GoogleマップでWeb旅行!シルクロード☆西域南道・天山南路・天山北路

今より道路が整備されなかった時の シルクロードで いにしえの苦労が偲ばれます。
NHK BSP もうひとつのシルクロード (1980年放送の 「シルクロード」のテーマ編 鮮明なデジタル映像でよみがえらせました) 語り:石坂浩二 音楽:喜多郎 (42年前ですが 聞き覚えがあります)
オアシス点描 SL爆走 2500キロ
・オアシス点描・風と砂と人と〜現代西域南道〜
・オアシス点描・草原の道 〜現代天山北路〜
・オアシス点描・熱砂の道 〜現代天山南路〜
NHK特集 シルクロード第2部 最終回 「すべての道はローマに通ず」1984年放送
足りないところは
新潮新書 「シルクロード 流沙に消えた西域36カ国」中村清次( NHKのシルクロード取材班団長)著
角川ソフィア文庫 「東方見聞録 マルコ・ポーロ」長沢和俊 訳・解説 を参考にさせていただきました。
スーパープレミアム 「シルクロード 謎の民 タクラマカン砂漠 楼蘭の末えい?」

すぐ忘れてしまうので 備忘メモです。
私の頭の中の中国はこの時代で 近代化された中国はなかなか イメージできません。
Googleマップ 中国語で目的地を探しずらいので マーキングを保存して 登録されている写真を 楽しんでます。

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オアシス点描 SL爆走 2500キロ

古代のシルクロードに沿って中国西安から新疆ウイグル自治区の省都ウルムチまで2500kmにわたり蒸気機関車が走っている。SLは北京発でここまで1200km走ってきた。

●西安(かつては長安):シルクロードの出発点
・開遠門
・大雁塔
・渭水を渡る

●蘭州:シルクロードから 少し離れていて 石油工業が発達している
・黄河を渡る。

●武威:河西回廊最初のオアシス 祁連山脈 から流れる水 用水路が整備され ゴビ砂漠で畑作が行われている

●張掖:第2のオアシス、マルコ・ポーロが旅の途中の1年間滞在した。
・張掖大仏寺:西夏時代に作られた 巨大な涅槃仏(寝仏像)が安置されている。

●酒泉:第3のオアシス、前漢武帝の時代 名将軍の霍去病(かくきょへい)が 匈奴を破った。その知らせを喜んだ武帝から褒美の美酒が届くが 全軍に分けるには酒が足らないので 霍去病は酒を泉に注ぐと 泉の水が酒へと変わり尽きることがなかったそうだ。
・嘉峪関:山海関から5000km 万里の長城の最西端の砦

●敦煌:第4のオアシス シルクロードの分岐点。 鉄道は 通らず はるか向こうにある。

●ウルムチ:新疆ウイグル自治区の省都で 明らかに西安とは異郷の地だった。

オアシス点描・風と砂と人と 現代西域南道

崑崙山脈タクラマカン砂漠に沿って伸びる西域南道は、もっとも古くから開けたシルクロード。

●敦煌:東西文化の中継地で4~14世紀、仏教の聖地として栄えました。
・莫高窟:735もの石窟が2kmに渡ってある
・楡林窟
・月牙泉
・沙州古城遺址
・河倉城遺址
・鳴沙山

●チャルクリク
:天山南道 コルラへつながる
・米蘭(ミーラン)

●チェルチェン:崑崙の雪解け水 チェルチェン川の水で潤う バザール

●ニヤ(民豊):砂でまったく視界のきかない「砂暴」と呼ばれる日や、砂の微粒子が大気をおおう「浮遊塵日」が年に200日間以上という乾燥のオアシス:

