GoogleマップでWeb旅行!うらやましい 激走 シルクロード 104日の旅

NHK BSP 激走!シルクロード 104日の旅 (2012年)
改装した軍用トラックに世界各国の旅人が乗り 1万7000kmをキャンプや自炊しながら旅をした。個人の都合で途中で降りることも 途中から加わることも自由です。トルコ イスタンブールを出発、緊張のイラン、めったに見られないトルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスを回り中国の西安に向かう。私は 実際に出かけることが出来ないのでとても うらやましい旅でした。

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NHK BSP 激走!シルクロード 104日の旅 (2012年)

トルコ

●イスタンブールボスポラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアにまたがるトルコの大都市です。
トルコはイスラムの国、礼拝の時を知らせるアゼーンが鳴り響く。
ヨーロッパへの玄関、そしてアジアへの玄関でもある この国を多様な民族が行き交う。シルクロードによって運ばれた東西文明の十字路としてあふれる熱気は今も変わらない。
■2012.6.5 旅のメンバーが集まった。
イギリスの元教師夫妻、アメリカのバリバリのビジネスマンや アメリカ留学経験のある日本の23才の女性など8名とドライバーとツアーリーダーの 合わせて10名が旅の仲間です。
翌日は自由行動でした。
ローマ帝国、ビザンティン帝国の都 コンスタンティノープルと呼ばれていたが オスマン帝国の都になって イスタンブールとよばれるようになってきた。
中東最大の屋根付きの巨大な市場 グランドバザールは64の路地3600を超える店が軒を連ねています。
■2012.6.7 出発。常に窓を開け走ります。途中で食材を購入して 2人の当番が料理を作ります。@@西へおよそ250キロ進み エーゲ海
シルクロードの栄華をとどめるエフェソス遺跡。遺跡の中央を貫く通りは昔の人が歩いたそのままの状態です。現在もその遺跡が良好な保存状態で残されており 世界遺産に登録されました。2000年前の通りの床の模様は 色もそのまま残っています。当時の公衆トイレがそのまま並ぶ。ひときわ大きい ケルスス図書館の柱を飾る複雑な草模様。草模様は中国に渡り そして日本に唐草模様として伝わりました。
当時ローマ、エジプト、中国などから本が集められました。
■8日目 トルコの地中海沿岸は有数のリゾート地 ヨーロッパ各国から多くの観光客が訪れる。地中海に臨むルートを走り 旅人もレジャーを楽しむ。青の洞窟のすんだ海
●オルデニズ はパラグライダーの聖地だった。
■6/17 内陸部の緑豊かな地域に向かう。 トルコ南西部の イスパルタ イェシリュートゥ村 では家族で特産品のバラの花摘みをしていた。品種はダマスクローズのみで、すぐ工場へ運びエッセンスを抽出する必要がある。花4トンから1リットルしかエッセンスは取れない。バラ農家にお邪魔し ローズウオーターは肌に良いし 薬にもなると教えられた。
●スルタン・ハンは隊商宿場(キャラバンサライ)で13世紀に建てられた。入り口は1カ所で 閉じれば要塞になり盗賊に襲われることなく泊まれた上に3日間は宿代 食事代は無料だった。通行税や衣服や日用品の購入・旅の装備品の修理代などで お金を落とし 賄うことが出来た。運んできた商品を互いに売買 して次の土地に進みました。地元の人も加わって売り買いが盛んに行われた。こうした隊商宿は30~40キロおきに置かれた。
■6/19 15日目 緑が少なくなり 空気が乾燥してきた。
カッパドキア(世界遺産 ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群)
