角川ソフィア文庫 「東方見聞録 マルコ・ポーロ」長沢和俊 訳・解説 を読みました。
マルコの貿易商人だった父と叔父が フビライ・ハーンからローマ教皇へ使者となり、その報告のためヴェネツィアからエルサレム・現トルコ・イランの砂漠地帯・アフガニスタン・ワハーン回廊・中国のカシュガル・ハーンの都 大都(北京)まで旅した。帰りは船旅でベトナム・スマトラ・インド・ペルシャを経由しヴェネツィアに戻った。
すぐ忘れてしまうので 備忘メモです。
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貿易商人の父と叔父
1260年 マルコ・ポーロ の父ニコロ・ポーロと叔父の マッテオ・ポーロ 兄弟
・ヴェネツィア [イタリア] から商品を持って出発
・コンスタンティノープル[トルコ]
・ソルダイア(現:スダク クリミア半島)
・タルタル人の バルカ・ハーン(都:ブルガル、サライ) [ロシア]に 1年滞在
サライ:「24時間テレビ」のテーマで歌われています。
・ブルガル [ロシア]
・ウカカ(ヴォルガ川沿い) ⇒ 砂漠
・ブハラ[ウズベキスタン] バラク王の 大きな町 3年滞在
レヴァントの君主フラグから 全タルタル(モンゴル)人の大君フビライのもとに派遣された使節と出会った。使節は 大ハーンは一度もラテン人を 見たことがないので 私と一緒に行けば 喜ばれ 恩賜の品をくださるだろう と誘われ 同行した。
・1年かけ フビライ・ハーンの宮廷に(兄弟はタルタル語もトルコ語も話せた)
・ハーンは兄弟にキリスト教徒の事情を聞き、2人をローマ教皇のもとに使者として派遣した。
・貴族のコガタルも同行することに、ハーンから馬が自由に使える黄金牌子を受けて出発。
・コガタル まもなく病気になり ある町に残留。
・騎馬の旅を 3年到着。
・アルメニアのライアス (現:イスケンデルン)[トルコ] に到着。
・アークル (現:ハイファ北東)[イスラエル] 1269年4月到着 教皇クレメント4世の死を知る。
エジプト駐在の教皇の全権大使に会って 次の教皇が決まるまで待つってほしいと言われた。
・この間 家族の待つ ヴェネツィアへ帰る。ニコロは妻が 15歳になるマルコを残してなくなったことを知る。2年ほど待っていたが 新しい教皇は選ばれず 大ハーンのもとに帰るのを遅らせる訳にいかなかった。
マルコ・ポーロ 父と叔父と 教皇の親書持って ようやく出発
マルコ・ポーロ(東方見聞録の口述者)を連れ 父と叔父とヴェネツィア出発
・アークルで全権大使に会い 大ハーンの母が キリスト教徒なので エルサレムのキリストの墓のランプから聖油をわけてもらいたいと申し出 許可を得た。
・エルサレム [イスラエル]で聖油を得て 全権大使から大ハーン宛ての手紙をもらった。
・ライアス に着くと 全権大使が教皇になったことを知り アークルに呼び戻された。
2人の僧も同行を命じ 大ハーン宛ての親書を作らせた。その中に レヴァントの タルタル人の君主 アバガ・ハーンに このキリスト教徒達に援助と保護を願い出た手紙もあった。
1行は教皇の祝福を受け ライアスに戻った。
先に 大ハーンの都に到着した話
都について マルコ一行は 大ハーン(フビライ・ハーン)に拝謁。
大ハーンに大きな満足と喜びをもたらし 手厚く待遇された。
マルコは またたく間に タルタル人風習・言語・文学を修得し、大ハーンはマルコを寵愛 各地に使者として派遣 17年過ごした。
イル=ハン国 ☆現トルコ~イラン
・全権大使は 教皇 グレゴリウス10世になっており フビライへの贈り物や 途中立ち寄る国の君主への手紙を3人に渡した。2人の司教と何人かの従者と共に 1271年11月 アークルを出帆。
