三国志関連の備忘メモです。NHK BSP と混ぜて 孔明の小説・漫画・解説本読んでみました。
戦いがどこで行われていたか マップで見て 広い中国 あちこち追いかけています。古い時代なので 現在は大きな街になって名前も変わったりしてます。
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100分de名著 陳寿“三国志”
BSP 2022年8月再放送 2017年5月 初回放送 Eテレ 映画「レッドクリフ」関連放送
3世紀の中国では、魏・蜀・呉が天下を三分して覇を競った。
小説『三国志演義』(明の時代に書かれた歴史小説 フィクションが含まれる) には英雄や豪傑が鎬を削る様子が描かれるが、実際は「名士」と呼ばれる知識人層の活躍も大きかった。
正史『三国志』中国三国時代について書かれた歴史書。著者は陳寿。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。
「名士」を重んじたが欲望におぼれ見放されていく董卓。
「名士」を軽んじ自ら帝位につこうとして身を滅ぼす袁術。
逆に「名士」の意見を聞きすぎて優柔不断で決断できなかった袁紹。
「名士」を味方につけ、つかず離れずで見事に運用した曹操の「才」。
「乱世の奸雄」と評され悪役のイメージがあるのは 曹操の戦略や政策があまりにも革命的で時代に先駆けすぎていたといわれる。かつての敵を精鋭部隊に育てる 人材登用術、兵糧の確保のために流人となった農民を活用する 屯田制、儒教に対抗して建安文学のサロン作りなど 後の律令体制の基礎ともなっていく。
弱小集団だった孫氏ですが 荒らされた漢王朝の陵墓を整備した初代の孫堅、漢王朝をないがしろにしたと袁術に絶縁状を出す二代目の孫策。常に漢王朝を崇敬することで 多くの「名士」を味方につける。その代表が周瑜で、一人だけ主戦を主張した周瑜を孫権が「信」じ「赤壁の戦い」が始まる。武将黄蓋(こうがい)は、偽装投降し 鎖でつないだ曹操の軍艦に火をかけ焼き払った。結果は呉の大勝利。曹操の天下統一の野望をくじいた。。
劉備は「仁」の人と評価され、その人柄ゆえに多くの味方を作っていくが、それはマイナスに働くこともあった。関羽、張飛との個人的なよしみを優先してしまい 離れて行く「名士」たち。天下国家を見据えるべきなのに、関羽の仇討ちを優先し 身を滅ぼしてしまう。
補ったのが軍師 諸葛亮孔明の「智」。
空旅中国 「孔明が挑んだ蜀の道」
NHK BSP 初回放送: 2019年8月
1800年前 天才軍師で名高い諸葛孔明が宿敵、魏を倒すため進んだ「蜀の道」。
中国四川省を流れる岷江、孔明が仕える蜀の国を豊かにしたという都江堰(世界遺産)があります。
紀元前に作られた中州で水を分け 一定の水が蜀の国を潤すようにしていた。
この水が四川盆地を潤し 孔明は「天府の国」とよんだ。
3世紀 中国を400年治めた漢がバラバラになり 国が乱れます。そこに登場したのが諸葛孔明。
一計を案じた孔明は 北の大国 魏と南の大国 呉をそそのかし争わせます。そのすきに乗じて作った蜀の国。こうして3つの国が覇権を争う三国時代が始まった。
蜀の都成都にある 成都武侯祠には蜀の英雄達が祀られている。
孔明が仕えた 劉備玄徳は 涿郡楼桑村に生まれ わらじ売りから身を立て蜀の君主にまで登り詰めた。漢王朝の末裔で漢の復興、三国統一を夢見ます。
劉備には二人の義兄弟がいて 剣の腕前は敵の武将からも称賛されるほどの関羽雲長 と腕っ節がめっぽう強く 大酒飲みの 張飛翼徳。
君主の劉備が 三顧の礼の迎えた 27才の 希代の天才軍師 諸葛孔明。
