NHK BSP で始皇帝の道と万里の長城 を見ました。WOWOW 始皇帝 天下統一 のザッとあらすじと戦った場所をマーキングしました。古代の都は 現在と呼び方が変わっている所もありました。
中国の1里は500mだそうで、咸陽からどのくらいかかって移動していたか気になります。
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空旅中国 始皇帝 永遠を求めて
NHK BS 初回放送: 2024年2月
中国を最初に統一した秦の始皇帝、統一した地を5回も巡行した。
始皇帝が統一する前の中国は群雄割拠し500年以上激しい戦いが繰り広げられていた。39歳にして天下統一を 紀元前221年 成し遂げた。秦咸陽城 から20キロ離れた 現在の咸陽市には馬車に乗っている始皇帝の像がある。
天下統一の翌年 西へ旅に出た。関山草原 その600年前 非子という先祖が王のため数多く繁殖させた。非子は褒美に 領地と 嬴の姓を賜り 秦という小さな国を建てたという。始皇帝の本名は嬴政。
崆峒山 Kongtong Mountains 始皇帝も通ったと言われる。鋭い峯のように厳しい社会の仕組み。それが魔法のように 秦を強い国に変えていった。
始皇帝の6代前の王のため商鞅という家臣がおこなった大改革「商鞅の変法」それまで家柄や身分が重視されていたが 変えようと法律を徹底し 厳しく罰することで社会を統制した。戦では手柄がなければ貴族でも特権を奪い取り没落させる。一方敵の首を取れば名もない庶民でも 高い位や褒美を与える。秦は強い兵士を持つ軍事大国になった。天下統一後 法律による厳しい支配を全国に拡げていった。
都 咸陽の北を流れる 涇水(けいすい)のほとり 鄭国渠という 今も使われる用水路、水利技術者の鄭国によって十数年の年月をかけ建設され、琵琶湖の3倍近くの広大な農地が肥沃になり 凶作を免れ 豊かになった。
さらに西北 歴代の秦の王が北方の異民族と戦い続けた最北の地 臨兆、隴西。ここに長城を建設、征服した国々の元あったモノとつなげ東西4000キロを越える万里の長城を作りあげた。祖霊に天下統一を報告し 勢力を伸ばす 匈奴に対する威嚇の意味があった。
始皇帝は 重さや長さの度量衡、通貨も全土で統一、さらに文字や書体までも、こうした政策で 地域が分裂するのを防いだ。
河南省の黄土高原には 地坑院とよばれる 4000年前からある 洞窟住居に今も住んでいる。夏涼しく 冬温かいそうだ。勝利した兵にふるまったヤギのスープが今も食べられている。
函谷関から東へ300キロ 見渡す限りの平原地帯、かつて韓の領土だったところ 都(鄭韓古城)を守る 土塁が残る。樹木の茂る 博浪沙 で張良(後の漢 劉邦の軍師)に鉄槌が投げ込まれる 暗殺未遂が起きた。
山が高く霧が立ち込めている 雲台山、延々と続く 高さ250mもある断崖絶壁、その中腹に道が通っている。崖の上にある万仙山郭亮村、戦乱を逃れ住んだという。
趙の都 邯鄲 趙王城 に始皇帝の父 嬴子楚が和平のために人質として趙に送られてきていた。子楚は側室の子でいつ殺されてもかまわない存在だったが 大商人 呂不韋 が野心を込めて援助した。子楚が妻を迎え生まれたのが 後の 始皇帝 嬴政。子楚だけが秦に帰国 後継者となったため 政と母は 秦に送られた。
「邯鄲の夢」という故事ゆかりの寺 呂仙祠。
むかし盧生(ろせい)という貧乏な書生が、趙の都・邯鄲で栄耀 栄華が意のままになるという枕を仙人から借り受け、うたた寝をした。このあいだに、50年余の栄華の思いを遂げることができたが、夢が覚めると、炊きかけの粟もまだ煮えておらず、自分は相も変わらぬ貧乏書生であったという。
伝統音楽の老腔(ろうこう) 今も続いている。
七千の石段の先の 泰山で天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する 儀式 封禅(ほうぜん)を行った。泰山を祭る 岱廟に刻石が残る。近くの 孔子廟 Cemetery of Confucius 2000年に渡り 10万もの孔子一族の墓がある。始皇帝は 儒教の経典を焼くことを命じ 儒学者など400人を生き埋めにする 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行ったと伝えられている。
さらに 東の地の果てるところで 初めて海を見た。不老不死への思いで何度も訪れるようになる。海上第一の名山 嶗山(ろうざん)で仙人と出会い 蓬莱山で 不老不死の薬を手に入れられると聞いた。
琅琊台(ろうやだい)から 仙人になる修行中の徐福が 3000人の童男童女を引き連れ 日本に蓬莱山を求め 船出した。
山東半島の先端 成山頭 で徐福の帰りを待った。不老不死を語る輩も多く居て 焚書坑儒 に含まれるという。
5度目の巡行で 体調を崩し 不老不死の薬といわれる水銀に手を出し、旧趙国の離宮の沙丘平台で亡くなった。享年50。皇帝の死は伏せられ 暑いさなか 遺体は咸陽に戻った。
咸陽近く(現 西安市)に 秦始皇帝陵博物院、兵馬俑(死者とともに埋葬された 兵士や馬をかたどった像が数千もある)
空旅中国 英雄が駆けた道 「始皇帝の道」
NHK BSP 初回放送: 2021年4月
※空旅中国 「万里の長城」に含まれていた。
秦の始皇帝は全国を統一した後 北の匈奴対策のために 首都の咸陽から 北の九原まで、700キロに及ぶ直道を建設、その北に長城を築いた。
空旅中国 「万里の長城」
NHK BSP 初回放送: 2019年4月
中国の初めての長城 2500年前 楚が築く
中国の初めての長城は 河南省 方城県 にある 楚長城遺址 ふもとの谷から 石を運び 尾根に積み上げた。
2500年以上前 春秋時代 「楚」という国があり 領土を守るため 国境の山々に長い壁を作った。
紀元前656年 黄河流域の8カ国の連合軍が 楚を取り囲んだ。
楚の王は「徳を持って我が国を従えようとするなら帰服しましょう。力で押さえようとするなら 長城を城壁とし戦いましょう」と申し出ると、堅固な長城をみたのか 戦わず楚と和睦。
戦国時代 楚は韓との国境に・趙は北の遊牧民対策
戦国時代(BC403~BC221) 楚は黄河から南には離れた地にあり、韓との国境に長城があります
西には秦、そこに軍事大国趙が登場、北はモンゴル高原に接する国です。
趙の都 邯鄲 ひときわ華やかな街で 歌舞音曲も盛ん。北には 趙の長城 高さ3,4m土を積み上げ 300km続きます。北方の遊牧民 馬で羊を追い暮らす人たちが 趙に侵入し始めます。
趙の武霊王は「遊牧民ができることは我が兵にもできる」と、兵士に遊牧民と同じズボンをはかせ 馬から矢を射らせた。胡服騎射という強力な騎馬隊になる。遊牧民を追いやり 領土を拡げ 境界に 長い土の壁を築いた。
秦の始皇帝 趙・燕が作った長城と連結
秦の始皇帝が200年に及ぶ戦国時代に終止符を打ち 中国で初めての統一国家を作ります。
秦の始皇帝が生まれたのは邯鄲。父親が人質になって趙の都で住まわされていて 美しい女性と出会い のちの始皇帝を産んだ。始皇帝は9才で秦に戻り やがて王になり 39才で 中国を統一した。
※空旅中国 英雄が駆けた道 「始皇帝の道」という番組がありました。