太古の時代火山の噴火で出来た岩が 長年風雨に削られ 奇妙な 巨大なキノコのような岩がぎっしり。アナトリア高原中央部に、南北約50kmにわたってさまざまな見どころが点在する。パシャバー地区では気球を使って観光でき 多いときは50も浮かんでいます。
ここは交易ルートの交差点だったので、さまざまな思想 信条 宗教が入り乱れて入ってきました。
西の外れのウフララ渓谷に向かい、 歩くこと30分 岩場を登った先に 岩に掘られた教会跡があります。1000年以上前 宗派の違いで迫害を受け逃げてきて作った。フラスコ画に聖ジョージがドラゴンを退治するところが描かれている 聖ジョージ教会(洞窟教会)といわれる。11世紀に建てられ 1924年までキリスト正教会が使っていた。キリスト教徒が逃げ込んできたころ カッパドキアにはすでに多くのイスラム教徒がいた。よく見るとイスラム教徒がキリストの聖人をお祈りしている。キリスト教とイスラム教の人達が長らく共存していた。1924年 ギリシャとの戦いにトルコが勝利し ギリシャ人を本国に移住させ その後偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒が キリストの顔を削ったといわれる。
ギョレメとは “見えない・見てはいけない”を意味する言葉です。
カッパドキアには岩肌に開いた洞窟を至る所で見ることができる。多くは人々の住宅として使われてきました。火山岩で出来ているため 岩盤は柔らかく 間単に削ることが出来る。しかも断熱性が高く 夏は涼しく 冬は暖かい。30年ほど前まで多くの人が暮らしていたが町の暮らしを求め出ていった。
今も洞窟住宅に住む老夫婦がいると聞き尋ねた。元々の洞窟を生活しやすいよう削っただけで 電気やガス 電話も完備しています。この地方の女性はじゅうたんや編み物の作り方を小さいときから 母親に教わり嫁入り道具に準備していました。
次の町に着くと2人がトラックを降り、新たに2人加わりました。自由に乗り降りできます。
■トルコ東部では天候が変わって 10度位に下がってきました。皆寝袋にくるまり 凍えていますが 窓は開けたまま、今走っている土地土地の空気を肌で感じたいからです。
高度は2455m トルコ最大の湖 ワン(ヴァン)湖、冬スキー場になるところを借りてテントを張ります。
食事当番の日本女性の前に通りがかったトラクターに多くの人が乗っていて かすみ草の花束を落としていった。思いがけないプレゼントに大喜びでした。
■23日目 走行距離およそ3400キロ、トルコの最高峰5185mのアララト山。ノアの箱舟が漂着したところ。信仰の山で毎年夏になると愛好家が集まり登頂に挑む。
坂道を下ると 国境に近い町ドゥバヤズィットが見えてきた。ドゥバヤズィット周辺には多くのクルド人が暮らしています。クルド人とはトルコやイラン、イラク、シリアにまたがる地域で独自に文化を育んできた山岳民族です。降りてみると クルド人の婚約式に出会う。知らない人も加わり 祝うのが習わしで、旅人達も誘われました。たくさんのプレゼントが贈られていました。クルド人の親は金を買い集め子に贈るそうです。その後小指をつなぎ旅人も加わり踊り続けました。
二つ目のイランに入るためのアドバイスがありました。地元の女性は地味な服を着ています。肩が出ないシャツ 下も長い方がいいです。
イランは厳格なイスラムの国なので、女性は人前で顔や手以外の肌を見せていけません。髪も隠さないと外国人も厳しく注意を受けそうです。
女性達はバザールの婦人服の店で黒いチャドルを購入。チャドルは長いスカートと頭を覆うマントが1つになったもの。
■6/30 チャドルを着込み トラックに乗り込みます。イランとアメリカは1979年のイスラム革命以降国交断絶、核開発を進めるイランに対し 欧米各国は経済制裁を強めています。