・ライアス (現:イスケンデルン)[トルコ] に着くと バビロニアの大軍がアルメニアを荒らしていた。熱心なイスラム教徒だったので、キリスト教の信者を見れば直ちに打ち殺してしまうという噂を聞き、司教達は震え上がって 手紙や贈り物など残し引き返した。
▶伝聞:アルジンガンは大アルメニアの都市の中でも最も壮大で大司教も置かれていた。硬麻布が作られる。
・エルズルム [トルコ] :近代の東部トルコの要衝で 対ロシアの軍事基地になっている。
レヴァントの タルタル人が大勢牧畜に来ていた。
イスタンブール ~ エルズルム ~ タブリーズ ~テヘラン に至る道は古くから シルクロードの最も重要な道だった。
・アララト山:旧約聖書の「ノアの箱舟」たどり着いた山。キリスト教徒にとってこの山は 人類をはじめあらゆる生物の発生の地とされる。
▶伝聞:モスール王国はイラク第2の都市、キリスト教が2派、モスリンという絹の産地、油田。
グルジアはアレクサンダー大王の侵入も許さない王国で、ツゲの森、多くの絹産出、世界最高の鷹。
バクダットは ムスリムの長 カリフの都。はナツメヤシ、豪華な刺繍の織物
・トリス (現:タブリーズ)[イラン] レヴァントの タルタル人 の国の首都、君主 イル・ハーンの手紙を教皇からもらっていた。金糸銀糸の織物、宝石類
▶伝聞:ペルシアに8つの王国があり、立派な馬がインドに輸出される。
・カズヴィン (ガズヴィーン)[イラン]
・ヤズド[イラン]:砂の深い砂漠、ゾロアスター教で鳥葬の塔がある。ヤスディという絹 ⇒7日間
・ケルマン (ケルマーン)[イラン] トルコ玉、馬具や武器 ⇒7日間 ⇒ 山 ⇒2日間 下り坂
⇒ レオバール平原 ナツメヤシ リンゴ ピスタチオがとれる。多くの町や村があるが 山賊がでるので 城壁で囲まれている。カラウナスという山賊は 妖術を使って白昼でも 暗闇にすることができ 全平原で老人を殺し 若い男女は他国に奴隷として売られる。
妖術は恐ろしい砂嵐で マルコ達も襲われたが 近くの町に逃げ込んだ。
・ホルムズ(コルモス)(現:バンダレ・アッバース)[イラン] という港町に着いた。インド・中国へ行く船があったが 粗末で難破することも多かったので ケルマンに引き返した。
・ケルマン から砂漠 ⇒4日目⇒ 川 ⇒3日 ⇒コビナン(ケルマンの北150キロ)⇒8日目 ⇒
・トゥノカインという地方(ルート よくわかっていない。タバスでは条件が合わない事あり)
恐ろしい実話「暗殺者の谷間」
異教徒と呼ばれた イスマイール派(イスラム教の1派)の頭目の 山の老人アラオディンが アラムートを本拠にしていたが、トゥノカイン地方にも 拠点があった。二つの山の谷あいに 広大な美しい庭園 宮殿を建て 美人を集め 天国のようにしていた。
近くの城に12から20歳くらいの若者を集め 毒殺や刺殺の訓練をさせていた。その中から数人選んで眠り薬で眠らせ 美しい宮殿に運び入れ 歓楽の限りを尽くさせる。また眠り薬を飲ませ、もとの城に戻す。目が覚めると 老人は もう一度天国に行きたかったら「 ○国の○○を暗殺せよ」と命じる。それを聞いた若者は天国に行きたいと死の危険を冒しても実行する。
11世紀末から12世紀の前半にかけ イスマイール派暗殺者に殺された各国の宰相や王は少なくとも十数名に上っている。
長い間 山の老人は 魔王のように振る舞っていたが フラグ王率いるモンゴル軍に3年がかりで攻め落とされ 部下共々殺された。
本当に 背筋が凍りそうな話です。今につながるような…。でもなんか別の陰謀があるかも?
