GoogleマップでWeb旅行!西遊記★三蔵法師玄奘が巡る シルクロード・インド

西遊記を読んで三蔵法師はどこに行ったか よくわかりませんでした。NHK「玄奘のシルクロード」では 玄奘は許可を得ず出国して追われる身で万里の長城の西端にたどり着きました。
「玄奘とシルクロード: 大唐西域記とその世界 Kindle版」玄奘は唐で仏教を学び終え 高昌で突厥王の強力なバックアップでアフガニスタンの首都カブールの近くのカピーシーへ 、(その先はなく)帰路は活国からパミール高原を越えるルートでした。玄奘の書いた「大唐西域記」を参考に、Prime Video「三蔵法師・玄奘の旅路」映像で見て 砂漠・雪崩の怖さがわかりました。
WOWOW 「Railway Story 鉄道大国・北インド大紀行 Part-3 ブッダの足跡を巡る」で釈迦の聖地を知りました。祇園精舎が出てきてびっくりしました。

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10歳までに読みたい世界名作「西遊記」

字が大きかったので 呉 承恩(作)芝田勝茂(編・訳)Gakken 「西遊記」、意外とこみ入って難しい話でしたのでメモを作りました。

1.石ザル生まれて、王になる
昔々のその昔 世界の真ん中には 須弥山(しゅみさん)、高さは富士山の15万倍 あり、その周りに 東・西・南・北の4つの大陸がありました。
東の海の真ん中に 花果山(かかざん)という山のてっぺんに大きな卵型の石がありました。ある時、いきなり石がパカッと割れて 猿が生まれたのです。石から生まれたので仲間達は「石ザル」と呼びました。この 石ザルが 孫悟空です。
大きな滝があって誰も近づけなかった滝壺の裏に行った石ザルは仲間達の王様になり 四、五百年経った。石ザルは閻魔大王に呼ばれても死なないように 仙人になればいいことを知り 何年も仙人を探し続ける。

2.悟空の修行
菩提祖師という仙人に弟子入りを許され 孫悟空と名付けてもらった。
いろんな術を身につけ 「きんと雲」に乗って空を飛ぶ術も学んだ。技を披露し孫悟空は追い出された。

3.王様の武器
孫悟空が花果山に戻ると 混世魔王が仲間をさらっていたのを助けたので 多くの家来が集まってきた。
海の底の竜宮に行って 両端に金の輪がはめてある 伸縮自在の如意棒(にょいぼう)ハス糸で編んだ靴、鎖編みの金の鎧、鳳の羽を飾った赤銅の冠を差し出させた。

4.斉天大聖と名乗る
斉天大聖(せいてんたいせい)孫悟空 と名乗り、天界も荒らし回った。

5.二郎真君とのたたかい
天界から十万の兵が押し寄せ 天帝の甥 二郎真君(じろうしんくん)が悟空に挑み 互角の戦いを続けた。
太上老君(たいじょうろうくん)という神様が投げた金の腕輪が悟空に当たり捕まり 炉に閉じ込められ7740日煮られたが 悟空は前より鍛えられ 炉から飛び出した。この時の炉の火が 火炎山(かえんざん)になった。

6.お釈迦様のてのひら
天帝は 西天のお釈迦様に助けを求めた。悟空がきんと雲に乗って空を飛んでも お釈迦様の手のひらの中でした。お釈迦様は 悟空を手のひらで地面にたたきつけると、五行山(ごぎょうさん)という大きな山を、その上に置いて 呪文を書いたお札を貼り付けた。「悟空 心を入れ替えるには たくさんお試練を乗り越えなくてはならない。その機会が来るまで待ってなさい」
五行山 とは大理石でできた山脈です。大理石を英語でマーブルということから、別名「マーブルマウンテン」とも呼ばれ 現在のベトナム ダナンにありました。

7.三蔵法師
長い長い年月が経ち 地上の世界は 唐(とう)の時代で、太宗皇帝が 大がかりなお経を読む会を開き たくさんの僧が長安に集まり、その場を仕切っていた 玄奘(げんじょう)という優れた坊さんでした。この人の前にある日、みすぼらしい身なりの観音様が現れ 「西天にたくさんの人を救うお経が3つの蔵にしまわれているので 取りに行きなさい」と告げ消えた。太宗皇帝が「誰か行くものはいないか」というと玄奘が手を上げた。太宗皇帝から「三蔵法師」という名前をもらって ありがたいお経を取りに出発しました。
三蔵法師はつれていたお供がトラに襲われ逃げてしまう。三蔵法師は旅の途中 五行山にさしかかると 山につぶされて動けない悟空が「お助けください」と泣きわめいていた。
孫悟空は 観音様から 「西天にお経を取りに行くお坊さんのお供をしなさい」といわれていた。
三蔵法師が五行山に張り付けてあるお札をはがすと、たちまち山が崩れ、悟空は 三蔵法師の弟子になったのでした。