イラン

入国後 北部のルートをたどり古い都イスファハンに向かう。イランは人口7500万人。
最初に訪れた ザンジャーンは紀元3世紀に町の基礎が出来 オアシス都市として栄えてきた。
名残は500年前の姿の残るバザールだけです。婦人用品店に行ってみると 黒いチャドルはなくおしゃれな服が並んでいます。日本女性は試着を勧められ 購入 そのまま帰ることにしました。それは取り越し苦労でした。まわりを見渡せば 色鮮やかな服や美しいスカーフをまとう女性がたくさにます。肌を極端に見せることや 髪の毛を覆わないことは許されませんがそれさえ守れば大丈夫ののようです。

■トルコ国境から東に向かうルートにはシルクロードを今に伝える場所が数多く残っています。
ソルターニーイェには14世紀初めに建てられた レンガ製のドーム。当時の君主の墓 オルジェイトゥ廟世界遺産になっている。ブルーのタイルが美しい建物は のちのイスラム建築に多くの影響を与えた。建物内の文様をみると あの草模様がある。これは14世紀に東から勢力拡大し イランを支配したモンゴル帝国から伝わった文様です。

■さらにイランの西北部を走ります。昔ながらの日干しレンガの家が続く道沿い。砂ぼこりと乾いた空気が窓から入ってきます。トルコ国境から1300キロ シルクロードの要衝だったイスファハンへ。
16世紀「世界の半分はイスファハンにある」と讃えられた町。中心にあるイマーム広場は「イランの真珠」と讃えられた 世界遺産です。イマーム・モスクは26年の歳月をかけて建てられた傑作です。中央礼拝堂の天井には7色の彩色タイルをつかいイラン伝統の文様が描かれている。イランでは外国人が団体で行動するときガイドが案内します。ドームの高さは40m、建物は2重構造でドームの下に12mの空洞があるので コーランを唱えるとよく響く。
路地裏の 伝統工芸 ガラム・カール(ペルシャ更紗)のアトリエに。ガラム・カールは 木綿の布に木片で模様をスタンプし、テーブルクロスやベットカバーにします。花や鳥をあしらった多彩な模様とカラフルな色使いが特徴です。200年使い込んだ手作りのスタンプを手作業で押します。染料は自然の素材を用い 黒はくるみ、赤はザクロ、青はラピスラズリという石を使っています。
ガラム・ザニーは銀細工 、エジプトからもたされた技術でといわれ 今は手先の器用な女性も行っています。フェニックス 不死鳥の図柄が目を引きます。

■旅は1ヶ月過ぎ、進路を北に変え 首都テヘランに向かいます。車の数ぐっと増えてきました。ペルシャ建国2500年を記念して建てられた アザディ・タワーが玄関口になっています。人口1100万を抱える大都市です。かつては潤沢なオイルマネーでアメリカ寄りの政策をとっていたが、1979年 シーア派宗教指導者ホメイニに率いられたイスラーム原理主義勢力にがイラン革命を起こして以来 欧米との距離が遠ざかった。
ガイドの案内で同世代の姉妹とおしゃれなカフェで会うことになりました。妹はテヘラン大学を出て資産運用のアドバイザーをしており、姉も金融関係のしており、母も同席しました。みんな家族との生活を大事にしていて に中はしっかり働いて 仕事が終わったら家族や友人と過ごす。
夕食前は公園に行ったり、映画を見たり、エアロビに行ったりしてるそうです。ジムは女性専用でスカーフを付けなくても良く、女性同士の場所なら好きな格好で良く、公共の場 家族以外の男性のいるところではスカーフは必要だそうです。
姉妹が利用するショッピングモールには 世界的に名の知られるブランドショップが軒を連ねていた。アメリカの若者に人気のブランドも発見。パーティー用のハイヒールも売られていた。

■36日目 テヘランを離れて 次の町に向かう。皆疲れてきたようです。新たに乗り込んだ人もいます。
600キロ離れた イラン第2の都市 マシュハド
マシュハドはイスラムの聖地で、第8代イマーム・レザーが9世紀に殉教した場所として、国内ばかりでなく他のイスラム国からも熱心な信者達がやってきます。
バザールに1人で出かけたアメリカ男性 ナツメヤシを購入。店の若者とコミュニケーションがとれ友好的に話せ ニュースで見ていたことと違っていました。

