GoogleマップでWeb旅行!NHK BSP 万里の長城(楚 趙 秦 漢 明)&大運河の地図

NHK BSP で中国の古代の・始皇帝の話・三国志関連の番組 いくつか見ました。
武帝の使者張騫は砂漠の西の情報持ち帰った話、孔明の蜀の道、大運河を築いた煬帝と永楽帝。
すぐ忘れてしまうので 備忘メモです
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空旅中国「英雄たち8つの峠」

NHK BSP 初回 2019年5月放送
北京と古都・長安(西安)に挟まれた 南北400キロの太行山脈にあり 峠が8つ、それぞれに、中国の英雄伝説が残る。秦の始皇帝・三国時代の曹操・チンギスハン 野望と夢を抱くものが 険しい峠道を越えて 国の礎を築いた。道は数千年の歴史を経ても残っているが 歩いた英雄の姿はない。

「街は川に面したところに山を背にして作る」と中国では言い伝えられている。いにしえより 黄河に沿い街が作られ 街が背負う山は重要な場所となった。
「陘」は峠道のこと、旅人の安全を祈る「廟」。
南から 北に 峠道を紹介します。(地図で見つけられず ザッと入れてみました。間違っていたらゴメンナサイ )

1) 軹関陘(しかんけい) 黄帝

太行山脈の最南端の 王屋山(おうおくさん)を目指す峠道、軹関陘(しかんけい)。4500年前、黄帝が王屋山に登頂したと伝えられている。
「天円四方」にかなった 王屋山頂上 四角になった天然の崖。
黄帝は のちに暦や音楽医術文字など中国文明の基礎を固めた。
神話の世界 の黄帝は神と戦い 黄河流域を統一 最初の天子になったされている。

2) 太行陘 孔子が引き返す

軹関陘の東にある太行陘、春秋時代の孔子は弟子を引き連れて 仕えた国を離れ 無位無冠で 国々を廻り 教えを広めるため 牛車に乗り 晋を訪れた。誰もが真剣に聞いてくれない。この山の国は豊かな国と聞く。山の頂にある 晋の国攔車村にたどり着いた。1本道で石の城を作り遊ぶ童 、「どいてくれないか」と言うと童は「あなたこそ 城をよけて進むべきです。世の中に牛車に道を譲る城など聞いたことがありません」この道理の正しさに 孔子は心打たれ 車を降りて 7つの童の前に跪いて師と仰いだといい、村の外れに記念碑がある。
さらに進み 関所のある 天井関村に到着した時、一匹のリスが駆け寄ってきた。木の実を抱えながら孔子にお辞儀をしたといい、孔子はリスでさえも礼節をわきまえていると 晋の国の徳の高さに驚かされ、ここで自分のすべきことはないと村を辞去したという。

3) 白陘 最も険しい崖の上で「長平の戦い」

太行陘のさらにその東に白陘(はくけい)は八つの峠道の中で最も厳しい。切り立つ崖に道があり、七十二曲がりといわれる上り坂 断崖のてっぺんを縫う道。 その先には上党と呼ばれる肥沃な盆地 晋の国があったところで 昔から 小麦やトウモロコシがよくとれた。

戦国時代 上党を治めていたは、長平の戦いによって(まだ始皇帝は生まれていない)に敗れた。骸骨廟には破れた趙の将軍 趙括(ちょうかつ)とその妻が祀られている。
40万の兵を率いた若き将軍 趙括は 名家に生まれ 幼いときから兵書を読み 兵法に通じた秀才だった。だが実戦経験がなかったので 40万の兵を死なせ 自らも命を落とした。本ばかり頼り実戦を知らぬが故の負け戦は「紙上談兵(机上の空論)」という4文字熟語を生んだ。

高平市では敵の秦の白起将軍 にちなんで 豆腐を白起の肉と呼び 切り刻んで火あぶりにして食べる「高平焼き豆腐」を生産している。さらに おからには 塩とすりつぶしてニンニクを加え こん棒でかき混ぜ「白起の脳みそ」と名を付けた。 焼いた豆腐を割って この脳みそを入れてかぶりつく。これも 40万の兵士 20才にも満たない若者の捕虜を殺したから。

