GoogleマップでWeb旅行!京都浪漫・光悦・妙見様・京都洛西三十三観音・石清水八幡宮

BS11 京都浪漫を見ての 本阿弥光悦と俵屋宗達、洛陽十二支妙見めぐり、京都洛西三十三ヶ所観音霊場、「足利尊氏」によく出ていた 石清水八幡宮・松花堂庭園のメモです。

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 本阿弥光悦と俵屋宗達 光悦寺・養源院

BS11 京都浪漫 第117回 したたかな京都人?光悦と宗達~光悦寺・養源院~
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都で活躍した芸術家 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ・1558~1637)と俵屋宗達(たわらやそうたつ・生没年不詳)。

今川氏の人質として駿府で幼少期を過ごした徳川家康、そこへ京からやってきたのは刀剣の鑑定や細工に並ぶ者のない名人 本阿弥光二(光悦の父)。光二は諸大名に呼ばれ刀を鑑定していて 今川家とも深いつながりがあった。家康はよく覚えていて 光二の息子光悦を気に懸けていた。
京都市上京区に本阿弥光悦京屋敷跡があります。本阿弥家は室町時代から代々続く刀剣の鑑定・研ぎ・浄拭を家業とする上層町衆でした。上京は今も三千家の家元の屋敷が残る洛中の閑静な場所で 文化・芸術を志す町衆が多く集まっていた。
この屋敷跡を下がっていくと直ぐに 楽焼き窯元 楽家(現 樂美術館)もある。光悦は樂家の礎を築いた二代 常慶に樂焼を教わりました。三代 道入とも親しく 光悦の美意識も取り入れた道入は樂家歴代随一の名工と呼ばれています。樂美術館に光悦の茶碗が残されている。
裕福な町衆は書・茶・能など一通りの文化と教養を身につけ、大和絵や和歌など平安時代の文化への憧れがあった。光悦は家業に従事し刀剣に対する書物も残している。一方書や工芸の分野でも知られていた。光悦は近衛信尹(このえのぶただ)・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と共に「寛永の三筆」と称されていた。
1615年 徳川家康から 58歳で鷹ヶ峯の土地を与えられ、親族・知人を連れ 光悦村という芸術村を作った。「本阿弥光悦翁屋敷跡」石碑 の近くに 蒔絵師・京唐紙師・筆屋、また 尾形光琳の祖父で 呉服商 雁金屋の尾形宗柏、豪商 茶屋四郎の屋敷もありました。
家康から賜った 現在の 京都市北区鷹峯 、天下統一した豊臣秀吉が京を守るために御土居(土塁や堤防) を築いた 高峯北西隅の重要な部分にあたり 遺跡 御土居【鷹ヶ峯南】が残る。洛外に出る京都の七口の一つ 長坂口には黒門があった そのため黒門町の地名が残っている。長坂口から丹波に続くかつてのサバ街道があって 船のない港といわれるほど 交通の要衝だった。
1805年創業の老舗の松野醤油、御土居餅や光悦垣という菓子を販売する 光悦堂がある 。
光悦が 本阿弥家の先祖供養のため位牌堂をもうけ、光悦の死後 光悦寺として創建された。趣の異なる茶室が点在しており、周囲には光悦垣と呼ばれる 独特の菱形の竹垣が巡らされている。鷹峯三山が借景として眺められる庭。光悦は80歳で亡くなり ここは菩提寺で3代に渡る墓がある。
一説には、朝廷とも繋がりの深い光悦を都から遠ざけようとした家康の真の意図があったとされる。
本阿弥光悦は 亡くなるまでの約20年間 光悦村で創作活動に打ち込み 光悦は国宝2点、重要文化財18点の作品を残しました。
国宝白楽茶碗 銘不二山 と 蓋甲を高く盛り上げた蒔絵の硯箱 舟橋蒔絵硯箱
その一方で有力大名にも顔が利くほどの人脈や、並外れた目利きにより若手芸術家を次々と発掘。
「俵屋宗達」から「尾形光琳」へと続く、総合芸術流派の「琳派」を興したことでも知られます。
重要文化財 13.6mの鶴図下絵和歌巻 絵:俵屋宗達筆 書:本阿弥光悦筆 は15年かけた共作でした。

