満州鉄道の鉄道守備隊が関東軍に!清朝最後の皇帝が満州国の皇帝に★関口宏のもう一度近現代史メモ

昭和の初め 中国大陸に生まれた 満州国 14年で消滅しました。
満州国は日本の利益のための 傀儡国家で、トップに立ったのは 清朝最後の皇帝 溥儀(ふぎ)でした。
「開け満州」のかけ声に多くの日本人が夢を持って海を渡り荒れ地を耕しましたが、終戦と同時に見捨てられた。

最近 コロナとか総務省の話とか、イヤな話しばかりで、大河をじっくり見たり していて、歴史系の番組に目が行くようになりました。
第68回「昭和12年~盧溝橋事件で日中戦争始まる」からこの番組を見始めました。この時代 触れてはいけないような 深く知ろうとしなかった時代です。
改めて みると驚くばかりでした。一番驚いたのは、日清戦争による賠償金(国家予算の3倍も?)得ていて、太平洋戦争で奥に引き込まれ ズタズタになってもも やめられなかったことでした。

今回 満州の特集がありました。見ていて 昔見た『流転の王妃・最後の皇弟』でそんな話があったなーと思い出しました。

⬆ 満州国の国旗 新5色旗 初代皇帝 溥儀

日清戦争で賠償金 日露戦争で朝鮮満州を支配下に

関口宏✕保阪正康

明治23(1890)年 第1回帝国議会で首相 山縣有朋が訴えた 国防の考え方
主権線=国境
利益線=主権が及ぶ範囲の安全に密接な関係を持つ区域の範囲。朝鮮半島を考えた。

1894年 日清戦争始まる ロシアが南下、李氏朝鮮が清に援軍要請したため 朝鮮半島の支配を巡って日本と清国の戦争が起こった。
1895年 下関条約で清国は朝鮮の独立を認めること、遼東半島 台湾を日本に譲り渡すこと、清国は賠償金として2億両(約3億1000万円)を日本に支払うことを得た。

1904年 日露戦争(動画あり) 日清戦争で手に入れた遼東半島をロシア・ドイツ・フランスからの返還要求によって手放す。ロシアは清国で起きた義和団事件を鎮圧するために満州に軍を派遣、満州全土を占領します。日本はイギリスと日英同盟を結んで、朝鮮半島と満州の権益をめぐってロシアに対抗しました。

1905年 ポーツマス条約 日本が朝鮮半島の保護権を持つこと、両国とも満州から撤退すること、ロシアは長春以南の鉄道利権などを日本に譲渡すること、ロシアは南樺太を日本に割譲すること、旅順・大連の租借権得ること、日本海、オホーツク海、ベーリング海のロシア領地沿岸における日本の漁業権を認めること。賠償金なし。

1905年 日韓協約で韓国の外交権を奪い 韓国統監府(初代統監 伊藤博文)設置
1909年 韓国皇帝を退位させ、第3次日韓協約で統監府を強化、軍隊の解散。 → 義兵闘争激化。
1910年 伊藤博文暗殺事件、韓国併合 日本の植民地支配開始

鉄道守備隊が関東軍に

関所の東を指す「関東」万里の長城の始まる山海関より東の地を関東と呼んでいました。
ポーツマス条約により、日本はロシアから、関東州と呼ばれていた旅順・大連と、長春以南の鉄道を譲り受けます。

1906年 南満州に 関東都督府 鉄道敷設権を得て 鉄道及び炭田、製鉄所などの経営のために 南満州鉄道設立
この鉄道を守るために 鉄道守備隊(15000人)が作られた。これが関東軍になっていきます。

明治43(1910)年 韓国併合され、利益線が満州まで拡大します。
韓国統監府が警備担当の関東軍・行政担当の関東庁に分離独立。

辛亥革命で清王朝滅亡 各地の軍閥が権力争う

中国は混乱していた。
もともとという国は、満州族の愛新覚羅氏によって建国された王朝で、少数の満州人が多数の漢民族を支配していました。
しかし1840年に起きた「阿片戦争」でイギリスに敗れると、清の武力に対する信頼感が揺らぎます。

