GoogleマップでWeb旅行!中東 エルサレム・ペトラ

3つの聖地が共存している エルサレム すごいところだなと 見てみるとパレスチナのこと複雑怪奇で ニュースで見ていても よくわからず 備忘メモ作りました。

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ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地 エルサレム

イスラエルの 約1km四方の城壁で囲まれたエルサレム旧市街には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの聖地が共存しています。「エルサレム旧市街とその城壁」として世界遺産に登録されており、世界中から多くの巡礼者や観光客が訪れています。

ユダヤ教のエルサレム … 選ばれしユダヤ人

地中海死海ヨルダン川にはさまれた地域は、パレスチナ地方と呼ばれていた。
アブラハムという男はある日 神から幼い息子を生贄にささげるよう お告げがあり、神の指定した丘の上に祭壇をつくり、息子に向かって刀をふりおろそうとしました。
そのとき神が 息子の代わりに 生贄用の羊を渡し アブラハムと子孫にこの地を与える約束しました。
この地がエルサレムで、アブラハムの子孫たちがユダヤ人となりました。

時が経ち ユダヤ人たちはエジプトで奴隷生活を送っていました。
紀元前13世紀、ユダヤ人たちはモーセにひきいられ エジプトを脱出 神がアブラハムの子孫に与えた約束の土地 パレスチナに到着し パレスチナにいた人々を平定して 定住します。
紀元前1000年ころ、ダビデという英雄があらわれ、12部族にわかれていたユダヤ人を統一し、パレスチナに王国をつくり 首都をエルサレムにさだめた。この時代の遺跡が「ダビデの町国立公園」として残っています。
つづくソロモン王は、アブラハムが息子を神にささげようとした エルサレムの丘に神殿を築きました。(神殿の丘)
ソロモン王の死後 王国は南北に分裂 北の王国は前722年に滅亡、南のユダ王国も前586年 バビロニアによって滅ぶ。バビロニア国王は、ユダヤ人たちをバビロン捕囚。捕らわれの身となったユダヤ人たちは 自分たちの宗教を見直し ユダヤ教が誕生
タナハ」とよばれる聖典で アブラハムモーセなど神と契約した者を預言者と呼ぶ。
紀元前538年、バビロンから解放され パレスチナにもどり、破壊されたエルサレムの神殿を再建します。そして神ヤハウェを信じ戒律を守る人だけが、最後の審判の日に救われると説きました。
オリーブ山に ユダヤ人墓地がつくられました。
その後、ユダヤ人たちはいろいろな王朝に支配されますが、かたくなにユダヤ教を信じました。
またユダヤ人は商売上手だったため地中海各地で、商工業や金融業で成功。
前167年には、セレウコス朝シリアの王がエルサレムの神殿に異教の神を祭り ユダヤ人たちは反乱をおこし 21年後にハスモン朝という王国をつくりました。
前63年ローマはハスモン朝をほろぼし、パレスチナはローマの属州になります。
ローマは他民族に対してとても寛容でした。
前37年からユダヤ社会のトップになったヘロデ王のもとで、エルサレムはますます繁栄し 神殿を大改修して壁もつくったり ダビデの塔をつくったりしました。
しかしユダヤ人たちはローマ社会に溶けこまず 反発をつよめていきます。
66年 ユダヤ教徒の過激派が反乱をおこすと、ローマ軍に鎮圧され 神殿は西壁をのこして消失。
その後もユダヤ教徒はたびたび反乱をおこし、134年ローマ皇帝ハドリアヌスユダヤ教徒のエルサレム立入禁止を命じ ユダヤ人たちは世界中に離散させられました。
3世紀にはエルサレム立入がゆるされますが、神殿の丘へは出入り禁止でした。
ユダヤ人たちはかつての神殿をしのび、唯一のこった西壁の前(嘆きの壁)で祈りをささげました。いまでもユダヤ信仰の中心となっています。

キリスト教のエルサレム…信じる人は救われる たとえユダヤ人でなくとも

ローマに虐げられていた 紀元前1世紀のエルサレム、アンナというユダヤ人から 娘マリアが生まれました。マリアは 処女のまま子を宿し イエスが誕生。
イエスは上層ユダヤ教徒の堕落を批判していきます。イエスの祖母アンナをまつった「聖アンナ教会」には、イエスが病人を癒したとされる池が残っています。
イエスは多くの人々から慕われ 救世主(キリスト)と呼ばれます。
30年ころ ユダヤ教団は 彼を死刑にすると決めます。イエスはエルサレムで弟子たちと最後の晩餐をし オリーブ山のふもと ゲッセマネの園で「弟子たちは皆、私につまずくであろう」と予言しました。ペテロに対しては「にわとりが鳴く前に 三度私を知らないと言うだろう」と伝えます。
翌朝、ユダヤ祭司のもとへ連行され 裁判をうけます。弟子のペテロは 自分にまで罪がおよぶことをおそれ イエスなど知らないと三度ウソをつきます。その直後 鶏が鳴きました。イエスが裁判をうけた祭司の邸宅は 鶏鳴教会 として残っています。
死刑判決をうけたイエスが 処刑場所まで十字架を背負って 歩いた道が ヴィア=ドロローサ(苦難の道)ゴルゴタの丘という処刑場所につくと イエスは十字架に張りつけにされ殺されました。