長平の戦い 紀元前260年 太行山脈の西側から 西の大国秦が 盆地に攻め入った。迎え撃つ 趙の陣 40万の兵、趙括将軍は 相手の兵が少ないとみて 兵書通り 総攻撃をした。白起将軍は2.5万の別働隊を 趙の陣の後ろの山に回り込ませ挟み撃ちした。封鎖され 兵糧攻めにあい40日 最後の抵抗した趙括将軍は戦死、40万の兵は捕虜になった。柔らかな肥沃な盆地にあった窪みに 飢えで動けなくなった兵を蹴落とし矢を射た。

4) 滏口陘 趙の都 邯鄲へ

滏口陘(ふこうけい)の峠 山に行く前に 趙の国の都 邯鄲(かんたん)がある。 前3つの道がほぼ南北であるのに対し、邯鄲から西へと続く東西の道である。
趙の王は 胡服騎射(北方民族の衣服をまとい騎馬で戦う) を持ち 機動力を発揮した。

長平の戦いの翌年 秦の始皇帝が生まれた。父親は人質になって趙の都で暮らし 美しい女性と出会い始皇帝が誕生。始皇帝は9才で秦に戻り やがて王になり 39才で 中国を統一した。

5) 井陘 始皇帝が整備

井陘(せいけい)ほぼ太行山脈の中央にある峠で 太行山脈を横断 今も東西を結ぶ大動脈で鉄道も走っている。この道を作ったのは始皇帝である。

始皇帝は全国の街道を整備 車輪の幅を統一した。始皇帝自身も馬車に乗り 全国を巡り 西は砂漠のほとりまで 東は海に行き着くまで。公式の目的は皇帝の存在を民に知らせるため。

始皇帝が48才の時 東に大きな隕石が落ちた。石には「始皇帝死して地分かる」と刻まれていたとか。
始皇帝はまた旅に出て 太行山脈の東で病に倒れ息絶えた。亡骸は馬車に揺られこの峠道を進んだ。
夏の終わり 腐敗し始めた遺体を大きな岩に置き風を当てたという石碑がある。

「背水の陣」で有名な井陘の戦いの舞台になった。

6) 蒲陰陘 石炭の産地

蒲陰陘(ほいんけい)(紫荊関) 太行山脈は有数の石炭が取れる場所で、峠のふもと 屏風のような崖の 下をトラックが走る。
万里の長城が長々と続き 先に進もうとするものに 頑として立ち塞がる。少し先が北京なのに。

7) 飛狐陘 チンギス・カンが突破

飛狐陘(ひこけい) 北から2番目の峠道で、チンギス・カンが最も北にある軍都陘が万里の長城により攻め入ることが難しいと知り 南の飛狐陘の関所を突破し 挟み撃ちした。

8) 軍都陘 一番北の峠道 居庸関 万里の長城につながる

軍都陘は北京の北西にある一番北にある峠道。居庸関に続く万里の長城がある。モンゴル帝国を打ち立てた チンギス・カンは騎馬軍隊を引き連れ 攻め込んだが 攻めあぐね別働隊を南に廻った。

そのほかに大河関 三国志の曹操

山西省大河村の大河関を通る峠道を 三国志の曹操が通った。冬 敵を追い詰め きつい上り坂
「北上し太行山を登る。その峰は実に険しい、坂は羊の腸のように曲がりくねり 車輪が砕けてしまった。…」と詩に残した。
食糧も尽きかけ あわやと思ったとき 曹操が食べた ヤギ料理が 名物料理になっています。

英雄が駆けた道 「老子と孔子の道」

NHK BSP 初回放送日: 2021年12月27日

道教の祖 老子

老子(紀元前571年-471年)は 若い頃 都・洛陽に上り、才能を発揮して管理蔵書史官となった。そこで更に読書を重ね全国に知られた大学問家となり、多くの人が学問の教えを請うて洛陽に集まってきた。

 老子は洛陽を離れ秦国で過ごそうと 西の函谷関に向かった。求めに応じて函谷関にとどまり、「老子道徳経」を書いた後、いずこともしれず去ったという。本は今も読み継がれている。