浅井家 豊臣家 徳川家の 養源院(ようげんいん)

三十三間堂の東向かいに位置する養源院。豊臣秀吉に自害に追い込まれた 浅井長政お市の方の供養のため 長政の長女の淀殿秀吉に願って建てた「養源院」 名は長政の法名からつけられました。その後落雷で焼失し 二代将軍徳川秀忠の正室になった三女お江(崇源院)が、伏見城の血糊が染み込んだ床板で作られた血天井を用いて再興した。これは 徳川方に忠義を尽くした家臣の血糊が残る床板を、誰にも踏まれることがないように寺院の天井にして供養すれば、豊臣にまつわる寺院の再建の大義名分になると考えました。
その後 秀忠の五女で 後水尾天皇の中宮 東福門院和子(まさこ)が、お江の七回忌の年に秀忠が亡くなったので、両親の大きな位牌を祀り、兄の徳川家光の位牌を安置。以降徳川家の位牌所となった。

本堂には俵屋宗達が描いた襖絵「松図十二面」や、普賢菩薩の乗り物である白象、文殊菩薩の乗り物である唐獅子、聖人が出現する前兆として現れるといわる霊獣 麒麟 を描いた杉戸絵があり、すべて重要文化財です。

洛陽十二支妙見めぐり~星の仏様に開運・厄除け祈願

BS11 京都浪漫 第114回 洛陽十二支妙見めぐり~星の仏様に開運・厄除け祈願
妙見大菩薩は、北極星・北斗七星を神格化した菩薩であり、諸星の王として宇宙万物の運気を司どり支配される菩薩です。
江戸時代、京都御所 紫宸殿を中心に十二支の方角の寺院祀られた妙見菩薩をお参りする「洛陽十二支妙見めぐり」が大流行、明治の廃仏毀釈で廃れたものの 昭和の終わりに再興を果たした。

干支方角通称寺社名
1西陣の妙見宮善行院
2北北東本満寺の妙見宮本満寺(ほんまんじ)
3東北東修学院の妙見さん道入寺(どうにゅうじ)
4鹿ケ谷の妙見さん霊鑑寺(れいかんじ)
5東南東岡崎の妙見さん満願寺
6南南東清水の鎮宅妙見宮日體寺(にったいじ)
7伏見大手筋の妙見さん本教寺
8南南西未の方の妙見さん法華寺
9西南西島原の妙見さん慈雲寺
10西小倉山の妙見宮常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
11西北西鳴滝の妙見宮三寶寺(さんぼうじ)
12北北西鷹峰の岩戸妙見宮日蓮宗 圓成寺(えんじょうじ)

酉(西)の方角にある常寂光寺「小倉山の妙見宮」と呼ばれ 紅葉の名所としても有名な右京区小倉山にあります。百人一首の編集者である藤原定家の山莊があったと伝わる。悟りを開いた仏が住む浄土「常寂光士」と呼びます。
慶長年間(1596〜1614) に日禛上人が、隠棲して堂舎を建立し、さらに日韶上人が小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築して本堂とし、1616 年には本圀寺客殿南門を移して仁王門とした。仁王像は運慶作と伝えられる。
妙見宮の天井は四季折々の花が描かれた格天井で、中央に祀られている 妙見菩薩能勢型といわれ 鎧を着て 右手で太刀を頭上にあげ、左手で金剛印を結んだもの
慶長年間 (1596-1610) 保津川洪水の際に角倉に流れ着いた像を祀ったものいわれ、大阪にある能勢妙見菩薩の分身とされ 能勢に参拝できない多くの人が訪れた。
妙見堂内の立派な前机は 歌舞伎の役者衆による寄進で、これは「妙見」が「麗妙なる容姿」とされたため。

能勢妙見山(日蓮宗 無漏山眞如寺境外仏堂 能勢妙見山)は行基が開いたとされ、1200年の歴史ある日蓮宗霊場です。大阪府豊能郡能勢町にある 開運・芸能を司る北極星の神様「妙見大菩薩」が祀られています。

