GoogleマップでWeb旅行!ナポレオンの生まれたところ、戦ったところ

NHK BSP 一本の道 ナポレオン街道を見て フランスの地形に驚きました。そして ナポレオンのことを YouTubeやWeb を見て 松嶌 明男「図説 ナポレオン: 政治と戦争 フランスの独裁者が描いた軌跡」も読んでみました。
ナポレオンのこと 何も知らなかったので 生まれたところ、戦ったところ、功績、結婚相手のこと とても興味深かったので 備忘メモにしました。

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ナポレオンのGoogleマップ

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フランス革命があった時代

フランス革命 18世紀後半(1789年〜1799年)バスチーユ牢獄襲撃からナポレオンによるクーデターまでの市民革命運動。
フランス革命以前は、聖職者(キリスト教関係の仕事をする人)が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と分けられていました。この身分制度をアンシャン・レジームといいます。
第一身分と第二身分は税金を払わなくていい特権身分、一方人口の98%を占める第三身分には納税義務があり苦しい生活を送っていました。
国王ルイ16世の先々代のルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設し、先代のルイ15世も外国との戦争に明け暮れ フランス政府は財政難でした。
ルイ16世は三部会を招集して特権身分への課税を試みたが、特権身分と第三身分の対立が激しくなった。第三身分は国民議会を結成し、憲法制定まで決して解散しないことを誓った。
1789年 パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃して、弾薬や火薬などの武器を奪いフランス革命が勃発した。
1791年 国王ルイ16世と妻のマリ=アントワネットが オーストリアに逃げようとし 逃亡途中のヴァレンヌという町で変装がバレてしまい、国外逃亡は失敗に終わりパリに送還されました。このヴァレンヌ逃亡事件で、ルイ16世は国民の信頼を完全に失ってしまいました。国民議会が立憲王政の「1791年憲法」制定
1792年 国王ルイ16世は外国と手を結んで革命側に圧力をかけようと試みます。革命側は 国王のいるチュイルリー宮を襲撃しました。これが八月十日事件で 事実上王制が廃止され、9月からは正式に第一共和制が開始されました。
1793年 国王ルイ16世と王妃マリ=アントワネットは処刑された。ロベスピエールのひきいる急進派のジャコバン派が独裁的権力をにぎり 反対派を弾圧する恐怖政治をしき 農民に無償で土地をあたえるなど徹底した変革を行った。
1794年ロベスピエールは 保守派の反撃にあって処刑された。
1795年国民公会は解散され 総裁政府が成立するが 政治や社会は安定しなかった。
1799年ナポレオン1世クーデターで政権をうばい フランス革命は終結した。

ナポレオン・ボナパルトの生涯・戦った場所

フランス第一帝政の皇帝。在位1804-1814。本名はナポレオン・ボナパルト N.Bonaparte。

1769年8月15日 イタリア半島の西にある コルシカ島(コルス)の貧乏貴族シャルル・ボナパルトとレティシアの次男としてに生まれた。フランス本土のブリエンヌ幼年学校 パリ兵学校で学ぶ。天才なので兵学校を4年かかるところを1年で卒業。
1785年砲兵少尉として地方都市に赴任。

1789年7月14日 バスティーユ牢獄襲撃・フランス革命が勃発
1791年 ルイ16世パリ逃亡 1793年 処刑される。山岳派 ロベスピエールが国民公会 率いる。恐怖政治を行う。ナポレオンは ロベスピエールの弟 オーギュスタンと知遇だった。

1793年(24歳) トゥーロン港が王党派を支持する イギリス・スペイン艦隊に閉鎖されたとき 砲兵士官として 理想的な砲兵陣地の場所を見つけることによって名を上げた。
1794年(25歳) テルミドールのクーデターが起き ロベスピエールが失脚。ナポレオンは ロベスピエール派と目され 一時休職となった。
1795年(26歳) パリにバンデミエールの反乱が起こるとナポレオンの指揮する砲兵が散弾を大砲で撃つ戦術で王党派を鎮圧 し、国民公会は国内軍司令官に任命した 。