始皇帝は全国の街道を整備 車輪の幅 国毎に異なっていたのを統一した。1つの馬車で全国までいけ 商業が栄えます。
軍事用道路の「直道」を作る。現在 二つの山になっているところ 皇帝の離宮 林光宮跡 があったところから まっすぐ北に700キロ 兵士や武器 軍事物資を運ぶ 中国最古の高速道路です。(今 見えているのは観光用に復元)
柔らかく肥沃な大地は 殆ど痕跡を残していない。
あるところでは 畑の近くに深い溝があり それに沿って 幅30~50mの道路が北に 延びていた。
(Googleマップで 秦直道博物館 西の あたりを地形を表示にすると判るらしい)。
司馬遷は「史記」に「山を塹り谷を埋めて直に之を通す」と書き記していた。
匈奴とよばれた北の遊牧民族対策のために 築いた直道の北の端に始皇帝が作った拠点 九原郡 麻池古城。ここで 軍事物資を仕分けます。さらに北に50キロ 匈奴の住む山々に送り 石の壁の長城を築いた。
始皇帝は 30万人を動員 長さ数百キロ 建設。趙・燕が作った長城と連結して全長4000キロを越えた。中国の単位でいえば1万里、だから万里の長城です。
始皇帝が 長城を整備したのは ある予言「秦を滅ぼすものは胡なり」だった。
天下統一後10年余り、始皇帝は 全国を巡り旅の途中 病で亡くなった。亡骸は自ら作った街道を通り 都に帰った。途中で家臣達が 始皇帝の遺書を書き換えた。この遺書により次の皇帝が決まる。皇太子ではなく 末子の胡亥。2代皇帝 胡亥は各地で起きた反乱を抑えられず 僅か4年で 秦は滅んだ。予言があっていた。
WOWOW 始皇帝 天下統一 (原題 大秦賦)
第1話「邯鄲の少年」
紀元前259年、長平の戦いの後、趙の都 邯鄲を攻略する。邯鄲に人質として滞在していた秦国太子・安国君の子 エイ(嬴)異人は呂不韋に促され、邯鄲を脱出。妻の趙姫および子の政は、邯鄲にとり残された。
第2話「脱出」
呂不韋は安国君の妻 華陽夫人に面会し、エイ異人を養子にするよう勧める。
一方安国君の庶子のエイ傒はエイ異人を連れ去ろうとするが、華陽夫人の弟の陽泉君に救われる。
趙姫と政は、申越に連れられ邯鄲脱出を試みるが、魏の援軍が駆け付けたため、趙の城内にとどまる。華陽夫人はエイ異人に名を子楚と改めるよう勧め 養子縁組の条件として韓王の娘との結婚を突きつけ、呂不韋に説得された嬴異人はやむなく韓霓と結婚する。
第3話「子楚の加冠」
子楚は正式な嫡子となった。それから間もなく西周君は周の天子の名のもとに、合従軍とともに秦への攻撃を始めた。戦いは秦が優勢となり、子楚は監軍役として和議に臨むが、合従軍の平原君は趙姫とエイ政の命を交換条件に秦へ譲歩を迫った。
第4話「天下を胸に」
秦は西周の領土と王権の象徴である九鼎(きゅうてい)を手に入れるが、途中の混乱で豫洲の鼎は泗水に沈み、子楚も病に倒れる。
秦の昭王の夢にエイ政が現われ 子楚の息子であることを知った昭王は、趙から呼び戻すよう言い残して死ぬ。昭王の崩御を知った趙王は 王権交替の隙を狙って領土奪回を画策。
趙に残されたエイ政は少年に成長し 申越から教えを受ける。同じく人質となっていた燕の丹王子と 趙の王子 趙偃にいじめられていた。
第5話「再会」
趙の攻撃をかわすため 秦は燕との協力をもくろむ。この案を出した呂不韋は、太子の教育係に任命される。燕からの攻撃を受けた趙は秦攻めを断念し 趙姫 エイ政を秦に送り届け 盟約を結ぼうとする。
子楚は 華陽夫人に韓霓を正妻に選ぶよう迫られる。ようやく咸陽にたどり着いた趙姫とエイ政だったが、華陽夫人の意を受けた陽泉君により 入城を拒否される。
第6話「王の剣」
趙姫とエイ政は国境から戻ったエイ渓の口添えで入城を許され、大王のエイ柱(安国君・孝文王) はエイ政に秦王の象徴である剣を授ける。
華陽夫人もしぶしぶ 子楚に母子との生活を許す。子楚との関係を修復しようとあいさつに訪れた陽泉君に 剣を振り回したエイ政を子楚が危うく止める。
昭王の葬儀に参列するため 6国の使節が到着。時同じくして趙が燕に大勝したとの情報が入るが 趙との交渉を有利に進めるため 趙の平原君の耳に入れないよう画策する。
第7話「子楚の即位」
策にはまり、秦と盟約を結んだ 趙の平原君は孝成王になじられ その場で息絶えた。
孝文王(柱、安国君)が即位するが わずか3日で崩御し、子楚が荘襄王となった。
丞相には陽泉君が内定していたが、子楚は呂不韋を強引に任命。華陽太后や臣下の間には不満が渦巻き呂不韋を暗殺しようとする。
第8話「丞相 呂不韋」
荘襄王(異人・子楚)はエイ傒の宗室への影響力を利用すべく 要職に任命する。
呂不韋は華陽太后に 陽泉君の暗殺未遂を追究しない代わりに 自分が丞相になることを認めさせる。さらに東周討伐の勝算が高いことを知り 呂不韋は 自分を認めさせるため 主将として兵を率いて 戦地に赴く。東周君は各国に援軍を頼むが 助けるフリをして韓と魏は東周の領土略奪を始めた。
第9話「東周滅亡」
東周はあっけなく陥落し、秦はますます領土を広げる。
聡明な若者に成長したエイ政は華陽太后と政治談義をするほどになっていたが、毒殺未遂に遭う。下手人を巡り、朝廷には波紋が広がった。荘襄王の体調が思わしくない中、呂不韋は天下の俊才を秦に集めようと斉の稷下学堂に使いを出す。荀子の下で学ぶ李斯は自身の学問を秦で活かそうと求めに応じる。
第10話「裁かれぬ宴」
呂不韋は荘襄王にエイ政を早く太子に立てるよう進言。荘襄王は宗室の宴席でエイ政の立太子を宣言しようとするが、華陽太后の仕組んだ演目で母の趙姫を侮辱されたエイ政は役者を殺してしまう。
荘襄王はエイ政と趙姫を監禁、自身は心労で倒れ、華陽太后は成蟜を太子にするよう迫る。
陽泉君から エイ政の出自について 耳打ちされたエイ傒は 監禁中の趙姫を訪ねる。
第11話「華陽の変」
監禁されていたエイ政は「政は呂不韋と趙姫の子」という噂を聞き 激しく動揺する。噂は貴族や宗室の者の間にも広まっており、太子擁立を巡って様々な思惑が渦巻く。
蒙毅、蒙恬の助力で脱出したエイ政は呂不韋の元を訪れ 真偽を問い正すと 秦王の血を継ぐ者として強く生きるよう諭された。
第12話「太子 政」
呂不韋は閲兵式のため集結した1万の大軍を後ろ盾に大臣と宗室とともに王宮の門を突破し、陽泉君とにらみ合いの状態が続く。王宮内ではエイ傒が趙姫を救出、エイ政が荘襄王を救出し、一触即発だった呂不韋と陽泉君の前に現れたことで衝突を回避する。華陽太后の企ては失敗し、荘襄王はエイ政を正式に太子に立て、閲兵式でエイ政に支えられながら亡くなる。
第13話「若き秦王」
ついにエイ政は秦王となった。呂不韋は相邦となり、エイ政の仲父(ちゅうほ、叔父)の立場で今まで以上に強大な権力を持つ。年若いエイ政が王となって 趙偃も太子の座を狙い始めた。
天下統一を見据え 呂不韋は天下に人材を広く求め 才を誇る者が多数詰めかけ、その中には稷下学堂の俊才 李斯の姿もあった。
第14話「奇才 李斯」
趙姫は先王亡き後、咸陽での後ろ盾を求めて呂不韋に急接近する。相邦府の舎人として入った嫪毐(ロウアイ)は、酒店でただ食いをしようとして袋叩きにされるところを李斯に救われる。
李斯は相邦府の前に秦の天下統一の必要性を書き それを読んだ呂不韋は李斯を相邦府に舎人として招き入れる。