儒教の祖 孔子

「英雄たち8つの峠」にも登場した。孔子は弟子とともに春秋の国々を遊説。徳による政治を説き、山西省の攔車村にたどり着いた。村内で城について理路整然と説く子どもと邂逅し、孔子は跪いて師と仰いだといい、その言い伝えは今も語り継がれる。

空旅中国 英雄が駆けた道 「始皇帝の道」

NHK BSP 初回放送: 2021年4月
※空旅中国 「万里の長城」に含まれていた。
秦の始皇帝は全国を統一した後 北の匈奴対策のために 首都の咸陽から 北の九原まで、700キロに及ぶ直道を建設、その北に長城を築いた。

空旅中国 「万里の長城」

NHK BSP 初回放送: 2019年4月

中国の初めての長城 2500年前 楚が築く

中国の初めての長城は 河南省 方城県 にある 楚長城遺址 ふもとの谷から 石を運び 尾根に積み上げた
2500年以上前 春秋時代 「」という国があり 領土を守るため 国境の山々に長い壁を作った。

紀元前656年 黄河流域の8カ国の連合軍が 楚を取り囲んだ。
楚の王は「徳を持って我が国を従えようとするなら帰服しましょう。力で押さえようとするなら 長城を城壁とし戦いましょう」と申し出ると、堅固な長城をみたのか 戦わず楚と和睦。

戦国時代 楚は韓との国境に・趙は北の遊牧民対策

戦国時代(BC403~BC221) は黄河から南には離れた地にあり、との国境に長城があります
西には、そこに軍事大国が登場、北はモンゴル高原に接する国です。

趙の都 邯鄲 ひときわ華やかな街で 歌舞音曲も盛ん。北には 趙の長城 高さ3,4m土を積み上げ 300km続きます。北方の遊牧民 馬で羊を追い暮らす人たちが 趙に侵入し始めます。
趙の武霊王は「遊牧民ができることは我が兵にもできる」と、兵士に遊牧民と同じズボンをはかせ 馬から矢を射らせた。胡服騎射という強力な騎馬隊になる。(※8つの峠 滏口陘 にあった)
遊牧民を追いやり 領土を拡げ 境界に 長い土の壁を築いた

秦の始皇帝 趙・燕が作った長城と連結

秦の始皇帝が200年に及ぶ戦国時代に終止符を打ち 中国で初めての統一国家を作ります。
秦の始皇帝が生まれたのは邯鄲。父親が人質になって趙の都で住まわされていて 美しい女性と出会い のちの始皇帝を産んだ。始皇帝は9才で秦に戻り やがて王になり 39才で 中国を統一した。

※空旅中国 英雄が駆けた道 「始皇帝の道」という番組がありました。

始皇帝は全国の街道を整備 車輪の幅 国毎に異なっていたのを統一した。1つの馬車で全国までいけ 商業が栄えます。

軍事用道路の「直道」を作る。現在 二つの山になっているところ 皇帝の離宮 林光宮跡 があったところから まっすぐ北に700キロ 兵士や武器 軍事物資を運ぶ 中国最古の高速道路です。(今 見えているのは観光用に復元)

柔らかく肥沃な大地は 殆ど痕跡を残していない。
あるところでは 畑の近くに深い溝があり それに沿って 幅30~50mの道路が北に 延びていた。
(Googleマップで 秦直道博物館 西の あたりを地形を表示にすると判るらしい)。
司馬遷は「史記」に「山を塹り谷を埋めて直に之を通す」と書き記していた。

匈奴とよばれた北の遊牧民族対策のために 築いた直道の北の端に始皇帝が作った拠点 九原郡 麻池古城。ここで 軍事物資を仕分けます。さらに北に50キロ 匈奴の住む山々に送り 石の壁の長城を築いた。
始皇帝は 30万人を動員 長さ数百キロ 建設。趙・燕が作った長城と連結して全長4000キロを越えた。中国の単位でいえば1万里、だから万里の長城です。

始皇帝が 長城を整備したのは ある予言「秦を滅ぼすものは胡なり」だった。
天下統一後10年余り、始皇帝は 全国を巡り旅の途中 病で亡くなった。亡骸は自ら作った街道を通り 都に帰った。途中で家臣達が 始皇帝の遺書を書き換えた。この遺書により次の皇帝が決まる。皇太子ではなく 末子の胡亥。2代皇帝 胡亥は各地で起きた反乱を抑えられず 僅か4年で 秦は滅んだ。
予言があっていた。