チャガタイ・ハン国 ☆中央アジア・アフガニスタン
・サプルガン (現:シェベルガーン) [アフガニスタン]:どこまでも美しい牧草が続く。メロン
・バルク、バラク (現:バルフ) [アフガニスタン]:古くからバクトリア王国の都として栄えたが、モンゴル軍に破壊されて廃墟になっていた。⇒12日北東と東に
・タイカン(クンドゥズ東方)[アフガニスタン]:穀物の大集散地、南に高い山。塩の山。
・スカセム:ヤマアラシが住む
・バラシャン(現:バダフシャーン) [アフガニスタン]:ラピスラズリなど宝石。名馬。1年近く床につく。
▶伝聞:カシミール:山あいの国 仏教、インド洋へ道が続いている。
⇒大きな河に沿って 東と北東方向に12日間
・ヴォカン(現:ワハーン回廊)[タジキスタン・アフガニスタン]:
パミール高原の南端に位置し、アフガニスタン北東部、タジキスタンとパキスタンに挟まれた東西約200kmを貫く細長いエリア
中国からアフガニスタンに行くのに必ず通らなければならなかった。
・「マルコ・ポーロの羊」:大型で野生の羊で 角がとても大きく長い。マルコ・ポーロが発見した意味を込め名付けられた。
・ワハーン回廊 を超えた一行は ベロールという40日もかかる道が 再び続いた。
(ヒンドゥークシュ山脈を越える ワフジール峠は 現在閉鎖されている)
驚いたことに ネットで検索すると キルギス オシュ空港や タジキスタン ドゥシャンベ空港があり 日本から ワハーン回廊・パミール高原に観光に行けるようです。
中国側のカシュガルへ アジアハイウェイ があり パキスタンにも 行けるようです。
何年もかかった難渋なところが 意外にもでした。若ったら 行きたかったなぁ。
アジアハイウェイ すごい繋がっています。中国の高速道路 結構 隅っこの方まで 伸びています。
アジアハイウェイとは、アジア32カ国を横断する全長14.1万キロメートルにわたる高速道路。主に既存の道路網を活用し、現代のシルクロードを目指して計画されているものである。トルコからは欧州自動車道路に接続する。英語での略称はAH。国際連合アジア太平洋経済社会委員会が運営事務局をつとめている。(ウィキペディア)
出展:ウィキペディア/国土交通省
(こちら 国土交通省のHP) に地図が載っています。
日本の東京日本橋がAH1の起点、AH1を構成する国内の高速道路等の各路線に 合計18箇所 標識が設置されています。
中国 カシュガル~フビライ・ハーンのいる上都へ
ようやく中国に入っていた。
・ベロール(現:タシュクルガン・タジク 蒲犁) [中国]:三蔵法師も訪れた「石頭城」
・カラクリ湖
・カスカール(現:カシュガル 喀什):今は大ハーンの 隷属下にあり イスラム教。
キルギスやパキスタンに(クンジュラブ峠越えのハイウエーが完成)
▶伝聞:サマルカンド:大都市で 父達が1回目に通った。
・ヤルカンド 莎車:綿、片方の足だけ大きい。崑崙山脈から川が流れオアシスが転々とある。
・ホータン 和田:ぶどう、畑
・ペム(現:チラ県 ピマ ) :西遊記の媲摩城。奇妙な風習があり「既婚の男子が旅に出て 20日以上も家を留守にすると すぐ妻は別の夫を持つ。夫はどこに行っても別の妻持てる」
・チャルチャン 且末:モンゴル軍に荒らされていた。
・ロプ:大ハーンの 統治下にあり イスラム教。大砂漠を横断する人は 前に1週間の休息をとる。砂漠の中で「悪魔の声」が聞こえる事がある。⇒30日間
・沙州 (敦煌のある地方):当時 甘粛省はタングート地方と呼ばれ フビライ・ハーンが直々に統治していた。11~12世紀 タングート族の西夏王国が栄えていた。
▶伝聞:ハミ(見知らぬ人が宿を借りると 主人は妻に客人の望むようにしろと命じ田舎の家に行く)。
イウクリスタン(カラホージョ)、高昌古城
・粛州 (酒泉市):タングート地方の都。大黄
・甘州(張掖市):1年間滞在