8.らんぼうな弟子
悟空は馬の手綱を取り 食事を作り 一生懸命 三蔵法師のお世話をしました。悟空は旅人を襲っていたトラを殺して自分の服にしたり 乱暴でした。
あるとき 何百人と殺してきた山賊 6人を悟空が退治すると 三蔵法師にたしなめられると きんと雲に乗っていなくなってしまった。三蔵法師がとぼとぼ 一人歩いて行くと 観音様が現れ 「悟空が戻ってきたら この金の輪を頭にかぶせなさい」といなくなった。
悟空が戻ったので 金の輪を頭につけさせ 三蔵法師が呪文を唱えると、金の輪は頭を締め付け 外れません。悟空は観音様がくれたものと気づいた。

9.三蔵法師の乗りもの
一行が谷川の畔で休んでいると が現れ 馬を飲み込む。悟空は 如意棒で川底の竜をつつき 戦い続けるが逃げられた。竜は観音様が西天は遠いので あそこに放して置いたものでした。観音様が竜を呼び 襲ったのは三蔵法師一行だと教えると 竜は白馬に変わりました。

10.猪八戒と沙悟浄
とある村に着いたとき 村の長者の娘に婿入りした男が しばらくして豚のような顔になり 食べ物を食い尽くし 恐ろしい風や砂嵐を巻き起こすと困っていた。悟空が娘に化け待っていると 豚の妖怪が戻ってきて 九歯のまぐわで戦い 元は天界で天の川を治め 水軍を指揮していたと神だという。観音様に三蔵法師に付いていくよういわれていた。三蔵法師は 猪八戒(ちょはっかい)と名付け 一緒に旅することになった。
やがて一行は 流沙河(りゅうさが)という川幅が400キロもある大きな河にやってきて どう渡ろうか考えていると 水の中から怪物が姿を現した。顔は青黒く 髪はボウボウ 9つのドクロを数珠つなぎにして首にかけて 宝杖(ほうじょう)を持っていた。
「西天にお経を取りに行く」というと 天界で大将をしていた 沙悟浄(さごじょう)でお供したいと申し出る。ドクロをはずし 河に浮かべると船になり、一行は流沙河を渡った。

11.妖怪ストリート
三蔵法師は3人の弟子とともに 西天を目指します。行く手にはたくさんの妖怪がいて 次々と襲ってきた。「三蔵の肉を一口でも食べると不老不死の体になる」という噂が広がっていた。悟空が妖怪だと見抜き退治をすると 三蔵法師はなんということをするのだと怒り 度重なり 猪八戒のヤキモチもあって 三蔵法師は悟空を破門に。悟空は 泣きながら 花果山に戻った。
ところが 三蔵法師は妖怪にさらわれ 残された二人ではどうしようもなく 悟空を迎えに行った。悟空はあっという間に 三蔵法師を助け出した。

12.金角と銀角
平頂山という山に妖怪大王の金角銀角がいて 三蔵の肉を食べたいと思い 待ち伏せして、猪八戒を捕まえ吊した。そして 銀角は 足をくじいたフリをして悟空におぶさると、山を動かす呪文を唱え 須弥山を悟空の背中に乗せました。さらに蛾眉山泰山という中国の有名な山も乗せました。三蔵と沙悟浄も山の洞窟に連れ去り吊した。
金角魔法のひょうたん魔法のビンを「悟空の名前を呼んで やつが返事をすれば吸い込まれるから」と手下に渡します。悟空はやっとの事で山の下から抜け出し 魔法のひょうたんを手に入れます。
そして洞窟に行き「銀角大王!」と呼びかけると「おう!」と返事したら 魔法のひょうたんに吸い込まれていきました。そこで金角も仲間の妖怪を集めて攻めてきたので 悟空達も応戦しました。
悟空は「金角大王!」と呼ぶと 手下が呼んだと思い金角は「おう!」と返事したんです。とたんに 魔法のひょうたんに吸い込まれて行きました。悟空はおまじないの札を貼りました。

