ウクライナのことが起きる前は 馴染みのない地域でした。NHK BSPのヨーロッパ空撮紀行 首都ワルシャワ・古都クラクフ &世界ふれあい街歩き 時を積み重ねる街 プラハ~チェコ &関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅 ハンガリー編、ヨーロッパ秘湯ジャーニーを見ました。
今まで気にはなっていたけど ぜんぜん知らない国でしたが 日本の一昔前の農村のように思えました。
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ヨーロッパ空撮紀行 ポーランド 首都ワルシャワ
首都 ワルシャワは ヴィスワ川のほとりに広がる人口およそ200万人の都市です。政治・経済・文化の中心地で 現在資本主義経済の風が吹いています。かつての社会主義の衣を脱ぎ去ったこの街を世界中のビジネスマンが訪れています。
ポーランドは、東西ヨーロッパ諸国に囲まれ 歴史上度重なる領土の侵略と分割を受け 戦争の舞台となってきた。ワルシャワは激しい歴史の波に翻弄されながらも そのたび不死鳥のようによみがえった。
第2次世界大戦末期の1944年ナチスドイツの攻撃よって ワルシャワはがれきの山となりました。
中世の文化を伝える建物は跡形もなく破壊されたのです。ポーランドは依然と同じ街を復元するという困難な道を選んだ。残された 絵画 スケッチ 人々の記憶 あらゆるものを参考にしながら 1つ1つ 丹念に蘇えさせていきました。レンガのひびに至るまで丹念に修復、民家の壁や瓦も色あせた雰囲気を出すよう配慮されている。世界遺産 ワルシャワ歴史地区 になっています。
旧市街から南にいくと 近代的なワルシャワの摩天楼があります。
ひときわ目を引く文化科学宮殿 スターリンによってポーランドに贈与という形式で建設された。
文化科学宮殿は37階建ての高層ビルで 塔の高さは234m、総床面積12万3000㎡、総部屋数3288の巨大建築です。中には各種研究所、ポーランドTV、3000人収容できるコンベンションホール、コンサートホール、映画館、劇場などが入っています。調和のとれたワルシャワの街並みにはまるで似つかわしくない権威主義的な建物とも言えます。ワルシャワ市民には評判が悪く「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと呼ぶ人もいるようです。
文化科学宮殿の周辺には近代的な町並みが広がっている。その前の広場は自由市場になっている。
最高裁判所・国立図書館 が立ち並ぶ。
ポーランドの教育の歴史は長く 今から600年以上前 世界で一番古い大学が かつての首都 クラクフに作られた。この国には コペルニクス、キュリー夫人など偉大な科学者が生まれている。
1989年初めて自由選挙が行われ およそ40年続いた社会主義体制は崩壊し、共和制の国となった。
NATO、EU加盟を果たした。
軍事博物館、国立博物館、無名戦士の墓
ワジェンキ公園は ワルシャワ市民の憩いの場です。
水に浮かぶワジェンキ宮殿は 18世紀後半最後のポーランド王が建てた夏の宮殿。
この時 隣接していたロシア、プロイセン、オーストリアの三国に分割され、1795年にポーランドは消滅。第一次世界大戦が終了する1918年に独立するまでの123年間、ポーランドは世界地図から姿を消すことになります。
公園には 柳の下に腰掛けるショパン像があります。夏にはここでコンサートが開かれる。
郊外のヴィラヌフ宮殿 バロック建築の傑作は ポーランド国王・ヤン3世ソビエスキの夏の離宮として建てたものです。王は17世紀後半にウイーンの近くでトルコ軍を破った英雄として知られている。
ヴィスワ川はポーランドで最も長い川で カルパティア山脈からポーランド国内を大きく蛇行しながら北へ流れ、バルト海へと注ぐ。近年は水質汚染のため水泳には適さなくなった。しかしカヤックには最適で1000キロにも及ぶ川下り楽しむことができます。
以前はヴィスワ川流域至る所に船が自由に行き来していました。ワルシャワ、クラクフ、グダニスク などすべてヴィスワ川流域に発展してきた。かつてはポーランド収穫された穀物が バルト海を越え輸出された。
ヴィスワ川には いくつもの中州があり 水鳥たちの繁殖地になっています。
ワルシャワからヴィスワ川を下ると プウォツクの街があり 川の畔の小高い丘の上に三本の塔をいただく大聖堂があり プウォツクのシンボルです。14世紀に作られた要塞も丘の上にある。
18世紀から19世紀に建てられた教会や住宅が数多く残され 古きポーランドのたたずまいを感じられる。
第2次世界大戦後ポーランドは農業国から 工業国に転換を図ってきた。

ヨーロッパ空撮紀行 ポーランド 古都クラクフ
ポーランド 南部のヴィスワ川ほとりの古都 クラクフは 16世紀末に首都がワルシャワに移るまで500年以上もの間 ポーランド王国の首都として繁栄してきた。第2次世界大戦で多くの都市が破壊されたが クラクフは奇跡的に戦災を免れました。そのため中世そのままの町並みが残されている。世界遺産 クラクフ歴史地区に指定されている。
ヴィスワ川の流れる丘に立つヴァヴェル城、ポーランド王国のかつての栄華を象徴しています。ここはポーランド人にとって生涯 一度も巡礼しないものは 本物のポーランド人ではないとさえ言われる。
ゴシック様式で建てられた大聖堂 首都が移されるまで歴代国王の戴冠式が行われていた。地下のお墓には立派なひつぎに納められた王たちが永遠の眠りについています。