成都から 長安まで 魏を倒すため進んだ「蜀の道」2つの山脈を越え およそ1000キロの戦いの道。
成都から関中まで 伸びる 全長600キロの山道は「金牛道」とよばれる。
それは昔のこと 隣の国から「この険しい山に道を通してくれるなら 金を産む牛をあげましょう」と持ちかけられ 道をつくったら 本当に金を産む牛がやってきたが その後ろから軍隊もやってきて滅ぼされてしまった。(戦国時代、秦の恵文王が蜀王を騙して敷かせたとされる道)
孔明は人馬が進みやすいように 岩に切れ込みを入れたり 石でガードレールを作り工夫した。道沿いに柏を植え 冬は風を防ぎ夏には日陰を作った。
金牛道から外れ 成都から 東に300キロの閬中(ろうちゅう)古城は 3面が川に4面が山に囲まれた町 「三水四山」といい風水に優れています。大昔から水運の町として栄えてきた。張飛が7年間治めてきた町で、張飛だけ祀られています。名物の張飛の牛肉(干し肉)
北に進み 東西500キロ 4つの省に渡る 大巴(だいは)山脈を越えなくてはいけません。
大剣山は断崖絶壁の難所中の難所、高さ120mの大岸壁 今は人気の観光スポットになっています。はす向かいに小剣山、この間の谷に 剣門関とよばれる要塞を置いた。
深い谷 明月峡(朝天峡古桟道遺址 明月峡) 崖に木製の桟道を2キロに渡って作った。下に見える穴は 架け変えたもので きれいな四角形で やや下がっているなど工夫が凝らされている。
関中は君主 劉備が末裔と名乗る 漢王朝の起源の地。南に漢江が流れます。
劉備と出会って10年 孔明37才。劉備が到着したとき関中は魏の支配下でした。
定軍山で 魏の英雄 曹操が率いる強力な部隊と激闘を繰り返した。何としてもこの地をとりたいとあらゆる策を繰り出し2年に及ぶ戦いで 曹操を追い払い関中を手に入れた。劉備が自ら漢の王と名乗った場所が 残っている。ここに武侯墓(孔明の墓)がある。
中国の伝統芸能「影絵芝居」はユネスコ無形文化遺産に指定されている。
その歴史は2000年以上 音楽に合わせ牛の革の人形を操り 技は一子相伝で代々受け継がれてきた。
三国志は大の人気で この日は「 関羽の突然の死、張飛が嘆き悲しみ 部下に白い鎧100着3日以内に作るよう命じ 思いあまった部下に寝首を掻かれた」 話が演じられた。
関羽と張飛 二人の義兄弟を失い 関羽の仇討ちを果たすべく 長江を下り呉に向かおうとします。
孔明は劉備をとめますが 呉に攻め込みます。 赤壁之戦遺址。
敗れ 逃げ込んだのが 白帝城。劉備は戦いに疲れ 臨終の床にあり 息子を孔明に託し 亡くなる。孔明は出師表(すいしのひょう)残します。
劉備の死から4年 46才になった孔明は 元々漢の都だった長安を目指し兵を進めます。「孔明の北伐」です。
立ち塞がる秦嶺山脈 全長1600km 中国の中央を東西につながる山脈です。
秦嶺山脈の岩山に作られた麦積山石窟(世界遺産) 再発見されたのは 1952年 長い間人が立ち入らなかった。最も巨大な像は高さ15m 1400年以上前の隋の時代に作られた。岩山に221の岩窟が掘られ7800の仏像が納められている。保存状態が良く 宋の時代の釈迦像が目を引く。
孔明は秦嶺山脈を迂回する祁山道も進軍した。秦嶺山脈を越えるため「木牛流馬」で食料を運んだ。からくり細工がしてあり敵に絶対に開けられなかった。今もからくり細工のおもちゃが子供達に愛されている。
長安まであと1歩のところまできました。小高い丘にある街亭 「泣いて馬謖を斬る」の舞台となったところ。孔明は目にかけていた馬謖を大抜擢し、「山の下に陣を張り 山と山の間の道を死守せよ」と命じますが 馬謖は街亭の上に陣を張り、魏に川を押さえられ 生命線の水を絶たれ大敗したために、泣いて斬罪に処した。