13.善財童子
山道を進んでいくと「助けて!」と子供の声。三蔵法師が「助けてあげなさい」といいますが、悟空は「妖怪の声で間違いありません」、三蔵法師は不満そうでした。
まもなく木の上に縛られている子供がいました。三蔵法師が「早く助けなさい」としかり 猪八戒が木から下ろします。盗賊が家族を殺したと聞くと 三蔵法師は「村まで送って助けてあげよう」というので 悟空は 仕方なく 子供を背負いしました。すると 子供に化けた妖怪が 悟空の首に息を吹き付け動けなくしようとしたので 子供を投げつけると あらしを巻き起こします。あらしのすごさに 皆地面にはいつくばりました。あらしがやむと三蔵法師がいません。
地元の山の神に聞くと 「あれは恐るべき紅孩子(こうがいし)という妖怪で 母は羅刹女(らせつにょ)父は牛魔王というらしい」
悟空は 牛魔王とは あばれザルの時兄弟のように仲良かった。紅孩子に三蔵法師を返すよう言っても聞き入れません。悟空が紅孩子と戦うと火と煙を体から吹き出し逃げてしまいます。竜王を連れてきて水をかけてもへこたれません。そこに観音様が「なんとかしましょう」と現れ 海のカメを呼び出し 壺に海の水半分くらい たっぷりと入れてこさせた。観音様がその水を紅孩子にかけ戦うと 疲れた紅孩子がハスの花に休んだとき、観音様の呪文で ハスの花が体に絡みついて 金の腕輪がはめられ やっと観音様のいうことを聞くようになったので 善財童子 という名を与え 仕えることになった。
三蔵法師は観音様に助けられたと聞いて 悟空を疑うことはしないと誓いました。

14.火炎山
一行の旅は続いて 何度目かの秋が過ぎ冬になろうとしていました。ある村につくと みょうに暑いので村人にと尋ねると「この先に火炎山(かえんざん)という山があるから」
穀物を作るとき 水が必要だから どうやって雨を降らせるか尋ねると 「貢ぎ物を 羅刹女(らせつにょ)にささげ 芭蕉扇(ばしょうせん)であおいでもらうと火がおさまり 雨が降る」
悟空が羅刹女の住む洞穴に行くと 羅刹女は「息子の紅孩子を返せ」と芭蕉扇で1あおぎすると、悟空は 何万里も飛ばされた。そこに観音様が現れ どんな風にも動かない丸薬を背中に縫い付けてくれ、「火炎山はおまえが 太上老君の炉から逃げ出すとき落ちた火でできた山です」
悟空が洞窟に戻ると 羅刹女は芭蕉扇をあおりますがびくともしません。小さくなって羅刹女のおなかに入り大暴れすると 芭蕉扇を貸してくれました。ところが ニセモノで それであおぐと、火炎山の炎はますます激しく燃え上がるばかり。

15.牛魔王
今度は夫の牛魔王の所に行くと 「悟空じゃないか。おまえのおかげで息子の紅孩子が大変なことになった」争いになるがなかなか決着が付きません。スキを見て 牛魔王の乗り物を盗み 牛魔王に化け 羅刹女の所に行って 芭蕉扇が無事か確かめると、羅刹女は口から小さな本物を出して 呪文を唱えると大きくなると呪文をいいました。悟空は芭蕉扇を口に入れ外に出て 呪文を唱えると大きくなりました。小さくする呪文が分かりません。
そこに 羅刹女に泣きつかれた牛魔王が 猪八戒に化けてきたので 芭蕉扇を渡してしまいます。
孫悟空と牛魔王のものすごい戦いが始まります。猪八戒と沙悟浄も加わり、さらに土地の神様まで応援に来て、牛魔王にも多くの妖怪の手下がいて 戦いが繰り広げられた。孫悟空と牛魔王の変身合戦が続き ついに牛魔王は白い巨大な牛になり、悟空も巨大なサルになり 戦いは延々とつづきました。天界の神々がやってきて 牛魔王を四方八方をふさぎ 魔法をつかえなくして捕らえました。
牛魔王と羅刹女は芭蕉扇を差し出し 心を入れ替えることを誓った。
悟空は芭蕉扇で火炎山の炎を消しました。元を絶つ方法を羅刹女に聞き 芭蕉扇で 48回続けてあおぐと 火が元から消え雨が降ってきました。 村人は大喜び。三蔵法師を先頭に旅を続けました。

16.ここは西天
三蔵法師が唐を出てから14年 西天に到着した。ここは雲のたなびく空の下に 美しい塔や王宮のようなきらびやかな建物が並んでいた。
門番は一行に 食事を出し お湯で体を清めさせ お釈迦様のいる大雷音寺への道を教えてくれた。
大きな川があり そこに船頭が仏の舟に乗って川を渡っていくと、三蔵法師の元の体が川を流れていきます。三蔵法師は 人間でなくなりました。
大雷音寺でお釈迦様が一行に会いました。周りには 観音様をはじめたくさんの菩薩や仏がいます。
ここには 1万5千巻の経典があるので そこから選んで持ち帰るようにとお釈迦様が言いました。2人の弟子は「みやげがあるだろう」といいます。持ってこなかったが お経は渡してくれましたが、つむじ風で経典がまき上げられ ふと見ると真っ白な経典でした。
もう一度お釈迦様にお願いし 今度は太宗皇帝からいただいた たくはつの鉢をお土産にしました。
5000巻の経典をもらい受け 八大金剛に「唐まで連れて行くよう命じ 経典を収めたら皆ここに連れてきなさい といいました。

