GoogleマップでWeb旅行!聖なる巡礼路 ~仏 ル・ピュイ~サンティアゴ

NHK BS 聖なる巡礼路を行く 〜カミーノ・デ・サンティアゴ 1500km〜を見て 初めて ヨーロッパにも巡礼があること知りました。南フランスからスペインのキリスト教の 聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラまで 徒歩で歩く旅「サンティアゴ巡礼」。ピレネー山脈を越え サンティアゴ巡礼を済ませ 地の果て フィニステレ岬の灯台までの旅。
聖なる巡礼路を行くⅡ ~スペイン縦断1500㎞~ では アンダルシアの地中海に面した港町から モサラベの道・銀の道を北上して 原始の道を歩いて 聖地に。

20代からマドリッドに住むグラフィックデザイナー 篠原勇治が歩いた。
世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として 登録されています。

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ピレネー山脈を越える サンティアゴ巡礼

宗教の道 南フランス ル・ピュイ~スペイン国境

「クレアンシャル」と呼ばれる巡礼手帳を準備。宿屋や教会でスタンプを押してもらう。

・南フランスのル・ピュイ・アン・ヴレイ:町の至る所に太古の火山活動で生まれた岩山がそびえる。
フランス国内に4つある、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂への巡礼路のうちの一つの出発点として世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に登録されている。
ロワール川の古城・教会・遺跡の源流にあった地名でした。

・サン=ミシェル・デギュイユ礼拝堂:高さ82mのエギュイユ岩に立つ

ノートルダム大聖堂:朝 巡礼者のミサ 床の扉が開いて 地下の門から出発

Photo by Jon Tyson on Unsplash

キリストに仕えた十二使徒の1人であるヤコブ 布教に努めたスペインはでサンティアゴと呼ばれ広く知られた。しかし キリストの死後 ユダヤ王によって殺されます。その亡骸は弟子達により船で運び出されたが どこに埋葬されたのか わからなくなる。9世紀 星の光に導かれた羊飼いが スペイン北西部の原野に墓を発見した。「星の野原 コンポステーラ」と名がつけられたこの場所に やがて大聖堂が建てられた。
当時はイスラム教徒にエルサレムを奪われた時代 人々は歓喜して その大聖堂を目指す巡礼が始まり、12世紀には 年間50万人が巡礼に。その後激減、なぜか今世紀に入り巡礼者が増え 2018年には35万人にも。

・ロシュギュード

オーブラックの荒れ地:標高1200mの荒地

・エスタン
 エスタン城:15世紀このあたりの貴族によって造られ 現在は元フランス大統領 ジスカール・デスタンが所有

コンク:フランスの美しい村の1つ
 サント=フォワ修道院教会 入り口に「最後の審判」を描いた彫刻がある。
中世の巡礼者は信仰に基づいていた。現在の巡礼者は 心の平安や人々の交流を求めている。中世の巡礼者も人々のふれあいを楽しんだろう。(司教)
旅の途中で 人とふれあい 再会することも 楽しみ。
ある旅人は 遠ざかっていた 教会に入り 共に歌った。

16日目 ル・ピュイから350キロ
カオールヴァラントレ橋 ロット川に架かる 6つのアーチと3つの塔を持つ ヨーロッパ屈指の美しい石橋で 小さい悪魔が壁にしがみついていた。

ル・ピュイから420キロ
・モアサックサン ピエール修道院教会 の回廊を支える1歩足と2本足の柱のデザインが独特のリズムを生む。柱頭彫刻には聖書に書かれた エピソートが彫られている。回廊を1周すると8つの物語を読んだことになり 巡礼者が親しみを持ってキリストの教えに接するように工夫さている。

スペインとの国境まで 後320キロ 小さい教会で 巡礼の曲を歌う

ル・ピュイから480キロ さらに西に
・ラ・ロミュー:600人が暮らす村に立派な教会で大きな鐘楼が2つ
サン ピエール参事会教会(コレジアル)の聖具室のフラスコ画 は8角形の模様・天井に伸びる不思議な 幾何学模様・黒い顔の天使は謎

32日目 フランス側 最後のカフェ ここでもらった スタンプでクレアンシャルが一杯になった。
この先 始まるスペインの旅では 新しいクレアンシャルを使うことになる。
町外れ 深い森を抜けると 待ち焦がれた ピレネー山脈が見えてきた。