孔明は53才になり 司馬懿(い)の率いる魏軍と 五丈原で対峙したが 司馬懿は孔明の知謀を恐れて兵を動かさない。3ヶ月して 孔明は司馬懿に女性の着物を贈って挑発しても動かなかった。司馬懿は孔明の体調がすぐれなく 死が近いことを悟る。赤い星が五丈原の蜀軍の中に落ちるのが見られた夜 孔明は陣中で息を引き取る。享年54才 志半ばの死だった。
蜀軍は兵を退いたが、魏軍は孔明の策略をおそれて追撃できず、「死せる孔明 生ける仲達を走らす」と言われた。
諸葛孔明の墓は かつて劉備が曹操と漢中を巡って激突した定軍山の戦いの舞台にあります。
空旅中国 「曹操、南へ」
NHK BSP初回放送日: 2022年6月18日
魏を築いた曹操が主人公です。
黄河流域 小麦畑の中にある 漢魏洛陽古城 およそ2000年前 後漢の都でした。皇帝が暮らした 巨大な宮殿の遺跡が残っている。曹操は後漢の王朝に仕えていた。皇帝の力が弱まり 都が荒れ 三国志の物語が始まった。日本からも使者が訪れ 「漢委奴国王」と刻んだ金印を皇帝から授かっていた。
曹操は反乱軍と戦い功績を挙げるが、196年 洛陽から皇帝を連れ出し、皇帝の権威をバックに動き出す。黄河の支流 洛水(現 洛河)の南に洛陽がある。洛水に沿って20キロ 4000年前の夏王朝の宮殿(偃師二里頭遺址)。
洛陽から南東に 嵩山(すうざん) 信仰の山 で主峰は太室山、嵩山少林寺(世界遺産)がある。
轘轅関(かんえんかん) 関所の脇には祠があり 仏教・道教・儒教が祀られている。
自らの拠点 許都(現 許昌)に皇帝を連れてきて ここを都とした。現在 曹操のテーマパーク 曹丞相府景区があります。曹操は 悪役・敵役のイメージが強いが 「いい仕事をした!天下統一の基礎もつくった!」と伝える。求賢令・屯田制をつくった。
皇帝が住み神に祈った ささやかな 毓秀台(いくしゅうだい)、漢魏許都故城。
関羽は劉備の2人の夫人を守る為に曹操に投降し、豪華な春秋楼に住まわされ 自分は粗末な小屋に控えていた。曹操は許都にきて 中国北部の有力者 袁紹と戦う。関羽は曹操軍の武将として出陣 恩を返して 劉備の元に戻った。
その頃 曹操は北部の平原一帯を制圧するまでに勢力拡大し、次に荊州を狙う。
荊州の実力者の元には 劉備がいた。荊州の入り口の 博望故城。
203年 博望坡(はくぼうは)の戦い 攻める曹操軍は大軍で 迎え撃つ劉備軍は僅か、劉備は小競り合いだけして すぐに自分の陣を焼き払い退却。隠していた兵で曹操軍の武将 夏侯惇の軍を打ち破った。戦いをみていた 三国樹 枝にとげがある針桑の木です。村人の言い伝え「昔博望の村をトゲだらけの針桑の木が囲んでいた、曹操軍はタダでさえ強いのに 針桑の木に守られていた。諸葛孔明は考えた。雑草の種を買って泥団子に混ぜ林に投げ入れ 生い茂るのを待って火をつけ 針桑の林を焼き尽くし 曹操軍を火攻めにした」(歴史的には合いません)
新野古城の門 この街は南下する曹操ににらみをきかす前線基地で小さな駐屯地。劉備には自分の領土はありません。議事台という建物 劉備が仲間と論じた場所 明の時代再建された。
劉備はある日厠で自分の太ももの裏に贅肉がついているのに気づき思わず涙を流した。
張飛板麺 といわれる太い麺、張飛のため祖先がつくった腹持ちのいい麺 今も名物として作り続けている。
漢江 長江までつながる まだ200キロ
襄陽 水辺に沿って高さ10mの城壁が7キロ以上続く 。劉備に最前線を守らせた。
この町の西の森 隆中山に軍師の諸葛孔明が 17歳から10年間暮らす。劉備が三顧の礼で迎えた。
ここに三顧堂 でショーを見ることができる。
諸葛孔明は「天下三分の計」 孫権と共に曹操と戦うことを説きました。