17.悟空、仏となる
太宗皇帝が長安の宮殿にいると 三蔵法師達が降り立ち 経典五千巻持ち帰ったことを報告しました。
翌日 お経を読もうとすると「お釈迦様が西天に戻るようにとのことだ」と天の声が聞こえ 空に舞い上がります。
お釈迦様は 三蔵に「人間の身でありながら よくつらい旅を乗り越えた。これからも仏になって 人々のために尽くしなさい」
「悟空には三蔵を助けてよくがんっばった。仏にしてあげよう。猪八戒は仏事のごちそうをきよめる役に、沙悟浄は私のそばにつかえるのです。白馬は竜に生まれ変わりなさい。」
悟空の頭にあった金の輪もなくなっていました。

空旅中国 名僧たちの足跡 「玄奘のシルクロード」

初回放送日: 2022年1月14日
中国の甘州までですが 旅の大変さがイメージできました。
玄奘「西遊記」の主人公 三蔵法師である。7世紀初めに現在の河南省に生まれた。ちょうど隋が倒れ唐が建国した618年 17歳で長安で仏教を学ぶこととなった。しかし唐の都では仏教を学ぶところが無く、各地で仏教を学ぶが、ブッダの生国天竺(インド)で直接仏典を学びたいと思うようになった。
当時、唐は個人が外国に出ることを禁じていたので、やむなく玄奘は秘密裏に長安を出発した。唐の太宗の貞観3年(629年)、玄奘26歳であった。往復 6万キロ 16年の旅だった。

長安の黄河を渡る橋はなく 羊の皮に空気を詰め つないだ筏で渡った。
100mの奇岩が林立する 炳霊(へいれ)石林炳霊はチベット語で十万の仏を意味し、切り立った仏像のような岩山が無数に立っている。近くには 炳霊寺があり断崖に2kmにわたり大小700もの仏が彫られている。旅の安全を祈願しただろう。
チベット族の谷では黒いヤクに出会う。乳はバターになり、毛皮は衣類になった。
過酷な3000mの峠を越え、川をせき止めたダム湖脇にある 匈奴がつくった 天梯山石窟には高さ28mの大仏がある。ダム建設の時 大仏専用の堤防をつくり水没から救った。玄奘が歩いて行った道は水の中に沈んでいます。
蘭州から西側西域と呼ばれる。北西に290kmにある 武威(旧名 涼州)、玄奘は足止めされ 大雲寺で1ヶ月説法を説いた。この寺は1927年大地震で崩壊し今は鐘楼だけが残っている。都に戻るよう説得されたが戻らぬと誓った。しかし 追われる身となった。
さらに西に180km 万里の長城です。玄奘が来る800年前にはつくられていた。のろしを上げる烽火台が見晴らしの良いところに およそ20km毎にあった。長城の宿所に水を汲みに忍び 旅の道標にしていた。昼間は隠れ、夜間に西を目指す。玄奘は見つかると素直に事情を話し守備隊を感服させ、泊めさせてもらい水や食料を持たされ見送られたそうです。

張掖(旧名 甘州)祁連山(きれんざん)の雪どけ水が湧き水となって潤す オアシス。西域の馬は天馬と讃えられ、歴代の皇帝の馬を育てた 広大な軍馬場があった。郊外に丹霞七彩山がある。赤は鉄分、灰は粘土質、黒はマンガンと異なる成分で、太陽光の角度で違って見えた。

遠くインドをめざす玄奘の旅 まだ始まりに過ぎません。

UnsplashLiz Voが撮影した写真

玄奘(三蔵法師)とシルクロード

「玄奘とシルクロード: 大唐西域記とその世界」和 出版 古庄浩明著
西遊記しか知らなかったので 玄奘の旅が実際行われ 記録されていることに驚きました。密出国して こっそり砂漠の旅 かなり厳しかったと思います。僧侶なので特別に大事に扱われ 実現できたと思います。
地名が現在のどこかわからず あちこち見ながらメモにしました。間違いがあるかもしれませんが ご容赦ください。

玄奘(げんじょう)がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機が筆録した「大唐西域記」全12巻は 646年(貞観20年)に書かれている。中央アジアからインドにわたる、玄奘が歴訪した110か国および伝聞した国の状況について記している。本書に基づいて16世紀には、フィクション作品 西遊記が生まれた。
玄奘は 純粋に仏教の真理を求めての旅ですが、彼の知識は先進国の唐の大切な情報で、行く 先々の国の王にとって唐との関係を取り持つ上で役に立ったと思われます。また仏教という統一的価値観は彼の旅を助けることになった。