Photo by Vidar Nordli-Mathisen on Unsplash

長城の工事に行った夫を想う 孟姜女

河北省 秦皇島 貞女祠 孟姜女廟 祀られているのは 孟姜女(もうきょうじょ)という若く美しい女性。
孟姜女と結婚してすぐに長城の工事にいった夫、いつまでも帰らない夫を探すために 孟姜女が旅に出て ようやく探し当てたが 夫は過酷な工事に耐えきれず亡くなっていた。何日も泣き崩れると 長城が何キロにも渡って崩壊し 長城に埋め込まれていた亡くなった人の骨が多く出てきた。孟姜女は愛する人の骨を探し当てたという。

漢 武帝 張騫を匈奴対策のため 砂漠の西の大月氏に使者へ

※「武帝のシルクロード」という番組がありました。
秦の版図をそのまま引き継いだ 漢王朝
匈奴と異なる 遊牧民族 月氏が暮らすオアシス。「天高く馬肥ゆる秋」月氏は優れた馬を育てます。匈奴が急速に力を付け 豊かな オアシスに押し寄せ 月氏は 国境の方に逃げていきます。

第七代皇帝 武帝が即位し タクラマカン砂漠の西 に暮らす 大月氏と軍事同盟を結び 挟み撃ちしようと 張騫(ちょうけん)を使者とした。しかし張騫は 途中で捕らえられ 匈奴の王のもとに送られ 王と謁見したところ気に入られ 現地の妻をめとり暮らし始めた。10年時を待ち、やがて張騫は妻を連れ脱出。再び西を目指し 大月氏のもとにたどり着きます。
結局 軍事同盟はなりませんでしたが 、知られていなかった 豊かな西の国々のこと 遊牧民が育てる優れた天馬のこと などの報告を聞いた武帝は大軍で匈奴に攻め入ります。

が匈奴を追い出し 境界線として作った長城を築いた。
漢は羊をつれた匈奴が侵入できないよう 土を固めて 長城を築き 所々に狼煙台を置いた。
長城は西へ西へと伸び オアシス 敦煌まで その距離 7900キロ、その端に強固な要塞 陽関を築いた。
匈奴と漢王朝の戦いは その後も数百年続いた。

西へ西へと万里の長城を伸ばし続けたのは 砂漠の果てに 知られざる豊かな国があったからです。
現在の新疆ウイグル自治区の砂漠に残るカラドン遺跡(ホータン地区)。
シルクロードが成立する前の 紀元前3世紀ころから 東西の交易で栄えた街 カラドン 砂漠のオアシスに生える胡楊で作った家々や仏教寺院が建ち並ぶ 。

シルクロード 有数の都 ニヤの遺跡 紀元前1世紀頃栄え 巨大な仏教寺院の跡が残る。

4000年前の楼蘭王国(楼蘭故城遺址)と同じ場所で見つかった きれいな 女性のミイラ「楼蘭の美女」。
西の砂漠を越えてくる道 古代の中国にとって様々な文明の知恵や仏教など最新のものが運ばれてくる道だった。

五胡十六国時代 遊牧民が 万里の長城の内側に国を作る

匈奴など5つの遊牧民がかつて漢民族の国が栄えていた場所に国を構えて 共存する時代が始まった。

絶壁の上に残る 麦積山石窟も彼らが作った。麦を積んだような外観で巨大な岩山に仏像(磨崖仏)が彫刻され、高い技術で仏教への理解と深い熱意が必要だった。
遊牧民の国々が仏教を保護 インドからもたらされた経典を翻訳 東アジアの仏教発展の糸口を作った。

2つの屏風のような断崖に700の仏様並ぶ 甘粛省にある 炳霊寺石窟(へいれいじせっくつ)も五胡十六国時代に遊牧民が作り始めた。高さ27mの大仏様 唐の時代803年に彫られた。唐も民族や文化の違いに拘らず 外国から留学生や僧侶を招いた。都長安は人口100万人を越える国際都市になった。