肉体の道 フランス・スペイン国境~メセタの大地

サン=ジャン=ピエ=ド=ポル(フランス)
巡礼事務所で情報を得る、荷運びサービスもある。
高低差1400mもあるフランス・スペイン国境のピレネー山脈越え
途中から でこぼこ道。国境を越え 下り坂 足がきつい

Photo by JOOSAM PARK on Unsplash

・ロンセスバージェス
スペインのではアルベルゲとよぶ巡礼宿。黄色い矢印が巡礼路の道標
バスク地方
ブルグエテ 道中で再会も楽しみの1つ

ナバラ州
パンプローナ pampelene:スペイン最初の大きな街、ナバラ王の都 城壁で囲まれている。
アーネスト・ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』に登場するカフェ「イルーニャ」、牛追い祭り

ペルドン峠 Mirador Alto de El Perdón 下り坂が厳しい 風力発電が見える

プエンテ・ラ・レイナ:1000年前 ナバラ王の妃が造らせた 王妃の橋を渡る

・シラウキ:小高い丘にある 坂を上る。出口は 急な下り坂。ローマ時代に整備された石畳 ゴツゴツで 足を痛める人が多い

エステーリア(星) : 知的障害者が運営するアルベルゲ

(ずーっと ぶどう畑)
ログローニョ:リオハ州の州都、噴水がワイン色 サン・マテオ祭(音楽に合わせ 古式にぶどうを踏み ワインを作り 1週間祝う)

残り580km 国境から10日目
乾いた 数百キロに及ぶ メセタの大地麦の収穫を終え砂漠のよう見える高原地帯

・カストロヘルス:14日目
サンアントン 修道院 Convento de San Antón:完全寄付で運営 廃墟と化した修道院を 電気もなく シャワーは水という質素なアルベルゲに 。

モストラレス山 :12°の勾配の急な坂を 1キロ以上登る
山を越えると地平線が彼方まで拡がる。残り430km

魂の道 平坦すぎるメセタの大地~聖地サンティアゴ

メセタの大地の北 ボアディージャ・デル・カミーノの町外れ 標高700m ここから 150キロに渡って真っ平らな道が続く。目的がはるか彼方に見えるだけに その距離がなかなか縮まらないので いらだちを思える。景色も変わらず 気分転換もできず 自分自身の内面と向き合わなければならない。
日本から 一人旅の女性と出会う。

フロミスタ
中世 巡礼が盛んだった時期のロマネスク様式のサン・マルティン教会 San Martín de Frómistaがある。当時ヨーロッパで暮らす人は キリスト誕生から 1000年を期して 世界は滅び 良き人は天国に、悪事を働いた人は地獄に落ちると恐れられていた。いわゆる世紀末思想です。空想的な装飾が見られる ロマネスク様式はその時代を反映しています。しかし 世界は滅ぶことなく安堵の胸をなで下ろした人々は 神に対して 感謝の意を捧げるために サンティアゴ巡礼に向かったとされる。

レオン:大きな都会。
8世紀初頭 イベリア半島にイスラム勢力が侵入 現在のスペインの大部分が彼らに支配された。 敗走し 北部に逃れた キリスト教徒が アストゥリアス王国を築き 反撃のチャンスを窺った。
国土回復運動 いわゆる レコンキスタの起爆剤となったのが サンティアゴの墓の発見。人々を奮い立たせ レオンに残されたレリーフには イスラム教徒との 戦いの場に 馬に乗ったサンティアゴが 現れ 敵を蹴散らしていったという伝説が描かれている。
やがて 少しずつ国力を回復した キリスト教徒が レオンに都を移し 国名を「レオン王国」としました。13世紀 壮大な レオン大聖堂を建設。今も見事なステンドグラスが巡礼者を歓迎します。
薔薇窓と呼ばれる丸い ステンドグラス 。中世17軒もの巡礼宿が軒を並べ 多くの巡礼者が行き来した。ステンドグラスの1枚には サンティアゴ大聖堂で喜ぶ巡礼者の姿がある。

すろー
すろー

日本で のほほーんと暮らしている私は、キリスト教徒とイスラム教徒と壮絶な戦いの連続 で生きるため必死で大変だったろうな改めて思いました。それで皆 寄進もすごく立派な教会ができたのか と勝手に思ってます。しかし知らないことばかりです。

残り300キロを切った。十字架の向こうに アストルガの街が見えてきた。
ここにある アストルガ司教館 Palace of Gaudì Astorga ちょっと風変わりの建物を設計したのは サグラダ・ファミリアを建築した アントニ・ガウディです。