イエスの死後 弟子たちがイエスの教えを伝え キリスト教として成立したのです。
キリスト教徒はユダヤ教徒とおなじく、ローマ社会に染まらなかったので、たびたび迫害をうける。
4世紀には地中海中にキリスト教徒がいるようになりました。
301年 黒海の南東にあるアルメニア王国が史上はじめてキリスト教を国教とします。
313年 ローマ皇帝コンスタンティヌスが キリスト教を公認しました。
320年 コンスタンティヌスの母は熱心なキリスト教徒で エルサレムを訪れて イエスの墓を見つけだし そこに 聖墳墓教会が建てられ キリスト教にとっても聖地となった。
キリスト教はユダヤ教とちがって 戒律もゆるやかで 布教にも熱心、なにより身分や民族に関係なくだれでも入信することができ キリスト教は地域や民族をこえて広がりました。
教義をまとめるため 生まれたのが 新約聖書新約とはイエス=キリストが神と新たに契約した という意味です。
392年 ローマ帝国がキリスト教を国教化
395年 ローマ帝国が東西に分裂、パレスチナ一帯は東ローマ帝国の管轄になりました。
この間 エルサレムはキリスト教の聖地として 多くのキリスト教徒が訪れた。
キリスト教のほうが後ろ盾をもっていたので、ユダヤ人への差別・迫害強まる

イスラム教は…エルサレムの岩の上から天国に、神はアッラーのみ

神は、まずユダヤ人にその言葉を伝えましたが(旧約聖書) ユダヤ人たちは神の教えを守っていないということで、続いてイエス(キリスト教)を通じて神の言葉を伝えました(新約聖書)。
しかし、それでもなお人々は神の教えを守っていないとし、神の言葉を伝える最後の預言者として選ばれたのがムハンマドなのです。
ムハンマドは紅海沿岸で 東西の中継貿易で栄えていた メッカの名門の一族で 商人として暮らしていました。40歳のときに突然 天使ガブリエルによる啓示を受け、預言者として神からのメッセージを人々へ伝えていくことを決意し イスラム教を創始します。
当時のアラブ人たちは多神教を信じていたので、ムハンマドの教えは理解されず 反発され 圧力をかけられ 迫害されました。
621年には育ての親である叔父と最愛の妻をあいついで亡くし、どん底にいたムハンマドはある夜、大天使ガブリエルに導かれ、天馬にまたがってある場所に飛来する夢を見ました。彼が着地した場所がこの岩の上でした。ひざまずいて祈ったあと、ムハンマドはその岩から光のはしごを昇って天国に行き、アッラーの御座にひれ伏しました。その後、はしごを下りて岩に立ち、天馬にまたがりメッカに戻ったところで目を覚まします。

実は「聖なる岩」は アブラハムが息子の神のために捧げようとする台とされ ユダヤ教にとって聖なる場所。そしてソロモン王はこの岩のある場所にエルサレム神殿を建設。金色の巨大なドーム「岩のドーム」はもともと礼拝所ではなく、巨大な「聖なる岩」を覆う目的で建てられた。アル=アクサー・モスクも 重要なイスラム建築です。

イスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとして 偶像崇拝を禁止した。 このため イスラム教では 神の像は無い。また神の前に人々は平等であると説いた。イスラム教の経典は『コーラン』と言う。
ムハンマドの教えは 迫害され 逃れるため メディナに移住した。教えを広めるため軍を組織し 軍事力でメッカを奪い返した。その後 アラビア半島の諸国は統一されていき イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。

イスラム教は みずからを ユダヤ教やキリスト教の後継者だと考えていたので ユダヤ教徒やキリスト教徒は反発しました。とくにキリスト教徒は エルサレムへの立入を禁止されていたため、よけいに反発を強めていました。
1099年 第1回十字軍がエルサレムになだれこみ イスラム教徒とユダヤ教徒を虐殺します。
十字軍はこの地にエルサレム王国をつくり、イスラム教徒とユダヤ教徒を市内から追放しました。

1187年 イスラムの武将サラディンによってエルサレムを奪還。ここから700年あまり、エルサレムの街はイスラム支配下でした。
16世紀には、オスマン帝国というトルコ人のイスラム王朝がパレスチナを支配し エルサレム市街を囲む城壁がつくられた。これに 古くからイスラム教徒であるアラブ人たちは反発していきます。
19世紀にはイギリス、フランス、ロシアの3国が強くなり、オスマン帝国の領土をすこしずつ奪っていきました。
ユダヤ人たちは134年の離散からずっと 世界各地に散らばって コミュニティをつくり シナゴーグとよばれる会堂に集い暮らした。異国に染まらないユダヤ人は各地で迫害をうけましたが、それに耐え商売や科学分野で活躍する人も出ました。