●ホータン:西域南道最大のオアシス:于闐(うてん)国の時代 仏教国で 莫高窟を作った。現在はイスラム教徒の街で 絹織物 精巧な絨毯が作られる。

・油田

●ヤルカンド(広大な土地という意味): パキスタン タシュクルガン・タジク 分岐 する
ヤルカンド川沿いに農業が発展

●カシュガル:中国 最西端の町で西域南道と天山南路の合流点。古くからシルクロードの貿易地であり 中央アジアと中国を結ぶ要衝

⇒ キルギス ビシュケク
⇒ ウズベキスタン サマルカンド
⇒ アフガニスタン ワフジール峠 ⇒ 「ワハーン回廊」

オアシス点描・草原の道 現代天山北路

天山山脈の北ろくに沿って 西はカスピ海沿岸まで広がる大草原に開けたシルクロード。
●敦煌
●哈密(ハミ):新疆ウイグル自治区の東端。1900年前匈奴を追って 漢の大軍が来て屯田した。独特の味の良さで歴代の皇帝に献上されたハミ瓜の産地

●天山南北分岐点

●ウルムチ:天山北路 最大のオアシス。新疆ウイグル自治区の省都で、空港があり 北京、パリ、フランクフルトへ飛んでいる(1980年)。現代の西域各地への玄関口となっている。ウルムチは美しい牧場の意味がある。
紅山公園から眺めると ポプラ並木が縦横に走ってる。様々な少数民族が住んでいて 西域の薫りを感じる。

●石河子市:不毛の沼地を開拓した土地。一日の温度差の激しいが 最も成功した近代農業が行われている。

●伊寧(イリ、イーニン):イリ川は西へと流れ カザフスタンのバルハシ湖へ注ぐ。国境 緩衝地帯で取材できなかった。
イーニン市はハザック族など様々な人種のるつぼ。紡績工場・革加工

⇒カザフスタン ホルゴス ⇒ アルマトゥイ ⇒ キルギス ビシュケク
キルギス ビシュケク ⇒ カザフスタン タラズ⇒ シムケント

シムケンド ⇒ カスピ海 北 ⇒ 黒海 ⇒ トルコ コンスタンティノープル
シムケンド ⇒ ウズベキスタン タシケント ⇒ サマルカンドブハラ ⇒ カスピ海 北

ブハラ ⇒ トルクメニスタン マリ メルブ遺跡 ⇒ イラン テヘラン

オアシス点描・熱砂の道 現代天山南路

タクラマカン砂漠と天山山脈の境を東西に伸びる幹線

●火焔山:西遊記に800里 火の海と書かれている。

●トルファン海抜マイナス154mの 中東の死海についで世界で2番目に低いトルファン盆地で行われる葡萄栽培。天山山脈の雪解け水が 灼熱の地を潤す。
・ベゼクリク千仏洞
・高昌故城
・交河故城
・アスターナ古墓群

●南疆鉄道:トルファン~カシュガルを 天山山脈を貫いて 人民合作でつくられ 全長2000kmを超える。天山南路に沿って走る。

●コルラ
・ボストン湖:天山山脈の雪解け水が流れ込む 砂漠にある湖。

●クチャ(亀茲国):古代、亀茲(きじ)国と呼ばれ、音楽の都として知られる。バザールと踊り。
・キジル石窟

●アクス

●カシュガル:西域最大のモスクがある。

⇒ キルギス ビシュケク

すろー
すろー

シルクロード 古代よくあんなにも 熱い砂埃の中 遙かな道 よくいきましたね。
42年前の中国 現代の中国とは 違うんでしょう。

NHK特集 シルクロード第2部 最終回 「すべての道はローマに通ず」

1984年放送でした
ボスポラス海峡:アジア大陸と ヨーロッパをわける海峡で 南北に30km 幅の狭いところが800mしかない。1973年に2つの端を結ぶ橋を作成した。
ギリシャ神話で、ゼウスが恋人のイオを牝牛の姿へ変え逢瀬を楽しんでいるのを 妻ヘラが知り 恐ろしいアブを放ち イオは雌牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされています。ボスポラス海峡は「雌牛の泳ぎ渡った所」と名付けられた。

