古事記に出てくるのはどの辺か いつも頭に描いていました。
中巻は神武の東征、崇神天皇の王権確立、景行天皇とヤマトタケル、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇誕生までです。
西東社「地図と写真から見える 古事記・日本書紀」 山本明 著 を図書館で見つけました。
西東社「地図と写真でよくわかる古事記」 山本明 著
昭文社「地図でスッと頭に入る 古事記と日本書紀」 監修 瀧音能之
三笠書房 王様文庫 「読めば読むほど面白い『古事記』75の神社と神様の物語」由良弥生 著
を参考に Googleマップにマークして 旅行に行けたら廻ってみたいと思っています。
古事記 上巻の舞台(神武天皇 誕生まで)ゆかりの地はこちら
古事記 下巻(仁徳天皇~推古天皇)ゆかりの地 はこちら
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神武の東征
日向から熊野へ
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)は母の妹の玉依毘売命(タマヨリビメ)と結婚し 長男 彦五瀬命(イツセ)、次男 稲飯命(イナヒ)、三男 三毛入野命(ミケヌ)、四男 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)別名 若御毛沼命(ワカミケヌ=後の神武天皇)が誕生した。
イワレビコが長兄イツセと天下を治めるために最適な場所を求めて東へ向かった。
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・高千穂宮
・日向 美々津(現 宮崎県日向市 美々津海岸) 神武天皇御舟出の地 、立磐神社で 渡航の安全を祈願
宮崎市 宮崎神宮:神武天皇を祀る
宮崎市 皇宮屋 皇宮神社(宮崎神宮摂社) :神武天皇が東征前まで住んでいたところ
宮崎市 佐野原聖地:神武天皇の父 鵜草葺不合命の宮跡で 神武天皇誕生地と伝わる。
日南市 駒宮神社:神武天皇が幼少期過ごしたところ。神武天皇駒繋の松跡
西諸県郡高原町 皇子原神社(狭野神社元宮):神武天皇が誕生した産屋跡地
西臼杵郡高千穂町 四皇子峰:神武天皇と兄弟 4人の生誕地と伝わる。
西臼杵郡高千穂町 槵觸(くしふる)神社:天孫 瓊々杵尊(邇邇芸命 ニニギ)の天降りの地とされる
児湯郡都農町 都農神社:神武天皇が東征の際祈願した
鹿児島県霧島市 宮浦宮:神武天皇がたびたに訪れた
鹿児島県霧島市 鹿児島神宮(大隅正八幡宮):神武天皇が火遠理命(ホオリ)を忍んで建てた
・豊の宇沙(現 大分県宇佐市) 宇佐神宮 に逗留
・筑紫 岡田宮(現 福岡県北九州市) 岡田宮(岡田神社) に1年滞在
・ 安芸 多祁理宮(たけりのみや)(現 広島県府中町)神武天皇聖蹟埃宮・多祁理宮顕彰碑 に7年
・吉備 高島宮(現 岡山県岡山市)吉備高島宮跡 に8年暮らした。
・速水の門(現 明石海峡)
・浪速の渡り(現 大阪湾)白肩津に 停泊すると、生駒山を支配する ナガスネビコ が待ち構えていて、イツセは矢に当たり負傷。いったん 南に迂回をして 太陽の昇る東を背に再進行した。
・血沼海(現 大阪府泉佐野市)
・男之水門(現 大阪府泉南市):イツセ死亡
・龜山(現 和歌山県和歌山市)竈山神社:イツセが葬られた
・熊野村(現 和歌山県熊野市)荒ぶる神の化身の大きな熊が現れて、霊力で一行を気絶させる。熊野の国つ神タカクラジ(高倉下命)が太刀を掲げると息を吹き返し 敵は退散した。
和歌山県新宮市 神倉神社:「ゴトビキ(ヒキガエル)岩」を御神体(ごしんたい)とし、高倉下命(たかくらじのみこと)・天照大神(あまてらあすおおみかみ)を祭神としています。
熊野速玉大社:八咫烏神社:
那智勝浦町 熊野那智大社:那智の滝:飛瀧神社:熊野三所大神社