1896年、ハンガリーのヘルツルというユダヤ人が『ユダヤ人国家』という本を出版して、祖国をつくろうと呼びかけます。これに応じ 何十万人というユダヤ人がパレスチナへと移住しました。
聖地エルサレムも人口が増え 市街地が西へ大きく拡大されました。ユダヤ人の帰還は シオニズム と呼ばれた。ヘルツルの丘には ユダヤ人の共同墓地がつくられました。

イスラエルというユダヤ人の国と将来パレスチナ人の国家になりたい地域

1914年から第一次世界大戦がはじまります。
イギリス三枚舌外交に パレスチナ問題が起因します。それはアラブ人の独立を認めた協定、オスマン・トルコ領を分割し パレスチナを国際管理下に置く(フランスと中東を分割支配)とした協定、そしてユダヤ人の国家建設を認めた協定。
ナチス・ドイツによるホロコーストで600万人のユダヤ人が殺害されました。
第一次世界大戦後 アラブ人が ユダヤ人の国家建設の撤回を求める間に ユダヤ人は着々と入植。
第二次世界大戦後 1948年 ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言します。ローマ皇帝ハドリアヌスに離散させられてから、実に1800年ぶりの祖国誕生でした。
アラブ人たちはこれに反発します。人口ではアラブ人のほうが2倍も多いのに、土地の面積はユダヤのほうが上、しかもアラブ側には飛び地があったからです。イスラエル対アラブ国家の第1次中東戦争がはじまり イスラエル側が勝利します。
イスラエルはパレスチナの8割以上を占領し エルサレムの西半分を支配、東半分はヨルダンの支配となり エルサレムは東西に分かれました。この戦争で200以上のアラブ人の村が焼かれ 70万人以上のパレスチナ難民が発生しました。
1956年にはイスラエル対エジプトの第2次中東戦争がおこりました。
1967年にはイスラエル対アラブ諸国第3次中東戦争がおこり、イスラエルの電撃作戦で わずか6日間で終結します。この戦争によって、イスラエルは飛び地だったガザ地区と、シリアゴラン高原と、エジプトシナイ半島と、ヨルダン川西岸と、そして東エルサレムを占領します。
それからイスラエルは、エルサレムを首都と宣言します。しかし国際社会はこの占領を認めませんでした。いまでも各国の大使館がエルサレムでなくテルアビブに置かれているのはこういうわけです。
イスラエルは占領した地域にたくさんのユダヤ人を移り住ませ、既成事実にしようとしました。

1973年第4次中東戦争ではイスラエルを支援するアメリカなどに打撃をあたえるため、アラブ諸国は石油の値段をつり上げオイルショックが起こった。
その後、イスラエルはヨルダン川西岸ガザ地区などから撤退したが、東エルサレムの実効支配はいまでもつづけています。
そしてアラブ側はこれ以降、国家でなく、パレスチナ内のアラブ人組織がイスラエルと対決するようになりました。
パレスチナ解放機構(PLO)ガザ地区のハマースと、イスラエルとのあいだで、戦闘したり和平したりをいまでもくりかえしています。
1993年オスロ合意によりパレスチナの暫定自治が始まるが 双方の武力衝突が頻発。
2000年のちのイスラエル首相シャロンが護衛1000人をひきつれ エルサレムの岩のドームに入り、「エルサレムはすべてイスラエルのものだ」と宣言します。これにアラブ人たちが怒って、武装蜂起し暴力の応酬が始まりました。 イスラエルの街中では、バスが吹き飛ばされるような爆弾テロが起きるようになり, イスラエルはパレスチナの過激派の拠点を空爆します。
シャロン氏はヨルダン川西岸の境界に食い込むように分離壁を テロリストに備えイスラエル側に高さは 最も高いところで8メートル 全長は700キロ以上建てた。

2017年トランプ米大統領は「エルサレムをイスラエルの首都と公式に認める」と宣言し、大使館をテルアビブから移転するよう指示した。それは 19世紀にアメリカに移り住んだユダヤ人が金融で成功し、アメリカ経済で強い影響を持ったからです。

現在 500万人の住むパレスチナは分裂し イスラエルとの共存を目指すヨルダン川西岸と、共存を否定する政党のハマースが住むガザ地区に分かれて パレスチナ問題は泥沼と化しています。

