テレビで視ていると どこも行きたくなります。2023年に東大寺・興福寺・唐招提寺・薬師寺・法隆寺を廻ってきました。卑弥呼の時代、飛鳥の時代、奈良 もっと知りたいと思います。前にドラマの 大化の改新や 足利尊氏で 出ていたところが ここだったのかとみています。
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奈良に秘められた日本のルーツめぐり
BS朝日 あなたの知らない京都旅 2024年5月16日
中村雅俊さんが笑い飯 哲夫さんの案内でもう一つの古都 奈良へ。京都よりも前に都だった奈良には、今に繋がる様々なルーツがあるといいます。
東大寺 大仏建立 ‥クラウドファンディングのルーツ
東大寺 は、聖武天皇が即位してから、地震・日食が続き、皇太子の死、長屋王の変、天然痘大流行など災難が度重なりました。741年に国分寺・国分尼寺の建立の詔を出しました。数々の災難を仏教の力で消滅させて国家を守る 鎮護国家という考えでした。聖武天皇は国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立することにしました。大仏の正式な名称は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)、この世に生きるものすべての永遠の幸福と繁栄を与える仏であると考えられていました。大きな仏を造るという一大事業は、聖武天皇や国家の力だけでは完成できないため、行基が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めました。現在のクラウドファンディングのルーツでした。
東大寺の本尊、盧舎那仏坐像を安置している大仏殿は木造の世界最大級の大きさで幅57m 高さ48m程で 大仏の高さは15mほど 下から見上げたときに ちょうど良いバランスになっている。
大仏殿の柱にある穴の大きさは、高さ約30cm、幅約37cm、長さ約120cmです。大仏の鼻の穴と同じ大きさで、大人の人が通れる大きさです。この穴は、北東に位置し、鬼門に対する魔除けとして知られています。穴をくぐると「無病息災」「祈願成就」「頭がよくなる」などのご利益があるといわれています。



2023.12 東大寺と興福寺訪れていました。鹿があちこちにいました。ちょっと怖いような、フンを踏まないように足元だけを見てました。
龍蓋寺(りゅうがいじ) 明日香村‥ 「厄除け」のルーツ
岡龍蓋寺 (岡寺)は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹にあり、ここは飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮 大化の改新が起こった場所です。岡寺の創建は寺伝によるとおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されました。西国三十三所第七番札所、厄除け観音霊場として知られます。
『龍蓋寺』という名は、飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた悪い龍を、義淵僧正が池の中に封じ込め大きな石で蓋をし改心をさせたことからその名が付いたと伝わる。その池は現在も 龍蓋池 として境内に存在。
本堂の御本尊は 高さ5mもある 白い如意輪観音坐像です。弘法大師空海が日本、中国、インドの土を使って 造った塑像(土でできた仏像)で厄除けの観音様と信仰されてきた。寺に伝わるもう一つの半跏思惟像、岡寺を訪れた仏師が仏像を造ったところ 降りかかる災難から逃れられた ため岡寺に祀られたと伝わる。空海が塑像をつくる際にこの仏像を胎内に入れて造られたと伝わる。
「厄除け」のルーツ 龍蓋池 と 半跏思惟像 の 二つで 日本初の厄除け霊場といわれている。
飛鳥寺
飛鳥寺は 596年 蘇我馬子の発願により創建された 最も古いお寺(公式に建てられた本格的な寺院)。日本で最古の大仏 飛鳥大仏がある。
向原寺(こうげんじ)‥仏像のルーツかも
向原寺は江戸時代に建てられたお寺ですが、仏教が日本に伝来して(538年とも552年?)、最初に伝えられた仏像を祀っている。聖徳太子が仏教を取り入れた時代に朝鮮半島の百済が戦争になって日本に援軍を依頼され お礼に 仏教と仏像をもらった。30cmの金銅観音菩薩立像で、江戸時代に頭部だけが発見された。
本堂のそばに 聖徳太子と共に日本に仏教を取り入れた 推古天皇の豊浦宮の遺構が 40年前発見された。
蘇我馬子の父 蘇我稲目の邸宅が 孫にあたる推古天皇の 豊浦宮になったと考えられる。そして蘇我稲目
が仏像を自分の邸宅に祀り のちにお寺になったと考えられる。
物部氏は仏教を入れたくなかったので 仏像を盗み出し 池に投げ入れたという伝説がある。
桜井市の前方後円墳 ‥ 卑弥呼の 日本の国造りのルーツ
哲夫さんの地元、桜井市へ。3世紀に作られた最古級の前方後円墳、 箸墓古墳といい第7代天皇 孝霊天皇の 皇女 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)であると定まっています。
邪馬台国が畿内説で 奈良県にあったとしたら 卑弥呼の墓かもしれない。年代的にも一致している。