田辺市 和歌山県田辺市:熊野本宮大社
大和平定
イワレビコ(後の神武天皇)に天の高御産巣日神(タカミムスビ)別名を高木神(タカギノカミ)が 送ってきた 八咫烏(やたがらす)の先導で宇陀に到達。奈良県宇陀市 八咫烏神社
宇陀でエウカシ・オトウカシ兄弟の謀略に巻き込まれるが返り討ちにしました。
・忍坂で土雲のヤソタケルの抵抗にあうが宴会を開いてだまし討ちにした。
・登美で兄を討ったナガスネビコとの再戦に勝利。
※あとを追って天から降りてきた 邇芸速日命(ニギハヤヒ)が臣下になることを願い出た。ナガスネビコの妹と結婚し 物部氏の祖先になった。石切剣箭神社(大阪府東大阪市)に祀られている。
・ヤマトの畝傍の白檮原(橿原)宮を造営し即位して 初代の神武天皇 となり 大和政権誕生する。
イワレビコは東征前 阿比良比売(アヒラヒメ)をめとって多芸志美美命(タギシミミ)、岐須美美命(キスミミ)が生まれた。
即位後に 奈良三輪山の神 大物主神(オオモノヌシ)の娘 伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)をめとって日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカハ:次の綏靖天皇)の3人が生まれた。
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宮崎県日南市 鵜戸神宮:神武天皇の父 ウガヤフキアエズを祀る。太平洋に突き出た岬の突端の洞窟の中に朱塗りの本殿がある。
奈良県橿原市 橿原神宮:御祭神 神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された。
京都府京都市 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ 通称 下鴨神社):西殿に 賀茂建角身命、東殿に玉依媛命 が祀られている。賀茂建角身命は古代の京都を開いた神で、八咫烏に化身して神武天皇を先導したという言い伝えがある。賀茂建角身命の娘が玉依媛命という。古事記と違うが神に仕える巫女の意味があって同一神としてるそうです。
千葉県長生郡一宮町 玉前(たまさき)神社:1200年以上の歴史がある格式高い古社。タマヨリヒメは海からこの地に上がり 姉 タマヨリヒメに託された ウガヤフキアエズを養育、後に結ばれ 神武天皇を含む4人の子供を生みました。神武天皇の母 玉依姫命 が祀られている。
奈良県吉野郡吉野町 吉野水分(みくまり)神社:水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神に玉依姫命(神像は国宝)以下6柱の神を祀る世界遺産の神社。子守宮(こもりのみや)ともいい、子授け・安産・子どもの守護神として篤く信仰されている。豊臣秀吉が子授け祈願をし授かったことから、現在の社殿はその秀頼が再建した。
三重県伊賀市 高倉神社:イワレビコ(後の神武天皇)を助けた熊野の国つ神 高倉下命 の七世の孫の倭得玉彦命(卑弥呼の父親説あり?) この地に 高倉下命を祀った。
愛知県名古屋市 高座結御子神社:アマテラスとスサノオを祀る 熱田神宮の境外摂社で、高倉下命 祀る。
奈良県天理市 石上神宮:古代 国の武器庫を担っていた。神武天皇が高天原から預かった太刀 布都御魂(ふつのみたま)大神を祀る。スサノオがヤマタノオロチを退治した神剣 天十握剣 も祀られている。神武天皇が 物部氏の遠祖に命じて祀った。後に仁徳天皇の子 履中天皇が身を寄せた。
欠史八代(創作された8代の天皇)
神武天皇崩御の後 多芸志美々命(タギシミミノミコト)が神武皇后の伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を妻とし、神武天皇と皇后との間に生まれた三人の皇子を殺して自分が天皇になろうとするが タギシミミを討ち、神沼河耳命(カムヌナカハ)が2代 綏靖(すいぜい)天皇になった。
