仁徳天皇(大雀命)の3皇子・允恭天皇の皇太子禁断の愛・安康天皇を7歳目弱王が暗殺・雄略天皇(大長谷王)の大殺戮と恋物語、清寧天皇 皇位継承者なく飯豊王が意祁と袁祁発見
西東社「地図と写真から見える 古事記・日本書紀」 山本明 著 を図書館で見つけました。
西東社「地図と写真でよくわかる古事記」 山本明 著
昭文社「地図でスッと頭に入る 古事記と日本書紀」 監修 瀧音能之
三笠書房 王様文庫 「読めば読むほど面白い『古事記』75の神社と神様の物語」由良弥生 著
を参考に Googleマップにマークして 旅行に行けたら廻ってみたいと思っています。
古事記 上巻の舞台(神武天皇 誕生まで)ゆかりの地 は こちら
古事記 中巻の舞台(神武天皇~応神天皇)ゆかりの地 は こちら
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仁徳天皇(オオサザキ)
応神天皇が亡くなると 3人の皇子で皇位継承の争いが起き 大山守命(オオヤマモリ)が抹殺され、相互に辞退している内に宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)が亡くなり、大雀命(オオサザキ)が 16代 仁徳天皇に就いた。治水工事を行い 税を免除するなど 善政を行い聖帝と称される。
嫉妬深い皇后
大豪族の葛城氏から迎えた 皇后 石之日売命(イワノヒメ)はとても嫉妬深かった。吉備の黒日売(クロヒメ)を召し上げたが、皇后の妬みを恐れて帰ろうとした。天皇は舟で下るクロヒメを思う歌を詠んだところ、皇后は激怒 クロヒメを舟から降ろさせ、徒歩で故郷に帰させた。天皇は淡路島を見に行くといい 吉備まで出かけてなぐさめた。
皇后が紀伊国に出かけていた時 天皇は異母妹である八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を妃にした。それを皇后に告げ口をする者がいて、宮中には戻らず 山代の筒木宮に籠もる。天皇は臣下を派遣しても聞き入れず 自ら迎えに言った。
また 八田若郎女の妹 女鳥王(メドリノミコ)と結婚しようと 異母弟の速総別王(ハヤブサワケ)を遣わして求婚をした。メドリは ハヤブサワケと結婚し天皇を討うとする。天皇は軍を起こし2人を宇陀の蘇邇に向かう途中で討つ。(氏族の勢力争いでもあった)
皇位争い
仁徳天皇が亡くなると 皇后 石之日売命 との子 大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけ)が 第17代 履中天皇に即位。すると 弟 の 墨江之中王(すみのえのなかつ)が難波宮に攻めてきて 埴生坂(大阪府羽曳野市)まで来ると難波宮は燃えていた。当芸麻道から石上神宮にたどり着く。弟の水歯別尊(みずはわけ)は 、中王に仕える ソバカリを裏切らせ 中王を亡き者にした後ソバカリの首を切った。その地を難波に三谷に近いため 「近つ飛鳥(大阪府羽曳野市)」と呼んだ。戦いの汚れを清めるため 大和に入りミソギを行い 「遠つ飛鳥(奈良県明日香村)」と称した。
履中天皇は 磐余(イワレ)(奈良県桜井市)に移り統治する。履中天皇が亡くなり、水歯別が皇位を継いで 第18代 反正天皇に、その後 弟の男浅津間若子宿禰命/雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくね)が 第19代 允恭(いんぎょう)天皇に即位し、仁徳天皇と石之日売命の御子が三代続けて皇位に就いた。
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奈良県天理市 石上神宮:仁徳天皇の子 履中天皇が身を寄せた。軍事担当の 物部氏ゆかりの神社で 国の武器庫の性格を帯びていた。神武天皇が高天原から預かった太刀 布都御魂大神を祀る。須佐之男命がやまたのおろちを切った神剣 天十握剣も祀られている。
大阪府大阪市 高津宮:仁徳天皇が天下を治めた高津宮。
大阪府松原市 柴籬(しばがき)神社:主祭神である第18代反正天皇は、別名「瑞歯別命(ミズハワケノミコト)」とも呼ばれ、歯の神様として知られています。
大阪府堺市 仁徳天皇陵古墳:全長 486m 陵域は堀を含めて47万㎡という日本最大規模の前方後円墳。近くに 反正天皇陵、履中天皇陵もある