寅(東北東)の方角にある「修学院の妙見さん」と呼ばれる左京区修学院の道入寺は 1646年に 日長上人が創建。
40年ほど前 住職が 霊感によって本堂の奥深くより 真っ黒な妙見様を見つけ 、昭和57年 境内に妙見堂を再建した。妙見菩薩像は僧形で大変珍しく 右手に軍配のようなモノを持っている。この日は特別な日で七面天女像と共に祀られていた。
「寅の妙見さん」である道入寺から「卯の妙見さん」の霊鑑寺へ 、師走に1年間護った 妙見さま御時物の破邪顕正の宝剣を 次の年の干支の寺へ 引き継ぐ「宝剣引継大祭」が行われた。

卯(東)の方角にある 「鹿ケ谷の妙見さん」と呼ばれる 尼門跡寺院 霊鑑寺(れいかんじ)は 1654年 後水尾天皇の皇女 多利宮(たりのみや)を開基として創建され、明治維新まで5人の皇女・皇孫が入寺、住職を務めたので「谷の御所」「鹿ケ谷比丘尼びくに御所」とも呼ばれる。
本堂は江戸幕府11代将軍 徳川家斉が寄進したもので 本尊は如意輪観音像。
書院は、後西天皇の御休息所を移築したもの。『四季花鳥図』など狩野派の作と伝わる華麗な障壁画や 皇女達が愛でた御所人形などが飾られている。書院前の広い庭内には後水尾天皇が実際に愛でたという樹齢400年ともいわれる日光じっこう椿(京都市の天然記念物)など100種以上の椿を植栽。
山門の外に建つお堂に 能勢型の妙見菩薩は不動明王と一緒に祀られているため、いつでも参拝可能です。

巳(南南東)の方角にある「清水の鎮宅妙見」として信仰されてきた日體寺(にったいじ)は清水寺に続く清水坂沿いにあります。元は浄土宗の観音寺という寺でしたが 江戸時代中期の 1721年に日蓮宗に帰依した 日體上人により改宗開創されました。
山田大作さん奉納の千手観音や巳の水墨画が飾られている。
本堂には 巳の妙見大菩薩(ザンバラ髪に七星剣を持って亀と蛇に乗っているお姿)が祀られており、財運の守護神、災いを鎮める 家の守り神として 信仰を集めてます。鎮宅妙見のお札「鎮宅霊符」は家の守り神として かつて大流行しました。

戌(西北西)の方角にある「鳴滝の妙見宮」の呼び名で親しまれる三寶寺(さんぼうじ)は寛永5年(1628年)右大臣菊亭(今出川)経季卿と中納言今城(冷泉)為尚卿が後水尾天皇の御内旨を受け、中正院日護上人を御開山に迎え建立された。
三寶寺は戌年生まれの人の守護神として信仰集めており、戌が安産に通じることから安産祈願所としても知られ、子宝戌も人気です。
かつては塔頭寺院を12寺 数えたが 幕末の動乱で荒廃したが 昭和天皇即位式のため建てられた1棟を下賜本堂として復興。境内には京都御所より植生された御車返しの桜や、樹齢約700年の楊梅(やまもも)の古木がある。
長い石段の先の妙見堂に祀られた 妙見菩薩像は七星剣を持って亀と蛇に乗っている姿です。
江戸時代の洛陽十二支妙見めぐりが記された扁額、現在とおよそ1/3が入れ替わっています。先代の住職が 京の十二支妙見めぐりを 昭和61年に復興させた。

亥(北北西)の方角にある「鷹峰の岩戸妙見宮」圓成寺(えんじょうじ)。山門をくぐると秋には紅葉の美しい参道が正面の妙見堂にまっすぐに伸びています。
桓武天皇が平安京を定めるとき 都の四方に妙見様を祀られた。岩倉に法華経を納め 国土の安穏やこの都が静謐であるよう祈り 都造りが始まった。平安時代の今昔集には北山の霊巖寺の妙見大菩薩があった。
1630(寛永7)年、日任上人は、由緒ある妙見霊場を法華勧請をもって再興し 圓成寺を開創された。
境内奥の妙見堂は古墳状石窟造りの珍しいお堂で、亀の背に乗って右手に破邪の剣 左手に白蛇を持ち 北斗七星を現した光背のついた 2メートル余の岩戸妙見大菩薩の石像が、白雲弁財天女像と七面大明神像をを脇侍とし 安置されている。近くには修行の場となっている「巌門の瀧」がある。