簡単な記録のみ———–
2代 綏靖(すいぜい)天皇
3代 安寧(あんねい)天皇
4代 いとく天皇
5代 孝昭天皇
6代 孝安天皇
7代 孔霊天皇
8代 孝元天皇
9代 開化天皇
崇神天皇の王権確立
三輪山の神
10代 崇神天皇は 国が滅びそうになる 疫病の大流行に悩まされた。夢に大物主神(オオモノヌシ)が現れて「この疫病は私がおこしたもので、末裔の意富多多泥古(オオタタネコ)に祀らせたならば祟りは止み、世の中は安らかになるであろう」というものであった。早速 オオタタネコに命じ 三輪山にオオモノヌシを祀らせた。さらに天と地の神々にも社を定めた結果 猛威を振るった疫病も止み平穏が戻った。将軍達を諸国に派遣して、勢力範囲を拡げた。
<大物主神の恋愛伝説>
美しい乙女、活玉依姫(イクタマヨリビメ)のもとに ある夜 高貴な若者が訪ねてきて、二人はたちまちに恋に落ち、月日も経たないうちに姫は身ごもります。父母は素性のわからない若者を不審に思い、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺すように教えます。翌朝 糸は鍵穴を抜け、糸を辿ってゆくと三輪山の大物主の社にたどり着きました。よって若者は大物主神で、お腹の中の子が神の子と知るのです。この時に糸巻きに三巻 残っていたことから、この地を美和(三輪)と名付けたということです。
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奈良県桜井市 三輪明神 大神(おおみわ)神社:三輪山(標高467m)を御神体とし日本最古の神社といわれています。祭神は大物主大神で大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を合わせて祀ります。
大直禰子(おおたたねこ)神社:オオタタネコを祀まつる。糸巻きのことを苧環(おだまき)とも呼び、神社の入口脇に、おだまき杉といわれる杉の古株が残っている。
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三輪山周辺に集まる宮跡・陵墓
西殿塚古墳(継体天皇皇后 手白香皇女 衾田陵)
行燈山古墳(崇神天皇陵)
垂仁天皇纒向珠城宮跡
渋谷向山古墳(景行天皇 山邊道上陵)
景行天皇纒向日代宮跡
箸墓古墳:『日本書紀』では 倭迹々日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめ)の墓で崇神天皇の祖父の妹で、三輪山の神、大物主の妻となった。夜しか訪れなかった神の姿を見たいと姫は懇願する。神は朝になったら櫛箱に入っている答えた。翌日 箱を開けるとそこには小さな蛇がいた。姫が驚き騒いだために愛想をつかして神が帰ると、姫命は箸で陰部を突いて自害したと伝えられ、そこから「箸墓」と名付けられた。卑弥呼の墓とする説もある。
師木瑞籬宮 崇神天皇師木水垣宮跡
鹿児島県曽於郡大崎町 照日神社:大物主神を祀ったオオタタネコを祀る。
諸国平定
疫病が収まり 崇神天皇は 将軍達を諸国に派遣して、勢力範囲を拡げた。
将軍の一人、崇神の伯父 大毘古命(オオビコ)が越国(北陸地方)を目指して進んでいると、奇妙な少女が「崇神天皇は命を狙われている」と歌っていたので、大和に引き返します。オオビコの異母兄・タケハニヤスノミコが謀反を起こしたので、木津川で向かい合い 討伐。北陸道の国々を征服しながら北上し、東海道を進んでいた息子の建沼河別命(タケヌナカワケ)と出会い、その地は相津(会津)と呼ばれるようになりました。崇神の兄弟 日子坐王(ひこいます)を旦波国(丹波)に遣わした。
沙本毘売の悲劇
皇后兄妹の許されぬ愛