英雄たちの選択スペシャル ローマ帝国 VS 驚異の砂漠都市(ペトラ) 幻の王国のサバイバル戦略

NHK BSP 2019年5月 初回放送
謎の砂漠都市 ペトラ中東のヨルダンにある遺跡で、ギリシャ語でを意味する。
砂岩をくり抜いて造られた遺跡群に到達するには、断崖絶壁に囲まれた シークと呼ばれる 1.2キロの一本道を通らねばなりません。両側の断崖 高いところで80mもあり 岩の裂け目にできた細い道を通り抜けると 玄関口は 映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」に出てくる 宝物殿エルカズネ。バラ色の高さ40mもある 部屋は砂岩の岩盤をくりぬいて作られて、ここで祭祀が行われていたと考えられる。ヘレニズム様式の傑作と言われる ギリシャ神話 や古代エジプトの神々の彫刻があり 世界遺産に登録されています。
さらに奧へ進むと、古代メソポタミアの影響を受けた階段状のモチーフのある 王家の墓と呼ばれる岩窟墳墓群が建ち並ぶ。4000人収容できる円形劇場をはじめとするローマ遺跡が現れる。開けている一帯が町の中心部で かつて2~3万人が暮らしていた。発掘はまだ進んでいない。
その先に 山と一体となった大神殿。 そこには巨大プール・噴水があったとことがわかって来た。

2000年前 ペトラに住んでいたのは 砂漠の遊牧民 ナバタイ人ナバテア王国を築いた。
およそ100キロ先の死海の底から浮かんでくる レキ青と呼ばれる 石油由来の天然のアスファルトのようなもの。熱を加えると80度ほどで溶け コーティングの材料になる。エジプトではミイラの腐敗を防ぐため塗られていた。船の防水加工にも欠かせなかった。ノアの箱舟にも使われたという。ナバタイ人は価値の高いレキ青を砂漠を越え 交易し富を蓄えていった。都のペトラに多くの商人が集まり 行き届いたもてなしをした。キャラバン隊の宿の壁画はくつろぎを与え ワインで歓待。夜の冷えに 床暖房のある邸宅もあった。世界有数の交易都市であった。

紀元前1世紀 地中海を席捲していたのが古代ローマで、北アフリカには エジプト、東には パルティア王国があった。ローマのポンペイウス大王は、紀元前66年、オリエントへの大がかりな遠征を開始し、10万近い大軍を率い現在のトルコ周辺の国々を屈服させていく。
その頃、ナバテア王国も周辺に勢力を拡大 アレタス王の軍勢がエルサレムを包囲しているところに、ポンペイウスの大軍がやって来ると、戦うことなくペトラへ引き返した。 ローマ軍は ペトラへ進軍しますが、周囲は 高さ数百mもの岩山に囲まれ 細い一本道 シークしかなく 裏から攻めることも難しい。その上 アレタスはこの岩と砂漠の地勢を生かし ゲリラ戦法をとったと見られ、ローマ軍は 攻めあぐね 結局 撤退をします。大地溝帯上にペトラがあり、そこにナバタイ人は都を築き 国を発展させてきた。

絶壁の山の上には、壺のような形をした雨水の貯水槽があり、岩の傾斜を利用し 溝を掘り、雨水が うまく集まる仕組みになっている。高官の邸宅とみられる 地下に岩を掘り抜いた 深さ3m 幅も3mの巨大な貯水槽が2つもあり 水路が張り巡らされ台所や水洗トイレなど水が ふんだんに使われていた。石を積んだダムなど全体で 200を超える雨水の貯水施設が見つかっています。
ペトラから6㎞離れた 山の上に モーセの泉があり岩山を縫うように 延べ十数キロを4度の傾斜が保たれ水道が引かれていた。封鎖されてもぺトラは水に困ることなく長期間 耐え抜ける都でした。

UnsplashJorge Fernández Salasが撮影した写真

紀元前44年 拡大を続けていたローマポンペイウス亡き後、権力を一手に掌握したユリウス・カエサルが暗殺された。これを見て 東の大国 パルティアは強力な騎馬軍団を擁し ローマの領土であったシリア
から死海の近くにまで 一気に侵攻し 2万人以上の死者も出るほどローマは大敗北を喫します。
ナバテア王 ・マリクスはやむをえずパルティアにつき当面の混乱を乗り切ろうとします。
そこに なんと女王クレオパトラ率いるプトレマイオス朝エジプトが、財源である れき青 が採れる死海周辺に狙いを定めてきた。クレオパトラは ローマの新たな権力者として台頭してきたアントニウスに接近し 深い協力関係になり ローマ軍は、パルティアを押し戻し ナバテア王国から死海周辺を取り上げ
クレオパトラに与えてしまいます。
マリクスは死海周辺を失いたくないと 毎年銀 200タラント(6トン)を納めることで辛くも土地の使用権を取り戻しました。

ローマ国内では、クレオパトラの恋人・アントニウスカエサルの養子・オクタウィアヌスが次なるリーダーを決めるため アクティウムの海戦が起こりました。
マリクスは 協力体制にあったアントニウス・クレオパトラ連合へ援軍を送りましたが、海戦は、オクタウィアヌスの勝利となり、ナバテア王は 何とクレオパトラ側の船を焼き打ちし オクタウィアヌスに許しを求め 死海周辺を取り戻しました。