京都洛西観音霊場めぐり~善峯寺・泉福寺・願徳寺・正法寺

BS11 2024年2月11日 京都浪漫 第140回 京都洛西観音霊場めぐり~善峯寺・泉福寺・願徳寺・正法寺

⻄国三⼗三所巡礼と京都洛西三十三ヶ所観音霊場

⻄国三⼗三所とは和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜 2府5県の33箇所の観音菩薩を祀る寺院の総称です。これらの寺すべてを回ることを⻄国三⼗三所巡礼とよび、⽇本最古の巡礼の路といわれ 総距離は約1000㎞に及びます。現在も多くの参拝者が訪れています。「三十三」観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味します。西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされています。
718年、長谷寺の徳道上人が仮死状態で閻魔大王と会います。閻魔大王は世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。徳道上人は33の霊場の礎を築かれましたが、当時の人々には受け入れられなかった。それから約270年後、途絶えていた観音巡礼が、花山法皇によって再興されます。

京都洛西三十三ヶ所観音霊場は「西の岡三十三所」という西国観音霊場の写し霊場が前身に当たる。ここに参詣することで西国の霊場を巡るのと同じご利益が得られるとされる。京都の桂川より西にある三十三ヶ所の寺院と番外札所3ヶ所からからなる。
京都の西には南北に山並みが連なり「西山」と称している。山麓は古くから「大原」「大原野」と呼ばれ、かつては西山竹林と呼ばれる竹藪が広がっていた。

西国三十三所観音霊場 第20番札所・京都洛西観音霊場 第1番札所 西山 善峯寺

西京区大原野にある 善峯寺は、寺に伝わる『善峯寺縁起』によると 源算上人のもとに夢告があり、野猪の大群が現れて一夜にして牙で大岩を砕き、険しい山を開いてお堂を建てることができたという。平安中期の1029年 源算上人が 自作の千手観音を奉安して、阿智坂の法華院と号したのが始まりです。1042年 後朱雀天皇の時に、仁弘法師作の十一面千手観世音菩薩像を本尊とし、先の源算作観音像を脇侍とされ、白河天皇によって諸堂が建立された。
観音堂(本堂) 1692年再建。本尊十一面千手観世音菩薩は仁弘法師作。脇侍の十一面千手観世音菩薩は源算上人作で、洛西三十三ヶ所第一番の本尊。
徳川幕府5代将軍 綱吉の生母 桂昌院 ゆかりの寺で、至宝館に平安時代に作られた聖観世音菩薩立像が祀られている。

第16番札所 星水山 泉福寺

向日市にある泉福寺。建立は都が長岡京から平安京に移された794年とされます。桓武天皇はその遷幸の際 突然雷雨に見舞われ あわてて松の木に逃げ込まれました。激しい落雷の中 松の木の下で天皇は一心に観音経を唱えられ そのかいあってか 雷雨はやみ 無事遷都できたといわれています。
このお礼にこの松の木で観音様を刻み 御堂を建立したのが始まりとされています。
4年に一度公開される秘仏 不空羂索観世音菩薩坐像をが本尊で「三つ目観音」の呼び名で親しまれる。
「不空」とは信じれば必ず願いが叶い空しい思いをさせない、という意味で、「羂索」とは古代インドで密猟や戦闘に使われた捕縛用の縄のことです。そのため あらゆる人々の悩みを逃がすことなく救済し、願いを叶えるという意味があります。

第33番札所 仏華林山 宝菩提院 願徳寺

西京区大原野にある 願徳寺は、679年 持統天皇の願いにより 向日市寺戸に創建されたと伝えられる。
応仁の乱と信長の兵火により諸堂ことごとく灰尽となり 江戸時代に家康の加護を受けたものの 平安時代の面影は失われた。近代に入ってさらに荒廃し、1962年(昭和37年)に本尊の観音像などが「花の寺」として知られる勝持寺に移された。その後 願徳寺も勝持寺の隣に再建され帰座されました。
本尊に祀られる国宝 如意輪観世音菩薩は 平安時代前期頃の彫刻という。片足を曲げた半跏(はんか)の姿をしており その表情や衣装が同時代の日本の彫刻で他に類をみないことから唐から招来されたもの、または渡来人が制作したものとされる。榧(カヤ)の木の一木造りで心願成就・子宝の信仰を集めている。
宝物庫には藤原時代に彫刻された薬師瑠璃光如来、鎌倉時代の聖徳太子像などが安置されている。