▶伝聞:北方へ12日 エチナ(カラ・ホト)、北方へ40日 カラコルム(モンゴルのオルホン河上流の町)
・甘州 ⇒ 涼州(銀川市) ⇒ 寧夏 (エグリガイア) ⇒ 天徳
・天徳:フビライ・ハーンの使者が多くの兵士を連れ出迎えてくれた。瑠璃色の顔料の石を産する。
・宣化:工業が盛ん軍装品製造 ⇒上都
元 フビライ・ハーンとの出会い
・上都:フビライ・ハーンの別荘
ニコロ、マテオ、マルコはフビライの上都の 大理石と石でできた宮殿に着いた。ヴェネツィアを発ってすでに3年半が過ぎていた。
フビライ・ハーンに謁見 ローマ教皇の手紙 贈り物、キリストの墓の聖油を差し出し 旅の様子を報告した。
宮殿には 1万頭以上の白馬がいた。この白馬の乳 皇族のみ飲むことが許されており 祭りの日に モンゴル帝国の精霊にこの乳を飲んでもらうため フビライ・ハーンは多くの高僧を招いて 空中にまいて 繁栄を祈った。
バクシと呼ばれる占星師や妖術師が 雲を払ったり 嵐を治めたり 飲み物が空を飛んだり 様々な魔法を使った。
マルコ達は商人と言われたが 「東方見聞録」に見たり聞いたりしたことがまとめられており、ローマ教皇から アジアにおけるキリスト教徒の情報や モンゴル帝国の情報を集めるよう命じられていたのではないか。
・大都(ハンバリク) 現:北京
9月になると フビライ・ハーンは大都に帰る。マルコ達も大都に移った。
3月になると 鷹狩に行き 大テントが張られる。
モンゴルの人々は家畜を連れ水や草を求め冬は暖かな平野で暮らし 夏は涼しい山地で暮らす。移動するため 家は柳の枝で骨組みを作りフエルトで覆った。
モンゴルの皇帝が出陣するとき10万の兵で元帥になっていく。その隊は10人の将軍がおり、その下に10人の将校、その下に10人の士官、その下に10人の小隊長、その下に10人の兵士がおり、たちまち命令は全軍に伝わる。
紙幣を使っており、金銀 宝石などすべて フビライ・ハーンのもとに 集められる。
駅伝制度があり 諸地方に通じている幹線道路に 25ないし30マイル(4,50キロ)ごとに 宿駅が設けられ 2,3百頭の馬と館があり 使者が自由に使えた。
山間荒地にも 距離が離れても 人を住ませ耕作させ宿駅の仕事をさせた。彼らは何人でも妻が持て 子が多くいて父に従っていた。
宿駅の3マイル(5キロ)毎に 40戸くらいの集落 があり 飛脚が住んでいた。飛脚は幅広の帯を締め鈴をつけ走り全速力で走る。鈴の音で次の飛脚が準備し受け渡した。これで10日行程を1昼夜で報告が届いた。駅には書記がいて記録していた。
大至急の場合 騎馬の使者が200,250マイル(400キロ)大タカの牌子を携えていく。丈夫で俊足な馬で飛ばし25マイル先の駅めざし 近づけば角笛を鳴らす。準備していた馬に乗り換え 次の駅を目指し 暗くなるまで走り続ける。
砂漠の旅 壮絶ですね。駅伝制度よくできています。情報伝達しっかりできていますね。
チンギス・ハーンの モンゴル帝国は 子孫が封じられた 4つのハン国になっている。
ロシア地方のキプチャク・ハン国、ペルシア地域のイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、そして フビライ・ハーンによる元、正式に 大元ウルスという。
フビライが唯一の大ハーンで、そのフビライの領土は 東は朝鮮半島、北はバイカル湖、西はチベット、南はビルマに及んでいた。
雲南・ビルマへの旅
フビライに仕え 使者となったマルコは各地を視察し 報告した。
・ハンバリク ⇒ 盧溝橋:大理石の立派な橋 ⇒ 琢州 ⇒ 太原府 ⇒ 平陽府 ⇒ 黄河
・現 西安:京兆府 大ハーンの王子 マンガライが治めていた。城壁で囲まれている 宏大な宮殿
・鳳翔 ⇒ 泰嶺山脈 ⇒蜀の桟道⇒ 漢中府(ハンチュンフ)
・成都 ⇒ 揚子江(岷江)見る