纒向遺跡はその後の大和王権の中心だったとされる。
さらに、桜井市はそうめんのルーツとも言われる。 大神神社の宮司の息子が飢饉や疫病に苦しむ民衆を救うために小麦をこねて伸ばしたものが三輪素麺の起源と伝わる。
藤原道長 奈良でルーツを探る
BS朝日 あなたの知らない京都旅 2024年9月5日
中村雅俊さんが笑い飯 哲夫さんの案内のもと藤原氏のルーツを探るため 奈良へ。
飛鳥宮跡 明日香村
飛鳥宮跡 は飛鳥時代の皇極天皇の宮殿 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)でした。この場所で中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した「乙巳の変」がおこった。この中臣鎌足こそ藤原氏の始まりです。
談山神社 桜井市
談山神社 に藤原鎌足の遺骨を改葬、鎌足の長男定慧が木造十三重塔を建てた。弟の藤原不比等が神殿を建立し、父の像を安置したとされる。かつては妙楽寺という寺と一体だったが、明治初めの神仏分離令後、神社だけが残った。社名は鎌足が中大兄皇子と蘇我入鹿を暗殺するために談合をした 裏にある 談山(多武峰)からとったもので、鎌足の生涯を描いた絵巻『多武峰縁起』が伝えられている。その密談の時に二人の頭上には藤の花が咲いていたといい、その功で藤原の姓が与えられた。
興福寺 奈良市
興福寺は 藤原氏の氏寺です。鎌足の次男 藤原不比等は、平城京を造営し、藤原氏繁栄の礎を築いた。不比等の一周忌に創建された 北円堂、不比等が創建した中金堂が2018年に 301年ぶりに再建された。最盛期には今の奈良県全土に及ぶほどの荘園を有していたという興福寺。なんと日本国内の国宝の仏像の15%が興福寺に所蔵されている。その中でもひと際目を引く阿修羅像。見たかったけれど開館時間が合わずに残念でした。


法華寺 奈良市
法華寺は 聖武天皇の皇后である光明皇后が 発願し、総国分尼寺として建立。光明皇后の 父 藤原不比等の邸宅跡に建つ。本堂に安置されている十一面観音立像は、光明皇后がモデルであると伝えられている。
春日大社 奈良市
春日大社は768年に平城京の守護と 国民の繁栄を祈願して創建された。藤原氏の氏神様を祀っている。
2の鳥居をくぐった先にで 参道が2つに分かれ右手は表参道、左手は 道の先端が剣の形になっているので 剣先道(けんさきみち) と呼ばれ、春日祭の勅使 藤原一門専用の参入道で、慶賀門をくぐり 藤棚の下へ出る。
現在も 毎年1月2日、興福寺の僧侶が春日大社に参詣する日供始式並興福寺貫首社参式(にっくはじめしきならびにこうふくじかんすしゃさんしき)が執り行われます。神仏習合時代の神前読経が偲ばれるます。春日若宮は 京都に移った後 疫病が流行り 関白 藤原忠通公が 万民救済のために神殿を造営し 始まった「春日若宮おん祭」1度も途切れることなく 大規模に行われ 約900年も続いている。過去に 使われた 高さは6.58メートルある鼉太鼓(だだいこ) 鎌倉時代の仏師が彫刻が施され 国宝に指定されている。藤原道長が奉納したと伝わる 青銅製の素文鏡が伝わる。現在の春日大社の宮司 花山院は藤原氏の末裔である。藤原氏がどれほどの権力を持っていたのか、その名残りを感じられます。
“はじまり”は奈良
BS朝日 あなたの知らない京都旅 2024年12月5日
大神神社(三輪明神) 桜井市
大きな鳥居がひと際目を引く 大神(おおみわ)神社、 日本に8万社以上あると言われる神社のはじまりがこの社なのです。古事記・日本書紀 にも最古の社と書かれている。
三輪明神ともいわれ、徳川家綱によって再建された拝殿 奥には、三輪鳥居とも呼ばれている三ツ鳥居があり、古来より、この鳥居を通して御神体の三輪山が拝まれている。祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。
古事記に美しい乙女 活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに夜になると、たいそう麗しい若者が訪ねてきて、二人はたちまちに恋に落ち、どれほども経たないうちに姫は身ごもります。姫の両親は若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき 糸巻きの麻糸を針に通して 若者の衣の裾に刺せと教えます。翌朝 糸を辿ってゆくと三輪山にたどり着きました。これによって若者が大物主大神と知った。この時に糸巻きが三巻き(三勾)残っていたことから、この地を美和(三輪)と名付けたということです。赤い糸伝説のはじまりです。三輪そうめん発祥の地。
摂社の活日(いくひ)神社は 崇神天皇に召され 三輪の神様にお供えする酒を造った高橋活日命(たかはしいくひのみこと)をまつる。お酒のはじまりで 杜氏の祖先神として酒造関係者からの信仰が篤い。
安倍文殊院
安倍文殊院は、孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、初代左大臣となった(総理大臣のはじまり )安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立した。境内には安倍倉梯麻呂のものだという 古墳がある。内部は1300年前以上に造られたものとは思えないほど精巧な造り。日本最大約7mと伝わる国宝・渡海文殊菩薩群像を御本尊とする安倍文殊院は、創建以来すでに1300年以上の時を経て 現在も人々の信仰を集める。また日本三文殊 (奈良県・大和安倍の文殊、京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)の1つとして 知られています。