イラゴ峠 (見当たらず Cruz de Fierro では? フォンセバドンとマンハリン モリナセカ 間にある 「鉄の十字架」)
キリスト教徒フランスからの巡礼路の中では 最も標高の高い 1500mの峠は巡礼者を苦しめてきた 難所の1つ。

(四国遍路道が町内を通る愛媛県愛南町香川県宇多津町が、モリナセカ村との交流を開始 記念碑をモリナセカに建てたそうです)

峠を降りると 石造りの家並みに。スペイン北西部は紀元前まで 石造りに茅を葺いた家で暮らしたケルト人が暮らしていた。

・ビシャフランカ・デル・ビエルソ
アベ フェニックスというアルベルゲは、不死鳥という名前で、火事で焼けた時世界中からの寄付で再建されたそうです。料金は夕食付きで13ユーロ。夕食は宿泊者全員でとるのが習わしで その時主人の ヘスス・ハトさんが ケルト由来のケイマーダという魔よけの儀式を行われます。

ガリシア州に入る。残り60km 、雨の多い地で霧も発生します。
オレオという高床式の穀物倉庫は、ケルト文化の名残 だそうです。

メリデ:海に近くタコ料理が名物で、巡礼者は最後のエネルギー補給します。

聖地を目前にして巡礼者は 特別な感情がわいてくるようです。
巡礼が終るのがさびしいとか、寝付けなかったけどいびきのコンサートがなつかしいとか。

サンティアゴまで 残り20キロ。
立ち寄った 小さな礼拝堂
篠原勇治は これまで 旅で出会った人を思い出していた。

中世期に始まった サンティアゴ巡礼。今もその道のりに 多くの困難が待ち受けている。時を経た今も奇跡が満ちあふれている。

・聖地 サンティアゴ・デ・コンポステーラ 巡礼の目的地 大聖堂が見えてきた。
旅のゴール 大聖堂前広場に到着です。
巡礼事務所で巡礼修了証歩いた距離の証明書が発行されます。
国境の サン=ジャン=ピエ=ド=ポル から779 キロありました。

到着の夜は大聖堂前広場で 巡礼者の大合唱です。
みんな口々に「また巡礼に戻ってくる」といいます。

Photo by Juan Gomez on Unsplash

地の果て フィニステレ岬の灯台

翌朝 篠原は再び旅の人となった。90キロ先の「地の果て」を意味する フィニステレを目指した。

フィニステレ:海辺の村でサンティアゴ巡礼を終えた証として 巡礼者はここまで来て 貝を拾い持ち帰ったと言われている。
現代の巡礼者が荷物にホタテ貝をつけているのは その名残。(道しるべも ホタテのマークでした。)
いつの日にか 再び 巡礼の旅に出ようと考える者は 自分だけの貝を拾いにフィニステレまで 出かける。

フィニステレ岬の灯台:大西洋に面する ヨーロッパ最西端にある灯台。
篠原は 最後にここまでやって来て 僕だけの旅の証を見つけた。

すろー
すろー

サンティアゴ巡礼 初めて知りました。あの山頂の長い道 歩いてみたいです。
トータル 何日かかったんでしょうか?2ヶ月? 部分的に歩くことも可能でしょうね。
現実は 体力、経済力もなく、英語もしゃべれず 気力もなく、テレビやネットで楽しませてもらいます。

街道を行く 「南蛮の道」バスク地方(フランス・スペイン)

NHK BSP 1998年 初回放送
1549年鹿児島に到着した 宣教師 フランシスコ・ザビエルは2年間キリスト教を布教して、世界に日本を紹介した。スペイン生まれのバスク人で、イエズス会の宣教師はその後も日本に絶え間なく来ている。今も30人以上のバスク人の宣教師がいます。50年以上日本で過ごしている 修道士 アギレゴメスコルタさん(91)。ザビエル以来長い交流を持ったバスクでした。

司馬遼太郎が 1982年、パリのザビエルが学んで 現在も続いている カルチェラタン聖バルブ学院を訪ねた。ザビエルはここで学び 神の道に生きるため イエズス会を仲間と設立 日本にやってきた。