プロローグ

太宗 李世民は、父李淵(高祖)に勧めて挙兵し、唐の建国に功績があった。第2子であったが、兄の李建成を殺害し、父の高祖を幽閉して第2代の皇帝太宗となった。国政の充実を図り軍事力を強化し 貞観3年には突厥討伐を実施している。到底 玄奘の出国は認められず 命がけの密出国になった。
長安~秦州~蘭州
武威(旧名 涼州)では1ヶ月滞在 講義をして多くの人々から貢ぎ物が贈られている。チベットや東トルキスタンの商人はこの講義を聴いて 玄奘の素晴らしさを各地に広めた。このことが玄奘の旅を助けることになります。都督は出国を認めなかったが 領袖恵威法師は弟子2人をつけ送り出してくれた。

瓜州(かしゅう) 馬が死にまた1ヶ月滞在、そのうち涼州から手配書が届く、しかし役人は逃がしてくれます。付けてもらった弟子2人と別れ 宿泊した寺で知り合った胡人(そどく)の石槃陀(せきばんだ)と出発、石槃陀が連れてきた老人の老馬と交換しますが、玉門関に続く川を越えたあたりで 石槃陀が心変わりして 命を狙ってきます。翌朝 石槃陀と別れ、ひとり第一烽に着いた。校尉の王祥は第四烽に行くよう教えた。第四烽から野馬泉(やばせん)へ向かうが 道に迷ってしまい 観世音菩薩の慈悲で草原で水にありつき、流砂を抜けることができた。まもなく 伊吾哈密(はみ/クムル)に至った。
伊吾王は玄奘を王宮に招き歓待、そこに高昌王麹文秦(きくぶんたいの使者がいた。

高昌王に招かれ 高昌(現在の吐魯番 トルファン)に行き 歓待を受け 留まるよう勧められるが 帰路 滞在することを条件に出発を認めた。 高昌王は 往復20年の旅費を与え 西突厥(とっけつ)葉護可汗(ヤブクカガン)の衙帳(がちょう)に道案内をさせることにし、諸国24国への書状をもたせた。この高昌の厚遇が玄奘の天竺への旅が成功につながった。 高昌故城は世界遺産登録されている。

突厥

突厥はモンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民。552年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設。西ではササン朝ペルシア、東では隋・唐帝国と同時期であった。583年に東西に分裂し、東突厥は隋末の混乱に介入 唐の建国を支援したが、太宗の全国統一後は降伏。682年復興した。
西突厥は中央アジア西方のオアシス地帯であるトルキスタン地域を支配した。
7世紀前半、唐の玄奘がインドに赴く途中、西突厥の都 砕葉(スーイ・アーブ)で、時のトンヤブグウ=カガン(統葉護可汗)の歓待を受けたことが『大唐西域記』に描かれている。
唐の太宗が630年に東突厥を滅ぼしてから、唐は西突厥から奪ったトルファン(高昌国)などに州を置いて直接統治を行い さらに西進して西突厥に迫った。西突厥には内乱が起き 657年に高宗が派遣した唐の将軍蘇定方によって沙鉢羅可汗が捕らえられ、実質的には滅亡した。西突厥の地は、7世紀末になると、その支配下にあったトルコ系部族のキルギスが自立し、代わって勢力を強めることとなる。

西域へ 中央アジア 往路

阿耆尼(あぐに/現在の焉耆回族自治県)高昌と仲が悪かったので素通りになった。

屈支国(クチャ、現在の亀茲王が群臣と大徳僧木叉毬多(モークシャ グプタ)らと出迎えてくれた。グプタはインドに20年遊学していてクチャの人びとがみな彼を崇拝していた。近くに新疆最大のキジル石窟や世界遺産のスバシ故城が残っている。

跋禄迦(パルカ)国(現 温宿(アクス))に一泊 、凌山ペダル峠を越え(現在の キルギスに入る)
大清地イシック・クル湖)を経て
素葉(スイアプ)城(現 トクマク/ビシュケクの東)に到着。突厥(とっけつ)葉護可汗(ヤプク カガン)に会った。ゾロアスター教徒ですが、可汗のテントに案内され 高昌からの書状 贈り物を届けると 宴会が開かれ 歓待を受ける。
可汗は歓喜して玄奘の説いた教えを受け、これから行くインドは暑く病になるので止めるよう勧めるが玄奘の意思は硬かった。可汗は、諸国への通知書を作り、通訳に玄奘を迦畢試(カピシーまで送らせた。アクべシム遺跡(素葉城)やクラスナヤ・レチカ遺跡(葉護可汗を倒した王の新城)が世界遺産になっている。

西に進み(現在の カザフスタンに入る) 千泉(西トルクメニスタンのメルケの付近)数百里にわたり、沼や池が多く 森が深く涼しいところで、ここは可汗の避暑地になっていた。
さらに西に向かい タラス、また、西南へ向かい白水城(アクス)シムケント を通過。