聖林寺
桜井市の山里に佇む 聖林寺 は 妙楽寺(現在の談山神社)の別院として、藤原鎌足の長子である定慧によって創建された。ご本尊は巨大な子安延命地蔵菩薩。天平彫刻の傑作の一つとして非常に有名な木心乾漆十一面観音立像 、国宝がはじまるきっかけとなった。
橘寺 明日香村
橘寺は 聖徳太子 生誕の地とされ、太子建立の七ヶ寺の一つです。建物は何度も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎が当時を物語っています。
古事記には 垂仁天皇は田道間守(たじまもり)を呼び「常世国という場所に、一年中とても良い匂いを放つ 非時香菓(ときじくかくのこのみ)というものがあるらしいので、是非手に入れて欲しい」と命じました。田道間守は唐の国や天竺の国など 探し求めて歩き周りました。旅に出てからは10年して 橘を持ち帰りましたが 垂仁天皇は亡くなっていました。境内にも植えられている 大和橘 乾燥させるととても甘くお菓子のはじまりと言われています。京都御所紫宸殿では「右近の橘・左近の桜」として橘が植えられています。
偉人たちが憧れた聖なる吉野 〜道長・義経・秀吉〜
BS朝日 あなたの知らない京都旅 2024年11月28日
奈良県のほぼ中央に位置する 吉野。京都からは電車でも2時間ほどかかる距離にも関わらず、藤原道長や源義経、豊臣秀吉といった偉人たちが憧れ はるばる訪れた。
花矢倉展望台は 春になると美しい桜が咲き乱れ、秋は紅葉が楽しめる絶景ポイント。吉野山とは、大峯連山の北の端から、南に約8kmつづく尾根一帯 である事がよく分かるといいます。
吉野の中心的な建物が 金峯山寺(きんぷせんじ) 本堂は蔵王堂。山岳修行者だった役行者(えんのぎょうじゃ)が蔵王権現の姿を山桜の木に刻んで祀ったときから始まり、何度も焼亡と復興をくりかえしてきた。現在の建物は豊臣秀吉、秀長の支援によって再建されたもの。
藤原道長が参詣した理由の一つは、当時「仏教の教えが廃れ、国や社会が衰退する」という末法思想が流行しはじめ、仏教的な功徳を積み、極楽往生を願ったと考えられます。もう一つは、「どんな願いも達成できる」霊山の力を借り 娘・彰子が、一条天皇の正室になっていましたが、まだ懐妊していませんでした。参詣した翌年に彰子は男子を生み、道長の出世を決定づけました。
2024年は、吉野・大峯地域を含む世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録20周年を迎えます。
中井春風堂では吉野本葛と水だけを使った賞味期限10分の「吉野本葛餅」「吉野本葛切り」が話題の店です。
吉野では桜の木をご神木として保護してきました。 吉野山は山岳宗教と密接に結びつき、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行し御神木の献木によって桜の木は植え続けられ、現在 シロヤマザクラを中心に200種・約3万本の桜が吉野山全体を覆っています。吉野山の麓から山頂へかけて、下千本・中千本・上千本・奥千本といい、四月上旬より山腹の気温が上昇するのにあわせて、順番に山桜が咲き上がって行くので、長い期間 桜を楽しめます。
天下人 豊臣秀吉が訪れた吉水神社 もともとは寺だったのが明治の廃仏毀釈で神社になった。門をくぐると 一目千本(ひとめせんぼん)といわれる 桜を一望できる絶景ポイント。その景色を一目見ると十年長く生きることができる長寿のご利益があると言い伝えられています。
豊臣秀吉が南朝を偲んで 盛大なる花見の宴を催しました。徳川家康・加藤清正・前田利家・伊達政宗など 総勢五千人の家来を引き連れて吉野山を訪れ、その権勢を天下に示した。その当時の様子が判る屏風絵が残る。
壇ノ浦の戦い で平氏を滅ぼした源義経は、兄 頼朝と不和になり、京都から追われる身になり、都落ち 弁慶や静御前と過ごしたといわれる部屋がある。
隣には のち 後醍醐天皇が南朝の皇居を構えた 後醍醐天皇玉座の間が残っている。
義経や後醍醐天皇が吉野に来たのは、飛鳥時代 天皇の離宮 吉野宮(現 宮滝遺跡)があって、ここから再起したことに あやかろうとした為でした。
天智天皇(大化の改新の 中大兄皇子)の後継者をめぐって、弟である大海人皇子と息子である大友皇子による 古代最大の内戦 壬申の乱が 広域にわたって展開された。
白村江の戦いで新羅と唐に敗れ、東アジアの脅威に対処するため、都を近江に遷した天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命しますが、病に倒れ、病床で大海人皇子を後継者に指名します。しかし大海人皇子は出家して 夫人の鸕野讃良皇女を伴い吉野宮へ。天智天皇崩御の翌年 各地で近江朝廷軍との戦いを繰り広げ 大海人皇子が勝利を収めました。大海人皇子(天武天皇)及び鸕野讃良皇女(持統天皇)により天皇を中心とした国家体制が築かれます。