●イスタンブール:アジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがる都市です。
北に登れば黒海から草原のシルクロードにつながり、南に下れば海上の道へ
古代 ビザンティオン と呼ばれたが ローマ帝国の東の首都となりコンスタンティノープルと呼ばれ、その後 ビザンティン帝国、オスマン帝国の都として 1700年栄華を誇ってきた。

海に突き出たような形の都市は城壁を立て強固な護りだった。
オスマン軍 メフメト2世は、ビサンティン帝国を攻め 金閣湾が鎖で封鎖されている事を知り 70隻の艦隊を山越えさせ金角湾に運び 攻撃し 滅ぼした。

グランドバザール:古い歴史を持つ屋根付きの広大な市場。迷路のように走る通路に 革製品 宝石 じゅうたん 土産物などの店が並ぶ。
・金閣湾にかかる ガラタ橋
アヤソフィア
・イスラム教徒は金曜日に礼拝する。イスタンブールには1000のモスクがあるという。
・スルタンアフメト・ジャミイ(ブルー モスク

●マケドニア
●アテネ
●ギリシャ スーニオン岬ポセイドン神殿
(海の道)
●イタリア・ブリンディシ港
● アッピア旧街道 500km
●(別の海の道 ローマへ30km) オスティア・アンティカ
● パリ コロセウム:終点

新潮新書「シルクロード 流沙に消えた西域36カ国」追加事項

河西回廊を 匈奴から奪った 武帝 万里の長城築く

・紀元前111年 河西回廊を 匈奴から奪った 武帝は 黄河の西から 敦煌まで 武威・張掖・酒泉・敦煌 の4つの軍事拠点を設けた。敦煌の西北100キロ地点に玉門関、その南60キロに陽関をもうけた。そして万里の長城を築いた。

「楼蘭の美女」3800年前のミイラで 楼蘭王国が栄えた ロプ・ノール孔雀河近くの遺跡から見つかった。

ロプ・ノールさまよえる湖 として話題になった。ダムができて 干上がったが 水車を回すため水を引いたら ロプ・ノール の水位が戻ったらしい。

中央アジアのソグド人がオアシスに居住、キャラバンを組んで リレー形式で 物資を運ぶ

「胡人」ソグド人で 中央アジア ソグディアナの中心的オアシス サマルカンド(ウズベキスタン)一帯に居住していた。ソグド人の植民地 あるいは 居留地が クチャ、トルファン、敦煌など30カ所もあった。キャラバンを組んで リレー形式で 物資を運びリスクを分散した。情報ネットワークにもなっていた。ササン朝ペルシアはここにあった。

すろー
すろー

シルクロード 古代よくあんなにも 困難で長い道を…
リレー形式だったら 納得 効率的ですね。
現代の中国とは 違うんでしょう。

天山山脈北方の遊牧民の烏孫に漢から王女2人嫁いで 亀茲国と漢が友好深める

・古代シルクロード時代 西域36カ国 人口の多い順に
1位:イリ河流域に遊牧民の国 人口60万 烏孫(うそん)
2位:シル川上流の盆地 フェルガナ(大宛)(現 ウズベキスタン東部)にあった遊牧民の国 人口30万 。汗血馬と言われた良馬の産地として知られ 漢の武帝はBC104年に李広利を派遣して服従させた。
3位:亀茲(きじ)国 (クチャ) 人口8万
扜弥(うび)王国 人口2.4万
古代ホータン王国(于闐王国)
楼蘭国は小国。
ちなみに 漢王朝 人口6000万、匈奴 人口200万