劉備と孔明は 魚が水を得たような 「水魚の交わり」を続けた。
西へ行くと 武当山 1000m級の峰々が連なり, 道教の紫斎宮(世界遺産) があり 絶壁の天柱峰には金殿がつくられた。
曹操は 博望坡の戦に敗れた後、中国北部の山奥に進軍していた。疲れ果てた曹操の詩が残っている。 「北上し 太行山に上る…」
黄河の北側 鄴(ぎょう) と呼ばれた街 曹操は中国北部の平原地帯を制圧する。
銅雀三台遺跡 土台の一部が残っており ここにも曹操の像が残る。 ここに権力を誇示するため 盛り土を含め 高さ30m 木造5階建ての楼閣が3つの並び 橋でつないだ。
曹操は「建安文学」を残した。
長江の港町 現在の荊州市(かつての 江陵)
荊州の実力者が病死、後を継いだ息子はすぐ降伏 あっという間に曹操は江陵まで手に入れた。
荊州古城(江陵城) 兵力は80万人に達したといわれる。長江を下ります。この地は水上交通の要衝で 今も船の往来が絶えない。
孫権の砦 ここもテーマパーク 周瑜もいる。
孔明は孫権を説得「曹操軍は大軍だか長い距離を移動し 兵は疲れ切っている。途中で合流した兵も多く忠誠心も疑われる」
曹操軍は陸口に渡ろうとして 長江 赤壁に大軍で布陣すると、船はつながっていた。風が吹いてきた。曹操にニセ情報を送る。「呉の武将が船に乗って投降する」と、そして10艘の船に油をかけた枯れ草や薪を積み曹操軍医近づく。作戦実施は風の強い日 火をつけた船を曹操軍にぶつけると 風にあおられ 辺り一面火の海に。
曹操が陣を敷いた烏林。地元の人が案内してくれた「紅血巷」の碑 数え切れない程の遺体から血が流れ 地勢の低いここに集まり池のようになった。曹操軍は追撃を受け 兵の大半は命を落とし 荊州南部攻略は失敗。中国統一は一気に遠のいた。
その後劉備が荊州南部を占拠 事実上初めての領土とし力を伸ばしていく。
烏林の片隅に曹操と家来達の 小さな祠がある。村人達の手作りだ。
曹操はある将兵が畑の麦を勝手に馬に食べさせたのを知り 弁償し 将校を罰した。
歴史上の英雄の評価はその思想の深さ、平民のために福祉を図ったかどうかで 曹操はよくやった方です。
時代は諸葛孔明の唱えた諸葛亮は「天下三分の計」へに戻る。 だが互いに心一進一退の攻防が続き 3人とも中国統一できなかった。
曹操は赤壁の戦いから12年後 65歳で生涯を閉じた。
それから1800年 河南省安陽市の郊外で 2009年 曹操の墓(曹操高陵)が見つかった。
「魏武王」の文字が刻んである石碑と鉄の甲冑 時が出土した。
曹操の遺言の一節です。
――天下はなお未だ安定していない。いまはふだんの時ではない。したがって古来のしきたりにしたがうことはできない。葬儀が終ったらみなただちに喪服を脱げ。兵をひきいて軍務に服している者は、持場を離れてはならぬ。役人はおのおのその職務をつづけよ。納棺には平服をもってし、金玉珍宝を
副葬してはならぬ。――
三国志
劉備玄徳は涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)楼桑里の出身。前漢の景帝の末裔で幼少時に父を亡くし 母と草履を売って暮らしていた。15才の時公孫瓚とともに 優れた儒学者濾植に学んだ。
黄巾の乱
後漢の霊帝の時代、汚職が横行して宦官や高級官僚たちが私腹を肥こやしていたため、民衆には不満が蓄積されていました。
疲弊した民衆は太平道と呼ばれる新興宗教にすがり、その信者は瞬く間に中国全土に広まっていきます。そして、太平道の教祖は信者たちを扇動し反乱を起こしました。
信者たちはみな黄色い頭巾をつけていたことから黄巾(こうきん)の乱と言います。
