
三韓(高句麗・百済・新羅)から 貢物を献上する儀式の時 皇極天皇の皇居 飛鳥板蓋宮 大極殿で、中大兄皇子が蘇我入鹿に斬りかかり 殺害し、飛鳥寺に入って軍勢を集め 戦に備えました。
甘樫丘(あまかしのおか)の邸宅に立て籠もる蘇我蝦夷は 集結した中大兄皇子の軍勢を見て 邸宅に火を放って自害し、蘇我本宗家は滅び 新時代をを迎えた。
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・明日香村 飛鳥宮跡:(伝 飛鳥板蓋宮跡)乙巳の変で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害した。
・甘樫丘:蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があった場所
・蘇我入鹿首塚
・石舞台古墳:蘇我馬子の墓と伝えられる、巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を誇る。
大化の改新
皇極天皇が 弟の軽皇子に譲位し、第36代 孝徳天皇が即位。中大兄皇子(のちの天智天皇)は皇太子となり、645年 年号を大化と定め 都を難波長柄豊碕宮に移し、翌646年 天皇中心の中央集権国家を目指す「改新の詔」を発します。これに伴って、中大兄皇子らは、公地公民制や国郡制度、田園収授法、租庸調の税制など、次々に改革を断行しました。この一連の改革を大化の改新と呼んでいます。
一方 中大兄皇子は政敵の粛清を行います。蘇我氏が推していた 異母兄の古人大兄皇子や 乙巳の変で同志だった 蘇我倉山田石川麻呂らを一掃した。
さらに 孝徳天皇との対立 母の宝皇女や重臣を引き連れ 飛鳥に遷都、取り残された 孝徳天皇は亡くなり、遺児の有間皇子も処刑された。
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大阪市 孝徳天皇難波長柄豊碕宮跡:徳天皇が即位。中大兄皇子らが大化の改新を行った。
奈良県桜井市 安倍文殊院:孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、初代左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立した。境内に倉梯麻呂の古墳がある。内部は1300年前以上に造られたものとは思えないほど精巧な造り。日本最大約7mと伝わる国宝・渡海文殊菩薩群像を御本尊とする。日本三文殊 の1つ。
白村江の戦い
孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が再び 第37代 斉明天皇(初の重祚)として 飛鳥板蓋宮で即位、政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
同盟関係にあった百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。百済再興を目指し救援を求められた 日本は 朝鮮出兵を決意、斉明天皇と中大兄皇子は船で九州に向かいます。
九州到着後 斉明天皇は病死しますが、中大兄皇子が指揮をとって 朝鮮半島に軍船を派遣し 白村江で待ち構える連合軍と激突し大敗を喫する。
中大兄皇子は 長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した。唐・新羅の侵攻を恐れ 九州に国境警備の防人を配置し、砦となる水城を築き、瀬戸内海沿岸に山城を多く築きます。
近江大津宮へ遷都し、 第38代 天智天皇 に即位し、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟としたが、晩年 実子 の大友皇子(のちの弘文天皇) に皇位を譲りたいと太政大臣に据えた。大海人皇子は出家し 吉野に隠遁したので 第一皇子の大友皇子を皇太子とします。天智天皇が亡くなり、大友皇子が 第39代 弘文天皇 に即位します。
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・福岡県太宰府市 太宰府:白村江で唐,新羅の水軍に敗れた大和朝廷が大陸に対する防衛基地として創設した
■大和朝廷によって 唐・新羅の侵攻に備えて築かれた山城、水城。
鬼ノ城跡(長崎県対馬市)、高安城(大阪府八尾市)、屋島城(香川県高松市)、城山城(香川県坂出市)、長門城(山口県下関市)、唐原城(福岡県上毛町)、鞠智城(熊本県山鹿市)、基肄(椽)城(きいじょう)(佐賀県基山町)、大野城跡(福岡県糟屋郡宇美町)、金田城跡(城山山頂:長崎県対馬市)
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・滋賀県大津市 近江大津宮跡(近江大津宮錦織遺跡):天智天皇が飛鳥から遷都した宮殿で 律令国家の基礎となる「近江令」や「庚午年籍」などが推進された。
・ 〃 近江神宮:近江大津宮の跡地に創立された神社で「かるたの殿堂」とも呼ばれています。百人一首かるたの祖と言われる天智天皇をお祀りしています。