(現在の ウズベキスタンに入る)
西トルキスタンの赭時国(タシケント) 現在地でなく カンカ遺跡オールドタシケントといわれる。

タジキスタン シャフリスタン、ブンジカット遺跡 を経て
ウズベキスタン 颯秣建国サマルカンド)中央アジアの中心都市ゾロアスター教が信仰されていた。オアシス毎に国があった。サマルカンドは古くより ソグディアナ(イラン系民族ソグド人で国際的商人)の盟主で影響力があった。西突厥は東方よりやってきて 武力でこの地域を押さえた異民族の宗主国だった。玄奘が当時訪れたのは 今 アフラシアブの丘と呼ばれる遺跡だった。

西に行けば捕喝国ブハラ)がある。
南に向かい 羯霜那国シャフリ・サブズ)、グザルを通過し 鉄門へ、鉄色の崖に囲まれた 谷の細い道 かつて門に 多くの鉄の鈴が掛かっていた。

鉄門を過ぎると 覩貨邏国(トカラ/バクトリア) で二十七国に分かれている。(東はパミールから西はペルシアまで,北は鉄門から南はヒンドゥークシ山脈までの間の地方)

呾蜜国
テルメズ)はアム・ダリア川沿いの街で川向こうはアフガニスタンです。アレクサンドロス大王の東征でアフガニスタンへの渡河地点の1つ、ソ連のアフガン侵攻もここから侵入した。カラ・テパの遺跡オールドテルメズです。近くのファイアズ・テパの遺跡はユネスコの日本基金で保存修復を行った。

赤鄂衍那国は現 デナウ ハルチャヤン にある ハナカ・テパ遺跡、カラバク・テパ遺跡
愉漫国(シュマン)はタジキスタンの首都 ドゥシャンベ

(現在の アフガニスタンに入る)
クンドゥーズには西突厥 統葉護可汗の長男咀度設(タルドゥ・シャド)と、嫁いだ高昌国 麴文泰の妹の聟(セイ)がいました。しかし聟は亡くなっており、咀度設も病気で伏せっていた。玄奘は預かってきた手紙を渡します。丁度インドから来ていた僧が王のために呪文を唱えると咀度設の病気は治り 若い妃を娶りますが、彼女は王の長男と結託して薬を盛り咀度設を殺害。長男は即位して欲谷設(ユクク・シャド)と名乗り彼女を妻としました。聟の子はまだ幼少だった。
玄奘は婆羅門国(インド)へ向かおうとしますが、欲谷設は 西の縛喝国へ向かうことを勧めます。

縛喝国(バクトラ/バルフ)は小王舎城とも呼ばれ、仏教伽藍も多く、三千人もの僧侶が小乗仏教を学んでいました。若くして仏教の奥義を極め その名声は広くインドに知れ渡っている プラジュニャーカラ(慧性法師)と出会い、一ヶ月余り滞在します。
当時、バクトラ国の西南には鋭末陀(ユマダ)・胡寔健(グーズガン)があったので赴きました。
バクトラから 慧性法師と共に 南に向かい 巨大な大雪山(ヒンドゥークシ山脈)を越えてバーミアンに向かいます。

梵衍那国(バーミアンは東西二千余里の雪中の中にあり、その道路は氷河や砂漠よりもはるかに危険なものでした。雲は垂れ込めて雪が降りしきり、少しも晴れたことがありませんでした。
二体の大仏は金色に輝き、王城や伽藍が甍を連ねていて 300mもの巨大な涅槃像があったと記されていた。
標高2500mほどの山岳地帯にある渓谷 バーミヤーン谷の北側の大崖に 美しい壁画で彩られた無数の仏教石窟とともに2体の大仏が穿たれていた。5世紀から6世紀にかけて建立されたと考えられ 東大仏の大きさは38m、西大仏は55mあった。玄奘が訪れた頃は 仏教の一大拠点でした。
しかし2001年3月タリバンによって大仏と壁画が破壊され 危険にさらされている世界文化遺産に指定されている。

再び玄奘は慧性法師に導かれ、ゴルハンド川に沿ってを東進 標高3000メートルのシバル峠を越える。
迦畢試国カピーシーはカーブルから北へ約70kmのパンジシル川ゴンバンド川が合流する地点にある城郭都市バグラームのことです。玄奘は「サフランなどの珍しいものが集まっている」と書いており、シルクロードの主要都市であった。フェルト製の服や貨幣にも言及していた。多くの寺院が集まり大乗仏教を学習していた。
『大唐西域記』巻第一は迦畢試国で終わります。

北インドへ

(現在の アフガニスタン)
カピーシーから東南へ 濫波(ランパカ)国(現在のラムガーン
那掲羅喝(ナガラハーラ)国(北インドの境 城は現在のジャララバード)、ハイバル峠を越え
(現在の パキスタン)