その頃、漢皇室の末裔である劉備(りゅうび)は平民となっていましたが、2人の豪傑 関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と義兄弟となる誓い(桃園の誓い)を結び 生死を共にする約束をした。 黄巾の乱の鎮圧のために活躍します。
劉備は黄巾の乱で功績を挙げ 官吏になったが官職を点々とした後 黄巾軍に敗れ 公孫瓚を頼った。
董卓の支配
霊帝が亡くなると、後継者争いの混乱につけ込んで董卓(とうたく)が後漢の首都 洛陽にやってきます。
董卓はあとを継ついだばかりの少帝を廃位して幼い献帝(けんてい)を皇帝の位につけ、自分が後見人となって政治の実権を握りました。董卓のそばには猛将・呂布(りょふ) がいて誰も逆らえません。
後漢の司徒 王允(おういん)に託された曹操(そうそう)は董卓の暗殺を試みますが 失敗。
洛陽から逃げ出した曹操は、偽の詔を使って「董卓を倒そう」と諸侯に呼びかけます。
名門の袁紹(えんしょう)、袁術(えんじゅつ)をはじめ多くの諸侯が集まり、袁紹を盟主とする「反董卓連合」が結成されました。劉備・関羽・張飛も参加。
そして 劉備たちの活躍で劣勢となった董卓は、洛陽を焼き払って長安に都を移す。
曹操は 単独で追撃をしますが大敗、やがて「反董卓連合」は、仲間割れを起こして解散してしまいます。
王允は 絶世の美女である養女 貂蝉(ちょうせん)の協力を得て 董卓配下の呂布に近づきと結婚の約束をしました。
王允は董卓を屋敷に招いて貂蝉に酌をさせると、女好きの董卓に貂蝉を献上すると 喜んで連れて帰りました。貂蝉を諦あきらめ切れない 呂布は董卓を殺してしまいました。
官渡の戦い
董卓が死ぬと 部下の李傕(りかく)と郭汜(かくし)が長安に入り 暴虐の限りを尽くした。王允は殺されて呂布は長安を脱出。
仲間割れをしている隙に献帝は長安を脱出し、曹操に保護されて許都(現 許昌)に移されました。
盟主の袁紹は 幽州牧の劉虞を擁立しようとして断られ 冀州(きしゅう)を手に入れ本拠地にした。
北の公孫瓚と対立 界橋で戦う。公孫瓚は劉虞に討伐されるが 返り討ちにして 幽州乗っ取る。
曹操が兗州(えんしゅう)という本拠地と 青洲兵を手に入れる。
曹操侵攻してきた袁術を匡亭で撃退。徐州牧 陶謙に父を殺された曹操は徐州大虐殺を行う。大量の流民が長江を渡って南部に移動。その中に諸葛亮兄弟がいた。
陶謙に依頼され劉備は沛県(小沛)にとどまり 徐州牧になる。
遠征中の曹操の留守を狙って呂布が兗州(えんしゅう)を略取、しかし曹操の反撃にあい劉備の元に逃げ込む。
劉備は迎撃中に呂布に下邳を占領され 曹操の元に。
朝廷を牛耳っていた者が仲間割れを起こし 曹操が 献帝を保護し 都を許昌に移す。
曹操は荊州攻略をもくろみ 北部の宛城を攻撃するが敗退。
曹操は呂布を成敗するため 下邳で対戦 呂布を捕らえ殺害した。
公孫瓚は袁術の命で荊州の劉表と交戦し死ぬ。跡を継いだ子の孫策は 袁術の配下になるが 失望し離れる。孫策は親友の周瑜と再会し 江東を平定する。 孫策が刺客に襲われ死亡 弟の孫権が基盤受け継ぐ。
孫堅の意志を継ぐ孫策は 周瑜とともに、長江南岸の支配に乗り出す。
黄河より北側を支配していた袁紹が、黄河の南側 兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)・司隷(しれい)・徐州を手に入れた曹操の間で緊張が高まっていきます。
曹操から厚遇を得ていた劉備は徐州刺使を殺し独立しますが 曹操軍に鎮圧され 劉備は袁紹の元へ逃げ延びてきました。この時に劉備の妻子と関羽は曹操軍の捕虜となり、関羽は曹操軍の客将として扱われています。