第15話「独裁」
秦は東方進出を再開、法による統治を進める呂不韋は、廃止した斬首を敢行した麃公を引退に追い込む。独裁を進める呂不韋に 政は複雑な思いを抱く。
韓では王子である韓非が政治改革による富国強兵を進言するが 取り入れてもらえない。また趙では太子の座を狙う趙偃が毛遂の取り込みを図る。
趙姫からのとりなしもあり 政は呂不韋が進める政策に 李斯の名を発見した。
第16話「鄭国の使命」
韓王は秦の東方進出の勢いを弱めるため、鄭国を送り込んで大規模な灌漑水路の建設をさせようとする。呂不韋の相邦就任祝いの特使の鄭国は 韓非の友人であった李斯を訪ねる。李斯は王綰を通じ 呂不韋に鄭国を受け入れさせる。
趙の特使 毛遂は呂不韋に太子の趙佾を人質として呼ぶよう勧め 呂不韋は姚賈(ようか)に趙佾を連れてくるよう命じる。
第17話「禍根」
呂不韋の下で働く嫪毐は、突然重罪により刑に処すと拘束されたが、気がつくと趙姫がいる宮中に運ばれていた。李斯は秦を離れようとするが 呂不韋は李斯の才能を確信し 政の近くに置く。
趙では太子趙佾を人質として秦に送るか否かで紛糾していたが 趙偃の意をくんだ毛遂に説得される。
第18話「心志」
趙王は太子の趙佾の代わりに趙偃を人質で送ろうとするが、趙偃は愛妾の計らいで秦の使節の姚賈から圧力をかけ、さらに毛遂が趙王を説得して趙佾を送るよう呑ませる。
李斯は樊於期の元で護衛として勤めていたが、庭石に秦を批判する文字を彫り 樊於期に問い詰められるのをエイ政が聞いていた。
第19話「趙偃の画策」
趙の太子趙佾が人質として咸陽に来ることになった。邯鄲の人質時代を思い出し 復讐を果たそうと考える政だったが、呂不韋や李斯に諫められる。しかし趙攻略の計画を聞かされていなかった趙姫が 趙佾を苦役につかせろと命じてしまう。
秦における太子の処遇を聞き 趙王は怒り 秦攻め行い 落馬して病床につく。
第20話「心友 来る」
趙王は臨終間際に太子の趙佾を連れ戻すために 毛遂を秦に派遣するが、趙偃と郭開の画策でで毛遂は殺される。趙偃が王位につき、丞相に任命された郭開は宿敵の廉頗を排除する。
政は趙佾に 趙佾が王位に就いたことを知らせ 一気に趙を攻めようとするが 止められる。邯鄲で 人質として 政と苦楽をともにした燕の太子 丹が秦にやってきます。
第21話「亀裂」
燕の太子 丹は 燕と秦の連合による 趙の邯鄲を落とす案を申し入れます。秦王の政もこれに賛成する意向でしたが 相邦の呂不韋は国策である水利工事と趙への出兵の両方は賄えないことから 兵を出さなかった。
第22話「堪忍の代価」
呂不韋の舎人 甘羅の策により 秦は趙から城や土地を割譲することに成功するが、これは燕との連合を破り 秦王の政の意思に背く形となり 甘羅は王に殺されてしまう。
これを発端に 政は呂不韋に対して更なる不信感を抱く。
第23話「出会い」
秦王の政は 相邦の呂不韋との対立から 李斯を御史に起用しようとするが、相邦は権力を掌握し 趙姫を味方につけ 王綰を御史に 嫪毐を内侍長にする。
雍城にいる太后の趙姫に 不満をつのらせた政が会いに行きますが、嫪毐との子供2人を産んでいた太后は 国事を放り出し 少人数で来るなんてと とがめます。
政は気晴らしのため驪山へ競馬に出かけ、のちに妻となる羋華に出逢う。一方、人質として秦にいる趙佾は 趙の王となった弟の趙偃から 王位を奪うことを企てる。
第24話「呂氏春秋」
華陽太后は羋(び)一族の再起を図るため羋啓の娘羋華を秦王の政の元へ送るが、政の母である趙姫は斉の王女離秋を嫁がせるつもりだ。朝廷の権力闘争に勝ち取るべく趙姫は数年ぶりに咸陽へ戻るが、政は楚に帰ろうとする羋華を追いかけ、母の出迎えを怠ってしまう。相邦の呂不韋は6年かけて『呂氏春秋』を編纂し、この頃完成した。
第25話「楚から来た花嫁」
秦王の政は華陽太后が推薦する楚の娘羋華と 母趙姫が呼んだ斉の王女離秋 結婚をめぐる権力闘争が表面化し悩む。李斯は斉にも楚にも義理が立つ 両者を同時に娶ることを進言する。斉の離秋を迎える宴の席で、政は羋華の後を追い外へ出ていく。
第26話「敗局」
政は楚の羋華と斉の離秋を同時に妻として迎えることにしたが、後宮が原因になる混乱を避けるため 王妃を立てないと宣告する。弟の偃に王座を奪われ、人質として秦にいる趙佾は復讐のため 趙に帰りたいと相邦の呂不韋に懇願する。相邦は趙の内乱が秦に有利だと考え 護衛付きで佾を邯鄲へ送る。
第27話「合従軍の形成」
趙太子の佾は趙に帰還するが 邯鄲に到着する前に弟の趙王偃の夫人の姦計に引っかかり、自ら王位奪還の念を諦めざるを得ない状況に陥ってしまう。相邦が画策した趙への謀略は打ち砕かれた。秦王の政の加冠を前に趙は他国と合従して秦攻めを図ろうとする。
第28話「守られた都」
趙、楚、燕、魏、韓と5国の連合により60万の兵が秦への攻撃を繰り広げる。合従軍の進撃は咸陽まであと一歩の蕞城まで迫ったが 秦軍の奇襲が成功し勝利を収めた。
第29話「巻き狩り」
秦王のエイ政は婚儀を済ませ、加冠の儀を前に自ら親政への準備のため、嬴一族の宗室だけを宴に招待した。宗室側も戦功が爵位へと変わる日を待ち望み、政を支持することに合意したが、国政を握る呂不韋と太后の趙姫は失権を恐れ 政の親政を拒み続けた。
第30話「勝ちは禍」
政は競馬で弟の成蟜(せいきょう)に負けたことが朝廷の権力闘争に利用され、成蟜の母 韓霓は 母国の韓に助けを求める。韓は成蟜の率いる秦軍に韓の城を密かに割譲するという策を考えた。
第31話「渦巻く懸念」
秦王の政は戦わずして韓から五つの城を勝ち取った成蟜の功績に応じて長安君の爵封を与えるが、成蟜を秦王に立てようとする韓と成蟜の母韓霓との間で交わされた密書が暴かれてしまう。政は弟の身を案じ 監国太后の趙姫を訪れる。
第32話「仕組まれた謀叛」
政は異母弟の成蟜を守るためにも 自ら政権を握る必要があると悟り、宗室を味方に親政の準備を急ぐが、韓と趙は政を廃し成蟜を王に仕立てる狙いだ。一方、相邦の呂不韋は権力を握り続けるため、韓を討伐する名目で成蟜を出征させた上で 謀反の罠を仕組む。
第33話「弟の死」
成蟜はとうとう敵と通じて国に叛し王を陥れんとしたと 処刑された。相邦の呂不韋は韓と趙を利用して成蟜を殺すことに成功した上、政情の不安を口実に政の加冠と親政を2年延期。
政は親政を阻止するためだったと悟る。
第34話「太后のお気に入り」
成蟜の死後 呂不韋は監国太后の趙姫を味方に実権を握り続けるが、趙姫は呂不韋と重臣たちに 宦官の嫪毐に爵位と領地を与えるよう求める。呂不韋は嫪毐を昇進させますが、嫪毐が宗室と争うのをみて叱責する。政は母である趙姫がなぜ1人の宦官のためにそこまでするのかに疑問を抱く。
第35話「巻き狩り」
嬴一族の長で 秦王の政の伯父であるエイ傒は 自分と激しく対立する嫪毐を処罰しない 呂不韋に不満を漏らす一方、嫪毐を庇う趙姫に複雑な思いを抱き、趙姫が送ってきた宮女の紫を受け入れてしまう。李斯は密かに 嫪毐のもとにエイ虞を内偵として送り込む。
第36話「異なる備え」
秦王の政は東方進出に備えるため、長年相邦の呂不韋の管轄下にある軍の装備・武器の備蓄や軍隊の編成状況 および8年も続いた水路工事の進捗状況を確認するため 視察に出かける。趙姫は強引に 嫪毐に山陽の地と長信侯の爵位を与える。