UnsplashFaruk Kaymakが撮影した写真

トルクメニスタン

■7/14 40日目 走行距離は7000キロを越えトルクメニスタンに入りました。トルクメニスタンは1991年 ソビエト連邦崩壊直前に独立した国で、人口510万人です。外国メデイアの取材をほとんど受けつけていませんでした。
かつてのシルクロードのオアシス都市だった 首都 アシガバートに入った。人影まばらな メインストリートの両側に並ぶのは 無機質な白亜の大理石で作った建物 100棟余り 官庁や高級ホテル 大学として使われています。紀元前より シルクロードの要衝として栄えていた。ここに興った王国は中国とローマ帝国とを結ぶ利益を独占したことで知られる。今の町並みを築いたのは 初代大統領 ニヤゾフで、2006年になくなるまで独裁体制だった。天然ガスや石油を産出し アシガバートに新首都プロジェクトを推進。水道・電気・医療・高校までの教育費は無料です。
町外れのバザールには多くの人の姿があり カラフルな衣装をまとった女性の姿が見られた。

■北に向かい 日本と同じくらいの大きさのカラクム砂漠があります。。
砂漠にテントを張り 当番が食事を作り 皆で食べます。
ふだん夜走行しない砂漠を進むと、 直径70m 深さ20mほどの穴で炎が燃えさかっています。 ダルヴァザ・ガス・クレータ(地獄の門)とよばれるクレーター 1971年地質調査にきたソ連の科学者が偶然発見 有毒性のガスを噴出していたので燃やし尽くそうと火をつけたら 40年以上燃えているそうだ。豊富な天然ガスはパイプラインで、中国やロシアなどに届けられている。
■翌朝 思いがけず100頭余りの放牧中の黒い羊の群れと遭遇。さらにカラクム砂漠を進み ウズベキスタンとの国境に向かう。

ウズベキスタン

■7/18 ウズベキスタンに入る。2780万人が点在するオアシス都市を中心に暮らす。
国境から2時間 北西部にあるヒヴァに入る。ヒヴァにある旧市街 イチャン・カラ世界遺産で 周囲2.2キロの城壁で守られていました。17世紀当時の門・モスク・宮殿・学校など状態良く保存されていて 別名「博物館都市」とよばれる。
早速散策に出かけると、多くの着飾った人達が新婚カップルを囲んで入ってきました。二人が向かったのは古い井戸、新郎が水をくみ上げ、この水を飲めば男性は体が強くなり、女性は美しくなると言い伝えがあった。井戸は命をつなぐ聖なる泉、オアシス暮らす人達の感謝が込められている。
建物の内側から音楽が聞こえてきた。1830年代に建てられた宮殿でヒヴァの伝統舞踊を踊り 旅人を歓待してくれた。2000年以上続く祖国への賛歌でした。羊毛で出来た黒いチョギルマを客にかぶってもらい歓迎を表した。

■東に向かい 乾燥した大地が続く。道沿いに見えるのは紀元前から7世紀ころまで栄えた古代ホラズム王国の遺跡で 1000以上の町を従えていたといいます。今は廃墟になっている。それは外敵に負けたわけでなく、川の流れが大きく変わり 水源を失って住めなくなったためでした。

サマルカンドはシルクロードのほぼ中間地点で 交通の要衝として栄えていました。
緑の豊富な レギスタン広場には歴史ある3つの学校が建っています。青い空の元映える青いドーム。壁面を飾る青いタイル。青は生命の源 水を現しています。
ウズベキスタンもイスラムの国、サマルカンドは宗教的に重要な位置を占め 多くの人が礼拝に訪れます。奥にはイスラムの学校 ティラカリメドレセがあります。ティラカリは金箔の意味があり 壁いっぱいに金色と青の装飾が広がる。天井に描かれているのは トルコやイランでも見てきた草模様、日本では中国から伝わり唐草模様に。乾燥地帯で草模様は命の象徴です。
サマルカンドの最盛期は14~15世紀 宗教・学問・そして商業の一大中心地となりました。

サマルカンドの重要な貿易品として世界各地にもたらさせた伝統工芸があります。
ウルグット村のスザニ市場 、スザニとは刺繍を施した布のこと デザインは草模様・果物・太陽など、使い方は テーブルクロスや壁飾りなど様々です。作るのは地元の女性達、代々子どもに教え伝えてきた。作っているお宅に行ってみると、家族そろって作業していました。元々は嫁入り道具に持参していた。
近郊のコニギル村 ここでは水車が回り 紙すきをしていた。サマルカンドペーパーとして重宝されていたが19世紀に技術が途絶え、日本の和紙の 紙すき技術を教わり復活していた。