曹操は白馬の戦い・延津の戦いで 10倍の兵力を持つ袁紹軍を破る。関羽は劉備の元に戻る。
官渡に籠城した曹操は 袁紹の大軍を食い止めながら 劉備の後方攪乱を鎮圧し、袁紹軍が兵糧輸送を軽んじる所をついて 曹操は 袁紹の大軍を破り 勢力を没落させる。
袁紹は冀州に戻り 再び平定するが病で死去。
諸葛亮と出会う
劉備は荊州の劉表(りゅうひょう)を頼り、対曹操の最前線の新野(しんや)を守ります。
新野で水鏡先生(司馬徽しばき)に出会った劉備は、自分の陣営に知謀の持ち主がいないことを指摘されます。
当時 諸葛亮という賢人が住んでいるという情報が入ります。
諸葛亮 字は孔明、またの名を臥竜といいます。 徐州琅邪郡陽都県生まれ、父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)だったが 諸葛亮が幼い時に死去している。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。
孔明は弟の均と共に叔父の諸葛玄に連れられ荊州に。諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せた。
孔明が嫁さがしをしているという噂を聞いた 黄承彦は「赤毛で色黒の娘ではあるが、才知のほうは君にぴったりだ」と告げ 孔明も承知したので娘は孔明の妻になった。
黄承彦の妻は蔡氏、妻の妹の夫は 劉表と蔡瑁。
荊州牧の劉表は赴任当時土地の豪族の反感を買ったので 有力者を懐柔し治めた。長子の劉琦を後継者にすべきだったが 弟の劉琮を後継者にした。
劉琮の妻は 劉表の後妻 祭夫人の姪で、 祭夫人の弟は豪族の祭瑁だった。
劉備は関羽 張飛ちょうひを連れて 隆中の諸葛亮を訪ねますが 留守でした。
3度目の訪問でようやく諸葛亮に会うことができた(三顧の礼)劉備は自分の軍師になってくれるように懇願します。荊州と蜀を奪って東の孫権と結び、北の曹操に対抗する「天下三分の計」を示しました。
赤壁の戦い
曹操は丞相に就任 荊州遠征を始めました。
劉備は 疑い深い劉表のために 長い間飼い殺しにされていた。
劉表の跡を継いだ劉琮が曹操に降伏しため、劉備は江夏の劉琦を頼ることにし 燓城にいた。
孫権は支配している揚州の長江の上流にある荊州を確保しようとして拠点を柴桑に移す。しかも江夏の黄祖は孫権の仇だった。
劉琮が降伏したことを知らずに 曹操の南下を知り 劉備は 燓城を放棄 武器や兵糧の蓄えている江陵に向かう。人々が付き従ったので 当陽にいたるころには10万人を越えた。曹操は追いかけ 長坂(ちょうはん)で襲いかかった。非戦闘民の多い劉備軍は為す術がなく 劉備は妻子を捨て逃走した。趙雲が劉備の子 阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救出。
劉備が漢津まで逃げ 別働隊の関羽と合流した。
戦わずして劉琮を降伏させた 曹操は、孫権へ降伏を勧める書簡を送ります。
劉備は様子を見に来た孫権の腹心の一人 魯粛(ろしゅく)と出会う。魯粛は諸葛亮を連れ孫権のいる柴桑に戻る。諸葛亮は「天下三分の計」の実現のためには孫権の協力が不可欠であったため、呉の孫権と共に曹操と戦うことを説得しました。
曹操軍が長江 赤壁に大軍で布陣すると、孫権は周瑜に作戦を一任しました。
曹操軍は疫病や船酔いで兵士の士気が落ちたところに 孫権軍の火攻めにあって大敗した。
曹操軍の敗走の後 孫権は北上開始 荊州の江陵は落とすが 合肥は落とせなかった。
劉備は曹操軍の混乱に乗じて南郡の武陵・長沙・零陵・桂陽の4郡を奪い取ってしまいます。