11代 垂仁天皇の后は 日子坐王(ひこいます)の娘 沙本毘売(サホビメ)で、あるとき兄 沙本毘古(サホビコ)から、「夫と兄とどちらを愛しく思うか」と問い詰められ、サホビメは兄と答えてしまう。
沙本毘売と沙本毘古は開化天皇の孫で垂仁天皇のいとこに当たる。古代異母兄弟の結婚は許されたが さすがに同母はタブーだった。
沙本毘古は妹を奪い 天皇を殺し自分が王位に就こうとしていた。皇后に小刀を渡して殺害を命じた。膝枕で寝ている天皇を刺そうと三度試みるが、目的を果たせずに 陰謀を打ち明ける。
天皇が軍勢を送ると、沙本毘売は兄の籠もる城に入ってしまった。そのとき沙本毘売は天皇の子を身ごもっていて、天皇は沙本毘古を攻めることができずにいた。やがて 御子が生まれ 沙本毘売は、その子を城の外に出すことにした。沙本毘売を愛する天皇は、御子を受け取る際に共に連れ出すよう、家臣に命じるが、沙本毘売は捕まえられることはなかった。その後 天皇は沙本毘売に御子の名前をどうするか、養育はどうするかなどをたずね、攻めるのを引き延ばしてきた。沙本毘売は自分の代わりに従姉妹達を后に迎えるよう天皇に告げ 兄に従って城の中で果てる。
奈良市 狭岡(さおか)神社:沙本毘売の伝承が残る。一帯が沙本毘売の母の所有地なので成人するまで住んでいた地で 姿見に使っていた鏡池が残る。藤原不比等が邸宅「佐保殿」の丘上に天神8座を祭ったのが最初とされ、平安時代には藤原氏の氏長者が佐保殿に泊まり、神社に参籠して精進潔斎(けっさい)した上で氏神の春日社に詣でたという。
〃 宝来山古墳(垂仁天皇陵)
桜井市 纒向遺跡:
口がきけない皇子
皇后である母親の沙本毘売命(サホビメ)は自害してしまいましたが、御子である本牟智和気(ホムチワケ)は、父親の垂仁天皇のもとで大切に育てられます。
本牟智和気は大人になっても口がきけませんでした。ある日白鳥の声を聞いて声を発したことから、天皇は山辺之大鶙(やまのべ の おおたか)に、白鳥を捕まえるよう命じます。おおたかは紀伊国、播磨国、因幡国…美濃、信濃、越国の先まで 大掛かりな白鳥探索を行い、なんとか捕まえ献上しますが、本牟智和気は 声は出せないままでした。
垂仁天皇が夢で「わたしの神殿を天皇の宮のように、壮麗に建て手もらいたい。本牟智和気御子は必ず会話ができるようになる」とお告げがあり、占うと出雲の大国主神でした。そこで本牟智和気にお供を付け 出雲に参拝すると 口がきけるようになった。その後は肥長比売と一夜を過ごしますが、この姫の正体は蛇だったので、恐ろしくなって大和に逃げ帰りました。
垂仁天皇は亡き皇后 沙本毘売の 遺言に従い 皇后の従姉妹達4人を宮中に召したが 2人は醜いので国許に帰してしまった。
常世国から橘持ち帰る
垂仁天皇は多遅摩毛理(たじまもり 、日本書紀では田道間守)を呼び「常世国という場所に、一年中とても良い匂いを放つ 非時香菓(ときじくかくのこのみ)というものがあるらしいので、是非手に入れて欲しい」と命じました。多遅摩毛理は唐の国や天竺の国など 探し求めて歩き周りました。旅に出てからは10年して 橘(ミカン)を持ち帰りましたが 垂仁天皇は亡くなっていました。
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多遅摩毛理を祀る兵庫県豊岡市 中嶋神社、和歌山県海南市 橘本神社、共に菓子業者などからの信仰を集める。
景行天皇と倭建命(ヤマトタケル)
景行天皇の息子 小碓命が大碓命殺害
第12代の景行(けいこう)天皇 には80人もの皇子・皇女がいた。その中で目をかけたのは 大碓命(オオウスノミコト)・小碓命(オウスノミコト=倭建命)の兄弟。ある時 景行天皇は、開化天皇の孫である美濃国に住む 大根王の 兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)という美人姉妹を天皇の妃にするため 使者として大碓を派遣するが 二人の姉妹を自らの妻としてしまい、父天皇には別の女性を身代わりとして連れてきた。