ローマ帝国は、様々な国を武力で併合して 文化 言語など違う国の集まりで クレメンティア(寛容)を持たねば 帝国が成り立たない面があった。
当時 南アラビアと地中海を結ぶ交易ルートはナバテア王国が独占、乳香や没薬という木の樹脂を固めた特産の香料は れき青と並ぶ重要交易品で宗教儀式には欠かせないもので 今も教会で使われています。

その後ペトラは ローマに併合されたあと、独自の宗教は奪われ キリスト教の拠点都市となり、次第に廃れて忘れ去られていきます。ペトラは4世紀、 6世紀 、8世紀と巨大地震に襲われ大きな打撃を受け、さらに 交易路が変化しペトラを通らなくなった事が大きく、幻の都市となったようです。
巨大地震に見舞われた後、古代 ナバタイ人が築いた 卓越した水の技術を活用し、麦や ぶどうが栽培され 農耕都市に生まれ変わっていったと見られています。

地政学で見た中東

世界史と時事ニュースが同時にわかる 新 地政学
祝田 秀全 監修 / 長谷川 敦 著 / かみゆ歴史編集部 編集 / 朝日新聞出版

欧米諸国に翻弄されてきた中東

15世紀に大航海時代が始まるまで 中東は交易の中心にあった。その担い手はイスラム商人だった。イスラム教が中央アフリカから 東南アジアまで浸透しているのも 商人達が活発だったから。
本来なら 中東が繁栄していてもいいはずだが 紛争やテロが絶えない。
20世紀初頭まで 中東はオスマン帝国の支配下にあった。第一次世界大戦がはじまり オスマン帝国は同盟国側として参加。イギリスは 連合国に味方すれば アラブ人国家の建設を約束する。
その一方で イギリスとフランス、ロシアによるオスマントルコ帝国解体する サイクス・ピコ協定を結んだ。ロシア帝国は革命で解体したが、イギリスとフランスは 協定に沿って敗北したオスマン帝国の大部分を2カ国で分割統治した。
イギリスは現在のイスラエル、パレスチナ、ヨルダン、イラクを、フランスはレバノンとシリアを委任統治した。この区割りは 宗派や部族の分布を無視したもので 独立後の国家運営を困難にした。また 英仏は宗派を利用しアラブを支配した。

イスラエル パレスチナ問題

アラブ人の同意がないまま 国連が パレスチナをユダヤ人国家 とアラブ人国家に分割することを決議。翌年 ユダヤ人がイスラエル建国 第1次中東戦争が起こった。(前にパレスチナの詳細)
イスラエルは水源の多くをシリアゴラン高原を水源とする川に頼っているので、第3次中東戦争でゴラン高原を占領した。
イスラエルには油田がなく 唯一の石油輸入ルートである紅海のアカバ湾の制海権も死守する必要がある。

対立するイランとサウジアラビア

イラン・イスラム共和国(イラン)ペルシャ人でシーア派で反米
国土面積は およそ日本の約4.4倍、人口は 約8400万人、首都はテヘラン
イランは世界第4位の原油埋蔵量及び世界第2位の天然ガス埋蔵量を有する有数の産油国であるが、農業や工業も盛ん。

サウジアラビアアラブ人でスンナ派で親米
国土面積は およそ日本の約5.7倍、人口は 約3534万人、首都はリヤド
サウジアラビアが国内で反体制デモを主導したシーア派の主導者を処刑したことにより深刻化、2016年に国交断絶。アメリカのトランプ政権の反イラン政策が関係を悪化。
イランは イスラエルとも対立関係にあった。
トランプは支持層のキリスト教福音派が親イスラエルで サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)とイラン包囲網を築いて弱体を狙っていた。
バイデン政権が誕生し やみくもに反イラン政策を展開しないと考えられる。
2021年6月 イランでは反米・保守強硬派のライシ大統領が 新政権を発足させました。

イスラム教(前に詳細)ムハンマドが死んだ後、娘がムハンマドのいとこのアリーに嫁いで子どもが生まれました。この血の流れに沿って、ムハンマドの教えを指導していく人間が継承されていくべきである。このカリフの地位がムハンマドのお家の人に継承されるべきだという シーア派で 少数派です。

スンナ(スンニ)派は ムハンマドが伝えた神の啓示を どのように実践し どのように解釈したかを正しく理解する人たちが、ムハンマドの後をカリフとして継いでいくべきで ムハンマドのお家の人ということにこだわらなかった人たち。
全世界に住むイスラム教徒の87%から90%が「スンニ派」、10%から13%は「シーア派」と推定されています。