第37話「魏への条件」
長信侯の嫪毐の祝宴に文武百官はおろか 太后の趙姫に 魏を含む列国の使者も駆けつける。秦の将軍 樊於期が魏を討伐し 魏は秦に和平を求めてきた。秦王の政は秦から魏に通じる馳道を作り 魏と秦の民が自由に往来できること、魏では秦の文字を用いることなどの条件を出す。
魏から使者が来て3城渡すとといわれ 呂不韋は10城 要求。再度 長信侯の領地として5城献上し停戦を求めると 太后が勝手に受諾、さらに 「魏からの5邑と太原郡を長信侯の封地として付与する」と命を出す。
紀元前238年春 楚の王が亡くなり 華陽太后は落胆、嫪毐は政の加冠が数ヶ月後なのに 李斯を楚へ派遣するよう進言します。
第38話「妥協」
政の親政を前に、相邦の呂不韋は『呂氏春秋』をよりどころに国を治めることを望んでいることを上卿の姚賈を通じ政に伝える。政はこれを了承し、加冠の儀式が終わるまで 太后の詔を乱用する嫪毐に対して妥協する。
第39話「関内侯と呂不韋」
宗室の長である関内侯が咸陽に戻り、相邦の呂不韋は太后との対立を避けようと 宗室と組むことになる。関内侯は太后の趙姫を後ろ盾に悪行を繰り返す嫪毐に協力するエイ虞を宗室から除籍するが、後にエイ虞に咸陽獄で尋問されることになってしまう。
第40話「怒りの頂点」
呂不韋と渭陽君のエイ傒は関内侯を救出するため 嫪毐のところに駆けつけて来たが、関内侯は嫪毐に従う エイ虞に拷問のうえ死んでしまう。さらに身ごもっている渭陽君の夫人が嫪毐に強姦され 井戸に身投げしたことで 渭陽君は嫪毐を殺すと誓った。一方のエイ虞は李斯の暗示に従い、秦王の政に太后と嫪毐に2人の子供がいるという秘密を伝える。
第41話「秘密の露呈」
渭陽君のエイ傒は朝廷で長信侯の嫪毐の悪行を暴露し刀で殺そうとしたが、秦王の政は太后の秘密までばれるのを防ぐため渭陽君の腕を切り落としてしまう。宗室は嫪毐と対立する中、呂不韋は 政がすべてを把握し動かしていることに気づく。政は太后と嫪毐が住む甘泉宮を訪れ、そこで2人の子供を目にします。
第42話「王の布陣」
秦王のエイ政は太后と嫪毐の子供を確認すると、嫪毐は政を殺そうとするも失敗に終わる。魏と連携して 秦の王座を狙うエイ虞に利用されていることに気づかず 太后を後ろ盾に叛乱の準備を急ぐ嫪毐。実は李斯とエイ政はすべてを把握し動かしていた。
第43話「王璽」
嫪毐との謀叛を成功させるため エイ虞は外国と通じ密かに働いた結果、趙・魏・韓が50万もの兵を率いて秦の国境に迫ることになった。呂不韋は嫪毐を捕らえ シメ殺そうとしたが太后と政に止められます。呂不韋は長い間持っていた 王璽を太后に渡し 嫪毐は王璽と太后璽の両方を手に入れ、至高の権力を握ることになった。
第44話「漁夫の利」
秦王のエイ政に呂不韋は「なぜ嫪毐の殺すことをとめた」と問うと「謀反を起こした後始末すれば正当な行為になる」と言います。政は 老いた呂不韋と嫪毐をぶつけ「漁夫の利」を得るつもりでした。政の息子 扶蘇は病気で連れて行けず 幼なじみの冬に預け 樊於期に護衛を命じます。紀元前238年 政は加冠の儀を行うため 太后の趙姫と秦の古都 雍城に向かった。咸陽に残った嫪毐は王璽と太后璽を乱用し挙兵の準備を整えていた。一方の呂不韋は監国を代行して嫪毐から咸陽を守ってほしいと政に頼まれ 謀叛軍との激戦になった。
第45話「王子のゆくえ」
将軍の王翦は虎符をエイ虞から奪い返し 政がいる雍城の危険を察して、急遽一万の援軍を統率し向かう。政の息子 扶蘇のいる 章台宮をはじめ咸陽の隅々まで嫪毐の反乱軍に占拠された。追われた冬は嫪毐に刺され命を落とすが 扶蘇は逃れた。イ姓一族は 将軍の樊於期とともに決死の戦いを繰り広げる。雍城に秦の民が 政を助けるために押し寄せる。
第46話「加冠の儀」
紀元前238年4月 反乱軍がエイ政の王位と命を狙って雍城へと突進する中、22才になったエイ政は予定通りに加冠の儀を行い、王璽を手に入れることで親政を始めた。これにより相邦の呂不韋が国政の実権を握る時代は終わり、監国太后の趙姫も嫪毐の叛乱が原因ですべてを失うことになった。
第47話「親政の始まり」
嫪毐は車裂きで処刑され、太后も雍城に幽閉されてしまう。呂不韋は嫪毐を太后のもとに送り 反乱に到った責任で 朝廷を離れることになった。秦王の政は嫪毐の乱を平定した臣に各々の功績に応じた爵位と恩賞を与え、李斯を参謀に親政を始めた。
宗室の起用が少ないと 不満があふれ 渭陽君のエイ傒が政に願い出ます。
第48話「呂不韋の失脚」
呂不韋は相邦の官職を失った途端、連座の罪を恐れる呂氏一族と 朝廷で新たな官職を狙うエイ一族の対立が激しさを増していった。しかし秦王の政は仲父である呂不韋を領地の洛陽へ異動させるだけで決着をつけ、国を挙げて列国の平定という偉業に集中することにした。
第49話「次の波乱」
呂不韋は失脚し咸陽を離れたあと、水利工事担当の鄭国を一族もろとも罰することを望む エイ一族が、同時に他国出身の臣を秦から追出そうと動き出す。秦王の政は宗室の意向を知りながら鄭国や客臣を擁護し対策を練る。新たな波乱を避けるべく、政は一先ず逐客(客を追い出す)の詔を下す。
第50話「逐客」
政の親政が始まって以来、宗室だけで秦が支えられると主張するエイ一族が政に圧力をかけ続ける。政はこれに応じる形で李斯を含む現役の客臣を追放し、すべての官職を宗室に任せることにした。宗室の役人は担当する公務にトラブルや深刻な誤りが頻発する。
李斯は秦を出ようとすると 政の命を受けた秦軍に「函谷関で任務あり」と告げられます。李斯は函谷関に付くと客臣のほとんどが引き留められており 流出したほとんどが趙に迎え入れられていることを知ると それは趙のでっち上げと 噂を流します。
第51話「対立を超えて」
秦王の政は逐客令を発したのち 朝廷の要職は すべて宗室が思う通りに代行するようになった。しかしエイ傒の率いる水路が決壊し 政は鄭国を連れ現場に向かい 決壊を治める策を伝えます。エイ傒が失礼なことをしたと謝罪します。客臣がいない職場はうまく回らず、大きな損失すら出している状況から、政は逐客令廃止の詔を告示し、客臣の帰還を迎えることにした。
第52話「東進への道」
国内の情勢が落ち着いたことで 政は本格的に、天下統一のための東進に乗り出す。先ずは、魏の垣城、蒲陽、衍氏の3城を攻略し、趙と韓、魏の通路を断つことにした政は、嫪毐と結託した魏を懲らしめるとの名目で、楊端和を主将、李信を副将とする、15万の兵を送り出す。
魏の都 大梁では、景湣王が魏霑の提案で 共犯関係にあった趙に援軍を頼むことに。
趙の悼襄王は龐煖(れんぱ)を派遣する。趙の側面からの攻撃を見越した政が、桓齮、王翦、蒙武を動かし趙を牽制していた。咸陽の政が魏王が韓と斉に使者を送ったと知ると 斉に姚賈、韓に李斯を使節として派遣。
韓の都 新鄭に到着した李斯は 先ず 旧友 韓非を訪れるが会えなかった。韓王の韓安(韓非の兄弟)との謁見に臨んだ李斯は厳しい口調で王を問い詰める。嫪毐を援助した件 秦を疲弊させる目的で鄭国に水利工事をさせた件。もし韓が魏と共闘すれば 秦は攻撃すると釘を刺す。
斉の都 臨淄にやってきた姚賈。斉王は田建 だが実権は 賄賂が大好きな丞相 后勝が握っていた。姚賈は息の掛かった商人をして 后勝に圧力を掛ける。