歴代の王朝は 遊牧民を食い止めるため 居庸関という巨大な関所築いた。
13世紀初め モンゴルの蒼き狼 チンギスハンが居庸関に押し寄せ 関を抜き 北京に侵入、そして強大なモンゴル帝国を作った。

明王朝 モンゴル族を追い払い長城修復

漢民族の 明王朝(1368~1644) は モンゴル族を 再び長城の外に追いやった
万里の長城を石やレンガを積み 長城を改修 やがて龍のような巨大な姿が現れた。

15世紀中頃 明の皇帝が モンゴル軍討伐に 長城の外に出て 逆に捕らえられ てしまう。
皇帝はやがて解放されます。 明王朝は広範囲に長城を補強し始めます。壁は6mもある石やレンガで築く頑丈な壁、見張り台も 10人が住み込んで働けるようにして 場所により 数百mおきに作った。

唯一の河を跨ぐ 九門口長城、ダムのようで かつては9つのアーチの下に木製の門があった。
川の水深が浅く 馬なら悠々渡れてしまうので 長さ100mを越える水上の長城を作った。

さらに明王朝は シルクロード沿いの長城も修復。
しかし敵は内側にあった。長城の建設などで 民の暮らしはひっ迫し 農民の反乱が起こる。反乱軍は北京を落とし明の皇帝は自ら命を絶った。

満州族の 清王朝

満州族は長城を越えようとしていた。明の武将 呉三桂は地下の秘密トンネルに満州族の兵隊を招き入れ 寝返った。満州族は北京に入り 反乱軍を追放 清王朝が1644年にでき 北京を都とした。
反乱軍の首謀者が 呉三桂の匿っていた愛人に手を付けたので 満州族を使って復讐したらしい。

河北省 板厰峪(ばんしょうよく) 山の中に長城を作り守ってきた人達の住む村がある。2002年からの発掘で明の時代に 長城のレンガを焼いたとされる いくつもの窯や 焼かれたレンガが残っている。
案内してくれた許さん レンガをつないだモルタルは 石灰に餅米をのり状にして混ぜ 長城が数百年も保たれた。
許さんの祖先も長城を作っており 東シナ海に面した浙江省の出身でした。そこは倭寇とよばれる 海賊集団が明を脅かしていた。おそらく明の将軍共に倭寇と戦い 戦功ををあげ 北の長城を護るためやってきたと考えられる。やがて長城は荒れ放題になる。
そこで許さんは地元政府に支援を願い 2014年から修復に乗り出した。十万個のレンガを餅米入りのモルタルでつなぎ 修復した長さ4500m以上。今も長城に寄り添い守り続ける人たちです。

東シナ海に面する山海関・「人々の心が城を築く」

天下第一関の扁額のある山海関。東側の扉を開けると 広大な東シナ海、海から数えて1番目の長城の関。明のあと 満州族がこの壁を越え北京を押さえると 長城はまた無用の長物となった。
満州族の兵士にとって 里帰りするときに立ち寄り 宴を開くだけの所になった。

清が成立して半世紀後 長城の倒壊が多く修復したいの進言があったが、4代皇帝 康煕帝(こうきてい)「国を守る道は 徳を修め民を安らかにすること 民が進んで従う国になれば国境の心配はなくなる。民の心が集まり長城となるのだ」と詩を残している。

空旅中国 「武帝のシルクロード」

NHK BSP 初回放送: 2021年4月 ※空旅中国 「万里の長城」に含まれていた。
漢の時代、 第七代皇帝 武帝大月氏と匈奴を挟み撃ちしようと 張騫 を使者としたが…。

中国王朝 英雄たちの伝説 巨大遺産の謎 大運河 煬帝から永楽帝へ

NHK BSP 2019.3初回放送
北京から黄河長江をつなげ 杭州の先まで 総延長は古代の運河跡を含め 2700kmの世界最長の京杭大運河は、世界遺産に登録されています。
大運河は今も南と北を結ぶ大動脈です。南からはサトウキビなどの農作物や 建築材長の砂利や砂、北からは石炭や綿など 場所により1日6000の船が行き交うことがあるといいます。