ヴァヴェル大聖堂で ひときわ目立つ ジグムント1世が建てた、金のドーム が輝くジグムント礼拝堂は、アルプス以北でもっとも美しいルネサンス建築と言われています。
ヨーロッパ最大級の広さを持つ中央市場広場には、織物会館がある。織物を取引する場として13世紀に建設され、その後14世紀にゴシック様式、16世紀にルネッサンス様式へと変貌を遂げたクラクフの観光名所となっています。
100mほど伸びた煉瓦造りの建物内には、琥珀などポーランドを代表するおみやげがたくさん。2階はクラクフ国立美術館があり、18世紀から19世紀にかけてのアート作品が展示されています。
街の中央広場にそびえる聖母マリア聖堂。クラクフはポーランド文化の中心地であるといわれています。
ヴァヴェル城の南東に、映画「シンドラーのリスト」のロケ地としても知られるユダヤ人街、カジミエシュ地区 があります。カジミエシュ大王は当時迫害されていたユダヤ人の保護に熱心に取り組んだため、多くのユダヤ人がクラクフに移り住むようになり、15世紀以降、第二次世界大戦まではユダヤ人が多数を占める地区として発展しました。
クラクフの数キロ南西に豊かな自然の中に カマルドリ修道会の教会と修道院があります。
国名のポーランドとは、「平野」を意味するポーラから来ています。その名の通り、南部に山岳地帯がある以外は、高い山はほとんどありません。
ポーランドはかつて農業国家として知られていました。ヨーロッパの穀倉地帯と言われ経済的に潤っていました。現在 広大な農地がありながら 農業は低迷しています。農業の近代化の立ち後れが1つで 今でも馬を使って 多くの農民がが 田畑を耕している。
クラクフの東にある タルヌフはポーランド貴族・タルヌフスキ家によってルネッ サンス様式を取り入れられた美しい街です。1300年代から街の 形が変わっていません。市庁舎を中心とした広場や大聖堂、最古の教区博物館など見どころもいっぱいです。
かつてタルヌフはユダヤ人が多く暮らしていた町で、第2次世界大戦前には 約25000人のユダヤ人が暮らしていました。しかし、第2次世界大戦時にナチス・ドイツに占領されると、タルヌフに暮らしていたユダヤ人は強制労働や殺害などの迫害され やがてゲットーに強制移住させられた後 アウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られ ユダヤ人コミュニティは消滅してしまいました。
世界遺産 ポーランド「ヴィエリチカ・ボフニア王立岩塩坑」
ポーランドの旧都クラクフの南東15kmにあるヴィエリチカ岩塩坑は700年以上の歴史のある岩塩の採掘場です。聖キンガ礼拝堂は地下100mの坑道の跡に築かれた礼拝堂で、レリーフや彫像、シャンデリアまですべてが塩で作られている。
このには、ヨーロッパに数ある塩坑の中でも大変珍しい巨大な結晶の部屋がある。大きな部屋の天井にまるで宝石のように輝く天然の塩の結晶がある。
世界ふれあい街歩き 選「こびとが住む街 ウロツワフ〜ポーランド〜」
NHK BSP 2017.12
10世紀に東西ヨーロッパの交易拠点として築かれたヴロツワフは、ポーランド王国、ハプスブルク家、プロイセンなどの支配を受けてきたが、第二次世界大戦後にポーランド領となった。ソビエト連邦の影響を受け社会主義国家になったが、1980年代 民主化を求める動きが出て 当時の共産主義政治に対してのデモ 「オレンジ・オルタナティブ運動」のため、風刺的に”お父さん小人”を設置したのが始まりで、15年ほど前から民主化運動の象徴として街中に設置され始めた「こびと」の銅像は増え続け、現在は300体以上。小人探しがヴロツワフ観光の目玉になっている。
中央市場広場 はメルヘンな可愛らしい建物が並んでいる旧市街で Museum of Bourgeois Art は13~16 世紀に建設された旧市庁舎で 現在はブルジョワ美術館として利用されている。
脚をつながれた「こびと」は 14世紀に建てられた監獄で、ナチスの収容所にも使われた建物は 現在 レストランのカフェテラスになっている。
メガネをかけ本を読んでいる「こびと」のある University of Wrocław ヴロツワフ大学 は入学式の日でした。
はじめて作られた「こびと」のお父さん の前では歴史の勉強をしている人達がいた。
市場には ポーランドで作られた果物やヘーゼルナッツやきのこが豊富に並ぶ。
オドラ川 の川辺には 洗濯する「こびと」がいて、高い2本の塔が印象的な聖ヨハネ大聖堂 Cathedral of St. John the Baptist が見える。
オドラ川の北に 建物に 絵を描いて 寂しかった空間を明るくしようとしている人達がいた。
夕方 黒いマントで帽子をかぶり ガス灯に1つ1つ 火を灯す人がいた。19世紀から続いているそうです。
「より道」は陶器の街 ボレスワヴィエツ。ポーランド食器の代表的な食器として「ポーリッシュポタリー」と呼ばれています。古くから、この地方には多くの陶土の産出地があり、素朴な スタンプによる絵付けは侵攻してきたドイツ人から伝えられたと言われます。
世界ふれあい街歩き「時を積み重ねる街 プラハ~チェコ~」
NHK BSP 2022.6.14
チェコ共和国の首都プラハは人口120万人の都市であり、その真中を流れるモルダウ(ヴルタヴァ)川に架かる重厚感あふれる美しい石橋が、600年間も使われているカレル橋
1000年の歴史を誇る 世界遺産「プラハ歴史地区」に指定されている。時計台が多い。
・プラハ城 :かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国の大統領府がある。