カザフスタン

■8/1 58日目 中央アジアで最も広く 緑豊かなで「草原の国」とよばれる 。
山道に入ってきました。
アクス・ジャバグリ自然保護区は、天山山脈の支脈タウス・アラタウ山脈の北西に位置している。
旅人は馬に乗り草原を歩く。標高は1000~4000m 多種多様の花が咲き誇る。チューリップの野生種が咲いていて このあたりが原産地とされる。

キルギス

■8/5 キルギスに入る。国土の9割が山岳地帯
首都 ビシュケクを貫く その名もシルクロード大通り。キルギスも1991年 ソビエト連邦崩壊直前に独立した国。1000年前キルギスを始めて統一したという マナス王が町を見守ります。人口は540万人。キルギス族の他、ウズベク・ウイグル・ロシアなど他民族が暮らす。
ビシュケクから3人加わる。
アラ・アルチャ自然公園、目的は標高4000mにある氷河のトレッキング。途中まではシルクロードのキャラバン隊も通った道です。山岳ガイドから「まえは精霊に捧げる家畜を捧げたが、今は白い布を木に結び安全を祈る」と聞いて、標高2000mの出発点から1泊2日の行程で出発しました。1時間ほどして 一本の小さな川に沿って登ります。この川はビシュケクなどオアシス都市を潤しながらカザフスタンの草原地帯に消えます。
道が険しくなってきて74歳の参加者は足取り重くなりましたが、若者の助けを借りながら 7時間で山小屋に到着。野生のヤギ アイベックスに出会えました。
翌朝朝7時山小屋を出て 険しい岩場を登ること2時間で氷河に到着 さらに奥の200mの氷河の壁が最終目的地でした。

■アラ・アルチャ自然公園を出て7時間 天山山脈のふもとにある キルギス最大の湖 イシク=クル湖にきました。湖の周辺にはいくつもの町がありシルクロードを行く商人も訪れました。ソビエト時代は外人の立ち入りを禁止されていたので幻の湖と呼ばれていました。琵琶湖のおよそ9倍の広さの塩水湖で冬も凍ることはありません。透明度が高く「中央アジアの真珠」と呼ばれています。
イシク=クル湖には古くからの伝説を語る語り部がいてその話を聞いた。
「この湖の東西に二人の若者がいて、ひとりの娘に恋をし、争い最後に殺し合いしてしまい、娘が悲しみしみで泣き続け涙でこの湖が出来た」

■イシク=クル湖から幹線道路を外れ山道に。
緑豊かな 草原や険しい山岳地帯を貫く中央アジアのシルクロード、商人とともに交易品を運んだのは馬を操る遊牧民だった。かつて遊牧の民と言われたキルギスの人々、今はほとんどが町や村に定住する。
しかし 夏の間だけ遊牧民として暮らす人達がいる。酪農家の依頼を受け涼しい高原で家畜の世話をする。
標高3016mにある天空の湖 ソンクル湖、キルギスで最も美しい湖だと言われる。
この日旅人は遊牧民の移動式住居 ユルタに泊めてもらことになり 日本女性は放牧している一家を訪ねます。お母さんとは身振り手振りで話します。夏休みの間ビシュケクの学校から戻っている娘と なんとか英語で会話。湖で採れた魚など自給自足で賄います。電気がないので 日が落ちる前に 放牧から戻ってきたお父さんと夕食です。午
前5時 ソンクル湖が夜が明け お父さんは馬を見に山に出かけます。お母さんは夏でも朝夕は5度を下回るので、家畜の糞の燃料を燃やします。娘さんは馬と牛の乳搾り。日本女性も手伝って馬乳に酵母菌を加えかき混ぜます。発酵すると馬乳酒クムスが出来上がります。みんなで朝食です。

■80日目 走行距離は1万kmを超えました。国境のトルガルト峠を目指し トラックは徐々に高度を上げていきます。砂ぼこりを上げ山道を行くトラック。道沿いに隊商宿が建っています。これは天山山脈の奥深くに交易の道 シルクロードがあった証です。道路工事が行われていました。工事を請け負うのは中国の企業。経済の発展を願う中国はシルクロードを現代の重要な交通網と位置づけています。
トラックは再び悪路に入りました。まもなくキルギスと中国の国境に広がる緩衝地帯です。その間100キロはカメラやビデオの撮影が禁止されています。