・京都市 天智天皇 山科陵(御廟野古墳):正八角形の古墳で、天智天皇の墓とされています。
・明日香村 岡寺:古くは『龍蓋寺』という寺名で、飛鳥板蓋宮 大化の改新が起こった場所です。寺伝によると 天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立。西国三十三所第七番札所、厄除け観音霊場として知られます。
額田王は、はじめ大海人皇子(後の天武天皇)の妃で十市皇女を生んだが、後に中大兄皇子(後の天智天皇)と結ばれた。天智天皇は酒宴を催した あるとき、場を盛り上げるための歌を詠むように頼まれた額田王は、かつての夫である大海人皇子に歌を捧げました。万葉集にその歌が残されている。
壬申の乱
大海人皇子は中大兄皇子の娘4人を 妻としていて、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:のちの持統天皇)と草壁皇子らと 吉野に住んでおり、挙兵し 畿内と東国を隔てる 不破関と 鈴鹿関を抑えて、東海・東山道に兵力を増員だ。大友側を近江・大和の戦いで破り、瀬田の戦いで勝利すると、大友皇子が自害して壬申の乱が終結。都を近江から飛鳥に移し大海人皇子は 第40代 天武天皇に即位した。
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■壬申の乱ゆかりの地
・奈良県吉野町 宮滝遺跡:斉明天皇が吉野にお造りになられた離宮です。大海人皇子が吉野宮から
大和の榛原、伊賀の名張・上野、加太越えを経て伊勢に入りました。その後、鈴鹿関や不破関を固め、大友皇子は東国での徴兵ができなくなります。伊勢・美濃・尾張の兵を集めました。
・奈良県宇陀市 菟田(宇陀)の高城:日本書紀に壬申の乱の後、天武天皇は菟田の吾城に行幸したとあります。
・三重県四日市 天武天皇迹太川(とおがわ)御遥拝所跡(三重県指定記念物・史跡):日本書紀に、大海人皇子が東国へ向かうときに伊勢国朝明郡の迹太川の辺りで天照大神を望拝したとあります。
・岐阜県関ケ原町 大海人皇子 野上行宮(のがみあんぐう)跡:野上は尾張連大隅が私有地を大海人皇子に提供した。
・桃配山 :関ケ原合戦の際に徳川家康が布陣した山として有名ですが、大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたという。
・滋賀県大津市 瀬田の唐橋:瀬田橋の戦いで最終決戦が行われ、大海人軍が勝利。
・岐阜県関ケ原町 自害峰の三本杉(伝 弘文天皇陵):翌日、大友皇子は自害し、三本杉の下に眠っているといわれています。
天武天皇
天武天皇は天皇を中心とした 中央集権体勢の構築を進めます。鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、皇族達を登用する皇親政治で、天皇が思い通りに改革を行った。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。
天皇がモデルとしたのは、唐の律令政治で、八色の姓を定めて 身分制度を見直したり、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂を命じたり、君主号を「大王」から「天皇」に変えるなどの改革を行った。本格的な 宮都 藤原京の造営も始まった。
天武天皇は志半ばでなくなりますが、その政策は皇后の第41代 持統天皇 以降の天皇に受け継がれます。持統天皇の時代には 飛鳥浄御原令が施行され 藤原京に遷都します。
次の 第42代 文武天皇の時代に 大宝律令ができあがり 天武天皇が理想とした律令体制が完成した。
さらに 元明天皇、元正天皇の時代に古事記、日本書紀が撰上されました。

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・奈良市 薬師寺:天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立した寺で、法相宗の大本山です
・奈良県吉野町 浄見原神社:天武天皇を祭る神社で、毎年旧正月14日に 国栖(くず)奏 という舞楽が奉納されます。天武天皇が吉野に逃れてきた際に、国栖の人々が雅楽や舞楽を奉じて歓迎したと伝わる。
・〃 桜木神社:大穴牟知命、少彦名命、天武天皇を祀る神社です。
・奈良県橿原市 藤原宮跡:天武天皇が造営を始め その妻 持統天皇が飛鳥浄御原宮から遷宮した宮殿です。大和三山に囲まれており、律令国家が完成した場所。
・奈良県明日香村 天武天皇・持統天皇 檜隈大内陵(野口王墓古墳):天武・持統天皇が合葬されています。
・ 高松塚古墳、キトラ古墳はともに 7世紀末から8世紀初め頃の築造で、被葬者は、すぐ近くに天武・持統天皇陵があることから、天武天皇の皇子または正一位の役人などが推定されています。
—————『日本書紀』 end ———————
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