すると孫権は 曹操軍に大打撃を与えたのだから、荊州は孫権のものになるべきだと主張し、荊州は劉備が蜀(益州)を手に入れたら孫権に返すということで落ち着きました。
周瑜は益州侵攻に江陵に向かう途中病気になり 後任に 魯粛を指名した。
蜀に入る
渭水の戦い
赤壁の戦いで敗北した曹操は、今度は西涼(涼州)の馬騰を許都に呼び出して殺してしまいます。
馬騰が殺されたことを知ると、息子の馬超は韓遂と共に10万の兵を潼関に集めに長安に攻め上り、一時は曹操を追い込みますが、曹操の計略によって韓遂と仲間割れを起こして敗走しました。
拠点を失った馬超が漢中の張魯を頼ると、張魯は馬超の武勇を頼みに蜀(益州)に攻め込む動きを見せ始めます。
馬超に怯える 益州牧・劉璋は、荊州の劉備に援軍を求めた。
劉備は援軍として蜀に入ると馬超を味方につけ、益州の州都 成都を包囲して劉璋を降伏させた。また呉の孫権が荊州の返還を求めてきて関係が悪化してしまいます。
その隙に曹操が漢中に侵攻したため、劉備は長沙・桂陽の2郡を返して孫権と和睦しました。憂がなくなった劉備は、漢中を攻め取って漢中王を名乗ります。
荊州を任されていた関羽は、独断で魏(曹操)の樊城(はんじょう)に攻め込みました。
孫権は背後から攻撃して関羽を殺し 荊州を奪い取ってしまいました。
孫権は劉備の怒りの矛先をそらすため、曹操に関羽の首を送りますが、曹操は手厚く弔とむらいます。
その後 曹操は64歳で亡くなり 跡を継いだ曹丕は献帝に禅譲を迫り、皇帝となって魏の国を建国します。これにより、後漢王朝は完全に滅亡した。
漢の皇室の末裔である劉備は、後漢を正統に受け継ぐ国として蜀漢を建国して帝位につきました。
夷陵(いりょう)の戦い
その後劉備は、諸葛亮ら多くの臣下が反対する中、関羽の仇討ちとして呉に出兵。序盤は勝利を重ねた劉備ですが、呉の陸遜の火計を受けて大敗。退却の途中で発病し白帝城に諸葛亮を呼ぶと後事を託して亡くなってしまいました。
その後、孫権も呉を建国して皇帝の位について 皇帝が3人も並び立つ状態となりました。
諸葛亮の北伐
劉備亡き後、蜀漢は子の劉禅(りゅうぜん)が後を継ぎ、諸葛亮が国政の全権を握って、先帝の遺志である魏を討伐し 漢の復興を目指すことになります。
諸葛亮は 呉と和睦して同盟を結びなおし、たびたび反乱を起こす南蛮の孟獲(もうかく)7回捕らえ 7回放ち 心服させて、憂を取り除きました。
その後、諸葛亮は5度に渡って北伐を行いましたが、蜀軍を迎え撃つ魏軍には、諸葛亮に匹敵する知恵者の司馬懿(しばい)がおり、諸葛亮は5度目の北伐の最中に亡くなってしまいます。
諸葛亮の死後 姜維(きょうい)らによって北伐が続けられました。劉禅が宦官の黄皓を重用したため、国政が乱れて蜀漢の国力は一気に衰退してしまいました。
三国時代の終焉 晋
魏では帝位についた曹丕に続いて 第2代皇帝 曹叡(そうえい)も早世、8歳の曹芳(そうほう)が皇帝になっていました。政治の実権は曹爽(そうそう)が握っていましたが、司馬懿のクーデターによって 曹髦(そうぼう)を皇帝につけました。
司馬懿が亡くなると、その実権は子の司馬師(しばし)、弟の司馬昭(しばしょう)へと引き継がれます。司馬昭に逆らった皇帝 曹髦は殺され 曹奐(そうかん)が皇帝になりました。
司馬昭は、蜀漢を攻めて劉禅を降伏させ 蜀漢は滅亡してしまいます。
そして 司馬昭が亡くなると 子の司馬炎(しばえん)が曹奐に禅譲を迫り 皇帝となって晋を建国しました。
一方、呉では孫権が亡くなると 代を重ねていましたが 280年 晋の侵攻を受けた孫皓が降伏してしまいます。
空旅中国「英雄たち8つの峠」
大河関 三国志の曹操
山西省大河村の大河関を通る峠道を 三国志の曹操が通った。冬 敵を追い詰め きつい上り坂