番外札所 法寿山 正法寺

西京区大原野にある 番外札所の正法寺は、753年 奈良唐招提寺に鑑真和上と共に渡来された高弟 智威大徳が隠棲された地として 開山され、当時は春日禅房と称されていました。
その後 伝教大師最澄が長岡京の守護寺院「大原寺」を建立した際、春日禅房も大原寺の塔頭寺院の一つとして組み入れられました。弘仁年間(810~824年)弘法大師空海が巡錫して、聖観世音菩薩立像を彫刻されたと伝えられており、現在も本堂に安置されています。

応仁の乱の戦火で焼失しましたが、1615年に彗雲律師長圓律師により正法寺として再興され、徳川綱吉の母 桂昌院の帰依を受けて 徳川家代々の祈願所となりました。「西山のお大師さん」として信仰されました。
本尊は鎌倉時代初期の像高181cmの木造 三面千手観音立像。顔の両側に別の顔(化仏)がある珍しい三面形式で、過去と未来にも目を配るという意味を持っています。(国指定重要文化財)
他に「走り大黒天」と呼ばれる大原野大黒天、室町時代の作 愛染明王坐像春日不動明王が祀られている。
通称「石の寺」境内全体で600トンの巨岩が全国各地から集められていることに由来。
書院 室生殿 から眺められる池泉式・枯山水と両方が楽しめる「宝生苑」 庭石の形が何となく鳥やペンギン、兎など、15種類もの動物の形に似ているため 「鳥獣の石庭」と呼ばれています。
庭園中央に紅枝垂れ桜があり 春は桜越しの石庭が美しい。

すぐ向かいの『大原野神社』 784年、桓武帝の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神である奈良春日大社の神々をこの地に最初に祀られたころより「京春日」といわれています。
大原野神社は長岡京の西、小塩山の東麓に鎮座し、平安京遷都後も二十二社(常に朝廷の殊遇を受けた社で、国家に重大事や天変地異のあるごとに使を遣わされて奉幣を受けた二十二の神社)に列し国家鎮護の社とされました。
850年に藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇は壮麗な社殿を造営。藤原氏の一族では女が生まれると 中宮や皇后になれるように参拝することが例となり、1005年に中宮彰子が、父 藤原道長 紫式部以下がお供をした行列の絢爛さは、人々の眼をみはらせたと云われています。
在原業平の和歌や 六国史、大鏡等、源氏物語、その他有名な古典に しばしば書きとどめられている。

京都八幡の歴史秘話〜石清水八幡宮・松花堂庭園・神應寺・飛行神社〜

 BS11 2023年12月10日 京都浪漫
第136回 京都八幡の歴史秘話〜石清水八幡宮・松花堂庭園・神應寺・飛行神社〜

日本三大八幡宮

八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は八幡さまの総本宮です。御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。
奈良時代の天応元年(781年)、朝廷は宇佐神宮に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈っています。
応神天皇弓術の達人とされており、武の神・出世開運の神として崇められていました。また 応神天皇の母 神功皇后が身籠っている時に戦に遠征し、その後無事に出産したことから安産、子育てにもご利益があるとされる。

鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
源頼朝の祖先 源頼義が 陸奥守となって派遣され、子 源義家「前九年・後三年の役」を鎮圧 由比ガ浜に源氏の氏神として八幡神を祀ったことからはじまります。
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、石清水八幡宮から八幡大菩薩を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮を建立、御家人もこれに倣って領地に八幡宮を創建したのです。
義家は 7歳の時に石清水八幡宮で元服して八幡太郎と名のりました。前九年の役を平定したときは朝廷から土地などの褒美が出ました。しかし後三年の役では何ももらえませんでした。義家は自分の部下に自腹を切って褒美を与えた 。源氏が現在の関東を中心とする 東国 で勢力を強めていきました。子孫から源頼朝、足利尊氏、源義経、木曽義仲、新田義貞ら名立たる武将を輩出