明治41(1908)年 絶大な権力を持っていた 西太后が亡くなり
1911年 辛亥革命が起こり、1912年2月12日 6歳の清最後の皇帝 宣統帝が退位させられる。
宣統帝は姓は愛新覚羅(あいしんかくら)で、名は溥儀(ふぎ)といった。
2歳で即位、在位1908~1912年、ラストエンペラーと呼ばれた。

1914年~1918年 第1次世界大戦 日本はヨーロッパ列強が東アジアに余力がないとみて ドイツ租借地 青島を占領 中華民国に「21ヶ条の要求」

辛亥革命によって、およそ270年間にわたり中国を支配していた清王朝が滅亡。
すると各地で 軍閥と呼ばれる 地方勢力が権力争いを始めた。
関東軍は、奉天の軍閥 張作霖を支援して 軍事顧問団を送っていた。(動画あり)
北平(北京)の軍閥 直隷派(欧米が支援) 呉 佩孚(ご はいふ)が率いていた。
南の広州からは 国民党(ソビエト支援) 孫文・蒋介石・周恩来・毛沢東が上がってくる。

関東軍は 奉天の軍閥 張作霖を利用して 勢力拡大

1924年 張作霖は中国統一を目指し、呉佩孚の支配する 北平(北京)を攻め落とす。
この時 愛新覚羅 溥儀(当時18歳)が紫禁城から追放され 天津の日本領事館が受け入れた。

1928年 張作霖爆殺事件では、関東軍が 意のままにならなくなった 満州軍閥の張作霖を爆殺します。
北京に 国民党の蒋介石が無血入城し、中国統一をほぼ達成します。(動画あり)
漢民族の国民党の一部軍隊が 清朝の歴代皇室の陵墓群 清東陵を破壊、副葬品を略奪した。

孫文の辛亥革命で 援漢倒清(漢民族を助け 清を滅ぼす)がスローガンの1つ
溥儀と妻 婉容(えんよう)は激怒し 関東軍に近づく動機付けとなった。

関東軍は日本政府や、軍中枢のコントロールが次第に効かなくなっていきます。
関東軍の中には満州 蒙古地域 「満蒙の分離・独立」を中国から独立させる動きが広がる。

満州で権力を引き継いだのは 張作霖の息子張学良でした。張学良は国民党 蒋介石と連携 反日姿勢を強める。(動画あり)
一方 日本では 松岡洋右外相の「満蒙は日本の生命線である」発言が流行語になっていた。
満州の地下資源の開発、生存する地域の増大を狙った。

柳条湖事件 満鉄防衛を口実として軍事行動を開始 男装の麗人川島芳子が諜報活動に協力

1931年 柳条湖事件では、関東軍が 満鉄の爆破を張学良軍の犯行に見せ掛けて実行し、満鉄防衛を口実として軍事行動を開始。(満州事変始まる)(動画あり)
その日のうちに奉天を制圧、満鉄沿線の主要都市を制圧するように指示し 満州全土を制圧する。(本庄繁 関東軍司令官 が号令した)
チチハル・錦州・ハルビン占領し(動画あり) 同時に関東軍は 新しい国のトップに溥儀を迎える準備を始めた。
天津に土肥原賢治大佐が「皇帝」を望む溥儀を迎えに行った。

妻の婉容は行かないとしていたが、川島芳子が訪れ 「溥儀が大連で死亡した。葬儀のため 大連に来て欲しい」と旅順に連れ出した。
スパイ活動をしていた 男装の麗人川島芳子清朝の皇族 第10代粛親王 善耆の第十四王女
大陸浪人 川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。
本名は愛新覺羅顯㺭(けんし)で「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた。
『十五夜の娘』などのレコードが発売された。
日本軍の諜報活動に協力、天津で中華料理店の女将。
戦後国民軍に捕まり「漢奸」として処刑された。