・街角の肉屋:ソーセージもつくっていて 中で食事もできる。
・建物の入り口に 赤いライオン・白鳥・鹿・2つの太陽 などのマーク 18世紀頃 番地替わりに使われた。
・3つのトンネルのある古い建物、トラムを通すために トンネルをつくった。
・ステンドグラスの制作と修理をする職人さん。古ければ14世紀に作られたステンドグラスを修復する
・旧庁舎の天文時計
・シナゴーク:ユダヤ教の祈りの場 ヘブライ語の逆回転時計がある
・旧市街広場:戦災を逃れたので 周辺にさまざまな時代と形式の建物にあふれる「建築の博物館」と呼ばれている。ヨーロッパの中央にあり 交通や交易の要衝として栄え 時代時代の最先端の技術がもたらされた。
・外壁の中に 以前の建物の石組みがでてきた家
・ステンドグラス工房 古ければ14世紀に作られたものも修復する
・街の「人形劇場」
●スイーツ
・マッコビー・ザービン
特産のケシの実を使った チェコ伝統のお菓子。青いケシを煮込んだあんをパイ生地で包み 焼き上げた
・オボツネー・クネドリーキ
カッテージチーズを混ぜた皮でフルーツを包んだ団子をゆで、溶かしバターをかけて食べる。
・トルデルニーク
くるくると回しながら焼いた 細長いコップの形をしたパンのようなお菓子。専門店が数多くある。
フルーツのペーストを中に詰めたり、クリームをのせたりと食べ方もいろいろ。
・ヤブロネツ・ナド・ニソウ
プラハから高速バスで1時間15分。ボヘミアングラスの生産で有名なチェコ北西部の街。
宝飾品の材料の生産地として、19世紀から20世紀初頭にかけて栄え 今も世界中に“ガラス宝石”を輸出しています。
美術館 館長が「お宝中のお宝」という かつてのオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝のために作られた飾り絵。
一方で周囲の国々に支配される歴史も繰り返した。侵攻してきた戦車に無防備の市民が立ち向かった「プラハの春」地面に刻まれた記念碑。
・丘には かつて立っていたスターリンの記念碑は取り壊され、巨大な赤いメトロノームのモニュメントがあった。
関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅 ハンガリー編
NHK BSP 2016.9 初回放送
ハンガリーは 日本の1/4の国土に990万人が暮らす。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国です。
19世紀 ドナウ川を挟んで 西側のブダ と 東側のペストが一緒になり ブダペストができた。
「ドナウの真珠」と言われる美しい町並み(ドナウ川の船旅でも訪れていた。こちら)
ハンガリー人が最も大切にしていて 一生に一度は訪れる 聖イシュトヴァーン大聖堂、高さ96m天井に金箔が施され 50年かけて作られ 初代国王 イシュトヴァーン1世にちなんで名付けられた。イシュトヴァーン1世は、アジア系の遊牧民族を祖先に持ちながら 国の統一とキリスト教を広めることにより ヨーロッパの一員となる 礎を築きました。
イシュトヴァーン1世の”聖なる右手”(ミイラ)を見ることができる。
1日目
ブダペスト東駅 乗車するのは ハンガリーの国営鉄道です。レシートのような切符。ハンガリー製の古い型の機関車で空調なし。夏休みで バカンスに向かう人でいっぱい。2時間で
エゲルで乗り換え 一路東へ 214キロ移動
ミシュコルツ 夜8時到着 日没が遅い夏 まだ明るい
2日目
ミシュコルツからリラフュレド国有森林鉄道 避暑地で有名なリラフュレドを結ぶ観光鉄道です。狭軌鉄道でコスト安く 1961年製、ハンガリーが社会主義だった時代 山の木を伐採し運んだ
冷戦時代 ハンガリーは東西を隔てる鉄のカーテンの最前線国家でした。1989年 冷戦終結とともに森林鉄道は廃線の危機にさらされるが 職員達は観光列車として残した。
中間点 リラフュレド駅 マスの養殖場 で降り 泉の冷たい水で育てたマスのフライを食べる。 社会主義時代幹部しか食べれなかった マス 社会主義が終わったあと 庶民も食べれるようになって賑わっていた。
トカイはワインの産地でぶどう畑が広がっていた。
3日目
南下し デブレツエン 経由し、大平原が見えてきた。
ホルトバージに 「ホルトバージ大平原」は 東京23区より広い面積があり 「ハンガリーの原風景」ともいわれ世界遺産になっている。途中から車が進入禁止で 馬車に乗り進む。
灰色牛 民族衣装を着て伝統的帽子をかぶった チコーシュと呼ばれる馬を育成・調教する人達で 馬の放牧している。外敵から 身を隠すため 馬が寝転び、お座りしました。鞭の音だけで馬に意思を伝えていた。デブレツエンに戻り 西に向かいツェグレード、ケチュケメート
4日目
ケチュケメートは音楽の街 コダーイが編み出した ユニークな音楽の教え方 先生の手の合図だけで 楽器や楽譜ナシで正しい音階で唄うことができる。もう1つ体を動かすこと 。 南に向かい
セゲド(セルビアとの国境の街)で下車 パプリカ畑が広がる。伝統野菜のパプリカ料理 牛肉と野菜を煮込んだものをごちそうになる。
国境線 数十万のシリアなどからの難民が ドイツに向かった。国境線の175km すべてに鉄条網が張られ 厳しい難民政策を敷いている。2015.8 難民がルスケ国境検問所に殺到、警官隊は催涙弾を使用 多くのけが人が出た。多くの難民がパプリカ畑を荒らしていた。
キシュクンフェーレジハーザ を経てバヤに向かう
5日目