日本三大八幡宮は 宇佐神宮(大分県宇佐市)と、石清水八幡宮(京都府八幡市)筥崎宮(福岡県福岡市)、または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)といわれている。

石清水八幡宮

京都府八幡市 男山の山上に建つ 石清水八幡宮“やわたのはちまんさん”と親しまれ、 男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波間の交通の要地です。
平安時代初め 清和天皇の貞観元(859)年、僧 行教(ぎょうきょう)によって、九州の宇佐八幡宮から男山に勧請され、860年に朝廷により建てられた社殿に祀られました。八幡宮が鳩(ハト)を神様の使いとしており、勧請した時に、白い鳩が道案内をしたという話が伝わっております。

山頂に歩いて行くには 一ノ鳥居をくぐり 頓宮殿を抜けて二ノ鳥居へ 七曲がりなど長い石段が三ノ鳥居まで続き 15分~30分、または 参道ケーブルで「八幡宮口駅」より 約 3分で「男山山上駅」に。
男山展望台から、桂川、宇治川、木津川の向こう側に京都市内が広がり、天王山比叡山宇治の山なみを見渡せる絶景名所です。

石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造(はちまんづくり)の神社建築であり、本社を構成する10棟の建造物と棟札3枚が国宝に指定されています。創建以来、何度か再建を繰り返し、現在の社殿は1634年に徳川家光の命で修造したものです。
八幡造りの本殿と前面に連なる幣殿及び舞殿などを瑞籬(みずがき)と回廊で囲み 緊密に一体化したもので、社殿 10棟は、2016年に国宝に指定されました。
楼門の蟇股(かえるまた)の八幡大神の神使いである鳩、金色で右側だけ口が開いて 阿吽の口になっている。その上に極彩色の龍と虎の欄間彫刻が施されている。南に朱雀、東に青龍、西に白虎、北に玄武という四方を守護する四神 の関係から考えると逆に配置されている。社殿の修造した徳川家光公の生まれ年が辰年であり、徳川家康公は虎年生まれであるため、家光公が配慮したともいわれています。
楼門の蟇股の裏側に徳川家の葵の紋があり 参拝する者には見えませんが、八幡大神には正面になります。

御祭神は本殿中央に応神天皇、西に比咩大神(ひめおおかみ)、東に神功皇后八幡三所神といわれる。

御本殿を囲む 国宝の瑞籬(みずがき、垣根のこと)には、江戸期の名工 左 甚五郎一派の作と伝えられる 極彩色の欄間彫刻が150点以上も施されており、祇園祭の蟷螂山でおなじみの「百合とカマキリ」や「鹿とモミジ」「葡萄とリス」「天人」など珍しい彫刻がある。
内殿と外殿の「相の間」には、織田信長寄進の「黄金の雨樋」が架けられています。

境内地に発明王の エジソン記念碑があって 白熱電灯の最も長持ちのするフィラメントに石清水八幡宮の真竹が使われた。

帰りの裏参道を下がると 石清水八幡宮の摂社である石清水社があって、霊泉「石清水」が湧き出るパワースポットになっている。寒い冬にも、厳しい干ばつの際にも枯れることがなかったため、神聖な泉と人々に長い間尊ばれてきた。

下がると「松花堂跡」の石碑が建っている。かつて 石清水八幡宮は神社であると同時に寺院でした。その時代社僧という僧侶が社務を取り仕切っていた。江戸時代初期 社僧寛永の三筆の一人でもある松花堂昭乗が晩年を過ごした草庵「松花堂」と僧坊「泉坊」が建っていた場所です。
松花堂昭乗は真言密宗を極めた高僧であり、絵画や茶道に秀でた文化人だった。一ノ鳥居のすぐ前に「大西坊」と刻まれた灯籠が、坊はお寺のことです。かつて男山には48の坊があったとされ「男山四十八坊」と呼ばれていた。そのほとんどが明治の廃仏毀釈で取り壊されてしまった。