合従の道は断たれ、魏は単独で戦うことに。秦は3城を陥落し東進への道が開けた。
第53話「割り切れぬ思い」
趙は秦を打ち負かすため、雍城に幽閉されている秦の太后(政の母、趙の出身)を邯鄲に連れ戻そうとする。一方、秦では趙と韓のどちらを先に攻めるべきか軍議していた。
商人に身をやつした魏の丞相の郭開が 咸陽にやってくると、陳馳が 斉の使者 茅焦と商人への支払いの件で揉めていた。茅焦は稷下学堂で同窓だった李斯に善処を求めた。李斯は朝議に茅焦を呼び「生母を幽閉し、弟を殺した者は、軽蔑される」と言わせた。政はこれを機に、趙姫を咸陽に戻す決意をする。
第54話「誘拐」
政は李斯に説得され、自ら雍城まで太后を迎えに来たが 趙の丞相 郭開郭に誘拐されていた。郭開一行は渡し船で河を渡ったところで待ち構えていた政らによって、あえなく御用。政は趙姫と久しぶりの再会を果たす。軍議で政は先ず趙を 謀略で攻める方針を固める。郭開を取り調べ 車裂きの刑に処すが 助けられ 趙の内情を話す。趙王の趙偃は春申君の趙佾と対立しているが、春申君のバックには匈奴を抑えられることのできる李牧がいて 趙王は罷免することができないのだと。郭開は、帰国を許され 秦と趙との盟約のために動くことになった。
第55話「趙との盟約」
政は東進戦略の切り札として、まずは合従や秦への攻撃から6国の目をそらすべく、趙の悼襄王(とうじょうおう)の趙偃を秦に誘い込み、趙と秦の両国で盟約を結ばせようとする。
悼襄王は 長子の嘉を初め太子に立てるが 閲兵式に同行すると 兵士の間から 太子を讃える声が上がる。李牧や春申君が 嘉を太子とみなすことに不安を抱き 寵愛していた倡后の産んだ遷を後継者と決める。
第56話「疑念」
趙の悼襄王は趙と盟約を結びたいという秦の誘いに応じる名目で趙葱と龐煖を連れ 咸陽を訪れる。春申君と李牧はクーデターを考える。政は趙王の暗殺計画があると知り 秦滞在中に趙王が殺されれば 趙ばかりか諸国の反感を買うと 桓齮に命じて警戒を強め 李信を護衛に付ける。ところが 趙王は狩りを口実に政の暗殺を仕掛け 秦の矢に毒を塗って刺客が放ったが李信が打ち落とす。李信が紛れていたことが分かり勝負はなくなった。同じ時期に燕の太子姫丹は秦と趙の連盟を阻止するため咸陽に現れたが政は会わなかった。
春平君の放った刺客を取り押さえたが 政と李斯は 政敵を粛清しても 趙は依然として強敵のままだとして“膿を出させない”作戦を採る
第57話「それぞれの思惑」
秦王の政は趙王の偃に盟約を交わすよう策略を練っている最中に、燕の太子 姫丹は秦と趙の盟約を阻むため密かに 邯鄲時代からの知り合いでもある 太后の趙姫に接近した結果、太后が趙王に刺客を送っていた。趙王は不審を抱き帰国しようとして街で姫丹を見かけ 秦と燕に同盟されては、燕を攻略出来なくなると 盟約締結へと方針転換する。政は自分の計画を二度と攪乱されないように姫丹を監禁し、趙偃と盟約を締結した。
第58話「戦略」
趙偃は秦からの掣肘(せいちゅう:そばから干渉受ける)を避けるため秦と盟約を結ぶと、安心して燕を攻める計画に取り掛かった。20万の趙軍が燕の都 薊城に迫る。燕王 喜が、秦に助けを求めようと、太傅の鞠武を派遣し丹に訴える。丹は面会を許されると 秦に助けを求めたが、秦は趙が燕を攻撃中に趙を攻める戦略を立てていた。趙に侵攻した秦軍は、手始めに、楊端和と李信が、鄴城を取り囲む。鄴の救援に向かった渉城の軍は、途中、桓齮と王翦の奇襲を受ける。結果的にすべてが秦王の計画どおりに進められていた。
秦の侵略を知った趙王は 約束を違えた政に怒り狂う。20万の秦軍に対し 橑楊は3万 邯鄲は2万しか兵が残っていない。直ちに龐煖と李牧を呼び戻そうとするが 居ないはずの李牧が姿を現す。
第59話「対趙攻防戦」
趙王は秦との盟約は秦が趙に燕を攻撃させ、その隙に趙を攻め立てるための策略だと分からず燕への攻撃を続けた。その結果、龐煖将軍が率いる20万の趙軍は秦軍の奇襲により全滅し、趙王自身も病に倒れ 以後 寝たきりの王に代わって 倡后が万事 仕切り始める。一方燕の太子丹は秦で政が6国平定後を見据えて天下の文字を改訂するところを目にする。
李牧と春平君が戻って 李牧は邯鄲城には入らず郊外の高台に軍営を置いた。
一方 秦軍。桓齮は思案の末 先ず李牧の軍営を叩くことにし出陣したが 罠が仕掛けられていて 撤退するのがやっとという有り様に。
第60話「趙王の死」
政は 間者を通して偽の情報を流すことにする。ある日 渭陽君府で エイ傑の落としたニセの書簡を目にした丹は 趙の丞相 郭開に親書を送って 春平君が秦に投降したがっている と知らせる。その頃 邯鄲では 戦勝を祝すと同時に 王の全快を祈って 倡后主催の宴が開かれていた。郭開は 扈輒(こちょう)将軍と李牧将軍の協力で邯鄲は守られた と言いながら 李牧に対して 約束の兵糧を送っていなかった。春平君は倡后に願い出て 宮殿の改修資金を回してもらう。親書を見た倡后は 春平君を意のままに操ろうと寝室に連れて行く。病の床からフラフラと抜けだした趙王 趙偃は 倡后の情事を目撃し 崩御する。王となったのは 倡后の子 趙遷(幽繆王 ゆうぼくおう)。そこに扈輒が戦死し 10万の兵が全滅という 知らせが入った。
趙王の葬儀に出席する各国が 弔問にかこつけて合従の協議をするのは目に見えている。これまでの経験から 短期間で落とすのは無理で 政も 趙を一気に潰そうと 性急すぎたことを反省し 全軍に函谷関までの撤退を命じる。
6国の動向を探れとの命を受け、弔問の名目で邯鄲を訪れた姚賈だったが 趙葱と言い争いになってしまう。韓の使者 韓非が取りなしてくれた。
第61話「韓非の正体」
趙の都、邯鄲。悼襄王 趙偃の葬儀に参列するため 趙を訪れた各国の使節は、楚の公子 景涵、斉の公子 田沖、韓の公子 韓非、燕の太傅 鞠武、魏の臣 魏霑 趙からは 李牧、趙葱。
春平君は 先王 趙偃が謀略に嵌まり 秦と盟約を結んだことを各国に詫び 改めて 秦に対する6国の合従を持ちかける。 韓非は合従に消極的だった楚や燕を、巧みな弁舌で説き伏せた。
秦は6国との通商に新訂の秦篆(しんてん)を推進する計画だが 燕の太子丹は、韓非に文を出して知らせる。秦との交易が盛んな斉は、斉王個人の損得勘定から受け入れてしまい 各国の足並みが乱れ、合従が流れると 見抜いた韓非は 自ら斉に出向くことに。
咸陽の王宮に斉の田沖が秦篆の強要に抗議するため 他国を引き連れて乗り込んできた。これに対して政は斉との通商を禁止すると表明すると同時に、李斯をかつて学んでいた斉の都 臨淄に派遣。斉では先ず、稷下学堂の学士たちと 秦篆についての論戦が行われる。そこで秦篆の文字の美しさ自体が武器になることに李斯は気づく。学士の一人が目を止め 書を学堂の祭酒に見せると 祭酒はそれと知らず 秦篆をベタ褒めするのだった。李斯はたった一人で、稷下学堂での論戦に臨むことになった。
第62話「秦篆」