1796年(27歳)第一次イタリア遠征 ナポレオンは イタリア遠征軍司令官となり 出発の直前ジョゼフィーヌと結婚した。オーストリア軍(ハプスブルク帝国)サルディニ王国(首都 トリノ)と同盟を結んでおり、北イタリアの大部分を支配下におさめていた。ニースに着任、モンテノッテの戦い(カイロ・モンテノッテ)で ナポレオンは初めての勝利を得た 。
ナポレオン軍がウィーンに迫る中、オーストリアはナポレオンとの講和に応じ「カンポ=フォルミオの和約」を締結した。フランスは、オーストリア領ネーデルラント(現 ベルギー)の領土割譲、国境をライン川当たりに押し上げた。ミラノを中心としたチサルピナ共和国衛星国誕生。
パリに帰還すると大歓迎を受ける。

1798年(29歳)イギリスが支配するインドとの連携を断つ戦略として エジプト遠征が計画された。4万の兵を率いる司令官として トゥーロン港を出発、マルタ島占領、エジプトのアレクサンドリアに上陸して占領し、オスマン帝国のマムルーク軍を破り(ピラミッドの戦いカイロに入城した。しかしアブキール湾ネルソン提督の率いるイギリス海軍によって壊滅的打撃を受けた。地中海制海権を握られ ナポレオンはカイロで孤立する中 ロゼッタ=ストーンを発見。

1799年(30歳)第2対仏大同盟(イギリス・オーストリア・ロシア・オスマントルコ)が結ばれた。海上戦で敗北したナポレオンでしたが、陸上戦では連勝を重ねました。オスマン帝国と戦い ヤッファ占領。アッコ(アクレ)は イギリス海軍に邪魔され断念。本国はイギリスとオーストリアが反抗、北イタリアを奪われ 民衆の不満高まっていた。ナポレオンは指揮権を副官に与え 数少ない側近とパリに戻る。ナポレオンのイメージ作戦により世論は彼を救世主としてもてはやす
11月9日 総裁政府は経済の改善ができずに シエイエスら政治家はナポレオンの軍事力をもってブリュメール18日のクーデタ成功。これでフランス革命が終了した。もしこのクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪および国家反逆罪により処刑される可能性もあった。
その後 ナポレオンが主導権を握り 第一統領になって 30歳で国政のトップに立った。同年末に制定された新憲法はすでに彼の意志で決定され 独裁権力を握る。

1800年(31歳)ナポレオンはオーストリアに奪われたチザルピナ共和国を取り戻すため 第二次イタリア遠征を決心をした。ナポレオンは自ら軍を率いて グラン・サン・ベルナール峠を経由してアルプスを越え奇襲した。尚、著名な馬に乗った躍動感ある肖像画「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」はナポレオンの姿を巧みな演出で描かれてます。
オーストリア軍はジェノヴァを陥落させていたが、マレンゴの戦いで、オーストリア軍の急襲を受けたが撃破します。12月には ドイツ ミュンヘン近郊の ホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破。

1801年(32歳)オーストリアはライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊した。
ナポレオンは内政面でも税制度、行政制度の整備を進め、工業生産力の回復 産業全般の振興に力を注いだ。フランス銀行を設立した。

1804年(35歳)ナポレオン法典を制定、法の前の平等、私的所有権の不可侵、個人の自由、信仰の自由などを基本原則としていて 近代市民社会の法の規範となった。
国民投票でフランス人の皇帝(ナポレオン一世)に即位第一帝政開始

1805年(36歳)第3対仏大同盟(イギリス・ハプスブルクオーストリア・ロシア他)
イギリスは産業革命で大陸市場を確保しようとし、ナポレオンはイギリス製品を排除しようとした。
イギリスは海上封鎖を実施し オーストリアやロシアなどと連携してナポレオンに圧力をかけました。
フランス艦隊は、ネルソン率いるイギリス艦隊に ドーバー海峡でのトラファルガーの海戦で敗北。
同盟国バイエルン(現 ドイツ南部)に侵攻、ナポレオンは自ら21万の軍を率いて ウルムでオーストリアを破った。フランス軍は 指示体制が整い 現地調達で 脅威の進軍スピードだった。
アウステルリッツの戦い (現チェコ スラフコフ・ウ・ブルナ)
ナポレオンがウィーンを占領すると オーストリア軍はモラヴィアに後退し ロシア軍と合流 プラツェン高地に布陣。アウステルリッツ (現チェコ スラフコフ・ウ・ブルナ)で戦った。ナポレオンは兵力で劣りましたが、ドナウ川を渡り プラッツェン高地を奪取し連合軍を撃破します。ナポレオン1世のフランス軍フランツ2世オーストリア軍アレクサンドル1世ロシア軍 三人の皇帝が参戦したことから三帝会戦ともいう)。
オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服、第3対仏大同盟は崩壊した。オーストリアはナポレオンが作ったイタリア王国を承認し、ナポレオン側について戦ったバイエルンなどに領地を割譲、多額の賠償金を支払いました。ナポレオンは記念してエトワール凱旋門を建築。