「北上し太行山を登る。その峰は実に険しい、坂は羊の腸のように曲がりくねり 車輪が砕けてしまった。…」と詩に残した。
食糧も尽きかけ あわやと思ったとき 曹操が食べた ヤギ料理が 名物料理になっています。

古代中国 よみがえる英雄伝説「項羽と劉邦」
NHK BSP 2014.3 初回放送
中国を統一した秦の始皇帝、紀元前210年に世を去ります。再び戦乱の時代になり、天下を手中に収めようと2人の英雄が熾烈な戦いを繰り広げます。
この時 項羽は20代前半 その後70を越える戦いに勝利する 中国史上屈指の戦の天才でした。
一方 劉邦は 50歳間近 項羽との戦いでは 負け続けていた。ところが最後に勝利したのは劉邦でした。
長江の下流にある 宿遷、古代には 楚と呼ばれた国でした。項羽はこの町の名門の武将の家に生まれました。楚はかつて秦に滅ぼされ 復興を夢見た項羽は 秦の打倒を目指し兵を挙げます。
紀元前208年 秦に対する反乱が各地で起きていました。斉・魏・趙 かつて秦に滅ぼされた国々が立ち上がった。
鉅鹿(きょろく)の戦い (河北省 巨鹿鎮 紀元前207年) で項羽の名は中国全土にとどろくことになった。 反乱鎮圧のため遠征していた秦の主力軍相手に 劣勢を挽回するため 黄河の支流 漳河は激流でしたが 項羽は渡り終えると 乗ってきた船を沈めます。 退路を断って覚悟を決めて 次々と勝利します。 これを見て兵が集まり 大軍に膨れ上がりました。
劉邦も楚の国の生まれ 江蘇省 金劉村に4人兄弟の末っ子に産まれ 長ずると下級役人を務めていた。司馬遷は史記で 劉邦を「酒と色を好み いつも酔い潰れていた」
40台後半に農民や流人の反乱軍の頭領になり 項羽の軍に加わった。
秦軍と正面衝突を避けながら咸陽を目指した。「南陽の戦い」 南陽を包囲していた劉邦軍、そこへ項羽が鉅鹿で勝利を収めたとの知らせが伝わる。母国の滅亡は近いと悟った秦の兵士 降伏を願い出た兵士達を劉邦が許し 自らの軍に迎え入れた。これを聞きつけ 劉邦の軍は10万に膨れ上がった。
劉邦が戦わずして 秦の都 咸陽(現 西安市)に入り 2ヶ月後項羽も入城した。
兵馬俑 の一部に不自然な赤い色…火にさらされ焼けた跡がある。項羽が秦の王宮に火を放った。(史記)
劉邦は「秦の図書(ずしょ)を得る そしてこれを隠す」(史記) 図は地図のこと 書は戸籍など行政文書のこと、税や兵役の情報を独り占めした。
紀元前205年 「彭城の戦い」(現 江蘇省徐州市)で 激突。項羽軍 圧倒的な強さを発揮する 、劉邦軍はことごとく打ち砕かれ 十数万の兵を失い敗走 史記には「実の子を三度も蹴り落とした」とある。
4ヶ月後 黄河中域にある滎陽(けいよう 現 河南省鄭州市) 鴻溝(こうこう)に劉邦は逃げ込み 3年に渡り持久戦に、決定的打撃を与えることのできない項羽。
劉邦は配下の部下を各地に送り秘策を練っていた。
劉邦が率いていた軍のようすを伝える兵馬俑 3000以上、劉邦に仕えていた周勃の墓から出土。この中に中国平原部と異なる姿をした兵士、頭の上に髪を束ねた勇猛な苗族、騎馬民族など。各地の民族を引き入れていた。
安徽省に広がる 垓下(がいか)古戦場で 紀元前202年 雌雄を決した。
劉邦軍に騎馬部隊が加わり 60万のを超えた兵になっていた。項羽の軍は食糧も尽き 劉邦の大軍に幾重にも包囲されていた。項羽の耳に祖国楚の国の歌が四方から聞こえてきた。(四面楚歌)
項羽は長江のほとりで命を絶つ。
漢の都 長安 紀元前202年 劉邦は周囲に推される形で 皇帝に即位 漢王朝成立。劉邦は一族や功臣に土地を与え 諸侯とし 一定の権力を許すことで王朝の安定を図った。 漢王朝は400年に渡って続いた。