フランスとスペインにまたがり ピレネー山脈のふもと バスク地方に住む バスク人はヨーロッパ最古の民族で バスク語を話す。
フランス側 バスクの中心都市 バイヨンヌから司馬さんは旅を始めた。十数キロいったあたりから バスクにしかない民家だった。窓の外扉が濃い紅殻色に塗られている。白い外壁はいさぎよいばかりの素の平面である。バスクは常世の本質的な国であるような感じがする。
バスクは地域の8割が放牧地や森林など緑の大地です。

サン=ジャン=ピエ=ド=ポール 中世以来の サンティアゴ巡礼の宿場町。
宣教師として来日したソーヴール・カンドウ神父は 流暢な日本語を駆使し、講演、新聞・雑誌の寄稿を通じて日本の知識人に感銘を与えた。著書がを通じ司馬とつながりがあった。彼の生家を訪ね 姪と会います。
フランスの アルネギー村とスペインの国境線は10m程の川。国境ができたことを知らずに暮らしていた。
スペイン側に入りアリバ村で聖ミカエルの祭りに遭遇。丸太割り競争を見て 体を張って働く バスク人。限られた土地の中で共同体を維持し慎ましく生きてきたバスクの人々。その連帯意識は遙か昔から伝えられてきたものです。
紀元前1世紀 進出してきたローマ人は ここをバスコニアと呼びました。牧畜民として暮らしてきたので牧草地を人々の共有のものとしてきた。
ザビエルの生まれたハビエルの村の生家ザビエル城を目にした。
貴族の子として生まれた ザビエルが19才まで過ごした場所です。6才の時に 家は没落 父を亡くし 苦難に耐えた。
バスク自治州の首都 ビトリア を訪ね 大統領に会う。 一番はバスク語を使うようにすること。

国家とは山川草木のことである。さらには山川草木に依存して暮らす人々とそれらの暮らしの総和のことである」

太平洋のビスケー湾に面した海のバスク へ。大西洋の荒波を乗り越えていった勇壮な船乗り。
ゲタリアは大航海時代マゼランと共に世界1周の旅に出て マゼランの死後成し遂げた フアン・セバスティアン・エルカーノ。彼もバスク人でした。

聖なる巡礼路を行くⅡ ~スペイン縦断1500㎞~

サンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼する徒歩の旅、コロナ禍が落ち着いた2022年 一大ブームになっていて 40万もの人が歩いていた。前回に続いて マドリッドに住むグラフィックデザイナー 篠原勇治が、 モサラベの道・銀の道を旅した。(スペイン旅行 こちらにも)