バヤ散策 気温が下がり雨模様 川の中で水球 中学生・高校生 オリンピックで男子は9回優勝している。サッカーとともに国民スポーツ。プロ志望もたくさんいる。
クロアチアとの国境の街 モハーチ 3人の女性の像 ドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語で書かれた詩
16世紀にはオスマン帝国に侵略され長い間支配された。1526年 オスマン帝国が去ると荒廃した街が3民族が手を取り合って生きている。ダンスサークルはルーツを守り民族を越え共に踊る。
ドナウ川を渡り 西に向かい カポシュバールに
6日目
カポシュバールからディーゼルのローカル線に乗り トウモロコシ畑の中をゆっくり進む
フォニョード から電化された区間を乗り継いで バラトンセントジェルジュ Balatonszentgyörgyを経て、ケストヘイに、ここに有名な温泉があります。外国からも多くの湯治客が訪れる。温泉に向かうとすれ違う人はなぜか浮き輪を持っている。ここはヘーヴィーズ温泉湖という 地底からあふれる温泉水で できている 不思議な湖です。東京ドームがすっぽり入るくらいの大きさで 紀元前にローマ人が入った痕跡が残っている。水温は32度 ちょっとぬるめのお湯でした。
タボルツァ に向かうと 車内が賑やかになる。バラトン湖が木立の中に見えてきた。
バラトンフュレド で降りると ここは古くからの保養地です。バラトン湖はハンガリー最大の大きさで東京23区がすっぽり入るくらいの大きさです。内陸国のハンガリーは海に面していません。人々はこの湖を親しみを込め 海と呼んでいます。小魚を釣り これをエサに大きな魚を釣ろうとしていた子供連れに出会う。
7日目
バラトンフュレド からセーケシュフェヘールバールに向かう。この日は30度を超える猛暑 でも古い車両にエアコンはありません。
セーケシュフェヘールバールで下車。古くから 交通の要衝として栄えてきた街。
今は作られていない ハンガリー製のパンノニアのバイクの愛好者達に会いサイドカーに乗せてもらった。ヘレンドに
8日目
ヘレンドから ヴェスブレームに戻り 直行列車で
ソンバトヘイに ここから ハンガリーとオーストリアの共同運行路線に乗車し 北上します。
ショプロン に夜遅く到着
9日目
ショプロンはオーストリアとの国境の街。ベルリンの壁崩壊のきっかけとなった事件の舞台となった。
ショプロンはオーストリアに突き出た街で 社会主義時代は 西側諸国との間に鉄のカーテンが敷かれ行き来することはできなかった。オーストリアとの国境は 現在は共にEU諸国で 自由に行き来できる。越境を試みるものは 皆射殺された。当時の監視塔今も残されている。民主化のを求める声が高まり 1989.8.19 西側の人々を招き ここで 食事をしながら交流を深めるヨーロッパピクニックが開かれた。
ハンガリーとオーストリアとの国境に小さな穴が開いた、多くの東ドイツ人が西側への脱出に成功するという大事件が起こった。その時 ビデオを撮っていた診療所の先生に見せてもらった。実は有刺鉄線を切っており手元に南京錠とともに残っていた。 タタに。
10日目
タタを散策し ブダペストに戻り 旅は終わった。
世界ふれあい街歩き 選「文明の十字路 ソフィア〜ブルガリア〜」
NHK BSP 2016.9 初回放送
ブルガリアの首都ソフィア。ヨーロッパで最も古い都市の1つ。紀元前から東西の人々が行き来してきた文明の十字路でした。
朝 パンの売店を発見。「ゲブレック」というドーナツのような形をしたパンが売られていた。朝食や早めの昼食、午後のおやつなど、ちょっとお腹がすいたときに食べるそうです。
ブルガリアでは 現在 ブルガリア正教(キリスト教の一派)の教会がいたるところにあります。
かつて ブルガリアは19世紀末まで 約500年間 オスマントルコ帝国に支配下にあり バーニャバシ・ジャーミー と呼ばれるモスクが残っている。名前の由来となったバーニャはお風呂という意味。近くに温泉が湧き出ていた。近辺にある縞模様の建物は 元ソフィア中央温泉浴場で、現在は 歴史博物館になっています。
街中の 古くからある 温泉の出る水道。
ソフィアの街の真ん中に残る セルディカの遺跡では、古代ローマ時代 4~5世紀頃のものです。
街の真ん中でも 緑がいっぱい。ソフィア市民が憩う公園。ブルガリアで使われている キリル文字をかたどった木の板で作文の勉強に励む母子。これは9世紀、ギリシャの修道士 キリルとメトディウスの兄弟が、スラブ民族にキリスト教を布教するために考案した文字で、キリル文字はブルガリア発祥とされています。
ソフィアのシンボル 黄金色のドームを持ったアレクサンドル・ネフスキー大聖堂は100年前 当時の支配者帝政ロシアによって建てられた。
14世紀 オスマン帝国の支配下で造られた聖ペトカ・サマルジースカ教会、当時 馬に乗った人間よりも 高い教会は禁じられ 地下に半分埋もれるように建てられています。
教会の後ろには 旧共産党本部の建物。ブルガリアは第二次世界大戦後から1989年までソビエト連邦の影響下にありました。
ローマ時代の円形劇場の上に建てられたホテルがあります。
6月2日 正午 ブルガリア独立のために亡くなった人達の日で、サイレンが鳴り響き 車も 電車も止まり 降り 黙祷する人達。
古い建物の中庭ではコンサートが開かれ、街の真ん中でバグパイプを聞き養蜂する人もいた。
アトリエでワンピースを作る女性。パリの展示会に参加したら 日本から注文が来たそうです。
地下の店が少なくなりあり、窓にしゃがみ込んで 靴の修理を頼む人がいた。