したたかなトルコ

国土面積は およそ日本の約2倍、人口は 約8500万人、首都はアンカラ、民族はトルコ人(南東部を中心にクルド人、その他アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人等)言語はトルコ語(公用語)でイスラム教(スンニ派、アレヴィー派)が大部分を占める。
オスマン帝国時代 西欧列強に浸食され続けた トルコは 世俗主義(政教分離)で ヨーロッパ型の近代国家をになることを志向していたこともあり、NATOへの加盟を認めたのである。しかも地政学的に重要な位置にあり、黒海の戦略的な重要性を無効にすることができる。黒海を封鎖できるボスボラス海峡ダーダネルス海峡はトルコの領土内にあるからである。
トルコのエルドアン大統領はこのトルコの置かれている特異性を利用してロシアとEUそして米国との間でバランスを取ってしたたかな外交を展開している。

戦乱の絶えない アフガニスタン

正式名称は「アフガニスタン・イスラム共和国」首都はカブールで、海に面していない内陸国となっています。国土面積は日本の約1.7倍、人口は約3100万人。人口のうち約45%がパシュトゥーン人で、約30%がタジク人、約12%がハザーラ人、約10%がウズベク人です。公用語はパシュトー語とダリー語。国民の大多数がイスラム教を信仰 約85%がスンニ派 約14%がシーア派です。
19世紀 ランドパワーのロシアが南下政策の一環としてアフガニスタンに注目、当時 インドを支配していたシーパワーのイギリスが ロシアを牽制するために、アフガニスタンヘの侵攻を開始 アフガン人との間で激しい戦いとなった。1919年アフガニスタンが独立を勝ち取るまで 3度にわたって繰り広げられた。
1973年に王制から共和制に移行後、ソ連はアフガニスタンに親ソ国家を樹立することを目的に侵攻し ムジャヒディンと呼ばれるイスラム勢力が ゲリラ戦で対抗した。アメリカはゲリラ側を支援し 米ソ代理戦争の地となる。
1989年ソ連の撤退すると内戦が勃発し 市街戦が繰り広げられ 略奪や女性に対する暴行が横行し 治安が乱れてしまいました。この時 混乱を逃れ 隣国のパキスタン及びイランに何百万人ものアフガン難民が流出した。
タリバンは イスラム教の神学校「マドラサ」で学んでいた学生が中心となって結成された組織で、内戦で混乱した国内の秩序や治安を回復し、安心して暮らせる社会をつくることでした。
隣国パキスタンは、多くの難民が自国に押し寄せる懸念や アフガニスタンを安定させ、自国の影響力を及ぼしたいという思惑もあり 軍の情報機関が中心となって資金や武器を供与し、タリバンは結成から2年後の1996年にカブールを制圧し、国土の大半を支配下におさめました。
旧タリバン政権は女性に「ブルカ」の着用を強制したり、教育や就労を禁止しました。また前政権の幹部の公開処刑など、極端な行動に出て、国際社会からの支援が得られなくなりました。
2001年9月11日「アメリカ同時多発テロ事件」を起こした アルカイダというイスラム系の過激派組織の一味だった。タリバンはアルカイダの指導者オサマ・ビンラディン容疑者の引き渡しを拒否。アメリカは連携してアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権が崩壊させた。
アメリカは軍隊を進駐させ 親米政権を発足させたが 支持を得られず、タリバン勢力の拡大を許した。
“テロとの戦い”の名のもとにアメリカ本土への脅威を取り除く。そうした当初の目標は政府軍や警察の育成、女性の人権尊重、公正な選挙の実施、民主的な国づくり支援など、次第に多岐にわたり その結果、駐留が長びく原因のひとつになりました。2021年アメリカのバイデン大統領が公約したアフガニスタンからの撤退が完了。アフガニスタン国民の暮らしの危機的状況は続いている。

内戦の続くシリア

シリア・アラブ共和国(以下、シリア)の首都はダマスカス、国土面積は日本の約半分、人口は約2,038万人。言語はアラビア語で、アラブ人:約75%、クルド人:約10%、アルメニア人等その他:約15%が暮らす。宗教はイスラム教:87%(スンニ派 74%、アラウィ派、シーア派など 13%)、キリスト教:10%、ドルーズ派:3%
1970年以来シリア大統領職にあったハーフェズ・アサド大統領は、少数派(アラウィ派)の出身ながら、巧みな政治手腕により長期安定政権を維持したが、2000年6月10日に69歳で死去。その後は、次男バッシャールに政権が平和裡に移譲された。それまでアサド政権に弾圧されていたスンニ派の人々がアラブの春に呼応し、行動を起こしたことがきっかけで、ここまで続く内戦へと発展。
トルコやサウジアラビア、米国などの国々は政権打倒をめざす反体制派を支持する一方で、現状維持を望むイラン、ロシア、中国シリア政府を支援。さらにイスラーム過激派組織のイスラム国(IS)も戦闘に加わった。紛争は三つ巴・四つ巴になり 泥沼化した。そんな中 ISが勢力を喪失した。
当初は反政府勢力が優勢だったが その後アサド政府勢力が 盛り返している。それもロシアの強力な支援が得られたためで、シリアの地中海沿岸部にあるタルトゥース港はロシアの海軍基地になっていて 失うのは絶対避けたいため。ロシアは2015年に軍事介入したシリア内戦で、反体制派拠点の北部アレッポを包囲して無差別攻撃を加えると同時に「人道回廊」を設けた。最後に総攻撃をかけて制圧した。
多くの人々が難民として不安定な生活を続けており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2021年1月時点で、557万人のシリア難民が存在します。