允恭天皇 皇太子禁断の愛
第19代 允恭(いんぎょう)天皇は病弱でしたが 葛城氏の支えがあった。政治の乱れ(氏姓制度の乱)を正そうと、煮立つ釜に手を入れる 盟神探湯(くがたち)が、行われました。
允恭天皇は 木梨之軽太子(キナシノカルノミコ)を皇太子にした。軽太子は同母妹の軽大郎女(カルノオオイラツメ)と思いを遂げる。人心が離れてしまい 弟の穴穂命(アナホノミコ)に帰順した。それを知った軽太子は大前小前宿禰(オオマエヲマエノスクネ)という臣下の家に逃げ込むが 囚われ、伊予湯(道後温泉)に流された。残された軽大郎女は歎きの歌を詠み、伊予湯まで追いかけて行き、二人は死へと旅だった。
穴穂命が 第20代 安康天皇に即位。
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奈良県明日香村 甘樫坐神社:甘樫丘にあり 允恭天皇が煮立つ釜に手を入れる 盟神探湯を行った。後に蘇我氏の屋敷もあった。
愛媛県松山市 道後温泉、軽之神社:軽之神社は、御祭神は 木梨軽太子と軽大郎女で 第19代允恭天皇の子で、同母の兄妹です。2人のことが知れ渡り 反抗して 囚われ道後に流された。軽大郎女が入水したと伝わる姫池がある。
安康天皇を7歳の目弱王(マヨワノミコ)が暗殺
第20代 安康天皇は 同母弟の大長谷命(オオハツセ:のちの雄略天皇)を目にかけており、叔母の若日下王を大長谷の妻にしたいと思い 兄の大日下王に許可を取りに根臣を送ると、快諾し押木の玉縵を献上した。根臣は玉縵が欲しくなり 大日下 が拒絶したと報告。安康天皇は、家臣の讒言を真に受けて、仁徳天皇の御子である大日下を討ち、その妻であった長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を自分の后とし、その子 目弱王(マヨワノミコ)と共に迎え入れる。
マヨワは七歳であったが、安康天皇は 成長し 実父を殺したのが自分であるということを知ったならば、反逆するのでは ないかと 妻に語っていた。このとき、マヨワはこの話を聞いてしまって、天皇が寝ているところに侵入し、大刀で天皇の首を落とし 葛城氏の長である 大臣の 都夫良意富美(ツブラオオミ)の屋敷に逃げ込んだ。
大長谷王の大殺戮
安康天皇殺害の知らせを聞いた 弟の大長谷命(のちの雄略天皇)は兄の 黒日子王(クロヒコノミコ)のもとに駆けつけるが、ぐずぐずしていて煮え切らなかったので、その場で斬り殺してしまう。次にもう一人の兄の 白日子(シロヒコ)のところに行くが、また同じようにぐずぐずしていたので、生き埋めにし殺してしまう。兄たちが 目弱王を裏で操っていると思ったからでした。 今度は兵を集め 目弱王が逃げ込んだ都夫良意富美の家を攻めた。目弱王と都夫良意富美は 力尽き 自ら命を絶った。
大長谷は 従兄弟である 履中天皇の皇子 市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)と狩りに蚊屋野(滋賀県東近江市 蒲生野)に出かけるが 忍歯の言動に不審なものを感じた 大長谷が 罠だと感じ 忍歯を矢で殺害してしまう。さらに遺体を切り刻んで飼葉桶に入れ 埋めてしまう。
忍歯の子 意祁王(オケ:のちの仁賢天皇)と袁祁王(ヲケ:のちの顕宗天皇)の兄弟は、播磨に逃げ、志自牟(しじむ)の家の使用人として暮らしていました。
後に顕宗天皇が父 市辺之忍歯王の遺骨を探していたところ 近江の 賤しい老婆が 葬られた場所を覚えていたので、置目老媼(おきめのおみな)と名付け 宮中に召し入れて、大事にしました。
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滋賀県蒲生郡日野町 押盤神社(おしわじんじゃ):祭神は天穂日命と押盤皇子命(市辺之忍歯王)
〃 馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社: 綿向山の山頂に祀られている大嵩神社の里宮で、中世には蒲生氏の、近世には日野商人や町衆の厚い崇敬を受けました。境内に置目老媼(おきめのおみな)を祀っている末社がある
滋賀県東近江市 市辺古墳(磐坂市辺押磐皇子御墓):市辺之忍歯王という円墳