気づいた天皇は悩むが大碓をとがめなかった。大碓はバツが悪く朝夕の食事にも同席しない。天皇は小碓に諭させることにした(ねぎし教へ覚せ)。それでも一向に食事に現れないので 小碓に「お前は兄を教え諭したのか」と確認したところ、すでに「ねぎ」した(教え諭した)という。どのように「ねぎ」したのかというと「明け方に兄が厠に入ったときに待ち受けて捕まえて、手足をもぎ取ってムシロに包んで投げ捨てた」と答えた。
小碓命が熊襲征伐に
それを聞いた天皇は、我が息子 小碓の猛々しく荒々しさに恐れを抱き、遠く熊曽の地(九州南部)にいる熊曽建(クマソタケル)という二人の兄弟を討ちに遣わすこととした。
小碓はまだ15、16歳の少年で 討伐の前に 伊勢に立ち寄り、 叔母 倭比売命(ヤマトヒメノミコト)は少女の衣装を授けた。朝廷に刃向かう 熊曽建の屋敷は軍勢に守られ容易に近寄れない。祝宴に叔母からもらった衣装で 少女に変装し 熊曽建に近づき、懐の剣で二人を殺害する。弟の熊曽建は「西には我ら兄弟より強い者はいなかった。倭国に我らを越える強者がいた。建の名前を献上するから これからは倭建御子と呼んで敬おう」と言うが、切り捨てた。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)と名乗り 帰路 出雲に立ち寄り、出雲建(イズモタケル)をだまし討ちで倒して 大和に帰って来た。
倭建命(ヤマトタケル)と名乗り東国征伐に
天皇は一言もほめずに 、今度は東国の平定を命じる。倭建命は立ち寄った叔母 倭比売命に 「私なんか早く死んでしまえばよいと思っていらっしゃる」と言った。この時 スサノオがヤマタノオロチを切り殺したときに、オロチの尾から出てきた 草薙剣(クサナギノツルギ)と一つの袋を授かった。
尾張国に立ち寄った倭建命は、美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚の約束をして、抵抗する神々や王権に従わない氏族を次々に打ち負かし東海道地域を東方に進んだ。
静岡の焼津で 豪族にだまされ、火攻めにあったが、伊勢でおばに貰った袋に入っていた火打ち石と草薙剣を使って 逆に相手を火攻めにし 焼き滅ぼす。
房総半島に向かうため 走水海(東京湾)を渡るために倭建命は船に乗ったが 海峡の神のせいで 波立つ海を渡ることができずにいた。船に同乗していた妻 弟橘比売(オトタチバナ)が、神の怒りを静めようと海に身を投じた。すると荒波は止み 船は進むことができるようになった。
7日後 弟橘比売の櫛が海辺に流れ着いたので、倭建命は墓を作ってその櫛を納めた。
北方平定し足柄峠まで戻り、そこから山梨に入って酒折宮に着いた。
倭建命の死と白鳥伝説
倭建命は酒折宮から信濃を越え 尾張国の美夜受比売の元に帰って来て結婚する。そうして倭建命は、ミヤズヒメのもとに草薙剣を置き、伊吹山の神を素手で討ち取るのだと言って出かける。
巨大な白猪となって現れた伊吹山の神を 山の神の下僕だと侮辱したため、神は怒って激しく雹を降らせた。倭建命は足取りもおぼつかなくなり、玉倉部の清水(居醒の清水)にたどり着いて なんとか正気を取り戻す。草薙剣は伊勢神宮の加護の証で 剣を手放し暗転した。歩くのも困難になった体にむち打ち大和に向かう。[当芸野(たぎの)たぎたぎしく成りて]
尾津前(おつのさき)(現三重県桑名郡)に着き、松の木の元で置き忘れた剣を発見し、尾張を思う歌を詠む。杖衝坂[杖をついて歩いた]。伊勢の能煩野(のぼの)まで辿り着いたところで、大和を思う歌を詠み、最期にはミヤズヒメの元に置いてきた草薙剣を歌に詠んで崩御する。大和から后や御子たちがやってきて倭建命の陵にを造り 嘆き悲しんだ。倭建命の魂は白い鳥になり飛び立ってしまう。白鳥は河内の志幾に飛来したので后達が陵を設けたが 白鳥は留まらずに降り立ち、その後は再び飛び立って天へと翔けて行ったという。