稷下学堂での論戦に臨むことになった李斯は、自分は卑賤な身分は恥、貧困は悲哀と考え、そこから這い上がってきたのだと言い。多くの学士は長らく卑賤な状況にあると奮起する心を失うが それは怠慢でしかない。そして諸君の学識を以てすれば 必ず秦で重用されるだろうと揺さぶりを掛ける。これに対し、祭酒は、300年の歴史をもつ稷下学堂は、諸子百家の賢人を多く輩出し、著作も数知れないが、李斯 程度の学識で諸氏の用いてきた書体を変えようなどとは笑止千万だと言う。が 李斯はこれにも、7国の文字がそれぞれ異なる状態は 礼記の規範に反し人民や学士を苦しめているとして反論。秦王は民の安定のため秦篆を作ったのだと主張する。未知なるものに対しては、まず真摯に学ぶべきだと提言する李斯。その上で、どの書体が最も優れているのかと問うと、祭酒や学士たちは、先程入手した書だと口を揃える。が、それこそが、秦の定めた秦篆だった。
さて、韓非が臨淄に到着してみると、稷下学堂はすでに陥落していた。斉王 田建に面会する。常日頃 秦から賄賂を受け取っている 后勝が李斯を助け 密かに秦の商人たちを集めた。 李斯は 王が我々を追放するなら、秦は斉との国交を断つと宣言。そうなれば 斉の織物は穀物と交換できず 食糧不足に陥るかも知れない。李斯は秦と斉が仲違いすることで 最も利益を得るのは 中間地点にある韓。だからこそ 韓非はわざわざ臨淄までやってきて 斉王の前で秦を貶めたのだと。さらに秦篆の導入が通商の発展と富をもたらすからこそ 諸国は秦と斉の国力増強を恐れて 合従などという離間工作を図るのだと。結局 両国の同盟にとって有利だという理由で 斉王は秦篆の使用を許可してしまう。臨淄を去る李斯一行を、稷下学堂の祭酒と学士が見送り 韓非の居場所を教える。
第63話「最後の決断」
斉からの帰り道、李斯は韓非の庵を訪れるが留守で会えなかった。その頃韓非は趙の都 邯鄲を訪れ 残り5国で秦に対抗する策を 春平君(趙佾)や趙葱と練るためだった。韓非は 趙に足りないのは将軍ではなく、国を治める才で 今は秦王に退けられ 不満を抱えているであろう呂不韋を丞相として招くよう勧める。李斯が咸陽に帰り着くと 趙の丞相郭開から文が届き 春平君が洛陽に来ていて ひっそり暮らす呂不韋に接触していることを知り 政に知らせる。春平君は 呂不韋とようやく面会を果たすが 趙の丞相の地位を提示しても、自分にとって何の価値もない国だと言ってキッパリ断る。いったん邯鄲へ戻った春平君は 魏、燕、韓 の使者と就任を要請する。呂不韋本人にその気がなくとも、欲に駆られた食客たちが、仕官を求めて動く。秦の朝廷に伝わると 政は王命を発し、呂不韋を蜀に移すことになった。
呂不韋が蜀行きの準備を始めると、韓非は仕官を求める呂不韋の食客たちを利用して 噂を流布しようとするが、呂不韋はすでに、自死の覚悟を決めていた。
第64話「呂不韋の死」
前235年 呂不韋は封地の洛陽で自殺した。政は 趙が丞相に迎えようと画策していて 政を不安にさせたくなかったが故の自殺だったと知ると いっそう憤懣遣る方なく、大将軍桓齮に、3日後、趙に出兵するよう命じる。この突然の準備不足の出兵には 李斯から王翦まで多くの臣下が反対するが 3日後、秦軍は10万超の兵で趙に侵攻する。主将は桓齮、副将は李信。これを迎え撃つ、趙の主将は李牧。何度戦いを呼びかけても、趙軍には出てくる気配がなく、睨み合いが続いていた。大王は早期の決着を望んでいると 桓齮は思案の末、軍営を2つに分け前進させる。戦い中 天候が急変し 土砂降りの雨が火を消し 趙軍は怒濤のように攻め込んで。秦軍は半分にまで減っていた。平陽の城内に趙軍がなだれ込んでくる。その時 政が危機を察して派遣した王翦の援軍が到着。李牧は、やむなく撤退して行くのだった。かくして、「肥下の戦い」は終結した。李牧に大敗を期した桓齮は、責任をとって自決。韓非の密書を受け取った燕の太子丹は 邯鄲で合流すべく 咸陽からの脱出を考える。
第65話「鄭国渠」
咸陽に2年以上いた燕の太子丹は趙に逃亡した後、春平君の趙佾や韓非らに秦の情報を提供した。韓非は秦に勝つには 戦場ではなく 政治で戦わなければならないと気づく。
政は民を秦に呼び込むことで 6国を弱体化させる方針に変えた。先ず趙に銅鉄を送らぬよう斉王に働きかけ 趙を魏や韓が助けようと 私鋳を解禁すると 農地が荒れ 食料不足の三晋の民は 秦に移住せざるを得なくなる。
その頃 十数年にも及んだ鄭国渠が完成し 新たな未開拓の地に移民を受け入れる準備を整えていく。
趙の都 邯鄲。密かに入国した頓弱は 丞相の郭開を訪ね儲け話を持ちかける。数ヶ月もの間 王翦と李牧は小競り合いを続けており 短期間では決着しそうにない。数十万の兵には 兵糧の他 銅鉄などの物資が必要で 郭開に銅鉄の買い占めを勧める。
斉が 趙への銅鉄の輸出を禁止して 極端な品不足になり 銅鉄は高値となり郭開は大儲けし さらに買い占める。李牧陣営は銅鉄の不足により 戦車の部品の交換もままならない。
燕の都 薊城、趙軍の窮状を訴える 春平君の文を受け取った丹は「趙があるから秦は燕に来ない」と助けたかったが 燕王は趙への銅鉄の禁輸を決めてしまう。
太傅の鞠武は嫪毐の叛乱の際 政の義姉を守れず秦を追われた樊於期を丹に紹介する。丹を逃亡時 見逃し馬まで与えてくれた樊於期は 趙を救う策が一つあるという。
やがて邯鄲では銅鉄の価格が暴落し郭開は大損することに。頓弱によると知らないルートで李牧に銅鉄が送られていた。軍営を訪れた郭開は 匈奴の車を見つける。
第66話「三晋からの移民」
韓や魏の民は大勢 秦へと流れ込んでいった。秦は移民に耕地 十分な穀物や家畜 農具も与えた。そして 韓非を秦王の政に会わせることを条件に停戦に合意した。
燕の太子丹が匈奴を使って李牧に銅鉄を送っている と知ると政は直ちに李信を出撃させ 趙と匈奴の間を遮断する。再度王翦に趙を攻撃させ、趙の銅鉄不足に拍車を掛けさせることに。
邯鄲 春平君府。韓非、魏霑、趙葱、春平君らが集まって銅鉄について協議中に燕の匈奴のルートが秦によって遮断されたとの知らされ 韓非は私鋳は許してはならないと警鐘を鳴らす。
韓の都 新鄭に韓非が帰国すると 農夫は 農作物よりも儲かると 王命で銅鉄の私鋳に明け暮れていた。韓非は韓王安に私鋳の中止を願い出るが、丞相の張譲によれば 私鋳のおかげで 税収が3倍以上になり 耕作しなくとも 食料は購入できるし軍備を増強することもできる。
種まきの季節が過ぎ 後戻りが出来なくなった頃 政は王翦に退却を命じる。戦いが終わり 銅鉄の相場は急落。銅鉄は売れず 食料の価格は高騰。韓は空前の食糧難に陥った。田畑を耕す牛も 来春に撒く種籾もすでに食べてしまい 農民たちは 先祖代々の土地を捨て 移民の男子1人あたり100畝の土地くれるという秦に向かった。
その頃、函谷関には30万もの流民が続々とやってきていた。政は頓弱から 韓非を知り 一度会ってみたいと政は 王翦軍を韓へ向かわせ 圧力を掛ける。
そんな折 姚賈は 停戦を求める韓の丞相の舎人 寧騰(ねいとう)を政に引き合わせる。政は鄭国渠へ連れ出し移民達を見せる。
韓の都、新鄭の韓非邸。政の意向は丞相の張譲を通して韓非本人に伝えられる。
第67話「韓非の才」
秦へ招かれた韓非が 函谷関で 稷下学堂を離れて10年ようやく再会を果たし杯を交わす李斯は秦王に仕えるよう勧める。
咸陽の王宮で、韓非は秦王 政に拝謁し天下や君主のあり方について説く。