雄略天皇の恋物語
皇位継承の資格をもつ親族をことごとく殺した 大長谷命(オオハツセ)は 第21代 雄略天皇に即位。
『古事記』には 豪華すぎる 地方豪族の屋敷を焼くように命令、杯に落ち葉を浮かべたまま献上した下女を殺すなど横暴な姿が書かれている。一方で数々の恋物語で彩られています。
仁徳天皇の皇女である若日下部王(わかくさかべのみこ)を皇后にした。 目弱王をかくまった 都夫良意富美の娘である韓比売(からひめ)を娶った。それ以外にも吉野の童女(おとめ)、丸邇(わに)氏の袁杼比売(おどひめ)との恋歌のやりとりが記されています。
三輪山麓の河で衣を洗っていた童女の赤猪子(あかいこ)に将来宮に召すと告げるが八十年もの間忘れてしまっていた話など、行幸と婚姻に関する話が繰り返される。
そして葛城山に登った時に 大きな猪が現れたので天皇が矢を射たところ、猪は怒って追いかけてくるので 榛の木に逃げ登り、助けてくれた榛の木を称える歌をうたった。
また、葛城山に天皇が家臣と共に登ったところ、自分達一行と全く同じ格好をした一団に出会った。名を聞くと 葛城山の 一言主大神と答えた。天皇はかしこまり 拝礼し 刀・弓・衣服を献上した。天皇一行が帰る時に大神は宮の近くまで見送ってくれた。
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奈良県御所市 矢刺神社:金剛山 山頂の葛木神社(一言主大神を祀る)の摂社。雄略天皇が猪狩に登山された時、葛木一言主神に出会い、猪狩りをしたところ。祭神は雄略天皇
〃 葛城一言主神社:葛城山の東南麓にあり 雄略天皇が一言主大神と出会った場所と伝わる。祭神は 雄略天皇と一言主大神
清寧天皇 皇位継承者なく飯豊王 ・意祁と袁祁発見
雄略天皇の死後 子の白髪命 が 第22代 清寧(せいねい)天皇が即位する。天皇には后や子がなく 皇位継承の資格をもつ者が誰もいなくなった。その死後、市辺之忍歯王の妹である飯豊王(いいどよのみこ) が世の中を治めていました。
国の長官として播磨に派遣された山部連小楯(やまべのむらじおだて)は志自牟の家の新築祝いの宴で、舞った弟の歌から、兄弟が市辺之忍歯王の子であることを知り 皇位継承者の二王子発見の報を飯豊王に伝えました。
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奈良県葛城市 角刺神社:飯豊青皇女が天皇の代わりに政を行った忍海角刺宮跡と伝わります。皇女が水面を鏡代わりに使っていた鏡池。祭神は飯豊青尊。
兵庫県三木市 志染の石室: 意祁王(仁賢天皇)と袁祁王(顕宗天皇)の兄弟は、播磨に逃げ、志自牟の岩穴で暮らした。
意祁(仁賢天皇)と袁祁(顕宗天皇)
都にやってきた 意祁王(オケ)と袁祁王(ヲケ)に雄略天皇時代に台頭した平群氏の志毘臣が反抗的な態度を示す。葛城氏の血をひく兄弟の出現が面白くなかった。兄弟は兵を送り志毘臣を葬った。
互いに皇位を譲り合い、弟の袁祁が 第23代 顕宗天皇が誕生した。即位の後、事件を目撃した老婆が現れ、父の 市辺之忍歯王の バラバラになった遺骨を見つけた。御陵を作って手厚く葬り、老婆に恩賞を与え、事件に関係した人を罰した。父の仇である雄略天皇の御陵をこわすことで怨みを晴らそうとするが、兄に説得され、御陵の土を少し掘ることで終わらせる。
————————- 報復が終わり 物語も終わり—- 後は簡単な系譜のみ —————
顕宗天皇が亡くなり、子がなかったので 兄の意祁が 第24代 仁賢天皇 となった。
次は 仁賢天皇 の子が 第25代 武烈天皇 となった。 平群氏が滅ぼされる。仁徳天皇からの血統は途絶える。
応神天皇の五代目の子孫が 第26代 継体天皇 に担がれ 妃となったのが 仁賢天皇 の娘 手白髪郎女(たしらかのいらつめ/手白香皇女)で その子が 第27代 安閑天皇、 第28代 宣化天皇、 第29代 欽明天皇。
欽明天皇の子が 第30代 敏達天皇、第31代 用明天皇、第32代 崇峻天皇、第33代 推古天皇 皇位に就いた。
————————– end ————————————————-
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