中国

■8/23 中国の新疆ウイグル自治区カシュガルに到着。中国は人口13億人、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国です。カシュガルは西から続いてきた イスラム教の町でモスクがあります。人口の8割がウイグル族で町の看板は 中国語・英語・ウイグル語も併記されています。
職人街と呼ばれる古くからの商店街。様々な店がでていて 熱気があふれています。美容師の旅人ははさみを研いでもらいました。
世界第2位の広さのタクラマカン砂漠、砂漠に浮かび上がる2本の帯の中をトラックが行きます。この緑は道が砂で埋もれないように10年前から植えられています。道沿いのポンプ小屋に管理人が住み込み 数百キロ離れた町から引いた市道の水をまいて緑を維持しています。ラクダの群れが道に飛び出してきました。トラックは陽炎揺れる大地を走ります。
トルファンは緑あふれる オアシス都市で カレーズとよばれる地下水路が5000キロにも渡り 雪どけ水を運んでいることが知られていますが、今も貴重な生活用水です。カレーズは2000年前ペルシャから伝わったと言われます。カレーズを利用したブドウ栽培している畑に行きました。このブドウは甘く 干しぶどうはシルクロードの旅人が重宝されました。ウイグル語はトルコ系の言語で トルコの旅人は農場主の言葉が理解でき 通訳を買って出てくれました。トルファンは海抜マイナス150mの盆地にあり 1日の気温が大きいので強い風が吹くので干しブドウつくりに適している。
■トルファンから40分 西遊記に出てくる火焔山です。高さ500mのそびえ立つ壁がおよそ100キロに渡って連なる。山肌の模様はまさに炎のようで 地表の温度は80度に達することもあり、その名の通りの灼熱の山です。
かつてキャラバン隊がたどった乾いた大地 高速道路が整備されオアシス都市を結びます。各地で石油や天然ガスなど資源開発が進み新しい町も出来ている。

■9/1 砂漠の中に浮かぶ オアシス都市 敦煌に到着しました。人口はおよそ18万人、紀元前2世紀に漢王朝が開いた町です。
近くにある 長さ1600mの断崖に作られた莫高窟、世界遺産に指定されています。現在カメラやビデオの撮影がフラッシュの光で痛むため許可されていません。前に記録された 5世紀に作られ 穏やかな弥勒菩薩、唐の時代に作られた仏の像を囲む壁一面の仏画、4~14世紀の間に700を超える仏像が作られた。
■敦煌から7時間シルクロードの関所 嘉峪関です。近くに 懸壁長城とよばれる万里の長城の西の端にあたる。最大傾斜45度 稜線に沿って作られたので急斜面が続きます。山を越えてくる異民族を防ぐため 北京の東まで総延長2万kmにも及ぶ。この日は 懸壁長城にキャンプ。日本女性は美容師がトルファンで研いでもらったハサミで髪をカットしてもらった。

■イスタンブールを出て3ヶ月余り そろそろ旅の終わりが気になるころです。トラックは西安に向けて走ります。大河の黄河を渡ります。4大文明発祥地の1つの黄河は 豊富な水量で シルクロードを西に向かう商人にとっての最初の、東に向かう商人にとっては最後の 大きな関門でした。小さな渡し船に たくさんの荷物を積んで渡らなければならなかった時代、荷物ばかりか 命を落としかねなかった。
■9/14 建設中の高層ビルが見えてきました。旅の終着点 西安です。西安中心部の城壁の門をくぐりました。西安はかつて長安と呼ばれ、中国歴代の13の王朝が都を置いた。今はその趣を残しつつ 近代的な大都市へと変貌しました。西安まで 17682キロメートルの走行距離でした。迎えてくれたのは シルクロードを行く キャラバン隊のモニュメントでした。シルクロードの地図があり 最後に記念写真を撮影しました。