大運河が生まれたのは 今からおよそ1400年前の7世紀。建設を命じたのは 隋王朝の の第2代皇帝 煬帝(ようだい)です。 6世紀 戦乱の世を制して 300年ぶりに統一王朝の隋が誕生。
煬帝は王朝を傾けた暴君とされてきた。煬帝は新しい国作りを始め のちの官僚制度のもとになる科挙を整備する一方で 大土木工事を始めます。万里の長城の建設、洛陽での宮殿の造営 中でも最大の事業が
大運河の建設です。
大きなきっかけは戦争で 朝鮮半島の高句麗に遠征軍を派遣しようとします。その軍事物資運搬のため 洛陽から黄河の北方まで、さらに必要な食料や物資を調達するために長江流域の江南まで運河を通そうとしたのです。江南は古くから開発された豊かな穀倉地帯でした。
大運河の工事は 各地にあった運河をつなぎ合わせながら進められました。
「開河記」によると 各地から男だけでなく 老人や子供 女性まで 543万人余り集められ 逃れようとすると親戚まで厳しく処罰された。 過酷な工事で 250万人が亡くなり完成まで6年かかった。
煬帝は翌年から3度に渡って高句麗に遠征します。しかし高句麗の守りは堅く失敗に終わった。

煬帝は揚州の運河に船を浮かべて 大勢の美女をはべらし歌や踊りを楽しんで、隋書に「淫荒無度」と印された。運河沿いに美女に囲まれた煬帝のレリーフが刻まれていた。

大運河完成の3年後 民衆が反乱が勃発し 揚州の仮御所に逃避します。618年煬帝が腹心の部下に殺害された。墓もあるかないか判らなかった。隋王朝は40年足らずで滅亡。

作家 浅田次郎さんが 諡に「」(民を虐げる意味) 疑問だった。

2013年揚州市のビル工事現場から発掘された煬帝の墓 歯だけでした。
鑑定で50才で 煬帝と一致しました。墓誌によると 唐の時代に墓が作られていた。
唐の時代に 大運河の建設を再評価されていて、手篤く葬られていた。

安徽省淮北市で運河の埠頭跡 で沈没した船が8艘見つかった。陶磁器を運ぶ商船でした。

河南省 洛陽 煬帝の大運河の拠点です。
2004年に発掘された 直径17m深さ10mの巨大な穴 は1400年前に作られた 江南から運んだ 穀物の貯蔵庫でした。貯蔵方法も理にかなっており 調査すると350m×1000mに700個の穴が並んで 巨大な貯蔵庫で、周辺の100万の民に 7年間分け与えられるものでした。

以後運河は、中国が分裂すると放棄され、統一されると開発される歴史を繰り返す。
分裂していた時代は大運河は 軍事目的で使われたいけないので障害が置かれることが多い。

元の 初代皇帝フビライは 運河のルートを変更して大規模な改修を試みるが 標高が高い地帯に阻まれ大きい船が通れなかった。
14世紀 明王朝 の第3代皇帝 永楽帝 は皇帝権力の強化に努めます。大運河を拡幅し 当時南京に合った都を北京に遷都しました。
モンゴルの襲来に備えるために 北京に紫禁城永楽帝が造営した。
大運河全ルートで 最も標高が高い地帯は山東省の南旺で、閘門で仕切りを使り 水を満たして送くるため 多くの水が必要なので ダムを築いて大きな船が通れるようになった。 (南旺水利工程遺跡)
水源を見つけるのに苦労して 延べ30万人が動員され8年かけ完成した。運搬量が10倍になった。
(北京市通州区) 南の豊富な物資が都に運ばれた。

江南の都市 蘇州に 紫禁城の金レンガを作った工場が残っていて 今も作ってています。
長江と交わる要衝の揚州 かつてのメインストリート東関街 漆器商・米穀商・織物問屋 通りの両側には大運河で富を蓄えた豪商達の邸宅が建ち並ぶ。塩商人の大きな館が公開されいて 図書館を所有していた。塩商文化が生まれていった。中国4大料理の1つ淮揚料理もありました。
永楽帝は大運河をよみがえらせ 王朝の安定の礎を築いた。

1949年 中華人民共和国誕生 3年後 あらたな水路の構想「南水北調」プロジェクト。南方地域の水を北方地域に送り慢性的な水不足を解消する 総延長は2900kmの計画です。