▶伝聞 チベット:モンケ・ハーンが南中国を征服したとき あらゆる町や村を打ち壊したので トラ・クマ・山猫のすみかに。⇒ 20日間 ⇒
処女を妻に迎えない。旅人を多くの娘達が訪れ寝て宝石など記念品を与える。記念品を20個以上手に入れると結婚できる。結婚後は夫は妻を厳重に監視する。
・ラマ教を信じておりひどい悪党だった。ジャコウ鹿が住んでいる。邛都(現 涼山イ族自治州)では大貨幣は金貨、小貨幣は塩を固めてフビライの印があり 壊れると味付けに
・金沙江を渡り雲南地方の大理に。子安貝が貨幣、米を食べ 米の酒を飲む。大きなワニ
身分の高い人や容姿の立派な人が泊まると客を毒殺した。そうすれば立派な姿や才能が家に残ると信じていた。
・ザルダンダン 永昌府(現 雲南省保山市)
・イラワジ川(現 エーヤワディー川)支流に沿って下り ミエン(緬)へ 。ミャンマーへ行ったかはわからない。引き返し大都に
中国南部 マンジへの旅
マルコ・ポーロは 中国の北部 華北を「カタイ」と呼ぶ。語源は、11世紀にモンゴル系の「遼」を建国した契丹人に由来するもので、北東アジアでは「キタイ」の名で知られていた。
華南を「マンジ」と呼ぶ。雲南にはミャオ族系が多く漢族が さげすんで呼んだ「蛮子(マンツー)」をモンゴル人もマンジと呼び、南宋征服後 その地方・住民もマンジと呼ぶようになった。
・カタイの乙女の貞淑さを絶賛。結婚するとき父親は娘の処女の保証書を作り契約。検査するため浴室で娘の母親と未来の夫の母親と介添えの女達がハトの卵で確かめる。満足しないとき 介添えの女が白布でわずかにひっかき 布の血が洗い落ちなければ純血であると 確かめた。
・泰州
・揚州の知事に 3年間 フビライの命令で行政預かる。ただし中国側に記録はない。周辺に大部隊が駐屯しているので軍装品生産。
・襄陽府: モンゴル軍は3年攻めあぐんでいたが 西アジア式投石機で巨石を投げ入れ降伏させた。
・蘇州:大ハーンの支配下にあり紙幣使用、非常に大きい町で人口も多い。
・杭州(キンサイ市):10年前まで 南宋の首都 臨安だったが モンゴル軍に奪われ 杭州に。杭州湾に注ぐ銭塘江という河口にまたがる。周囲はざっと160キロ 多くの運河が走っている。中国 中南部で最大の都市で 最も詳しく書かれているが誇張が見られる。
かつての南宋の都 キンサイには 豪華広壮な王宮があり 繁盛する12の市場があり 町の警備・防災もよく整い 素晴らしい大都会だった。町の南に西湖があり 立派な宮殿や別荘が建っていた。南宋王が後宮で遊び暮らしている内にモンゴル軍に全領土を奪われた。大河に無数の運河に繋がっている。1万2千もの橋がある。
・福州:どんな汚いもの 人の肉も食う、人食いトラ
・泉州(ザイトゥン):刺桐(ザイトゥン)の木が多いのでザイトゥンという 大きな国際海港都市。インドの船は宝石・真珠・香料を積み入港。マンジ全域に販売された。大ハーンは莫大な税収を得ていた。
帰国の途 泉州~スマトラ島&日本のこと
マルコたちは17年間 フビライ・ハーンのもとで使者として派遣され 各地から豊富な情報を持ち帰り 仕事は立派にこなしたので 大ハーンは寵愛した。
マルコ達は帰りたくなっていたが、いっこうにフビライは許可しなかった。
ペルシア地域のイル・ハン国を治めていた アルグン王の王妃ボルガナがなくなり 王妃として自分の跡を継ぐ者は 一族にしたいと書き残していたので 3人の重臣を大ハーンのもとに派遣してきた。
大ハーンはボルガナの家族より 17歳のコカチン姫を選び 大勢の立派な随員をつけ マンジの王女も加え 送り出した。しかし 8ヶ月ほど進むと タルタルの諸王の争いが起き 旅が続けられなくなり 引き返してきた。
その頃マルコは未知の海を渡り インドから帰っていた。重臣達はマルコたちと海路帰りたいと大ハーン要請した。