UnsplashOnur Kが撮影した写真

1806年(37歳)ナポレオンは 兄のジョゼフをナポリ王、弟のルイをオランダ王に就かせ、ドイツ諸侯に神聖ローマ帝国を離脱させ ライン連邦を編成、西部ドイツを ハプスブルク家、プロイセンから切り離した。ハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ帝国皇帝を退位し オーストリア皇帝のみとなり、ドイツ国家群連合として長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。
第4対仏大同盟(プロイセンが中心となってイギリス・ロシア・ザクセンスウェーデンが結ぶ)
プロイセンはフランスにライン諸邦に駐屯する軍の撤収を要請した。これは事実上の宣戦布告であった。ナポレオンは、10月のイェーナの戦いアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。これで ヨーロッパをほぼ 制圧した。イギリスへの対抗策として大陸封鎖令を出し、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止し フランスの市場を広げようとした。これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。
12月ナポレオンがプロイセン王を追ってワルシャワを訪れた。ナポレオンとフランス軍は、ポーランドの救い主として熱狂的な歓迎を受けた。

1807年(38歳)ナポレオンは舞踏会で出会った ポーランド貴族の夫人 マリア・ヴァレフスカに一目ぼれした。彼女はナポレオンの愛人となり、のちにナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。アイラウの戦い(現 バグラティオノフスク)と6月のハイルスベルクの戦い(英語版)は、猛雪や情報漏れにより苦戦し ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多かった。しかし フリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。
ティルジット条約において、プロイセンから多額の賠償金を得た。西半分をフランスの領土とし ヴェストファーレン王国を誕生させ、弟のジェロームを王にした。東半分をワルシャワ大公国とし 衛星国とした。ロシアにスウェーデンに対して圧力をかけ、スウェーデン領のフィンランドを攻めさせた。このころがナポレオンの絶頂期と評される。

1808年(39歳)ボルトガルはイギリスと交易していたため すべての港をイギリスに使用させないよう要求、ジュノー将軍の率いるフランス軍が侵攻し、リスボンを占領。その寸前に ポルトガル女王マリア1世と王族ら、1万5千人ほどがイギリス海軍の保護のもとに植民地ブラジルに避難、ポルトガルは1808年から14年間はブラジルリオ=デ=ジャネイロを首都とした。
ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入、ナポリ王に就けていた兄のジョゼフをスペイン王に就けた。マドリード市民が怒り蜂起し スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。イギリスがポルトガルとの同盟により参戦し 半島戦争に発展した。
ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名
バイレンの戦いでは1万7千人のフランス軍が捕虜にされるという大敗北を喫し、国王ジョゼフはマドリッドを脱出しなければならなくなった。ナポレオンは自ら大軍を率いてスペインに侵攻、マドリードに入城し、異端審問制や封建的諸権利の廃止などを宣言した。イギリス軍の遠征部隊を追って北西部のガリシア地方に転戦。

1809年(40歳)第五次対仏大同盟(オーストリア、イギリス、ボルトガル、スペイン)を結び ハプスブルク家のオーストリアが再びフランスへ宣戦した。ナポレオンはエックミュールの戦いカール大公率いるオーストリア軍に勝利して、オーストリアの首都ウィーンに入城した。 アスペルン・エスリンクの戦いドナウ川の北岸へ退却した10万のオーストリア軍に ナポレオンは7万のフランス軍を仮設の橋を架け渡ったが 橋を壊され退去。フランス軍にはイタリア王国軍ポーランド軍バイエルン軍が加わり 18万の大軍となり、オーストリア軍も15万に。そのころ背後の動きも活発化し、ナポレオンにあまり時間の余裕はなかった。
再び アスペルン・エスリンクでの戦い ナポレオンはオーストリア軍に敗れ、ジャン・ランヌ元帥が戦死した。ヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアは 大きく領土を割譲 400万人の人口を失った。そのうえ 陸軍の兵力は制限され、多くのの賠償金を課せられた。大陸封鎖令の遵守を改めて確約させられ 第五次対仏大同盟は消滅した。
フランス兵をローマに進駐させ ローマ教皇領も併合し、教皇ピウス7世をパリ近郊のフォンテーヌブローに幽閉。