健陀邏(ガンダーラ東はインダス河に臨み 城は布路沙布羅(プルシャプラ)(現在のペシャワール

迦湿弥羅(カシュミーラ)カシミール (現在の中心地シュリーナガル)はインド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域で、養蚕 羊毛工業が行なわれ、カシミア織が有名です。
アショーカ王(阿育王) は紀元前3世紀 マウリヤ朝第3代の王で インドの南端を除いて 集権的統一国家を建設した。都城は西方は大河に臨み、伽藍100カ所、僧も5000余人いて ストゥーパは4基あった。仏教のダルマ(法)に基づく統治を理想とし その詔勅を各地の磨崖や石柱に刻んだ(アショーカ王石柱)。
玄奘はこの国の僧称法師の講義を受け 丸二年間もろもろの経論を学んだ。阿育王は仏典結集(けつじゅう)を行い 仏教の保護と伝道に努めた。

帰国の決意

西突厥は兄弟で争い イリ川を境として二分して統治、その後も西突厥は混乱の中にありました。また、帰路に立ち寄ることを約束した高昌国も貞観14年(640年)に滅亡していました。経典など多くの荷物を運んでいた玄奘は、往路を戻ることはかなわず、活国からパミール高原を越えるルートをとることになります。
 
玄奘は復路でも インドのヴィーラシャナ国闍爛達羅(ジャーランダラ)国スインハプラ国タクシラー国 などを訪れました。インダス川では船が転覆しそうになり、経本五十夾とインドの草花の種子が流されてしまいます。このときカピーシー国の王が対岸のウダカカンダ城に来てた。その後、カピーシー国王とともに藍波(ランパ)伐刺拏(ヴァラナ)国、釈迦が説法したという伝説の地に別れを告げ、インドを後にした。

復路 活国からパミール高原を越えてカシュガルへ

(現在の アフガニスタン)
漕矩吒(ジャーグダ)国から始まります。都は鶴悉那(ガズナ・ガズニ, 現在のガズニー)です。
北に進んで、弗栗恃薩儻那(ヴリジスターナ)国につきました。都は現在のカーブル
往路の最後に記された迦畢試(カピーシー)国へ行き、ヒンドゥークシ山脈を北に進みます。このときの一行は7人の僧侶、20余人の雇人、象1頭、駱駝10頭、馬4頭だったと記されています。
 一行は、突厥の属国の安呾羅縛国(アンダラーバ)闊悉多国(カスタ)を経て、そして活国クンドゥーズへ到着しました。活国では、統葉護可汗の孫の欲谷設葉護(ヤクブ)を名乗っていた。

玄奘は活国からパミール高原を越えてカシュガルに下るルートを選びます。
葉護が付けてくれた護衛や同行の商隊とともに 呬摩呾羅国(ヒーマタラ)に着きます。呬摩呾羅国の既婚女性は角のついた帽子をかぶっており、夫の父母が亡くなると片方取り去り二人とも亡くなると帽子をかぶらなくなる風習があった。
雪と寒さのため玄奘は鉢鐸創那国(バダクシャーナバダフシャーン)で一ヶ月を過ごしました。
その後、淫薄健国(ヤンバガーン)屈浪拏国(クラーンナ、倶蘭)達摩悉鉄帝国(ダルマスティティ、護蜜)は現在のワハンで、青い目の住人がいることや 岩壁を切り開いて寺を造り 仏像を刻んでいると記されています。
パミール高原は荒涼とした荒れ地で、大龍池(ヴィクトリア湖)について記しています。
朅槃陀国(カルバンダ)現在のタシュクルガンに到着します。10余箇所の伽藍に500余の僧侶がいたと記されています。タシュクルガンはタジク族の町でパミール高原にあり、中国の西端になります。ここにある石頭城に
玄奘は盗賊に襲われ 象を失いながらも烏鎩国(ウサー)から佉沙国(カーシャ、疏勒、現在のカシュガル)に。佉沙国にはクチャと同じような 幼児の頭を押さえつけて扁平にする風俗があった。
斫句迦国(チャクカ、朱居、朱倶波、現在のカルガリック付近)を通り、
瞿薩旦那国(ゴースターナ、于闐、現在のホータン)に到着しました。
古代からヒスイの貿易があった。大乗仏教の中心地のひとつでしたが、10世紀末、カラ・ハン国に占領されると、王自身もイスラム教に改宗しました。麻射伽藍は中国から娶った先王の妃が密かに桑や蚕をもたらしたのを記念して建立したものでした。

嫓摩( ビーマ)城 病人が金箔を自分の患部と同じ場所にはると治る仏像 があった。
尼攘ニヤ)ニヤより先は大流砂となっており、人馬の遺骨を目標としてすすみました。
チャルチェン(且末)、チャルクリク(若羌)、ミーラン(米蘭)峠を越えて敦煌に戻りました。

玄奘は、ホータンから上奏文を太宗に送り、帰国の勅許を請うたのでした。
太宗は沿道の諸国に送迎に不自由のないように命じて、敦煌(とんこう)の役人に流砂に出迎えるように命じたのでした。