松花堂庭園・美術館

八幡市八幡女郎花という地名にある 松花堂公園に 草庵「松花堂」と僧坊「泉坊」が移築されていて美術館が併設されている。約20,000平方メートルの広さがあり、「内園」と「外園」で構成されています。40種類以上の竹、約300本の椿のほか、梅や桜、紫陽花、もみじなどが あって 四季を感じることができます。
外園には、趣きの異なる本格的な茶室3棟があります。懸け作りの「閑雲軒」を復元した「松隠」、千宗旦好みの小間がある「梅隠」、竹を露地に取り込んだ四畳半の「竹隠」
地名の由来となった 女郎花塚があって 昔話が伝わる。
「平安の頃 八幡に住んでいた小野頼風という人で、京に深い契りを結んでいた女性がいましたが、いつしか二人の間に秋風が吹くようになりました。京の女が男を訪ねてくると、男が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んでしまいました。 やがて、彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ち、女郎花が咲きました。頼風がこの花の元に寄ると、花は恨んだ風情をたたえながら頼風を嫌うようになびくので、頼風は自責の念にかられ、放生川に身を投げました。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたといいます。」
昭和8年、吉兆創業者 湯木貞一が茶会のために同場所を訪れた際、部屋に積み上げられた四つ切箱を見て「松花堂弁当」が編み出された。

神應寺

八幡市で最も古い禅寺とされる 男山の中腹にある 神應寺紅葉の名所としても知られており、見頃には多くの人が訪れる人気スポットだ。
経営難から荒れ果てていた 神應寺を25年かけて 修復し 第五十世住職 大木祖浄住職 が 2023年亡くなってます。
神應寺は860年、男山に石清水八幡宮を勧請した行教律師が、応神天皇の霊を祀るために創建しました。現在は曹洞宗の寺院となっています。古くは應神寺と称していましたが、天皇の諱(いみな)を憚って神應寺に改めたといいます。
国の重要文化財に指定されている 平安時代前期の作の行教律師の像も祀られています。江戸時代まで石清水八幡宮三ノ鳥居近くにあった開山堂に安置されていたものが、廃仏毀釈のため、明治6年に神應寺本堂に移されました。

本堂には、本尊の薬師三尊仏のほか、衣冠束帯の豊臣秀吉の座像も安置、神應寺に帰依した秀吉が朝鮮出兵の折 寺領を寄進して以降 豊臣家と深いつながりがある。
開山堂に並ぶのは、曹洞宗の開祖 道元禅師や歴代住職の座像。
第十九世 廓翁鉤然(かくおうこんねん)は 常法憧地という曹洞宗で最も高い格式を得るため奔走しました。大奥総女中頭・右衛門佐局と交流があって、将軍綱吉より拝領した衣装を袈裟にした秘宝が残っている。

書院伏見桃山城の遺構で、江戸時代初期の狩野山雪 筆による杉戸絵「竹に虎」が残る。

神應寺の谷の奥には「奥の院」杉山谷不動尊あります。ここは平安時代 弘法大師空海が悪鬼を封じ、自ら 不動明王を刻んで安置したと伝わるお堂です。かつてお堂が山津波に遭っても 無事だったという不動明王像は60年に一度開帳される秘仏で、参拝者はお前立ちに手を合わせます。
不動明王像の両側に矜羯羅(こんがら)童子・制多迦童子像が祀られて、直ぐ間近で見ることができ迫力満点です。
本堂西の墓地には大阪淀屋橋の由来になった 江戸時代の豪商 淀屋辰五郎や 日本飛行機の父と呼ばれる二宮忠八 らが眠っている。

飛行神社

大正4年 航空安全と航空事業の発展を祈願し、二宮忠八により創建された神社。忠八は愛媛県に生まれ、明治24年 ゴム動力のカラス型飛行機の飛行に成功。日本で初めて飛行原理を発明「日本の航空機の父」とも呼ばれる。古代の空の神・神饒速日命(にぎはやひのみこと)とともに、全世界の航空殉難者 航空関係者の英霊を祀る。資料館には1000機のプラモデルなど、飛行機関係の資料を展示している。