満州国の建国を宣言 清朝最後の皇帝 溥儀が 満州の皇帝に即位

この時 建国を急ぐ必要が有った、
蒋介石が国際連盟に提訴し、国連はリットン調査団が昭和7年5月に満州で現地調査を行うことを決定。
1932年2月29日にリットン調査団が来日。(動画あり)
翌3月1日、満州国の建国を宣言した。
 執政就任式に向かう 溥儀・婉容夫妻(動画あり)
3月9日 満州国の国家元首にあたる 執政に溥儀が就任
リットン調査団は満州に到着したのは、建国の約2ヶ月後(動画あり)
10月2日に報告書を世界に公表した。満州国は認めないが、満州における日本の権益は尊重すると記されていた。
リットン報告書は必ずしも日本に全面的に不利なものではなかったが、受け入れなかった。

1933年2月24日の国際連盟総会。日本の国際連盟代表団 松岡洋右全権大使は反論の演説(動画あり)をし、総会会場から引き上げ、1933年3月27日に国際連盟脱退を通告した。

満州国は 面積13万km2(日本内地の3倍強)
人口 約3370万人

日本 総面積(67万km2)
人口 約9040万人(内地 6445万、朝鮮2106人、台湾459万人、樺太30万人:昭和7年)

「王道楽土」武力により統治ではなく 東洋の徳による統治(王道)で平和的な土地(楽土)を目指す。
「五族協和」漢・満州・モンゴル・韓国・日本 の五民族の融和を目指した。
  昭和15年 81%,12%,2.6%,2.5%,1.1% (排日感情が強い漢民族が多数)
1.1%の日本人が支配することに 無理があった。
しかし憲法がなかった。国籍がなかった。
満州国は 国家としてのアイデンシティや国づくりの土壌 などが全くなかった。

満州紹介の PRビデオでは、豊かな暮らし 楽しい生活が描かれ移民を促した。
昭和7(1932)年10月3日 「第1次移民団」満州に出発(動画あり)
日本の農村の人口対策・武装移民
一方 中国人居住者の土地を低価格で買い上げ 強制立ち退きなど 強引な土地の取得で反日気運が増大

14歳の時 家族で長野県から移民した 名取敬和よしかずさん(92)は、現在 紙芝居で 満州移民の経験を次の世代に伝える活動をしています。
ヨモギが背丈以上伸びていた。それに火をつけて 焼き畑農法。
馬にプラグという機械を引かせて開墾した。馬の肩がすりむけて 血が出た。
開墾して 政府に トウモロコシや大豆提供していた。
1軒当たり 20町歩(約20万㎡)の土地をくれると言われ、だまされた。
満州拓殖公社が 中国人の土地を安価で強制的に買い上げ 移民に渡していた。
それを知らない移民だった。

昭和9(1934)年3月1日満州国が満州帝国に生まれ変わった。
溥儀は皇帝になった。(動画あり) ロンパオを着た溥儀が即位式では軍服に着替えた。

溥儀の姪 福永嫮生こせいさん(81歳 、 溥傑と天皇家の縁戚にあたる嵯峨侯爵家の浩の次女・『流転の王妃』著者)は「清朝を復興したいという願望がおありのようで、それでお話に乗ってしまわれた」と語られた。
「だんだんと11年 理想に満ちた思いが 違われてきて 思うところが おありになるかもしれない」

花開く満州国 流線型の「あじあ号」・モダンな建物・ 満州にちなんだ歌

満州鉄道に「あじあ号」(動画あり 観光客集めの動画)
最高時速130キロ、平均時速は70~80キロ程度で、当時の日本の技術で最高水準の高速列車だった。速度を出すための流線形の機関車は新幹線の原型とも言われた。
大連の街の様子…モダンな建物が建っている 国際都市。
奉天は清朝発祥の旧都 …満州の商工業都市の中堅
新京駅… 都市機能を建設中(昭和12年)
ハルビン駅… 近代的な街に