大ハーンはマルコ達を寵愛していたので 容易に許さなかったが、また大都に戻ってくることを約束させ、大ハーンの領土内をすべて自由に旅行できる 2つの金牌を与えた。
大ハーンはローマ教皇 フランス王 スペイン王などに宛てた手紙を託した。
1290年3月 マルコ達はと三人の重臣、コカチン姫・マンジの王女らと共に 大ハーンに別れを告げ 大都を出発。
泉州着。 大ハーンの用意した船は14隻、いずれも4本マストで250人も乗れる船が 4~5隻あった。2年分の食料を積み 季節風を待ち 1290年 末 ザイトゥン港を出た。
日本 1290年頃は 鎌倉時代 北条時宗の頃 元寇1274年 文永の役 1281年 弘安の役があった。
マルコ・ポーロは伝聞として 東方見聞録で チパング国として西欧に初めて紹介。
国王は すべて純金で覆われた大きな宮殿を持っている。たくさんの真珠が採れる。
これを聞いた フビライ・ハーンは巨大な財宝を持つ 日本を征服しようと 元寇をおこした。
東方見聞録には
大ハーンは二人の将軍に 4400隻の大船団と 騎兵と歩兵の14万の大軍を授け 日本を攻めさせた。
モンゴル軍は博多湾まで迫ったが 日本軍に退けられ 肥前沖の鷹島を根拠にして窺っていた。
大暴風雨に見舞われ 大艦隊は互いに衝突し合い多くの船が難破。兵士を残し 将軍達だけ逃げ帰り 大ハーンの怒りを買い 処刑された。
・チャンバ:(現 ベトナム)裕福な国で 王は毎年 大ハーンに象と沈香を貢いでいた。
タイ湾 ⇒ マレー半島 ロカック ⇒ 大ハーン島(ビンタン島)
出帆後3カ月で小ジャヴァ島(スマトラ島)についた。8つの国がありそれぞれの言葉で 沈香 蘇芳 黒檀などの香料が豊富。マンジ、カタイ方向にのみ贈られていた。モンスーン帯で風向きを待って サマトラ王国に5ヶ月滞在。
スマトラ島~インド~ペルシャ & アラビア半島・アフリカ
・ニコバル島:男女とも裸。白檀、インド胡桃、丁字、蘇芳。
・アンダマン島:アンガマン島は国王がいず 野獣のような生活をしている。
・セイロン島 スリランカ:腰部だけ布で覆うだけの裸で暮らす。蘇芳、ルビー・サファイア・黄玉など高価な宝石。
ランカ山は仏教を開いた釈迦の髪の毛や托鉢が祭られているが、イスラム教徒が聖地にしてしまった。
山頂には最初の聖者 アダムの墓があると言われ 大ハーンは所有したいと考え1284年大使節団を派遣してきた。
・インド東南海岸 大マーバル地方 ベッタラ:真珠と宝石、国王は千人の妃を持つ。馬は産出しないので購入
▶伝聞:この地方から800キロの 現 ゴルゴンダではダイアモンドが採れる。
・インド 南端 コモリン岬 ⇒ マラバル海岸
・バラモン教の発祥地 ラル王国(ボンベイ 北方、現 ムンバイの北)の王は 真珠や宝石を買い集めている。
・東西海上交通の要衝 コイルム王国のクイロン(現 インド ケララ州 コラム市):この地は非常に暑い。マンジ・アラビア・中東から 商人集まる。胡椒、生姜、藍を産出。すべて黒人で 裸で生活し腰部だけ布で覆う。
・マラバル海岸(インド西側)~グジャラート半島:海賊行為が最も盛んに暴れ回る。仲間と手を組み一帯を偵察していた。
マラバル海岸にあるメリバル王国は胡椒、生姜、肉桂(シナモン)、 硬麻布 を産出。
グジャラート半島のゴズラート王国は胡椒、生姜、藍を産出。良質の革製品が交易。
▶伝聞:アラビア半島南部海岸に男島と女島があり(スコトラ島の北500マイル 800キロ) 男島に男だけ住み 女島には女だけ住む。男は3月から3ヶ月だけ女島に行き共に暮らす。生まれた子供は母親と暮らし、男の子は12になると父の住む男島に送る。
・アフリカ東部の スコトラ島(イエメン):サバのエサで クジラを誘い 銛をクジラの頭に打ち込み捕え 腹の中から竜涎香という香料をとる。
・マダガスカル島:イスラム教徒で、毎日ラクダ肉を食べる。ここもクジラや別の魚から竜涎香をとる。ヒョウ クマ ライオンが多い。