奪われた王女言葉も通じない老人に嫁ぎ 孫に再嫁、2代目の王妃も2度結婚
漢の武帝張騫 (ちょうけん)を 匈奴を挟み撃ちしようと 烏孫に使わす。 使節団は300人 兵1人に 馬2頭、食糧用として 牛・羊は万をもって数える程でした。この情報はすぐに匈奴に伝わり、烏孫は匈奴を恐れ 漢に使者を立て 名馬を献じ 「漢の公主(皇女)を娶り兄弟分になりたい」と申し出ます。
烏孫は千匹の馬を結納として送り、漢は皇族の娘である江都公主を嫁がせた。烏孫の昆莫は自分が老齢だといい、江都公主を孫の岑陬に娶らせ 一女・少夫を生んだ。
江都公主が死ぬと、漢はふたたび楚王 戊の孫 解憂を公主とし岑陬に娶らせた。
岑陬が臨終の際に、王位を伯父 大禄の子 翁帰靡に与え 匈奴妻との子 泥靡が成長したら王位を譲るよう遺言した。
岑陬が死に、翁帰靡が即位すると肥王と号し 解憂を娶り 三男二女を生んだ。
長男、次男は 莎車国(ヤルカンド)の王に、三男は 左大将に。長女 弟史亀茲国王 絳賓 の妻になった。弟史は 烏孫から長安に琴を習いに来ており 帰り道 亀茲に立ち寄り、前から王女をめとりたいと申し込んでいた絳賓は 弟史を引き留め妻とし、共に漢に来て朝賀し 親漢外交を重ねた。
「解憂 ~西域に嫁いだ姫君」という映画になっていた。

・当時 烏孫の都は赤谷城と呼ばれ、イリ河沿いに上流にたどり 天山山中を越え 亀茲を通り 長安の都へ向かった。

・BC71年 亀茲に漢が攻めてきた。原因は同盟国である隣の 扜弥(うび)王国 の太子 頼丹を人質にしていた。その後 頼丹は害をなすと殺害し、漢と亀茲国は友好関係を築いた

・BC77年 匈奴寄りの 楼蘭国王が暗殺され 弟が新たな国王になり 鄯善(ぜんぜん)に改名させた。4世紀頃からロプノールが干上がるのと時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれたが、1900年に遺跡が発見された。

4世紀 五胡十六国時代

5つの遊牧民が北の辺境から侵入し 華北の地で覇権争う。
イランを中心として栄えたパルティア王国(安息国)ササン朝ペルシアに滅ばされる。
ローマ帝国と度々激闘を重ねペルシアは中国との貿易を独占。
匈奴に敗れてからは中央アジアに移動した大月氏。
大月市の支配を脱し 西北インドに侵入して クシャーナ朝を作り、東西貿易ルートを抑えていた。
しかし クシャーナ朝もササン朝ペルシアに滅ばされる

クシャーナ朝は 現パキスタンの古都 ペシャワールを都としており 西域への橋頭堡(きょうとうほ)はホータン王国(于闐国) で、扜弥王国⇒精絶王国(ニヤ遺跡)⇒且末( チャルチャン)⇒鄯善(旧 楼蘭)⇒敦煌 に至る 西域南道がさびれてしまった

替わって ササン朝ペルシア からの道、ソグディアナ⇒サマルカンド⇒パミール高原の北辺⇒疏勒国(現カシュガル)⇒亀茲国 (クチャ) ⇒焉耆(えんき・カラシャール)⇒高昌国(トルファン)⇒伊吾国(哈密)⇒敦煌 とつながる 天山南路が栄えた。