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鹿児島県霧島市 熊襲穴:熊襲が宴会を開いていたところ もしくは逃げ込んだところ。
三重県伊勢市 伊勢神宮 内宮(皇大神宮):叔母 倭比売命から草薙剣と火打ち石を賜わり 東征に出発した。別宮 倭姫宮に 倭比売命が祀られている。
静岡県焼津市 焼津神社:東征の途中 豪族に火攻めに遭い、持っていた草薙剣で草を薙ぎ、火攻めにし 焼き滅ぼした。ヤマトタケルを祀る。
静岡県静岡市 草薙神社:ヤマトタケルの死後景行天皇が草薙剣を奉納した。ヤマトタケルの像が建つ。
神奈川県横須賀市 走水神社:妻 弟橘比売が身を投げた海。弟橘比売 祀る
千葉県袖ケ浦市 袖ケ浦:海に身を投げた 弟橘比売の着物の片袖が流れ着いた のが地名の由来に。
千葉県木更津市 吾妻神社:ヤマトタケルが上陸したといわれる地。弟橘比売の鏡を沈めたという池がある。
千葉県茂原市 橘樹神社:ヤマトタケルが 橘の木を弟橘比売の墓標にし 祀った。
神奈川県中郡二宮町 吾妻神社:海辺に流れ着いた弟橘比売の櫛を埋めたとされる。ヤマトタケルと弟橘比売を祀る。
静岡県駿東郡小山町 足柄峠:ヤマトタケルは箱根の北にある足柄峠に来たとき「吾妻はや(ああ 我が妻よ)」と絶叫した。足柄峠より東を吾妻(東)国というと古事記に書いてある。
山梨県甲府市 酒折宮:甲斐に立ち寄ったヤマトタケルが老人と歌を交わす。
長野県 阿智村 東山道 神坂峠遺跡:長野県と岐阜県の境の難所。ヤマトタケルが腰掛け休んだ意志がある。
愛知県春日井市 内々神社(うつつ):ヤマトタケルの東征に随行した主祭神であるタケイナダネノミコトは、駿河の海で落水し絶命した。伝え聞いたヤマトタケルが「ああうつつかな」と嘆き悲しみ祀った。愛知県名古屋市 氷上姉子(ひかみあねご)神社:東国を平定後 この地でヤマトタケルと結婚した美夜受比売を祀る。
滋賀県米原市 伊吹山:山の神に痛めつけられる。山頂にヤマトタケルの像が立つ。
滋賀県米原市 居醒(いさめ)の清水:ヤマトタケルが意識を取り戻したと伝わる泉。ヤマトタケルの像が立つ。
岐阜県 養老町 日本武尊史跡 当芸野(たぎの):疲れて「足がたぎたぎしく成りて(ひん曲がって歩行が困難に)」といった。
三重県桑名市 日本武尊 尾津前御遺跡:ヤマトタケルが東国への出征の途中で刀を置き忘れた所で、東国平定の帰途 訪れたヤマトタケルが、忘れた刀がまだ残されているのを見つけ「尾張に直に向へ‥」と詠んだとされる。
「わが足三重のまかりなして いと疲れたり」(足が三重の勾餅のようになった)と語り、以後その地を三重と呼んだのが由来という。
三重県四日市 杖衝坂:疲れて 杖をついて歩いた坂。
三重県四日市 日本武尊 御血塚社(おちづかしゃ):坂を登り切り 流れ出た血を洗い流した。石碑がある。
三重県鈴鹿市 加佐登(かさど)神社:死の間際まで持っていた笠と杖をご神体とする。ヤマトタケルの像が立つ。
三重県亀山市 能褒野(のぼの)神社:大和を偲ぶ歌を詠み 力尽き、后らが来て埋葬された。魂が白鳥になり飛び立った。
大阪府羽曳野市 白鳥塚古墳(伝日本武尊墓所):白鳥は河内の志幾に降り立ち、御陵を造ったがまた飛び立った。
愛知県名古屋市 熱田神宮:尾張国の美夜受比売の元に帰って結婚、叔母から授かった草薙剣を置いて伊吹山へ行ったヤマトタケル。尾張一族の祭場である熱田に草薙剣を祀った。
愛知県知立市 知立神社:古来より「蝮・長虫よけ」で知られ、日本武尊が東国平定の際皇祖の神々に平定の祈願、平定後感謝のため皇祖を祀ったという。祭神は 神武天皇とその両親、祖父などで、主神は神武天皇の父である鸕鶿草葺不合尊 (ウガヤフキアエズ)
大阪府堺市 大鳥神社:全国の大鳥神社の総社で 防災雨祈の御祈願社。日本武尊と大鳥連祖神を祭神とする。
神功皇后の遠征
仲哀天皇の急死