・ザンジバル島(タンザニア):怪鳥ルークという巨大な鳥(両翼が45m)がいて 象を持ち上げ 空高く舞い上がり 落として 粉砕して 食べるという
・これより南には 南流する海流が強く 帰れなくなるので行けない。
・アデン:アラビア半島南部にあり インド貿易の中継地で、アラビア馬がインドに送られた。ここから バビロン(現 カイロ) アレキサンドリアに胡椒や香料が送られる。
・エシャ:アデンの北西400マイルにある。ここも インド貿易の重要な基地。白乳香・ナツメヤシを産出
・カラトゥ:オマール湾の入り口にあった町。地震のため廃墟になった。マルコ達はようやく 最後の寄港地に着いた。航海の終点 コルモスの支配下にあった。
・1293年2月頃 スマトラを出て18ヶ月 風待ちをしなくていけなかったので ようやく ホルムズ(コルモス)(現:バンダレ・アッバース)に上陸。ここは マルコ達が 大ハーンの都に向かうとき インドへの 船があったが 粗末で難破することも多かったので ケルマンに引き返していた。
この航海に出帆したときは 600人もいたが 最後に残ったのはマルコ達と 水夫18人、重臣1人、コカチン姫、マンジの王女だけだった。
22年前に通った山賊の多いレオバールの荒野を通り ケルマーン、カズビーンを経て イル・ハーン国の都 タブリーズに着いた。ここで アルグン王がすでになくなっていることを知った。
イル・ハーン国は アルグン王の 弟 キアカトゥが王位に就いており、コカチン姫を アルグン王の王子 カサンに与えよと 言ったので 6万の兵を率いて国境を守ってアルブル・ソル(現 ホラーサーン地方)にいる カサン のもとに届けた。
マルコ達にフビライ・ハーンがコカチン姫を預けたのは 心から自分たちを信頼してたからであり、自分たちは見事にその大役を果たしたのだと マルコは繰り返し述べている。
キアカトゥ・ハーンの都に戻り 9ヶ月滞在した。キアカトゥは黄金牌子4枚を与え、マルコ達は護衛兵に守られ トレビゾンド(現 トレビゾンド) [トルコ] に、ここから 船に乗り 黒海を経てコンスタンティノープル、ネグロポンテ(現 エヴィア島)から ヴェネツィアに戻った。
1295年になっており 3人が東方に出発して25年 経っていた。
ヴェネツィアはかねてより敵対関係にあったジェノヴァと交戦状態になってしまいました。マルコも戦争に参加したものの、ヴェネツィアが敗れたため、ジェノヴァの捕虜となってしまいます。この時、ジェノヴァの牢獄で出会ったのが 小説家のルスチケロでした。
牢獄の人々は互いに経験談を語り合っていて マルコは 東方旅行の内容やその先々で見聞きしたことを話したのでした。そんなマルコの話をルスチケロがまとめて本にしたものが、現在『東方見聞録』として知られているものです。
当時の本は羊皮紙に芦の茎や鳥の羽で書き付けていくものでした。アジアのことを知りたがっていた ヴェネツィアやジェノヴァの貴族や大商人は 先を争って 写し取り それらの写本から新しい写本が生まれた。
その頃のヨーロッパ人は 恐ろしいモンゴル帝国や 香料や絹 宝石のことを詳しく知りたがっていた。
長く戦っていた ヴェネツィアとジェノヴァは ミラノの仲介で停戦 マルコは足かけ5年で牢獄から解放された。
牢獄から解放されまもなく父が亡くなってしまった。マルコは結婚3人の娘が生まれた。
マルコは叔父と豊かな経験を生かし 盛んに商売を行った。
海の旅も 思っていた以上に時間がかかり 大変でした。マルコ・ポーロが東方見聞録を書いたということしか知らなくて 興味深く Googleマップに書き込みながら 読みました。
時代が違って 地名も変わって なかなか探せないですが ネットありがたいですね。何やかんや探しだし 続けることができました。伝聞 嘘かほんとか面白い話ばかりです。印刷がなかった時代写本 たいへんなことですね。