スーパープレミアム 「シルクロード 謎の民 タクラマカン砂漠 楼蘭の末えい?」

NHK BSP 2016.5 初回放送
タクラマカン砂漠は 東西およそ1000キロ 東京と鹿児島を直線で結んだ距離だ。
「死亡之海」一度入ったら生きては 出られない」という意味があります。しかしその奥に謎の民がいるという。楼蘭などシルクロードに栄えた国の 文化を守り続ける人々が暮らしているという。
そこは「胡楊(こよう)」という美しい樹木に囲まれた 奇跡のオアシス。あたりにはシルクロードの都市遺跡が砂に埋もれている。かつてこの砂漠の真ん中に高度な文明があった。
砂漠の入り口は 新疆ウイグル自治区 于田(うでん・ケリヤ)いう町です。
かつてのシルクロード 西域南道にあり ここから 北へ240km走ります。アシの草原がみるみる砂地に変わっていく。タクラマカン砂漠の奥に進んだのに、川に出くわした。ケリヤ川が 蛇行を繰り返し 砂漠の中央に流れていく。
タクラマカン砂漠は 巨大な山脈に囲まれている。南側は6000m級の山が連なる崑崙山脈、春大量の雪解け水が山裾を下る。その水が砂漠へ、川は夏に水かさを増し 秋を過ぎると涸れていく。
車が立ち往生した。タクラマカンの砂は一度はまると深く沈む。粒が極めて細かいからだ。
町から6時間120キロほど進んだ。もう360度砂の世界だ。やがて砂漠に夕闇が迫る。夜遅く人家の明かりが見えた。夜が明けると 森が姿を現した。森に現れた人 手に斧を持って 100頭を越える羊の群れを追いかけていた。ようやくオアシスに着いた。
中国で初めてその存在が知られたのは 1982年、石油資源の調査チームが偶然たどり着いた。なぜ砂漠の真ん中に巨大な森があるのか その理由がケリヤ川 オアシスまで届き ここで消える。地下に大量の水の層を作り 森を養ってきた。胡楊はポプラの仲間で1000年も生きるという。タクラマカンでは砂漠の王樹という。初夏 胡楊はオアシス中に綿毛を飛ばす。綿毛の種子がまた1000年の大木となってオアシスを守る。
謎の民は胡楊の木で家を作る。幹や枝を柱や壁にして 川岸のアシと泥で塗り固める。シルクロードの南では2000年近く前から家をこうして作った。オアシスには1500人が住む。彫りの深い顔立ち、色白で細長の面立ち、美しい緑色の瞳を持つ人も多い。オアシスの名は ダリヤブイ大きな河のほとりという意味がある。この1本の道 オアシスの繁華街だ。ここに森のあちこちから人が集まる。森はあっても作物は育たない。果物は贅沢品だ。砂漠を240キロ運ばれたスイカ皆で分かち合う。こちらはオアシスで育った羊の肉料理。小麦粉を水で溶きまぶして焼く ここ独特の調理法だ。小麦粉がカリカリに焼き上がり肉は香ばしくなる。
謎の民は羊の牧畜で生計を立てていた。エサは胡楊の葉、たくさん食べほどよく太る。おかげでダリヤブイの羊は高値で取り引きされる。元村長 68才は子供の時から羊を育て暮らしてきた。以前は羊売るとき 10日かけ砂漠を歩き町に出た。2008年携帯電話が通じ 240キロ離れた市場に電話して 羊の値段のいいタイミングを探る。
謎の民はどこからやってきたのか 元村長はダリヤブイの歴史は400年から500年と聞いていた。于田の町からこのオアシスに移ってきたそうだ。しかしこのあたりではさらに古い時代の都市遺跡が見つかっている。
美しく着飾った女性達。この日は結婚式が開かれる。クマッチと呼ばれる羊肉を惜しげなく小麦の生地で包み込む。1979年まではオアシスで小麦が実った。今は町で買っている。そのクマッチを砂漠の砂のいろりに放り込む。花嫁の家に親戚や友人が集まり ウイグル族のダンス。
ダリヤブイの人達はウイグル語を話しイスラム教を信仰する。中国政府は彼らをウイグル族としている。トラックで乗り込むのは 花婿と家族や友人。花嫁を花婿が連れ出す習わしで 500人を越える人達。女性の服装なんとも不思議だが 頭の小さな帽子はこの地方にしかないという 世界一小さな帽子らしい。
伝統衣装の着付けを見せてもらう 親は娘が結婚して子供を持つと一人前の証としてこの帽子を贈る。黒い衣装は冠婚葬祭の正装胸元に7つの青い線。花婿が到着した。花嫁の一族に迎えられ緊張した面持ちだ。住み慣れた家を後にする花嫁、花婿の家に向かうが友人が縄で道を遮る。出発が出来ない 初めての試練 どうやって乗り切るか? 花婿が踊り出し皆が喜び縄をはずすまで続けられる。