第12代 景行天皇 の皇子が 第13代 成務天皇に。男子が生まれず 倭建命の子が 第14代 仲哀天皇に即位する。九州の熊襲が反乱 鎮圧のため香椎宮(現福岡市)に行くが、皇后の 息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)に神が降臨し 「海の向こうに 金銀財宝がある国 新羅を屈服させよ」と託宣した。仲哀天皇はこの神の意を疑うと 神は怒り「この国はお前の治めるべき国ではない。お前は黄泉の国に行け」と告げた。仲哀天皇はその場で息絶えていた。
神は大臣の 建内宿禰(タケウチノスクネ)に言葉をおろし、「皇后の御腹に宿っている子が世継で、これはアマテラスの御心であり、託宣を下しているのは住吉三神である」と告げた。住吉三神は 底箇男・中箇男・上箇男で、天上界や地上界 山河海の諸神を祭り、我が神霊を舟に鎮座させるならば、西方の国を服従させることができるだろうと告げた。
神功皇后は住吉三神のいうとおりに 軍勢や船団を整えて半島に向かう。日本書紀では皇后は男装して出撃したという。
神功皇后の船団が出航すると にわかに追い風が吹き整えて朝鮮海峡を渡っていく。大小の魚が集まって来て 船を背負って 航行を助ける。皇后の船団は大波を立てて進み その波が新羅に押し寄せて 国土の半ばを浸した。
皇后の進撃の勢いに押され新羅王は降伏を申し出て「今後は命令に従い 日本のために馬を飼育する 臣民となります。貢ぎ物も毎年送ります」といった。皇后は百済も貢納国と定めた。在地の神や民衆の反抗を抑えるために、皇后は新羅王の家の門に 住吉三神の依り代となる杖を突き立て 日本を守護する神として祀った。それを済ますと 皇后は軍勢を率いて帰国した。
皇后は妊娠していて 遠征中に生まれそうになったが、腹に石を巻いて出産を遅らせていた。九州に戻り 尊品陀和氣命(ほむだわけのみこ=応神天皇)を出産。皇后の出産の地を宇美と呼んでいる。
大和帰還
神功皇后は品陀和氣と共に大和に向かいますが、途中、尊品陀和氣の異母兄である香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反逆情報をつかむ。皇后達を殺害し天皇の座を奪おうとしていた。
仲哀天皇の亡骸を運ぶ船を準備し、その喪船に品陀和氣をのせ 品陀和氣は死亡したと噂を流し、喪船を先頭に瀬戸内海を東に向かう。香坂王と忍熊王は斗賀野で待ち受けていたが戦況を占う狩りをした。すると香坂王は大きな猪に食い殺されてしまった。
忍熊王は伊佐比宿禰を将軍に立て喪船を襲撃するが 神功皇后は迎え撃ち 劣勢に追い込む。忍熊王は山城国で陣容を立て直すが、神功皇后は逢坂まで追い 、忍熊王は 琵琶湖岸の 楽浪で追い詰められ 入水し命を絶った。
品陀和氣は一度死んだとされたため 建内宿禰角鹿斗(敦賀)で気比神宮に参拝 いざさわけのみこと 名を交換し 母の待つ 大和に行き 第15代 応神天皇として即位した。
『日本書紀』では 皇后が摂政に就き、皇太后として69年間 政権を担い 没後 応神が即位した。
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福岡県福岡市 夫婦の宮 香椎宮:熊襲征伐に立ち寄ったこの地で仲哀天皇急死。神功皇后が仲哀天皇を祀ったのが始まり。仲哀天皇と神功皇后と住吉三神を祭神とする。
京都府京都市 御香宮(ごこうのみや)神社:香椎宮の祭神 神功皇后を分霊して祀った。
京都府八幡市 石清水八幡宮:平安時代の初め八幡宮の総本社から分霊し 男山の山上に祀った。ご祭神は 応神天皇、神功皇后 他
福岡県福津市 宮地嶽神社:神功皇后が遠征前に 宮地嶽山頂から大海原を見て開運を祈願し就航した。神功皇后を祀る。
福岡県福岡市 志賀海神社:神功皇后が遠征の途中で立ち寄った。対馬で鹿狩りをした鹿の角を納めたと伝わる鹿角堂。
佐賀県唐津市 玉島川:遠征後に釣りをしたと伝わる。玉島神社は神功皇后を祀る。