満州にちなんだ歌 ぞくぞく登場
「満州音頭」(S9 作詞:西条八十)
「満州娘」(S12 歌:服部富子) …まっててちょうだいね。
「馬賊の歌」(S12 作曲:古関裕而)
「満州鉄道唱歌」(S14 作曲:古関裕而)
「ハルピン旅情」(S15 歌:東海林太郎)

日本では満州を「理想郷」とうたう ポスターが貼られ移民を促した。
「天は開け 地は闢く 来たれ! 国都大新京へ」

満州に移民した多くの人々

漫画家 ちばてつやさん
生後すぐ一家で奉天へ 6歳の時 満州で終戦
「満州は広くて 寒くて 臭くて 美味しくて 楽しくて 苦しくて。天国と地獄 混沌とした泥濘ぬかるみのようなところでした」と直筆コメント

作詞家 なかにし礼さん
  黒竜江省 牡丹江生まれ 昭和9年に満州に渡り 作り酒屋で大成功 一旗揚げた。

皇帝 溥儀 初来日 異例の待遇で 軍艦比叡で来日、昭和天皇が東京駅で出迎え 街中パレード(動画あり)
著書「わが半生」で「過去の多少の不愉快はすべて自分の誤解のせいなのだと思った」と述べています。帰国後「朕 日本天皇陛下と精神一体の如し」と宣言。
貞明皇太后(大正天皇の妃・昭和天皇の母)が溥儀に同情して優しい態度で接した)

重工業を重点的に育成・満州を動かした 弐キ参スケ

昭和12(1937)年4月 産業開発5カ年計画
約25億円を投じ 鉄鋼・石炭・兵器など重工業を重点的に育成する目的。(日本の国家予算 約28億円)
対ソ線に必要な資源の現地開発と日本の不足資源の供給を図った。(動画あり 鞍山製鉄所など)
満鉄から満業 分業化

弐キ参スケ
満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者、軍事主導で 傀儡化した
・東條英機(キ) …関東軍参謀長
・星野直樹(キ) …満州帝国 国務院総務長官
・鮎川義介(スケ)…満業総裁、日産グループ創設者(日産、日立ほか)
岸信介(言わずとしれた安倍の祖父)… 満州の「工業化」を主導 満州帝国総務庁次長
・松岡洋右(スケ) …満鉄総裁、国連脱退の全権大使

溥儀の後継に 実弟溥傑が皇室の遠縁の嵯峨浩と政略結婚

昭和12(1937)年3月1日 帝位継承法公布 (皇帝の死後 子がいない時は 弟あるいは弟の子が跡を継ぐ)
溥儀 夫妻に跡取りがいなかったので制定

4月3日 溥儀の実弟・溥傑ふけつ嵯峨浩さがひろさんと政略結婚
 溥傑は 日本に留学 陸軍歩兵学校に留学
 嵯峨浩 昭和天皇の遠縁にあたる華族 嵯峨侯爵家の長女
娘 2人誕生 これを聞いた溥儀は「授かったのが女の子だと聞いてホット息をついた」と記しています。

福永嫮生こせいさんは「お見合いの話しが来たとき 母はびっくりいたしました けれども 父の人柄に惹かれて、父は横山大観に絵を習い 母も洋画を習っていたので 親切な父だったので 人柄を考え結婚したと思います」

溥傑は戦後15年収容され 離ればなれでしたが、釈放後に再会 北京で暮らした。
昭和62(1987)年嵯峨浩は北京で死去
福永嫮生「私は ちょっと遅れて報せがあったんですけど、父はびっくりして 落ち込んでおりましたが 冷たい遺体に覆い被さるように 泣き崩れておりました。母は苦労したけれど こんなに愛してもらって どんなに幸せだったろうと 子供心に黙ってみておりました」

国益に沿う啓蒙映画制作する「満映」・スター「李香蘭」こと山口淑子

昭和12(1937)年8月 満州映画協会 「満映」が設立
映画による国民教育の普及 有事の際の思想線用の映画設立
国益に沿う「啓蒙映画」制作
初代理事長 川島芳子の兄 金壁東
昭和14年11月 甘粕正彦 が理事長に