第一話「異教徒の大地」モサラベの道

NHK BSP 2023.2.15
アルメリアアンダルシアの地中海に面した港町 白い壁の家が並び、古代塩田が広がっていた。千年以上前にイスラム教徒によって建設されたイスラムの巨大な要塞 アルカサバ・デ・アルメリア。イスラム教徒はここアンダルシアを拠点に800年に渡ってスペインを支配していた。
出発する前夜、街の中心にあるアルメリア大聖堂に巡礼者が集う。ミサで地元の人も共に旅の無事を祈る。 巡礼者の証 クレデンシャル 巡礼手帳 に司教からスタンプをもらいます。中世にアルメリアのキリスト教徒が逃げた “モサラベの道”を辿る。
・日の出とともに出発。何度も巡礼する人が多く 顔見知りと示し合わせ 旅する人もいる。
2020年3月 国境が突然封鎖され 2ヶ月ロックダウンした。2022年になって 全ての道や宿が再開した。
十二使徒の一人である聖ヤコブ(スペインでサンティアゴ)の遺骸が発見され 聖地になり巡礼が始まった。(⬆に詳細)
その後、この地を征圧したイスラム勢力によって聖堂は破壊され、キリスト教徒による巡礼も途絶えるが、11世紀後半、レコンキスタ(国土回復運動)によってカスティーリャ王国が聖地の奪還に成功したことで、最盛期の12世紀には、その巡礼者数は年間50万人を超えた。
・開けた場所に出た。アンダラクス川だが 雨がほとんど降らず 水は流れていません。さらに先にヨーロッパ唯一の砂漠 タベルナス砂漠があります。この荒涼とした風景が西部劇『マカロニ・ウエスタン』の格好の舞台として選ばれ、多くの映画のロケが行われた。
・2日目からはアップダウンを繰り返す砂漠地帯の山道を進みます。共に歩いた女性は看護助手をしていてコロナパンデミックの時 初期の段階で感染していた。亡くなった人は鉛の棺で送り出していた。スペインでは11万人近くの人が亡くなっていた。ようやく落ち着き巡礼に来ていた。篠原さんの住むマドリードでは ほとんど外出できず 夜8時にバルーコニーからは医療従事者に拍手を送っていた。
シェラネバタ山脈をイスラム教徒は天然の城壁としていた。その麓に点在する アラブ文化を色濃く残す白い村々を抜けていきます。
アルボロドゥイは崖にへばりつくように建っている村で、白い壁が特徴で、厳しい日差しを避けるため石灰で作られた。殺菌作用があり ペストの流行を抑えるにも役だったと言われる。丘の上にひときわ目を引く礼拝堂があった。イスラム教徒が支配していた時代 お互いの文化を認め合い キリスト教も巡礼の旅も認められていた。
アルベルゲ(巡礼宿)には 「ホスピタレイロ」と呼ばれる管理人がいて世話をしてくれる。
・4日目 少し大きな街 フィニャナに到着、聖キリスト礼拝堂 中央の祭壇に安置されたキリスト像、その周りはびっしりとイスラムの文様が描かれている。実はモスクだった建物を 礼拝堂に改修された。
ニューヨークから来た夫婦、妻の母がレバノンで生まれたアラブ人で キューバからアメリカに渡っていて アンダルシアに来たかったが亡くなってしまい 追悼に来ていた。
・9日目 イスラム教徒がスペインで最後に作った王朝の首都 グラナダが見えてきた。1492年 レコンキスタは グラナダが陥落したことで 終結した。グラナダはザクロの意味でいたるところにザクロの装飾が施されている。皮の一部が割れたデザインは「イスラムの堅い守りを破り中の甘い果実を奪ってやった」と誇ったもの。アルハンブラ宮殿の内部は イスラム教徒の高度な技術で作られた 荘厳なオアシスが広がる。イスラムの豪華絢爛な装飾は魔法を使って作ったといわれた。グラナダを奪い返したキリスト教徒はこの宮殿を残した。サクロモンテ地区はグラナダでも貧しい人々が暮らしていたエリアで、戦いに敗れたイスラム教徒はこの地に生き延び 他の文化と混じり合いフラメンコが生まれた。踊り手がなぜ苦悶の表情を浮かべるのが疑問だった。
再び 急峻な山道 3キロにわたり山登り モクリンに、この辺はレコンキスタの激戦地でした。大きなキリストの絵が残っています。3年ぶりのキリスト祭りに 600人の村に2万人が詰めかけた。
果てしなくオリーブ畑が100キロにわたって続きます。かんがい農業を持ち込んだイスラム教徒たち。この地で世界の半分のオリーブオイルを生産されています。
・乾いた平原の道に変わり 17日目 コルドバのローマ橋を渡りコルドバ に到着。コルドバは イスラム教徒がスペインで最初に作った王朝の首都で最盛期 50万人が暮らし さまざまの宗教の民がいた。当時最大のモスク メスキータが作られた。内部には柱の森が拡がります。「神の前で人は平等だ」というイスラムの教えを表し、中央にはキリストの聖堂があり ここもレコンキスタ後 改修され 世界遺産に登録されている。
・24日目 篠原さんの妻の故郷ドン・ベニト、 親戚の家に泊めてもらった。ヘリモヘという郷土料理ごちそうになる。この地で結婚式を挙げていた。翌日村の祭りに参加。郊外のローマ時代に作られた大きな橋を渡って進みます。この先で銀の道に合流し 北上します。

第二話 「征服者の大地」銀の道 (セビーリャ~アストルガ)