福岡県那珂川市 神功皇后御立石:神功皇后が玉島の里の川のほとりで 釣りをした時に上がった石と伝わる。
福岡県糟屋郡宇美町 宇美八幡宮:神功皇后が応神天皇を産んだ地。安産の神様として信仰を集める。出産の際つかまった子安の木など残る。
長崎県壱岐市 住吉神社:遠征を成し遂げた皇后が住吉三神を祀ったとされる。御池の前の竹生島神社に遠征時の陣鐘が埋められていると伝わる。
長崎県壱岐市 聖母宮 本殿:遠征前風待のため建てた宮が始まり。神功皇后と住吉三神を祀る。皇后と神馬の足跡と伝わる馬蹄石。
福岡県糸島市 鎮懐石(ちんかいせき)八幡宮:新羅遠征の際 出産を鎮めた石を祀る。
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福井県敦賀市 氣比神宮:仲哀天皇は即位後、国家の安泰を御祈願された。神功皇后は妹玉姫命と武内宿禰命を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。
大阪府大阪市 住吉大社:神功皇后に降臨した神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された 底箇男・中箇男・上箇男。住吉三神と神功皇后を祀る。
応神天皇と3人の子
3人の 異母兄弟
第15代 応神天皇は男女合わせて26人も子供がいた。中でも信頼を置いたのは 3人の 異母兄弟、大山守命(おおやまもり)と大雀命(おおさざき)、守遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)。
年下の守遅能和紀郎子を後継者にしたいと思い、大山守命と大雀命に「お前たちは、年上の子と年下の子とどちらが愛しいと思うか」と問う。大山守命は年上の子、大雀命は天皇の心を察して 年下の子を愛しく思いますと答えた。
応神天皇は 守遅能和紀郎子を世継ぎに指名、大山守命 は山と海を治める役に、大雀命は政治の責任者に命じた。
多数の渡来人
新羅から来た人:建内宿禰(タケウチノスクネ)に率いられ灌漑用の百済池(奈良県広尾町)を造った。
百済に人材を求めた。
後に皇帝を支える 秦氏、漢氏も渡来。
大山守命の乱・仁徳天皇 即位
応神天皇が亡くなると 大山守が守遅能和紀郎子を殺そうと武器を集めた。その動きを 大雀は守遅能和紀郎子に教えて、宇治に陣屋を構える。宇治は母の出身で大豪族和邇氏の拠点だった。大山守は川に落ち水死した。大山守を倒した守遅能和紀郎子だが皇位に着くのを拒み、相互に辞退している内に守遅能和紀郎子が亡くなり、大雀命が 16代 仁徳天皇に就いた。
神功皇后の祖先 新羅生まれの天之日矛
古事記 中巻は最後に神功皇后の母方の祖先で、新羅よりきた王子 天之日矛(アメノヒホコ)が登場。
昔、新羅国のある沼の畔で、一人の貧しい女が昼寝をしていて 太陽が輝いて虹になり 女の陰部を貫いた。女は妊娠し 赤い玉を生む。アメノヒホコがその赤い玉を手に入れと、ある時赤い玉から美女 阿加流比売神(アカルヒメ)が誕生し アメノヒホコは妻とする。
しばらくした後 仲違いをし、妻は 日本の難波に帰ってきた。妻を追ってきたアメノヒホコであったが、海峡の神が邪魔をして 難波には入れない。日本海をたどって 多遅摩国(但馬)の股尾の娘 多遅摩前津見と結ばれ 子が生まれた。
天之日矛から数えて4代目が 多遅摩毛理(たじまもり)垂仁天皇に仕え 常世の国より橘を持ち帰った。その弟の多遅摩比多訶(たぢまひたか)の娘が神功皇后 の 生母 葛城の高額比売命(タカヌカヒメ)。つまり神功皇后は 天之日矛から数えて6代目の子孫に当たる。
天之日矛が新羅から 珠や鏡など 8種の神宝を携えてきた。それを祀るのが 伊豆志神社(兵庫県豊岡市の出石神社)。
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