満州映画のスター「李香蘭」こと山口淑子。中国人女優として人気を博した。彼女は、日本人であることを隠し活動してその苦悩を語った。
「迎春花」(動画あり)

「建国神廟」創建
満州国皇帝溥儀は,日本の皇紀2600年のために来日し 満州に天照大神を祀った

太平洋戦争に 関東軍は南方に送られ 男子は根こそぎ徴兵

昭和16(1941)年12月8日
日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃を行いアメリカに宣戦布告。
皇軍に協力 聖業完遂に力を尽くす覚悟であるとしながら、満州帝国は 宣戦布告しなかった

満州の関東軍は、南方の戦線に送り込まれた。そこで満州の日本人の成人男性は根こそぎ徴兵され、留守を守る者は女、子供、老人しかいない状況になっていた。(動画あり 満映通信)

長野県から移民した 名取敬和さんも村から成人男子がいなくなったと 証言。

174万のソ連軍侵攻・溥儀 避難・731部隊いち早く撤退

広島に原爆が落とされた3日後、
昭和20(1945)年8月9日ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し ソ連軍174万人 満州侵攻
(動画あり:ソ連側 …戦車で攻撃、白旗を立てた多くの日本兵の行進、武器を差し出す)
ソ連はヤルタ会談で密約してたので、条約破棄。

総司令部と宮内府を通化(奉天の東側)に移転する命令。皇室御用掛の吉岡溥儀に「自決の準備をして通化へ行け」
8月13日 溥儀夫妻・溥傑一家は新京から通化さらに奥の臨江に逃亡

関東軍防疫給水部(泥水 機械を通すと真水になる業務) 満州第731部隊 約2400名いた。細菌戦の研究・人体での生体実験やっていた?
真っ先に逃げたのは 731部隊、人体実験をしていた資料を焼却 。いち早く列車を準備 釜山に。
石井軍医中将は 研究レポートなどを持ち出した。

それぞれの終戦

8月15日 玉音放送が流れた。
第二次世界大戦において 日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝えた。

満映の崩壊

理事長 甘粕正彦は、この撮影所 誰のものになるにしろ、ここで働いていた中国人が中心になるべきで、そのため機材をしっかり確保することが必要ですと 言い残し 自決

戦後 長春映画製作所になり、現在は映画の博物館になっています。

切り捨てられた満州移民

日本の敗戦が伝わると、それまで抑圧されていた中国人達の怒りが爆発。
その矛先は、満州に取り残された日本人に向かった。(動画あり)

長野県から移民した 名取敬和さんは「殴られなんてもんじゃなく、鉄砲で 日本人が集結している学校や病院に攻めてきました。毎日のように攻めてきて、物資の略奪、人も殺された。地域よっては皆自決するまで追い込まれた」

歌手の加藤登紀子さん(ハルビン生まれ)
うちの姉と兄にはリックサックを背負わさせて、私を背負って両手に布団を1巻き持って 線路の上を歩いた。そのままでは引きずっている荷物がボロボロになるので あなたが歩かなければ死ぬわよといわれ、ほんとに よちよちだけど歩いた とよく話を聞きます。

作家 澤地久枝さんは吉林市で終戦を迎えた。
暴動を中国人が起こして 屋根と柱しかないようになって 身ぐるみはがされた人がいっぱい出た。暴動に対して何も出来なかった。私の親しくしていた友達のお父さんは 吉林の日本人会の代表だった。郊外に連れ出され銃殺されているの。

脚本家 ジェムス三木さん(奉天生まれ)
殺されるのを待っているしかない状況ですよね。日本は関東軍はいない。いても捕まって殺されるという状況で 一般の民家に入って略奪が始まる。ソ連軍の最先頭を切ってくるのは、囚人部隊なんです。手に入れ墨があって 私の家にもピストルを持って ナイフを持って 10代くらいのが入って まず日本人 腕時計とられる。略奪 暴行 強姦があり、若い女の人 皆坊主刈りにして 床下に隠れる。