銀の道はローマ帝国が スペイン北部で採掘された金・銀などの鉱物をローマへ送るためセビーリャの港へ運ぶ交易道路として使用されました。巡礼者がたどるには 村々の間隔が長く、休憩を取れる日差しを避ける場所も少ないため 数ある巡礼路の中でも 最も厳しいコース。
アルベルゲ(巡礼宿)を早朝暗いうちに出発 なるべく気温が上がらないうちに 距離を稼げるよう歩く。スペインでおなじみのパルで朝食を取る。
南フランスから来ているミゲルと同行した。日差しは強く 日陰もなく 3リットルの水もすぐになくなってしまう。彼は元軍人で 中央アフリカの軍事支援で2人の友人を失っていた。
風景の変化も少なく どこまでも続く荒地だが、自分の内面と向き合いたい人には人気を誇る道だ。
15世紀末 レコンキスタを成し遂げ 巡礼者が減ったころ、カスティリャ王国のイサベル女王が支援したコロンブスがアメリカを発見した。銀の道はポルトガルに接する エストレマドゥーラ州を貫いている。ここは極端に厳しい太地で 耕作地がほとんどなく元も貧しい土地で、800年続いたレコンキスタの多くはこの不毛の地から戦闘に参加していた。
銀の道を歩いて 3日目 エストレマドゥーラ州の大きな街 カセレスに着いた。ところが中心地には 大きな屋敷が建ち並ぶ。コンキスタドール(スペイン語で征服者)と呼ばれ 、15世紀から17世紀にかけてののアメリカ大陸を征服したもの達が 富をもたらした。インカ帝国を滅ぼした フランシスコ・ピサロは隣町出身です。アステカ王国を征服したコルテスも 新大陸から富を持ち帰り スペインを「太陽の沈まない国」に持ち上げた。街中のコルテスの像、足蹴にしているのはアステカの王で 彼らの土地を征服したことを誇示している。しかし 大航海時代の繁栄の影に多くの先住民の犠牲があったことを忘れてはいけないだろう。ロシアによるウクライナ侵攻が続き 戦争や侵略のことを考えざるいけない2022年の巡礼路。
橋を渡った アルカンタラ湖は 乾いた エストレマドゥーラの大地を潤そうと 1960年代に建設が始まった人造湖です。しかしこの年サハラ砂漠から吹き付けてきた もうれつな熱波と その後の干ばつの影響で 平年の1/3しか水の量がなかった。地球を揺るがす 気候変動の影響を感じさせる旅です。
城壁に囲まれたガリステオの街が見えてきた。ローマ時代に建てられた橋 レコンキスタの激戦区と知られる。羊飼いの群れと遭遇、寄り道して プラセンシア羊のミルクのチーズ トルタ・デル・カサールを食べた。
巡礼の旅の最大の魅力は人との出会い、同じ道を歩き苦労を共にした巡礼者同士、国や年齢 性別を超えた交流を楽しむ事ができる。
カスティーリャ・イ・レオン州に入り、フエンテロブレ・デ・サルバティエラ村では夜ごとに聖地を目指す人のためにミサが開かれる。1960年代スペインは国を二分する内乱後の混乱にさいなまされていた。教会は無残にも放置されてしまい 1990年 ブラス神父がやってきて 改修作業の先頭に立ち6年の害月をかけ教会を復活させるとともに アルベルゲを作り巡礼者を受け入れている。神父に促され祭壇に上がり、神に祈りを捧げるために 輪になり手をつないだ。巡礼を経験しているブラス神父のアルベルゲで共に食事。巡礼は魂への栄養補給私たちが抱く欠乏感を満たしてくれると話してくれた。

前回の巡礼で知り合った友がで迎えてくれ 世界遺産の古都サラマンカに共に入る。サラマンカの歴史は古代ローマ帝国の植民都市から始まり、イスラム帝国の支配を受けたのち、キリスト教支配下に入りました。スペイン最古の大学であるサラマンカ大学サラマンカ大聖堂(新カテドラル)は華やかな彫刻が施されていて 1990 年代には宇宙飛行士の彫刻が追加された。マヨール広場など 様々な文化の影響を受けた 街並みが美しい。トゥナと呼ばれる 学生の楽団、学費を稼ぐため サラマンカ大学の学生が始めたといわれる。
北に向かい サラマンカ郊外のローマ橋で出会った人に「冬の道」を行くことを聞いた。ここから先 前回歩いた「フランス人の道」ではないルートを行こうと考えていた。レオンからオビエド まで 通っている 「サン・サルバドールの道」は美しい山道で その先に最初の巡礼者が歩いたという「原始の道」が続くと聞いていた。「フランス人の道」と「銀の道」の交差点 アストルガ から レオン(⬆にあり)
オビエドから サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かうことにした。
サン・サルバドールの道沿いの 集落で スケッチを楽しんだ。すさんだ生活から抜け出すために巡礼に来た人に会った。20キロ近いリックを背負い 宿に泊まらず ハンモックに眠り夜ごと星空を見つめて 生活のリズム取り戻していた。