世界遺産 時を刻む 選「オマーン 荒野が生んだ魔力 香り」

NHK BSP 2012.10 初回放送
世界遺産「乳香の土地」はアラビア半島のオマーン ドファール特別行政区内にあるオアシス都市遺跡、港湾遺跡、交易路跡や乳香の群生地が世界遺産に登録されている。
オマーンでは数千年前から魔法の香りが暮らしを清め人々をいやしてきた。
乳香は、荒野に生える乳香の木の樹皮に傷を付け、滲み出した樹液が乾燥し固まったものを集めます。乳白色、もしくは薄い茶褐色をしており、固まった樹脂を炭の上で焚き その香を楽しみます。
古代エジプトや古代ローマでは宗教儀式や医療に重用された歴史を持つ。ドファールに金と富をもたらした。
中心都市 サラーラは人口17万人 そのほとんどがイスラム教徒です。陽気で歌と踊りが大好きで、今日は結婚式があります。女性達は 悪を払い幸せを呼ぶ 乳香を 頭に乗せた香炉で焚く。
世界中から 乳香を求め観光客がやってくる。
乳香はボスウェリア属の樹木で 限られたアラビア半島の南部と東アフリカの一部にだけ生息、古代エジプト権力者が移植を試みても いずれも失敗でした。

乳香ライフ 朝起きて 香炉で乳香を焚き すべての部屋を廻る。虫の駆除の役目をする。蚊も入ってこない。13人家族 男女別々に朝食。空気を清浄する効果、整腸作用もある。食べることも出来る。ミスナドを使い 衣類や頭巾に乳香を焚きこむことがマナー。ドファールは乾燥地帯で水が少ないので かつては体を洗う習慣がなかったので ニオイ消しに使っていた。職場に向かう車の中でも乳香を使う。海辺で20部屋のホテルを経営しており、ホテルでも すべての客室に乳香を焚いて廻る。これが最高のもてなしになる。ハーファ乳香市場に週末 家族と連れだって行きつけの店を廻ります。1家族で使う量は1ヶ月に3kg、およそ12,000円です。売主も質の良い乳香をそろえたり、沈香などとブレンドします。

乳香樹の生えている ワディ・アーラは年間を通じてほとんど雨が降らず 日中は50度近くまで気温が上がる。砂漠の民 ベドウィン のベテランが乳香の取り方を息子に伝授。
ラクダの乳は栄養が豊富で、ラクダは200kgの荷物を乗せ 1日50km移動できる。

ラクダのキャラバンを組んで 乳香を運んだ。そのルート
●ドファール地方の一角 ワディ・タウカ乳香公園の 涸れ谷におよそ5000本の乳香樹が広がっている。
ホール・ルーリ 乳香交易の出発点
●西へ シバーム(イエメン) 街全体が高い城壁に囲まれ城塞化している。
●ルブアルハリ砂漠を北上
マダイン・サーレハ:サウジアラビアの かつてペトラと同じように栄えていたにも関わらず、神の怒りに触れて一気に消滅したという伝説が残る古代都市で アラブ人はあまりこの地を訪れたがりません。
●ペトラ(前に記述あり):ここで2手に分かれる
●タドムル(パルミラ遺跡): 地中海に沿って ギリシャを目指し北上 シリア砂漠の唯一のオアシス。劇場や共同浴場、夜の社交場で栄華極める。
●エジプトへは ペトラから西に
年間数千トン乳香が運ばれた最大の消費地。長い砂漠の旅は人件費や通行税でエジプトに着くころには何十倍にも跳ね上がった。それでも注文は絶えなかった。

ドファール地方の面積を占める荒野。友人らと行うバーベキューは 屋外で 焼き石で焼く。乳香を焚いて 悪霊をはらい サソリや蛇を追い払う。日没に乳香を焚くのは昔からの習慣です。
今 若者達は香水を好み 乳香離れが進み 需要が落ちてきている。合成香料で海外からの 注文が減り 価格も下がり続け 10年前の1/3になっている。
ニューヨークのアロマショップの女性が やってきて 乳香のスキンケア、キャンドルなど商品開発を行っている。アイスクリームに入れ 試食品をつくり 好感触を得ている。

■ エジプト 古代都市テーベと墓地遺跡
クレオパトラも乳香をオイルと混ぜ体に塗っていたと言われる。またミイラつくりには必ず焚かれ 死者の魂は乳香の香りに包まれ 天に昇るといわれた。

■イタリア 古代ローマ歴史地区
権力の象徴で 暴君といわれた皇帝ネロは儀式には 莫大な乳香を焚き力を誇示したと伝えられています。聖書にはイエスキリスト誕生の時の贈り物の1つと記されている。乳香は金と同じ価値があった。