夜8時過ぎ。まだ明るいソフィアの街なかにある小さな宿「アートホステル」。宿泊できるだけでなく、展示会やライブがしょっちゅう開かれるので、旅人と地元の人で連日大にぎわい。
ブルガリアは温泉大国で源泉の数は1600を超えます。いちばん有名な温泉地がヴェリングラッド。ソフィアからバスで2時間、山のふもとにあり 素朴な田舎町で高原リゾートです。
1751年にオスマン帝国が造った浴場 クレムチュナ、ドーム状の天井が開いていて、日光が差し込んでいてトルコっぽい感じです。道端の蛇口から出る温泉で卵やじゃがいもをゆでている人がいました。
街の外れの洗濯場では温泉を使って じゅうたんや毛布を洗い、湧き水が流れ込む巨大な“洗濯機”で豪快にすすいでいました。
ヨーロッパ秘湯ジャーニー
★スロバキア・ハンガリー・ルーマニア編
NHK BSP 2022年12月17日放送
秘湯を探すイギリスの ベン(28)とルーシー(27)が中古キャンプワゴンに乗って5000キロの旅に出る。50日間かけ ヨーロッパ大陸を東に向かう。断熱材を入れ キッチンを整えた車で 車中泊をして 1日3000円の予算で缶詰や土地の食材で料理を作る。ヨーロッパでは水着を着て混浴です。日曜日は旅は休みで 湖のそばでゆったり過ごす。2人は大学の写真コースで2年プロジェクトして 卒業後、旅行をしたいという思いが一緒だった。
9月中旬 イギリスを出て、ドーバー海峡を渡り フランス ドイツ オーストリアを経てスロバキアへ。
■スロバキアは国土の半分以上が山岳地帯で北西部 リプトフ地方 2000mの山々が連なる タトラ山脈から豊富な地下水が温められ温泉として出てくる。
ふもとの森の中にあるカラメニー温泉 湯温は33度 湯船は広い。30年前に村人が井戸を掘っていた時に温泉が出てきた。その後村人の協力で温泉池をつくり 何時でも誰でも入浴できる。
車で30分のリプトフスキー・ヤーン それぞれの村に温泉がある。
カジャ温泉 は湯温24度 けして温かくないが、底からたくさんの炭酸ガスや硫黄を含んだ水が湧き出し 強力に皮膚に刺激与え 焼けるような感じがする。地元の人は 毎日 目の前の8度の川に入ってから入浴するといい、 55歳で高校教師を退職して25年間毎日温泉を楽しみ 若さを保つ秘訣のようでした。多くのサーカー選手やアスリートが理学療法士の指導でやってくるという。
■ハンガリーに入り ドナウ川を渡り 首都ブダペスト市内に 1913年に建てられた 温浴施設としてヨーロッパで最大規模を誇るセーチェーニ温泉がある。 宮殿のようなネオバロック様式の豪華なテレジア・イエローの建物で 広大な敷地内には、露天風呂が3か所、屋内風呂が15か所ある。家族連れやカップルなど世界中の人々が朝から晩までプールのような風呂で楽しんでいます。温泉の湯に浸かりながらチェスができます。
ヘーヴィーズ温泉は 街の人が浮き輪を持って 46000㎡もある まるごと湖の温泉に入る。湯温は30度で深さは2~38m 安全のための浮き輪でした。湖底から1時間に140万リットル以上噴き出し 3日で入れ替わる。古代ローマの皇帝が幼少期訪れ病気を治したという伝説がある。
■ルーマニア南西部 チェルナ峡谷にある 温泉保養地 バイレ・ヘラクラネは、ローマ神話の英雄ヘラクレスが怪物を退治した時に傷を負い、この地に湧く温泉で体を癒したという伝説が残っています。
川沿いに湧く グロパナ・デラ・ポット温泉は硫黄分の多い湯温45度の温泉で お湯の表面に白いものが固まっていました。川の音を聞きながら入浴。ヨーロッパ中から温泉好きがやってきてました。間節炎に効いて 体を温め冷たい川に入ると血流が良くなるそうです。
対岸の建物 Old Baths Neptune は1866年に オーストリア・ハンガリー国王のフランツ・ヨーゼフ1世が建てた 王侯貴族のための温泉。エリザベートも何度か来ていた。ルーマニアの体制が変わり 20年前から誰も管理せずに廃墟になっていた。それをNPO法人を作り 寄付を募り修復している途中です。
★セルビア・ブルガリア・トルコ編
NHK BSP 2023年1月31日放送
■セルビア
ドナウ川を渡り 10月セルビアに入った。セルビア語はロシア語に似ていて Banjaは温泉です。南部の美しい自然に囲まれている 人口270人のルコボ村のルコボ温泉 Lukovska banjaは川沿いに湧いて 人の手が加えられていない。川のせせらぎの中 温泉に入る。ここの湯温は熱かったり 温くなったり 川の水が混じったりする。湯温45度と40度でした。前回来たときは 腕は冷たく 足元はやけどしそうだった。近くに湧き出た湯の成分が固まり島のようなものができ、その周りで湯気にあたったり 手をお湯につけ温めてゆっくりくつろぐ。お湯の噴出しているところに樽を逆さに置いて 穴から出る湯気を喉に当てていた。ベオグラードの医師に勧められ療養に来ていた。
車で3時間ほどのピロトで3年前知り合った友人と待ち合わせ、5km離れた 渓谷に向かう。紅葉の崖道を歩いた先に ダグバニゥア温泉 Dag Banjica があった。知る人ぞ知る名湯で 古代ローマの兵士がここで治療したといわれる。湯温29度でちょっとぬるめ。この温泉にはヘビ・カエル・魚・藻などが住み 入るのに勇気がいる。地元の人達の憩いの場で 肌・精神にいいそうです。都会の騒がしさから離れ 健康的に暮らせる野性味あふれる温泉でした。
■ブルガリア 畑の中をずっと走り 真っ赤なパプリカを一面に干してあるところがありました。ここで車が故障 ベンが直せず 整備士のルーシーの父親のアドバイスを電話で受けても直らなかった。インターネットを見たりしているうちに エンジンが冷えたのか走れるようになった。