第三話 「魂の大地」原始の道

レオン 郊外の ポラドーラ・テ・ラ・テルシア この先 イスラム教徒の追撃を拒んだ カンタブリア山脈 パハレス峠を越える。8世紀、イスラム教徒の追撃から逃れてきたキリスト教徒が作ったアストゥリアス王国を築いた アストゥリアス州は雨が多く温暖で 緑豊かな牧草地や森林が広がる グリーンスペインと呼ばれる。
王国の都だった オビエド は紀元前 ケルト民族が支配していたため 秋の収穫祭の踊り「ガイタ」と呼ばれるバグパイプ が響く。サン・サルバドール大聖堂(Metropolitan Cathedral of San Salvador of Oviedo)では 収穫祭のこの日 キリスト教徒の王族が持ってきたとされる 神聖なもの「聖遺物」の1つが信者の前の公開された。それははりつけに処されたキリストの頭を覆っていたとされる血の付いた布 聖骸布 スダリオ です。多くの信者が詰めかけていた。「聖遺物」はキリスト教徒にとって 心を束ねる力があった。
814年 ヤコブの亡骸がサンティアゴで派遣されたと知らせが届き 当時の 王アルフォンソ2世が「聖遺物」を確かめるために300キロの旅に出た。サンティアゴ巡礼の起源となり「原始の道・プリミティボの ルート」と呼ばれる。しかし この工程は 厳しい山道の連続で 各地の巡礼路を歩いてきた猛者も苦戦していた。
台湾生まれで アメリカの有数の企業でロケット開発のディレクターを務めてきた女性 何かが欠落しているような気がしてここに来ていた。去年若いウクライナのオデッセイから来た女性に出会い気になっていた。
・原始の道2日目 グラドに。80年以上前 苛烈を極めたスペイン内戦の激戦地で その博物館が置かれる。選挙で成立した 人民戦線政府を守ろうとする市民が組織した共和国軍と、フランシスコ・フランコを中心とする職業軍人が対立して 内戦状態になりました。圧倒的戦力差があったが フランコ側がドイツ、イタリアのファシズム政権から軍事援助を受ける一方、人民戦線側もソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦とも言える争いが展開された。3年後 スペイン全土がフランコ軍の手に落ち 35年にも及ぶ フランコの独裁政治になった。
・グラド近郊の アルベルゲ(巡礼宿)は 1泊 わずか7.5ユーロ(約1050円)で 安くて清潔でした。ここに 巡礼中 ウクライナの女性が置いていったポストカードがあった。「ウクライナを支援してください」と書かれていて、防弾チョキをつけ歩き 動画もあげていたという。連絡をしてみると「自分の国で 親しんだ文化と 自分のことばを使って暮らしたかった。友人に多くの犠牲があってせつない」と話してくれた。
・3日目 ボデナヤに 元巡礼者の営むアルベルゲがあった。ここの食事代を含む宿代は寄付制でそれぞれが払える分払う。夕食は全員そろって とることがしきたりで、巡礼者が配膳を手伝う。夕食前 名前と出身地と巡礼とは何か話す。一期一会の出会いで 国籍や人種の垣根を越えて さまざまな人生に触れることができる 巡礼のたびは素晴らしい。
・暗い表情をした ヨーロッパに住む ロシア人の女性に会った。祖父母はウクライナ人で 父母はロシアに住んでいて 両方にルーツがあり板挟み状態でした。今はウクライナ語を覚え 再建を手伝おうと思っています。
現在も戦争終結を願うウクライナ人巡礼者が歩く絶景の巡礼路だった。
・7日目 アセボ峠を前に天候が急変した。黄色の矢印の道標のおかげで無事 ガリシア州に入る。独特の石造りのレストランで 味噌汁のように見える青菜とジャガイモの入った 郷土料理のスープ カルド・ガジェゴを食べる。雨が多く気温が低いガリシア、からだを温めてくれます。
・9日目 見事な城壁に囲まれ 世界遺産に登録されているルーゴに。ここから先は平坦な道のりです。その後 メリデで「フランス人の道」に合流。
・13日目の朝 台湾出身の女性と再会し聖地まで共に歩いた。彼女は 昨年ウクライナのオデッサから来た女性との思い出を口にした。一緒に大西洋の海を見ていた。今も連絡を取り合っており 停電が続き ロウソクの光の中に巡礼のシンボル ホタテ貝が写りこんでいた。何もできないけど 励ましの言葉を送り続けるべきと考えていた。
モンテ・デ・ゴーソの丘 Monte de deus から 5キロ先には サンティアゴ・デ・コンポステーラ。 2人は大聖堂前の広場に到着。ロシア人の女性もやってきて 共に大聖堂の中に入る。ミサが終わると 大香炉 ボタフメイロが準備され 焚いたお香の煙を振りまきながら左右に大きく舞う。かつて汗にまみれた巡礼者のニオイを消すために行われた。
地下の「聖遺物」、814年に見つかった ヤコブの亡骸が納められた棺が安置されていた。
・翌朝 サンティアゴをあとにした。太平洋を望むムヒアは かつて布教活動に悩むヤコブの前に聖母マリアが現れ 励ましたとされる伝説の地だ。