韓非のもとに王からの豪華な贈答品を携えて李斯がやってきて 王翦軍も約束通り撤退したと伝え このまま秦で暮らすよう勧めるが 韓非は拒否する。しかし、教えを書簡にまとめて欲しいという政からの依頼は引き受ける。
王翦が引き上げると、三晋(趙、魏、韓)と楚は 合従に向け動き出す。4国合従を阻止するため、姚賈は趙王の説得に向かうことになり、韓非はこれを妨害しようとするも失敗に終わってしまう。秦の軍議で韓への侵攻案が進言されたのを耳にした韓非は、韓を救うため舌戦を繰り広げる。
第68話「詭計」
祖国 韓の危機を感じた韓非は、秦王 政に諫言を繰り返し、ついには天下統一が遅れているのは姚賈が横領をしているからだと告発する。趙と韓の同盟阻止のため新鄭にいた姚賈は、これにより秦へと呼び戻される。
姚賈は秦に下った寧騰(ねいとう)が 南陽の仮の郡守となり 秦王に差し出す手筈になったという。政は李斯と 新鄭を攻めるふりをして南陽を秦の領土とする 韓攻めの策を練る。
韓非に対する危機感を強める姚賈は、寧騰謀反の件をわざと漏らし韓非の反応を探る。
南陽を失えば韓の命脈は尽きるので 韓非は従者を集め韓王宛の密書を手渡し脱出するよう命じるが 従者は殺され密書は間者である証拠として 政に示される。
獄に繋がれ、刑の執行を待つ身となった韓非だが 政からの 教えを書簡にまとめて欲しい に応じ 一心不乱に執筆を続けていた。
第69話「韓の滅亡」
韓非は後世に学を伝える書を残したいと李斯に託し牢の中で服毒します。
秦王 政は韓非を赦免する勅命を出したが既に亡くなっていた。
韓が趙・魏・楚の援軍を得て10万の兵を派遣し 寧騰(ねいとう)のいる南陽に韓の丞相 張譲を派遣しました。
政は 韓を滅ぼすため 李信に兵2万を率いて韓の国境の韓軍だけ攻めるよう命じます。李信は連合軍が現われたので退却すると 韓軍は勝利に沸きます。政は 李信に南陽に向かい寧騰に投降を促せと命じます。
寧騰は南陽を護る 韓の丞相 張譲に 秦王が信頼を寄せる李信を捕えれば 大きな手柄になり秦に大きなダメージを与えると出陣を促し 留守を守ると言います。張譲が出陣するも 李信をが逃がしてしまい 戻ると寧騰が寝返っていました。
韓王は寧騰の反乱を鎮め 南陽を奪還するため3国に援軍を請うが 韓軍は総崩れとなっており、30万の奇襲をかけられた趙は撤兵していきます。魏は疲弊して休息が必要であり、楚は兵糧と物資が不足しているため援軍は困難であると言います。韓は降伏するしか道はありませんでした。寧騰に韓の都 新鄭 を落とさせ 韓安を捕らえた。
紀元前230年 韓安は国璽と地図をささげ 藩臣に加えてくださいと降伏を願い出る。政は王命を発し 臣に連なれば諸侯と同じく新鄭での居住を許すと告げ。領地を潁川郡として統治下に置きます。
韓が滅びたと 燕の太子丹と 太傅 鞠武は 王 喜に報告、楚 陵陽君 李園 に報告、魏の景湣王(けいびんおう)増 に龍陽君は次は魏が狙われるので合従策をとるため魏霑に4カ国に向かわせる。
政は上郡へ向かい道路を築き 咸陽を中心として秦の各郡に馳道を建設させます。
第70話「趙への侵攻」
2年後、秦の王 嬴(えい)政は献酒の儀式を行ない虎符を照合し斧鉞、旗号を授与すると将軍たちは王命に従い趙を滅ぼすと誓います。
紀元前229年 嬴政18年、秦は再び趙へと侵攻し、趙も大軍を派遣して衝突します。
趙王 遷と補佐する倡后、春平君の超佾、丞相の郭開は 秦軍が3方向より進軍して攻め入り魏と楚の交通を遮断する狙いだと李牧将軍 から聞かされます。
総大将は 井陘の王翦軍で 邯鄲が囲まれたら勝ち目はないので 近付かせないため まずは南北の楊端和と李信を打ち破る と言われ 太后は安堵するが、長期戦となれば食糧不足に陥ると言われ 春平君と郭開に食料調達を行うよう命じます。
魏と楚への交通は遮断され 斉と燕は関係性が良くないので他国から兵糧を得るのは不可能だと 言われ倡后は頓弱を連れてくるよう郭開に命じます。
秦では李斯らが作戦会議 10万の兵で地の利を生かす李牧を認め 将軍を交代させなければ勝てない。李斯は趙の群臣を離間させようと提言、政は頓弱に命じ 趙の群臣に賄賂を握らせ 趙王と太后の耳に入れさせる策をとった。
頓弱が宗室以外の趙臣に賄賂を渡し 郭開に「大王からの命で 井陘から李牧を除くよう趙王に働きかけよ」と告げる。郭開は春平君が買った兵糧の一部を奪います。春平君は賄賂を配る頓弱を捕まえると そこが李牧将軍の屋敷で 多くの財貨があり 兵糧を徴発せよと書かれた書状を見つける。春平君は秦の奸計だと訴えるが 太后は李牧に軍事権の返還を求めます。郭開は趙葱達をつれ井陘に出向き 王命として李牧達に「邯鄲に帰還し調べを受けよ」と伝える。李牧将軍は 味方の趙軍に襲われた。
第71話「邯鄲攻略」
趙を支えてきた将軍 李牧は丞相の郭開の指示で 趙軍に命を奪われた。秦の王翦軍は 将軍を失った騎馬隊を引くと見せ 谷に誘い込み攻撃、邯鄲を包囲する。邯鄲はさらに深刻な食糧不足に陥り 多くの民が餓死し 兵は武器を持てないほどに弱っていた。しかしそれでも趙人の闘志は潰えず、秦に屈しようとする者はいなかった。その中で郭開は密かに 民に食糧を売っていた。民に化けた秦軍が郭開邸を襲う。 郭開は王翦のもとに内通の書を送る。
第72話「悲しき帰郷」
趙の都 邯鄲にある 龍台宮 秦軍に囲まれた 趙王 遷と倡后に 春平君の超佾は降伏しないよう進言するが 郭開の指示で殺された。
紀元前228年 魏の滅亡の2年後、趙王 遷と倡后は国璽と地図をささげ 王翦将軍に献上した。
これにより 秦はついに趙を滅ぼすという悲願を達成した。
しかしこれを不服とする邯鄲の士人たちは、趙嘉が新たな趙王を宣言すると、国の再興に期待を寄せる。
秦の王 嬴(えい)政は久しぶりに生まれ故郷である邯鄲の地に入り 、趙王 遷と倡后に 平民になり 先祖の宗廟を咸陽に移設することを命じ 咸陽に送る。
郭開に政は 士人たちの 領地返上を仕切らせる。郭開は厳しく士人たちにあたり 半分は懐に入れる。
政は申越の墓参りに向かうが、趙人たちはその隙をついて殺そうとするが押さえられる。
政は士人たちの首をはねさせ 豪商達を咸陽に移住させ 太后の旧居5里以内に住む者を生き埋めにせよと命じた。郭開は 領地返上の不正が暴かれ釜ゆでになった。
政は咸陽に戻り 死の床の母 趙姫を見舞うが亡くなる。
一方、楚では項燕や負芻が国のため行動を起こそうとしていた。
第73話「揺れる4国」
楚では 即位して2ヶ月目の哀王と令伊である李園を殺害し、負芻(ふそう)が王位に就いた。
政は楚の王 負芻が魏・燕・斉と合従し 秦に対抗する宣言した報告を受けた。昌平君からは楚は王族と士族がうまくいっていないと知らせた。
その頃韓の新鄭では領土略奪を不服とした士人が乱を起こす。
軍事大国 楚の援軍が向かっているので 反乱軍を治めなければ 函谷関の外は混乱に陥ると 李斯から進言されますが、王翦将軍は邯鄲におり 離れられなかった。
秦の王 政は 楚王の血を引く昌平君 羋啓(びけい) を陳郢に派遣することで、負芻を糾弾させて楚を混乱させる策を採る。
咸陽に向かっていた楚の項燕軍に 景涵が来て 郢の都 寿春は混乱に陥っているので 帰還するよう命令が出ていると伝え 項燕軍は天下を狙えなくなったと なくなく撤退した。
魏は秦に下るため 魏霑が使者としてくるが、魏が他国との合従を考えていることを漏らしてしまう。