ダリヤブイの 人々はどこから来たのか?なぜ砂漠の真ん中に住み着いたのか?シルクロードの考古学の第1人者に会いにウルムチの研究所を訪ねた。そこにあったのはタクラマカン砂漠から発掘された150体の古代人のミイラ。
2000年前のシルクロードの遺跡で発掘された王様のミイラ。その装束には漢字が記されており数千キロ離れた中国の王朝と貿易を行っていた。
およそ4000年前の地層から見つかった女性のミイラ 20代と推定され 今にも目を覚ましそうほど美しい。顔に乳白のクリームを塗っていた。このミイラが見つかったのはダリヤブイから東へ600キロの砂漠の東端、そこは2000年ほど前 シルクロードの交易で栄えた楼蘭王国のあった場所でさらに2000年遡ってそこに眠っていた。この女性は 目がくぼみ 鼻は高く 面長で小顔 髪は亜麻色という特徴を持つ。現在のヨーロッパ人と同じ白人種と考えられる。牛の皮で作ったブーツ、草で編まれたハンドバックには小麦が入っていた。羊の毛糸を用いたフェルトの帽子をかぶっていた。そして鳥の羽のアクセサリーが刺してあった。
ダリヤブイのすぐ北で 身長180cmもある男性のミイラが2008年に発掘された。高い鼻落ち込んだ目こちらも白人種とされる。フェルトの帽子をかぶっていた。鳥の羽のアクセサリーもあった。
2つのミイラを結ぶのは 川。砂漠の北を流れるタリム川、そして今はダリヤブイの先で消えるケリヤ川 古代にはタリム川まで流れこんでいたと考えられる。ヨーロッパ系の人達は 黒海沿岸から南シベリアを経てタクラマカン砂漠の周辺まで来た。タリム川に沿い そのまま下流にある湖の近くで生活を始めた。
それが4000年前の女性。一方ケリヤ川の合流地点で向きを変えダリヤブイ近くで住んだ男性。
現在のオアシスの人達と 4000年前のミイラはケリヤ川を通じつながっていた。
8月胡楊の緑が深くなり 崑崙山脈の雪解け水が増してくる。夏休み子供達が町から戻ってきた。

オアシスの子供達は小学3年生までは村で学ぶが 4年生からは町で寄宿生活を送る。小学4年生のウリニシュハンは久しぶりに家族と過ごす時間だ。黄色い服はお気に入り この地方独特の模様だ。2つ下の弟と6つ下の妹がいる。オアシスの女性は じゅうたんや壁のクロスを自ら刺繍する。母から娘へと伝えられる刺繍。アシを刈る仕事羊のエサになる、父ヤコフは視力を失ったので 羊の放牧は出来ない。日々仕事を見つけ家族を養っている。
戻った子供達にクマッチを振る舞う。ここの井戸水は塩辛く ちょうど良い味付けだ。
ウルムチの大学で経済を学ぶ 21才の女性。ダリヤブイで初めての大学生だ。通りを歩けば人々から声がかかる。はじめは友達も出来ずひとりぼっちだったが なんとかしたいと夜遅くまで勉強して ある日クラス1になれ ようやく認められ 友達が出来た。焼き上がったクマッチを発酵させたお茶に浸して食べる。
夏休みが終わり 子供達がトラックの荷台に乗り帰っていく。

バザールの町于田を訪ねた。あちこちのオアシスから羊や特産品が集まる。ヨーロッパとアジア境目 多くの民族が集まっていた。競り落とされた羊達もいた。1頭1000元(16700円)だそうだ。

オアシス ダリヤブイの秋、胡楊の葉が黄金色に染まる。ケリヤ川の水は減り穏やかに流れる。
黄金色の胡楊の風景は中国では「死ぬまでに必ず見たい絶景の1つ」といわれる。