南に行くと季節が戻ってきた。現在17度 東に進み黒海を目指す。
バルナ VARNA は黒海の沿岸の街で、多くの温泉がありブルガリア屈指の観光地と知られ 源泉の湧くホテルが建ち並ぶ。海岸にある ギョル「大きな水たまり」The Hot Waterは誰でも無料で入浴できる。湯温は40度 海からの潮風が気持ちいい。朝早くから 多くの人がのんびり入浴を楽しんでいた。有志の人がシャワーやベンチや荷物かけを手作りで設置していた。ロシアのシベリア出身の男性のお宅に招かれる。南に長い距離を進む。
■トルコに入って イスタンブールを目指す。バザールを見てボスポラス海峡をわたり アジア大陸に入る。 600km南下 白い石灰岩で囲まれた天然温泉 パムッカレ石灰華段丘は世界遺産に登録されている。温泉の中の炭酸カルシウムの沈殿物が40万年かけ積み重なり 棚田のようになっていて 、一部の場所は裸足で棚田の中を歩くことができます。湯温は35度ですごく滑らかで気持ちが良かった。
一番上にヒエラポリスという遺跡がある。2世紀頃 ローマ帝国の温泉保養地として栄え、度重なる地震で破壊されましたが、ローマ劇場、ローマ浴場など現在遺跡として残っています。
2人は「温泉は国や民族の壁を取り払ってくれる。次はどこに行こうか?」と考えながら 旅を終えた。
世界ふしぎ発見!『ブルガリア 世界最古の黄金文明と仮面の奇祭』
2023年2月11日 TBS (世界ふれあい街歩き 文明の十字路 ソフィア は↑に)
ブルガリアは古くからヨーロッパとアジアをつなぐ交易の要所として栄えてきた。首都 ソフィアは紀元前より歴史をもつヨーロッパで最も古い都市の1つです。1912年建立のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂は国民の多くが信仰するブルガリア正教の教会。
国立歴史博物館 National Museum of Historyには 畑で見つかった大きな黄金の器が展示されている。ツタンカーメンが生きた時代と同じ紀元前14世紀頃に作られたヴァルチトラン遺宝。総重量12キロに及ぶ大量の黄金製品が周辺から見つかった。
さらにトラキアの権威を象徴するものがパナギュリシテ遺宝で 紀元前4世紀頃に作られたもので日本では弥生時代にあたる。金の財宝にケンタウロス(ギリシャ神話に出てくる英雄で上半身が人間で下半身が動物)がモチーフされていて ギリシャの職人に作らせたと思われる。
さらに2004年 見つかった。トラキア王の黄金のマスクで672gもあり、ツタンカーメンのマスクに匹敵する大発見といわれる。トラキア人たちはワイン好きで 黄金のマスクで ワインを飲んだ。リュトンといわれる 動物の頭部をかたどった杯にワインを注ぐ道具 ワインが通過することでかたどられた動物の力が手に入ると信じられていた。
6000年の歴史をもつブルガリアのワイン。産地 メルニクでは手軽に飲まれていて ペットボトルに入れた自家製ワインが750mlで1本約360円で売られていた。ワインにぴったりな伝統料理は子羊の臓物リゾットのドロップ・サルマ ヨーグルトが添えられ ワインはシロカ・メルニシュカでした。
#ブルガリア で発見された黄金製品は#ツタンカーメン のマスクよりも古く
— 世界ふしぎ発見! (@fushigi_hakkenP) February 9, 2023
世界最古の #黄金文明 があったと言われています!
その形は独特で、一体、誰が何のために作ったのか?
その答えは、土曜よる9時の #ふしぎ発見 で! pic.twitter.com/wJ0rYr6qlX
近年遺跡が発掘されたと聞いてハスコヴォに向かった。500メートルの山の頂に向かう 途中両側が大きな岩に挟まれている階段を上り 開けた場所に。26年前に発掘が始まった 紀元前5~6千年のペルペリコン遺跡 まだ全体の90%が土に埋まっているそうです。 かつてこの地を聖地とあげめていたトラキアの人たちは岩を削って住居を作り 集団で暮らしていたと考えられる。
デュオニソスの祭壇が発掘されました。 デュオニソスはギリシャ神話に登場するワインと酩酊の神ですが、元々トラキアの神でそれが後にギリシャに伝わった。丸く囲まれた場所で火を起こしワインを注ぎ、燃え上がる炎の高さによって占いを行っていた。トラキア人たちはとにかくワイン好きで、よっばらうと神に近づけると信じていた。彼らは文字を持たずに 半遊牧で暮らしていた。
カザンラクには トラキア人王家の谷があり 150もの古墳がある。その中の1つ 紀元前3〜4世紀頃に作られたとされる 世界遺産の「カザンラク トラキア人の墳墓」赤い埋葬室の天井の壁画に 死者を葬る儀式が描かれ 馬を連れている人や楽器を吹いている人もあった。権力者が妻を死後の世界に導こうとしていた。
案内してくれた博士は トラキア人の不思議な死生観で「彼らは子供が生まれると 厳しい人生が待っていると 嘆いて悲しみ、誰かが亡くなると 苦しみから解放されると大勢で喜んだ」
トラキア人は死を恐れず 死後にこそ素晴らしい世界が待っていると信じていた。
古代の歴史家 ヘロドトスは「労働をしないものが一番立派な人間で 土地を耕すものが最も卑しまれる。戦争と略奪で生計を立てるのが最高の生き方なのである」とか経っていた。
周囲の国々も恐れたトラキアの兵士たち。その強さを紐解く手がかりが国立考古学博物館に残されていた。紀元前5世紀にギリシャ人が作った水差し。中央にはトラキアの騎兵が描かれている。