ワールド・トラックロード 〜俺の助手席に乗らないか〜

NHK BSP 初回放送日: 2023年3月25日
世界の長距離トラックの助手席にカメラを据えその風景を配達先まで味わう旅。今回はヨーロッパ編、ドライバーは家族思いのドイツ人のラルフさんが ドイツ~ポルトガルと4日間 約2300キロの旅をした。運ぶのは半導体などに使う化学物資で危険物運搬サインをつけている。
■1日目 ドイツ フランクフルト ・アム・マインを AM10:43 出発 交通量の多いアウトバーンの1つ「A3」を走る。
・車窓から見えるライン川…鉱石の運搬で製鉄業の発展を支えその沿岸はドイツ最大の工業地帯になっている。
・マインツ… 香川真司が所属していた ブンデスリーガ マインツ のスタジアムの前を通過。ドイツでは3万基以上ある 風力発電が稼働している。
・ヨーロッパ最大の米軍基地 ラムシュタイン空軍基地 Ramstein Air BaseNATO軍の航空部隊を統轄する司令部が所在。ラルフさんは元ドイツ軍の教官で主力戦車レオパルト2で多くの兵士を訓練した。
フランスとの国境が近づき 休憩所で運転記録書に記入。シェンゲン協定(ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定)があるが スピード制限が異なるため。
運転している 場所・時間・距離・速度が記録され 2週間毎に会社がチェックする。
PM3:29国境通過
・フランスはEU最大の農業国で 延々と田園地帯が続く。
メッス…第二次世界大戦中にアメリカ軍とドイツ国防軍との間で行われたメッスの戦いが行われた。アメリカ第3軍によるメスへの攻撃は防衛側のドイツ軍の激しい抵抗に直面、両軍とも多大な犠牲者を出すこととなった 。アメリカ、ドイツ、フランスの多くの軍人の墓が残っている。
シャンパーニュ…太陽が降り注ぐ 広大なぶどう畑が続く。「シャンパン」の産地として知られる。
サラン 「A10」
レ・オーム・ロードセンター …PM11:05 就寝 1日目 792km走行
■2日目 AM7:30起床 パン・チーズ・コーヒーで朝食 AM9:15出発
トウール郊外で荷物の一部を降ろす。南へ向かう。
ロワール川を渡る。ロワール川沿岸に数々の名城があり 世界遺産に登録されている。
ボルドー…数キロにわたりブドウ畑。ドルドーニュ 川渡る。
スペインとの国境へ
イオン
セキュリティー付きの有料駐車場…ヨーロッパ各地に設置され シャワー・コインランドリー・レストランが併設されている。12時間駐車すると約2000円。 2日目 720km走行。
■3日目
スペイン イベリア半島北岸から 内陸へ
バスク地方…スペイン北西部とフランス南西部にまたがる地域で両国と大きく異なる文化や伝統を有する。スペイン語とバスク語が公用語。中にはスペインからの独立を望む人もいる。
・海がここだけ見える。
アンボト山…バスク神話の最高神、”マリ”は、バスク神話の女神住むと古代より信仰されている。
・サプサ・サービスステーション
バスク地方山間部の主要な産業は林業と牧畜。
ゴルベア山… バスクの最高峰 1481m
カスティーリャレオオバレネスンに入る(E5-E80)。ポルトガルまではいくつも山を越えなくていけない。
・オバレネス山脈(モンテス・オバレネス)…900m級の岩山地帯が続く。
ブルゴス… スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂への巡礼路(フランスの道)と平行したハイウェイを進む。
・レストランテ アレア LA52、3日目 461km走行。
■4日目 風力発電が並ぶ。太陽が昇る瞬間が とてもきれいないつも通る山道。
ポルトガルに入る。(A24) 大理石の世界3大産地の1つ。紀元前300から200年前から始まったといわれる。
ヴィラ・ド・コンデ で高速を降りる。大航海時代海岸防衛の要所だった。ここで荷を降ろした。
4日間 2300km走行。 大西洋を眺め帰路に。