政は 陳郢に向かう。
王翦軍 20万が易水に駐屯すると、燕の太傅 鞠武が偵察に来た。
燕王 喜のもと協議 秦軍が易水から動かなければこちらも動かないとした。燕の太子 丹は国を守るため、政の暗殺計画を進める。
第74話「秦王暗殺」
斉の丞相 后勝は 太子の田沖に 楚の士人は 秦の昌平君 羋啓(びけい)と友好を結ぼうと必死ですと教える。
燕の都 薊城 では太子の丹が 秦より亡命している樊於期を呼び殺害した。
秦王 政が陳郢で昌平君に任せ 秦の法によることを強いるが 士族は封建を願う。
燕の太子丹 と太傅 鞠武 は荊軻と秦舞陽に樊於期の首と督亢の地図を託し 船で送り出す。
秦では 次に滅ぼすべき国は 燕か魏かと議論、燕は遠く兵糧の輸送が大変と話していると、燕より和議を求める使者がやってきた。
燕の使である荊軻と秦舞陽は、燕の重要拠点である督亢の地図と、裏切り者 樊於期の首を献上するという。しかしこれは燕の太子 丹による秦王の暗殺計画であり、荊軻は献上品である地図の巻物に 政を暗殺するための毒を塗った 匕首を忍ばせ 斬りかかるが 政が討ち取る。
紀元前 227年 秦王に命じられた 王翦将軍と李信は大軍で燕に攻め込み 主力軍を全滅させた。
燕王 喜は秦に攻める口実を与えたと 丹をしかる。
丹は20万の民のために犠牲になり 燕人は遼東に逃れ、燕は800年の歴史に幕を下ろした。
政の元に 丹の首が届くが 一瞥しただけだった。
第75話「郡県制への道」
昌平君 羋啓が呼び戻され 楚侵略の協議のためかと李斯達に聞くと 政は時期尚早と言います。昌平君が楚を牽制している間に魏を滅ぼす計画でした。政は楚の国境にいる 王賁に丹陽を落とさせ 連携して楚の決戦に備えよと命じます。封建を棚上げされた陳郢では不満が出ていて 押さえ込みは難しいと 大綰らにもらす。
一戦で丹陽を落とすと 楚から和議が届きます。景涵が来て 項燕と 楚王 負芻の元へ
負芻は「羋啓が 不満を持つものを扇動し政変を起こそうとしている」と不安を口にする。
政は王賁に魏の都 大梁を攻めるも 魏の王 瑕と魏霑は20万の兵が来ても 兵糧3年分あり 城の守りが堅く攻めあぐねていた。秦王 嬴(えい)政は白起将軍の残した戦報を見返し黄河で 水攻めを決行させ、陸の孤島になり 魏も滅びる。
秦はいよいよ楚への進攻策を協議する。李信は20万と王翦は2年かけ60万で攻める と策を出す。また、陳郢にいる羋啓は楚人から分封を迫られており、秦臣たちは封建制の実施を主張 郡県制を始めたい 李斯や政。王翦は封建制を願い 諸将も報われるというが休養を勧められる。
景涵は項燕に 羋啓のもとにいる士族を離間させれば 楚は10万の軍を得ることになると話す。
(封建制は君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治。郡県制は全国を郡・県に分けて、皇帝が任命する官吏を派遣する制度)
第76話「裏切り」
楚の太子景涵に華陽太后がなくなり羋一族は後ろ盾を失った。楚に戻ってくださいと請われ 陳郢の昌平君 羋啓は秦を裏切ることとなる。
これにより城父に軍を進めていた李信と蒙恬は、陳郢の軍と項燕軍に囲まれ20万の大半を失ない大敗を喫した。
秦の羋一族と昌平君の娘で政の夫人 羋華は謝罪しますが 羋一族は好きな場所に行けば良いと 政に言われます。羋華は扶蘇を離秋に託し 冷宮へ入った。
李信と蒙恬は自らを縛り 政に謝罪します。政は 郡県制に移動することを決意できなかったことを悔い重臣達に 自分の子弟に領地も爵位も与えないと告げます。
隠居していた王翦は楚への侵攻を願い出て 政は虎斑を渡し出陣を命じます。王翦は65万の大軍を率い出撃しますが 一向に攻勢に出ず 政に褒賞を求める文を送り続けていた。
第77話「逆心の末路」
秦の王翦軍は1年余りにらみ合い 楚軍は兵糧は尽きているので長くは持たない 項燕は斉からの援軍と収穫期の兵糧補充に希望を持っているとみて 全軍出撃を命じた。楚も全軍で応戦 引くと見せ 秦軍を罠にかけ 秦軍は撤退した。
陳郢に秦王 嬴(えい)政 姚賈 李斯が来ていた。
李斯は楚から援軍を要請されている 斉に入り かねてから通じている 丞相 后勝に秦王 政からの文を届け、秦から后勝は賄賂を受け取っていると噂を流す。そして斉の兵力・兵糧を調べ2年と見る。戦わずして 斉を落としたい政、王翦将軍に委ねた。
王翦将軍は 楚の軍に望郷を抱かせる 音色を響かせ 楚軍をかき回し 火攻めで項燕軍を破った。
項燕は四散した兵を集めて政のいる陳郢を包囲する。王翦は必ず秦王を助けに兵を返すと踏んだのである。昌平君 羋啓(びけい)と景涵のいる陣に 政が「過ちを悔いるなら許す」と書いた矢を放った。
しかし政は王翦に楚の都 郢を攻めさせ、楚王 負芻を降伏させた。楚軍は江陵まで退く。
そのころ斉 太子の田沖は楚に援軍を進めてめていたが、斉の丞相 后勝は臨淄に王命で戻るよう伝えた。
江陵で考列王の血を引く 羋啓が 楚王になった。そこに王翦軍が攻めてきて 楚王、景涵、項燕は死に 紀元前223年 楚は滅亡した。
秦軍が燕と代を滅ぼすために 北に向かっていたと報告を受ける 斉王が 秦の天下統一の意思は揺らいでいないことを知り 和平交渉を望むならと田沖を咸陽に送る。
秦では高唐の主力軍をたたけば臨淄は落ちると見ていた。
最終回(第78話)「天下統一」
秦の都 咸陽 章台宮 秦王 嬴(えい)政は 王翦と李信は呉越の地に 王賁は遼東に向かい、残るは斉のみなった。蒙恬と策を練っていた。そこに李斯が太子の田沖が斉使として咸陽に入ったと知らせる。
斉に向けての大軍での進軍を見せつけます。斉の田沖は降伏するしかないはずだが体裁を気にして承服できずに李斯と向き合っていた。
斉の都 臨淄 斉王 建 が 丞相 后勝 に韓の救援要請を無視し、趙の李牧は天下の名将で負けはしないと思ったが邯鄲は落ちた。秦と燕が易水で交戦したとき暗殺の天罰が下ると傍観していた。秦が大梁を攻めたとき まだ楚がいるから大丈夫だと私を諫めたな。援軍を出そうと決心した矢先 郢は秦王の手に落ちた。どの国も数百年の歴史があり、どの国も天下に雄を唱える しかし次々に秦に滅ぼされた。なぜか 知りたい 数年のうちに5国も滅ぼせるのか。まさか 天下は秦のものになるのか?
咸陽 田沖は 秦王 政の夫人 離秋に頼み 降伏を条件に政に面会する。降伏すれば500里の領地を封じ 栄廟は保証するから秦に下るよう迫る。
離秋は兄である斉王に対し降伏を説得するため斉に向かう。斉の公子 田冲と共に投降を促すも、丞相 后勝は斉には2000里の土地と120の城があると 秦に対抗することを決める。
政はこれを知ると斉の主力軍が集まる高唐を攻め、兵の少ない 斉の都 臨淄を包囲する。斉王は即位して43年、6国との戦いを避け 長きにわたり安寧を得てきた。最後はこのようになるとはと嘆き 酒杯を后勝と交わすと見せ殺害する。
斉王 田建は降伏した。2000里の領地と120の城邑と500万人の民 王爾 地図 戸籍簿も献上した。離秋夫人は咸陽に送られた。
紀元前221年 嬴政は11年の歳月をかけて 天下を統一 中華の歴史で初めての中央統制の実現であった。
(撮影に14年かかったそうで、見応えありました)