ギリシャ人はほとんどが歩兵で楯を構え密集して戦い、トラキアの兵は馬に乗り、くさび形の陣形で突入 戦いの形を替えていった。戦術をいち早く取り入れたのは 隣国 マケドニア王 フィリッポス2世。受け継いだ息子アレクサンドロス大王は騎兵を従え東方へ進軍し 10年余りで大帝国を築き上げた。様々な集団からなるトラキアには束ねる絶対的リーダーが誕生することはなかった。そしてトラキアはローマの属州となり 黄金とともに歴史の舞台から姿を消した。
ソフィアにきた ローマ皇帝 コンスタンティヌス1世は この地にある 「温泉」が気に入り 多くのテルマエを築いた。
セルジロフツィ村 新年仮面祭り「スルヴァ」毛皮をまとい 35~40キロもあるいくつもの大きなベルを腰に付け 頭には仮面を付けた一団が松明かかげて夜の街を練り歩くという悪霊払いのお祭り。仮面をかぶると霊界に入り霊とつながることができるといいます。ものすごい高さの仮面もあって、7つの顔を重ねたものも、まさに怪物です。コスチュームは村によってさまざまで 毎年「スルヴァ国際仮面フェスティバル」が開かれている。
先週末、ペルニックで開催されたスルヴァのお祭りから、最新のクケリたちをお届け👹
— 在ブルガリア日本国大使館/Embassy of Japan in Bulgaria (@EmbassyBulgaria) February 2, 2023
スルヴァとはもともと、古代スラブの神様のこと💡
新しい年の豊作、繁栄、健康を願って、怖いお面と腰にたくさん付けた鈴の音で悪霊を追い払います👻 https://t.co/t7T886Qokf pic.twitter.com/gw3yAljczn
世界遺産 アグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群
2024.12.8 TBS 世界遺産 アグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群 〜 ヨーロッパ最大級の鍾乳洞
ハンガリーとスロバキア 両国にまたがって 7つのエリアに 700を超える洞窟がある。
2億3千年前 かつて海で、隆起した石灰岩の大地は 雨水がしみこみ 溶けて 長い年月をかけて空洞ができ、その内部に水に含まれる 石灰分が蓄積し 多くの鍾乳石が生まれた。こうした石灰岩が浸食されたカルスト地帯が広がっている。
■ゴンバセッカ洞窟 Gombasek Cave スロバキア ‥天井から垂れ下がる 糸のような形状の鍾乳石。鍾乳石が1cm成長するために100年もの時間を要する。
■イムレ・ヴァス洞窟 Szent István Cave ハンガリー ‥ 波打つような「カーテン」と呼ばれる鍾乳石や 鉄分を含んでいたため オレンジ色の滝 高さが10m以上あります。
■バラドラ・ドミツァ洞窟 。両国にまたがる 全長約26キロで、ヨーロッパ最大級の鍾乳洞です。ハンガリー側の入り口はアグテレクという村にあります。高さ19メートルもある石筍(せきじゅん)徐々に堆積して 実に19万年もかかったといいます。洞窟内には「巨人の間」と呼ばれる 高さが10mもあって 10階建てのビルがすっぽり入る大空間もあります。
スロバキア側は洞窟内に大量の地下水がたまっていて、船で移動しながら撮影しました。こちらには棚田のように段々になった鍾乳石があります。地底湖や人の住んだ痕跡がありました。
■ ブシンスカ氷穴 Dobšinská Ice Cav スロバキア‥標高900mという低地にも関わらず、1km以上も続く氷の洞窟がある。40万年前に洞窟自体が崩れ、壷状になったことで、冷気が洞窟内に溜まりやすくなったことで生まれた。スケート場もあった。
■オクチンスカ アラゴナイト洞窟‥サンゴのように見える鍾乳石 アラゴナイトが見られる。
旅サラダ バルト三国
2024.10 OA
中世以来ハンザ同盟の都市として発展したバルト海沿岸の三ヵ国をバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)と呼びます。それぞれの国の首都は 町全体に中世の街並みが色濃く残っていて 世界遺産に登録されています。ソ連による占領とナチスドイツの侵攻、ソ連による再占領などによって 多くの血が流された。
リトアニア
首都 ヴィリニュスは 14世紀にリトアニア大公国の首都となり、東西交易の中継地として発展。16世紀には最盛期を迎えます。しかし ロシア、フランス、ドイツなどの大国に翻弄され続け 1990年にリトアニアは独立しました。旧市街の中心に建つ 白い ヴィリニュス大聖堂は、13世紀半ばに建てられ 18世紀にギリシャ神殿を思わせる現在の姿に大改築されました。8割がカトリック教徒です。
リトアニアのゴシック建築の中で、最も美しいと言われる 赤レンガ造りの 聖アンナ教会。
ヴィリニュス大学は1579年にイエズス会によって設立されたリトアニアの文化と歴史の象徴とされる大学で構内には聖ヨハネ教会や古書室など見どころが数多くある。
気球ツアーで ヴィリニュスから西へ およそ20キロ、青く澄んだガルヴェ湖に浮かぶ トラカイ城。
バルト海に面した クルシュー砂州は何千年もの歳月をかけて島々が砂でつながりできた、長さ98kmのヨーロッパ最大の砂州で2000年に世界文化遺産に認定された。ニダ は毎年6万人以上の観光客が訪れる 砂州最大のリゾートタウンで、町中には元漁師の家だった ニシン油を使った建物や、可愛らしい風見鶏が並んでいる。