元村長 現在飼っている羊は400頭、オアシスで1.2を争う。秋は長い冬の前に羊たちを太らせる忙しい季節。毎年1度羊を売りに行く。トラックは使わない 昔ながら10日かけ 歩いて行く。毎年40から50頭売って小麦や日用品を買う。冠婚葬祭など式を出すとき15頭売ればなんとかなる。8人の子供はオアシスのあちこちに家を構え 今は妻と2人暮らし 。明後日は親戚の集まりがある。息子から電話があり 子供が生まれたという 明日迎えに来てもらうことに。祝いの品を準備し 14人目の孫に会う。
次の日 親戚の家で死後40日目の儀式を行う。多くの人が集まり女性はあの黒い衣装です。
一族が向かったのはオアシスの共同墓地、胡楊の丘でした。胡楊の枝を折り墓に刺す。墓に来る度に刺す。新鮮な胡楊の枝を刺せば亡き人の罪を減らすことが出来る。亡くなった人が安らかに過ごして欲しい。楼蘭のミイラの墓も胡楊がたくたん刺してあった。
遺体は砂の上に直接置かれ 胡楊のひつぎで覆い、さらに胡楊の板でひつぎの前後をしっかり密封する。そこに灼熱の太陽にさらされた砂漠の砂をかける。遺体は腐敗が進む前に急速に乾燥する。こうして人々は生存した姿を残し 永い眠りにつく。タクラマカンタクテイ「地下」 マカン「楽園」の意味がある。亡くなった人が死後も安心して暮らせる楽園が この砂漠の地下に作られた。

紅柳の林に2人の男が来ていた。「大芸」と呼ばれる漢方薬を紅柳の根に寄生させていたものを 目の見えないヤコフが掘っていた。稼いだ金を娘に渡すためだ。1日中掘って 50キロ 40元(670円)。町に行く人を探し お金を2000円ほど託した。

ヤコフの娘のいるオアシスから240キロの小学校を訪ねた。ダリヤブイの子供達だけのクラスで制服を着て音楽の授業を受けていた。寄宿舎は1部屋12人の部屋で、将来医者になり 父の目を治したいと夢を語った。
オアシスの北側 乾燥が進み 胡楊が涸れてきた。これは今に始まったものではなく ダリヤブイから西北に25キロ 紀元前3世紀頃から栄えた カラドン 川筋が移動し5世紀頃放置された。
ニヤ川流域 シルクロード有数の オアシス ニヤ巨大な仏塔が今も残る。しかしその繁栄はニヤ川の衰退により4世紀頃 砂に埋もれたと考える。

オアシスのたった1つの小学校 3年生まで60人が学ぶ。中国の標準語の授業をしていた。将来ダリヤブイを離れ都会で暮らしても困らないように。
オアシスの臨時集会 涸れゆく ダリヤブイの将来に危機感を強める地元行政は 人々に町への移住を強く勧めている。
「当局はダリヤブイの家は 家として認めない。必ず町に家を持ちなさい。まだ4割しか移住していない。都会の企業と労働契約を結びなさい。そうすれば安定した収入が得られます」
ダリヤブイの人口は意外なことに 60年で5倍に増えた。だが水が減れば人々を養いきれない。ダリヤブイの人達は羊の放牧を止め 町へ移住するか否か 選択を迫られている。
砂の中の「大芸」を娘達のために掘り続けるヤコフ。「目が見えなくてもお金が稼げるのはありがたい。この仕事が出来なくなったら 私はどうしたらいいのか?」

ダリヤブイの春 砂嵐から始まる。崑崙山脈の雪解け水が山を下り始めた。胡楊の木々もまもなく芽吹く。ケリヤ川の川辺に大勢の男達が集まっていた。手に桑を持ち 一心に振るっている。重機も運んできた。彼らは今堤防を作っている。川の向きを変え 雪解け水をオアシスの乾いたところに届ける。自らの手でこのオアシスを守るのだ。およそ50mの土の堤防が完成した。ケリヤ川は大きく右に流れを変えた。その先は 枯れかけた胡楊の森。
春 またたくさんの子羊が生まれた。

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