バチカン市国
カトリックの総本山バチカンでは、今もミサの時は必ず乳香が使われている。人々の祈りが神に届けられると信じられている。

世界遺産 時を刻む 選 ヨルダン “月の谷”いのちの旅路 砂漠

NHK BSP 2012.11 初回放送
ヨルダンの首都 アンマン すぐ近くに砂漠が広がっています。アンマンとワディ・ラムを結ぶ キングス ハイウエー 王の道と呼ばれる 紀元前からキャラバンが行き交う交易路でした。岩だらけの砂漠で羊を追う遊牧民 ベドウィンが 草の生えている所を 点々とテントで生活しています。
アンマンから 南に300キロ 巨大な岩山がそこかしこに 世界遺産ワディ・ラム保護区」です。サウジアラビア国境付近に位置する74,000haのワディ・ラム保護区は、文化と自然の両方の 複合遺産です。
砂漠観光のラクダツアーが人気です。赤茶色の砂漠が広がり、自然が生み出した多くの奇岩や渓谷が点在し、ヨルダンの壮大な景色を楽しむことができます。映画の「アラビアのロレンス」などのロケ地となった。
かつてこの地は、複雑に川が枝分かれした大渓谷でした。5000年前の気候変動で川が干上がり、雨や風に削られ奇妙な風景が出来上がった。ナイフで切ったようなカッティング・ロック、大きな石の橋。
ベドウィンの長老の弾く 楽器 ラバーバ。生活の知恵 アディラムという草が砂漠の石けんになる。
遊牧民の定住化が進められている ディッサ村の村長で 学校や病院 水道や電気などのインフラが整っています。定住化して 現金を使うことも増えた。
岩壁にイチジクの木があり 赤とんぼがいて 湧き水がありました。この湧き水をふもとまで引いて 水飲み場に ラクダのなど命を支えています。
岩壁が両側に広がる細い谷間の奥にあるカザリ峡谷。石器時代から人類の生活や喜怒哀楽を刻んで来た壁画が多くあり 、文化面での世界遺産です。
ワディ・ラム「月の谷」と呼ばれる砂漠の交易路でした。炎天下の砂漠は過酷な環境で、美しい月明かりの中 ラクダの隊商は夜の砂漠を長距離移動しました。月の満ち欠けで日付を、星の運行で行くべき方向を知ることが出来た
現在もテント生活を送る ベドウィン一家を訪ねる。砂糖のたっぷり入った紅茶で歓待される。一家は主人と男の子6人、女の子4人、妻2人の13人で大人の女性は人前に出ない。焼きたてのパンとヤギのミルクで作ったヨーグルトを食べる。子供は車で学校に送る。財産はヤギ100頭で 現金が必要なときはヤギを売る。
ヤギが草を食べ尽くしたので 引っ越すことに、10分でテントをたたみ、仲間もトラックで駆けつけてくれ 30分で荷を積み、30分トラック移動、30分でテントを立て引っ越し完了。歩いてきたヤギも到着。
壁画に描かれていた ダチョウ、ライオン、野生の 馬、オリックスもいなくなった。今 オリックスを保護区で育てている。
ナバタイ人の築いた水路を ワディ・ラムが受けついて 今もブドウやナツメヤシが栽培されている。

砂漠は不毛の地であらず

オーストラリア ウルル=カタ・ジュタ国立公園
古くから聖地として崇められてきた 巨大な一枚岩 ウルル。荒涼とした赤い大地には豊かな恵みがある。先住民アボリジニのご馳走 ミツツボアリという お腹に蜜を貯めるアリがいます。

モーリタニア バン・ダルガン国立公園
サハラ砂漠にある この公園は700万羽も集まる野鳥の楽園。サハラの砂が風に舞い 広大な遠浅の海を作り 小魚が多く集まり、それを目当てとする鳥類が集まりました。

砂漠にある交易都市の世界遺産

■ ヨルダンペトラ遺跡
ワディ・ラムから100キロほど離れた所にある ナバタイ人の築いた ナバテア王国 のペトラ遺跡(前に記述)。砂漠に水路が引かれ、交易の交差点として 香料などの 取り引きで潤って繁栄した。

■リビア ガダーミス旧市街
サハラ砂漠にある グダーミスは 砂漠の真珠と呼ばれるオアシス都市です。ヨーロッパとアフリカをつないでいた。

■マリ トンブクトゥ
サハラ砂漠の南には金と塩の取り引きで栄え「黄金郷」とたたえられた。今もキャラバンが岩塩を運んできます。

■中国 敦煌莫高窟
インドや西域から伝えられた 壮大な仏の都を造りだした。すぐそばには世界第2位のタクラマカン砂漠が横たわっています。砂漠の楼蘭遺跡のから ロシア系民族の女性のミイラの見つかっている。

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