北部のシャウレイと言う街の郊外の 十字架の丘 100万本以上の十字架が立つ丘で、その始まりは独立運動で命を落とした者への祈りといわれ、周辺では十字架が販売され 観光客でも十字架を立てることができる。
国境は 何もなく 容易に 越えられる。
ラトビア
バルト三国の真ん中に位置し、美しい建物や自然が多いことからバルトの宝石と称されている。
ルンダーレ宮殿は18世紀にこの地を治めていた公爵に建てられた宮殿。ロココ調の豪華絢爛な装飾が施されており、「バルトのベルサイユ」と称されている。
ラトビア北東部のガウヤ川沿いにある広大な ガウヤ国立公園は手付かずの自然が残る渓谷地帯にある。スィグルダ(Siguldas)はガウヤ国立公園の一部に含まれる小さな町。美しい自然の中に かわいらしい家がポツポツとある。トゥレイダ城(Turaidas pils)13世紀に騎士団が 防衛拠点として建てられた赤レンガの古城。城内には当時の歴史に関するものが展示されている。見張り台として使われていた 塔の上からはガウヤ国立公園の美しい景色を一望出来る。公園内にあるロープウェイ、川の真上に停まり ここからバンジージャンプ 大自然を一望しながら、スリリングな体験ができる。
エストニア
1,500以上の島があり、島々で育まれた文化も魅力的で島巡りを楽しむのも人気。
サーレマー島(Saaremaa) 3万人ほどの人々が暮らすエストニア最大の島。かつて 島への立ち入りが制限されていたことから現在でも手つかずの自然が多く残っている。ヴェスキ(SAAREMAA VESKI)は 風車を改装したレストランで50年以上の歴史がある シーフードを使った料理や郷土料理が味わえる。クレサーレ城(Kuressaare Linnus)島の中心クレサーレにある古城で 14世紀に建てられ 当時のまま残っている。ローデファーム(Loode talu)2000年以上続く スモークサウナが体験出来る。
タリンは エストニアの首都で、北欧の フィンランド ヘルシンキから気軽に訪れることが出来る。
13世紀にデンマーク王が占領したことから「デンマーク人の要塞」を意味するタリンという名前になった。バルティヤーマ市場(Balti Jaam Market)は3階建てのモダンな複合施設になっており、300以上のお店が入っている。エストニアでは入学式など、おめでたいときにパンケーキを食べる習慣がある。
海辺にある潜水艦造船所だった場所を再開発したノブレッスネル地区、オシャレなレストランが続々とオープンする注目のグルメスポット。
タリン旧市街はおとぎの国のような風景が広がり 世界遺産に登録されている。好きなルートで旧市街を巡ることができる観光馬車。市議会薬局(Raeapteek)は600年以上の歴史を持つ薬局で 中世の道具やかつて治療薬として使われたミイラの手などが展示されている。
首都 ヴィリニュスは 14世紀にリトアニア大公国の首都となり、東西交易の中継地として発展。16世紀には最盛期を迎えます。しかし ロシア、フランス、ドイツなどの大国に翻弄され続け 1990年にリトアニアは独立しました。旧市街の中心に建つ 白い ヴィリニュス大聖堂は、13世紀半ばに建てられ 18世紀にギリシャ神殿を思わせる現在の姿に大改築されました。8割がカトリック教徒です。
リトアニアのゴシック建築の中で、最も美しいと言われる 赤レンガ造りの 聖アンナ教会。
ヴィリニュス大学は1579年にイエズス会によって設立されたリトアニアの文化と歴史の象徴とされる大学で構内には聖ヨハネ教会や古書室など見どころが数多くある。
気球ツアーで ヴィリニュスから西へ およそ20キロ、青く澄んだガルヴェ湖に浮かぶ トラカイ城。
バルト海に面した クルシュー砂州は何千年もの歳月をかけて島々が砂でつながりできた、長さ98kmのヨーロッパ最大の砂州で2000年に世界文化遺産に認定された。ニダ は毎年6万人以上の観光客が訪れる 砂州最大のリゾートタウンで、町中には元漁師の家だった ニシン油を使った建物や、可愛らしい風見鶏が並んでいる。
北部のシャウレイと言う街の郊外の 十字架の丘 100万本以上の十字架が立つ丘で、その始まりは独立運動で命を落とした者への祈りといわれ、周辺では十字架が販売され 観光客でも十字架を立てることができる。
国境は 何もなく 容易に 越えられる。
BS11 世界の国境を歩いてみたら・・ エストニア×ラトビア×リトアニア
◆エストニア
エストニア はIT大国でインターネット電話の「Skype」を生んだ国です。首都 タリン旧市街地は世界遺産にも認定されているとても歴史のある街。国境の町 ナルバは国境はナルバ川で 橋の向こうの ロシアは目の前。住んでいる 9割はロシア人で ロシアの生活を送っている。
ラトビアとの国境にある バルガは 双子の街といわれ、もともと1つの街で 自由に行き来できる。
◆ラトビア
首都 リガも 世界遺産に認定されている街。「建築のカクテル」とも呼ばれるほど、多種多用な文化が織り混ざった街。ヨーロッパ最大級の リガ中央市場、そこ は第二次世界大戦中にドイツのツェッペリン飛行船の格納庫だったものを市場に転用したもので 各国の品物が集まり賑わう。世界一女性の割合が多い国。
◆リトアニア
ラトビアとの国境 パランガ、バルト海に面し 琥珀が流れ着き EU圏なので 多くの観光客が訪れる。
ここでも「十字架の丘」
1939年に 参加人数200万人がバルト三国の首都間を 約600kmを手をつなぎ作った「人間の鎖」。リトアニア側のスタート地点であるビリニュスで当時人間の鎖のに参加したという人物にインタビュー。ソビエト占領に対し抗議し、バルト諸国の独立回復が承認されました。