北インドで釈迦の足跡を巡る

WOWOW 「Railway Story 鉄道大国・北インド大紀行 Part-3 ブッダの足跡を巡る」(2010年)

「釈尊生誕の地」ネパール ルンビニカピラ城。紀元前5~7世紀 ヒマラヤの南麓の地で シャカ族スッドータナ王(浄飯王)の待望の長子として誕生されました。
マヤ夫人はある夜、蓮の花を捧げ持った白い象が湖で沐浴をしている自分の右脇腹から胎内に入る夢を見ます。 そして懐妊。出産が近づき、実家へ戻る途中、立ち寄ったルンビニ園で釈尊が誕生されたといわれています。母マヤ夫人を誕生すぐに失い、母の妹の手で育てられ、父の庇護のもと裕福な暮らしをしていた。長じて結婚しラーフラという息子が誕生している。「マーカーストーン(石碑)」と「アショカ王柱」がある。釈迦は29才の時 出家 6年の苦行の末 悟りを開いた。

サールナート(鹿野苑)仏教遺跡は かつて苦行を共にした5人の修行者に釈迦が初めて説法したところダメーク・ストゥーパ(仏塔)が残っている。お釈迦様が説法をされることを法の輪を転じられることから「転法輪」といい、初めて説法をされた聖地で「初転法輪の地」といわれています。
ムーラガンダークティー寺院には 日本画家 野生司香雪(のーすこうせつ)が「ブッダの生涯」を描き遺している。

「成道の地」ガヤー
セーナーで、6年もの厳しい苦行により痩せ細った釈迦は 村娘スジャータ乳粥を布施を受け入れた。これを見ていた 5人の家来は堕落したと見捨てた。食べ物を口にした釈迦は「大切なのは極度の自己放縦でも苦行でもなく、中道をとることである」という至高の真理を悟られたと言われています。そのスジャータ寺院は 当時を偲ばせる。
その後、ナイランジャナー川(尼蓮禅河)を渡り、菩提樹の下で7日間の瞑想の末、“成道”の境地まで達せられました。ブッダガヤーは仏教徒にとって重要な聖地です。菩提樹台座(金剛宝座)を祀るのが大菩提(マハボディ)寺です。紀元前3世紀のアショカ王の頃に最初の祠堂が建てられ、現在の形となったのは4世紀以降で 玄奘三蔵法師も訪れています。日本をはじめ各国の寺院が周りに建てられています。たまたま ダライ・ラマの後継に指名されたといわれるカルマパ17世がカンボジアの仏教徒に囲まれていた。

ナランダにあるナランダ大学は、玄奘の最終目的地 ナーランダ僧院の跡です。 5世紀に創建されてから12世紀にイスラム教徒に破壊されるまで、仏教研究・教学の中心地でした。往時には9百万の書物、1万人の学僧がいたと言われています。学長シーラバトラ(戒賢)は、ある時『中国から1人の求道僧がやってくる。その求道僧にはきっちりと教えなくてはならない』と夢でお告げを受けました。玄奘は 5年間 戒賢の教えを受け 多くの仏典を持ち帰った。

王舎城(ラージギール) マガダ王の王舎城の城壁跡が残る。五つの山に囲まれた盆地にある 堅固な要塞でした。東南の面には釈迦が頂で瞑想したとされる霊鷲山(グリッダクータ山)があります。
「あかつきの参拝」として信者を集め 日本人の姿もあった。
温泉精舎のラクシュミー・ナラヤン寺院今はヒンズー教徒が身を清める場所となっていた。

急行列車チャンバル・エクスプレスに乗車し インド第3の都市コルカタ(旧 カルカッタ)へ。

夏の逗留地 祇園精舎(シュラワスティ)
平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で知られる精舎(建物)は、コーサラ国の豪商スダッタが この国の祇陀太子所有の土地に金貨を敷き詰めて購入し、お釈迦様に寄進した修行場です。お釈迦様は夏の時期に、雨安吾(うあんご・夏の修行)として過ごされ。香堂や井戸の遺跡が残ります。北東にコーサラ国の都が置かれたマヘット(舎衛城)跡がある。

「涅槃(入滅)の地」クシナガラ(クシナーラー)は釈迦がが侍者アーナンダにみとられて、沙羅双樹の間に横たわられて亡くなられた地。

世界遺産 時を刻む ★選 トルコ 天才が創り出した神秘 匠

■ 世界遺産「カジュラーホの建造物群」インド
寺院の壁面にある無数の浮き彫り装飾が有名な寺院群で 愛し合う男女が印象的です。

■ 世界遺産「タージ・マハル」インド
北部のアーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルの墓廟です。総大理石の白亜の廟は、インド・イスラム文化の代表的な建築物です。