作詞家 なかにし礼さん(黒竜江省 牡丹江生まれ)
逃げるんだと 皆にも 全部お金を渡すから逃げてくれてことで 我々は軍用列車に潜り込んで脱出するわけですね。ところが 軍用列車だから ソ連軍の攻撃の対象になるんですよ。ソ連軍機がバババババー と来ます。機銃掃射の弾はすごい威力だから 天上やぶって 床板やぶって ダーッと床板にミシン針で縫ったようにつくわけ。それに当たって死ぬんですよ。僕の目の前の人も 頭から血を出して死んでいる。

漫画家 ちばてつや さん
満州の「独特な夕焼け」と 引き揚げ。真っ赤な夕日です。
貨物電車を降ろされた日本人達は 線路ぎわの広い こうりゃん畑の中を 日本へ渡る船が でる港を目指して くる日も くる日も 黙々と歩き続けた記憶があります。

当時満州には 関東軍の兵隊70万、民間人が約155万いたっていわれています。
開拓の人なんかは「自分でかえってこい」といわれて 帰ってくる。
しかし 関東軍の将校達 一部の軍人の高官その家族は さっさと帰ってきましたね。
そういう所が戦争処理の矛盾点としてある。

皇帝溥儀

皇帝溥儀は、臨江の鉱業所の社宅で玉音放送を聞く。
関東軍が日本への亡命を了承
8月18日 皇帝退位決定
亡命ルート 臨江~通化~空路で平壌~東京の予定
通化~奉天で溥儀・溥傑が着いた飛行機から引きずり出され 拘束され 満州の北西の ソ連 チタに連行される。(ソ連側 動画あり)

昭和20年 溥儀・溥傑はソ連軍に拘束され ハバロフスクの収容所に抑留
昭和25年 溥儀・溥傑はじめ旧満州国首脳達は 中国共産党に引き渡し、撫順の戦犯収容所で「再教育」
昭和34年 溥儀が釈放され 一般市民として 北京植物園で働く
昭和35年 溥傑が釈放、翌年家族と再会 北京で暮らす
昭和42(1967)年 溥儀 北京で亡くなる(61歳没)

溥儀が皇帝即位式を行った 宮廷内の建物「勤民楼」の中に、彼がもっともこだわった 皇帝の象徴 玉座がありました。現在この場所は、欺瞞皇宮博物院(長春)という博物館になっています。
満州国ゆかりの建物の案内にはすべて「欺瞞」の文字が付けけられ、満州国は偽物ものであると説明しています。中国は今でも満州国を認めていないのです。

『流転の王妃・最後の皇弟』
「テレビ朝日開局45周年記念ドラマ」2003年11月29.30日放送
中国・清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の実弟・溥傑(竹野内豊)と、その下へ嫁いだ日本の嵯峨侯爵家の娘・浩(常盤貴子)の夫婦愛と苦難の歴史を描く。
北京市の紫禁城で実際にロケ、SARS流行の影響でオープンセットなど国内ロケに変わった。
愛新覚羅顕于:川島芳子(江角マキコ)
甘粕正彦:満州映画協会理事長(竹中直人)
李香蘭:山口淑子(天海祐希)
皇太后節子 貞明皇后 :大正天皇の皇后、昭和天皇の母(草笛光子) がでていました。

17年前になるんでしょうか、『流転の王妃・最後の皇弟』で見ていた話しでは ないかと、
なんとなく 思い出してみました。

感想

溥儀の姪 福永嫮生さん 森山良子のお母さん?と思った位 似ていました(私だけでしょうか)。
清朝最後の皇帝で満州国の皇帝の溥儀を実際に知っている人が こうして生きて話されていることに驚きました。もっともっと お話残してくださいね。
満州の 引き上げ時の話は何度となく ドラマや映画で見てきました。
しかし そこに至るまでの話を聞くのは はじめてでした。
もっと近代史 見ていきたいと思います。

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