1810年(41歳)ナポレオンは後嗣を生めないと言う理由で 皇后ジョゼフィーヌと離別オーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は困窮しフランス産業も苦境に陥った。ロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。

1811年(42歳)新皇后に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。スペインに多くの兵を駐留させることが 負担になって ナポレオン帝国は衰退していく。

1812年(43歳)ナポレオンは大陸封鎖を守らない ロシアを懲罰するため、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻する。これがロシア遠征で ロシア側では祖国戦争と呼ばれる。
ナポレオン軍はバルト海方面から ビルニュス (リトアニア )、ミンスク(ベラルーシ) を経てモスクワを目指して進軍したが、ロシア軍は直接の戦闘を避けてひたすら退却、ロシア軍の手で焼き払われたスモレンスクに入った。しかしその間ナポレオン軍には発疹チフスが広がり、食糧の補給が困難となって次々と脱走兵がでた。ボロジノで初めて本格的な会戦があり、ナポレオン軍は3万の犠牲を出しながら突破し、モスクワに入城した。ロシアの将軍クトゥーゾフの焦土戦術により、全て焼き払われており、フランス軍は食料や物資の補給に苦しんだ。また、10月にはいると猛烈な寒波がフランス軍を襲い、ナポレオンはモスクワから退却した。 しかし ロシアの正規軍・農民ゲリラの追撃に遭い フランス軍の生き残った兵士はたった1%の壊滅状態で ナポレオンはわずかな兵とともにパリにたどり着いた。

1813年(44歳)10月 ドイツ東部のライプツィヒの戦い ナポレオン軍がライン同盟軍などを加えて19万、それに対する連合軍は25万、ナポレオン軍が決定的な敗北を喫する。これによってナポレオンのドイツ支配は崩れた。

1814年(45歳)対仏同盟軍がフランスに攻め込み パリ陥落。ナポレオンはフォンテンブロー条約により退位し 皇后マリー・ルイーズと息子のナポレオン2世は ハプスブルク家に引き渡される。
イギリス軍に護られた ブルボン王家が帰還 国王ルイ18世として第一次王政復古。ナポレオンは エルバ島に島流しされる

1815年(46歳)ナポレオンは ルイ18世の支配に対する国民の不満を知り 密かに エルバ島を脱出し パリに歓呼を持って迎えられ 皇帝の座に返り咲いた。ナポレオンは主力部隊を率いて、イギリス・オランダをはじめとする連合軍らと ベルギーのワーテルローで戦い 惨敗、イギリスに投降して 百日天下の幕を閉じる。ルイ18世が第二次王政復古

1821年(51歳)南大西洋の孤島セントヘレナ島に島流し。監禁生活の末、病死。
没後 悪評が薄らぎ 称賛の声が高まる。島で語った『セントヘレナ回想録』が出版され人気高まる。
1840年にフランス国王ルイ・フィリップにより、パリのアンヴァリッド(フランス廃兵院)へ改葬された。

一本の道「ナポレオン街道 鷲の飛行328km〜フランス〜」

NHK BSP 2023.10
1815年 フランスの英雄 ナポレオンが エルバ島を脱出し千人を従え行軍した道。前年 皇帝退位を強いられ、復活を狙った英雄は「鷲は鐘楼から鐘楼へとノートルダムの尖塔まで飛んでいく」と敵をあざむき、あえて険しい山道を空から追った。
流刑先のエルバ島で10か月間あまりを過ごしたナポレオンは1815年3月1日 1000人の軍勢を従えて船7隻で英国軍の監視をかいくぐり、フランス本土のジュアン湾の村に上陸(ゴルフ=ジュアン 現在 リゾート地) 。
「ここに上陸、ナポレオン街道の出発点」と書かれた石碑があった。ここから グルノーブルまで 7日間328キロの大移動は始まり 地中海からアルプス山脈までプロヴァンス地方を縦断。

海岸沿いにカンヌに移動し宿泊、山の方に向かいう。上陸した浜から27km 今も人々がナポレオン台地と呼ぶ林の中で休憩。ナポレオン街道 は 現在の国道85号線。ナポレオンは失脚する前 道路整備に力を入れていたので 馬車が通れる大動脈ができていた。ナポレオンも渡った「古い橋」という名のが残っている。この時も エルバ島から 大砲を3門運んできていた。記録によると 峠までは石畳だった。
石灰岩むき出しの斜面 石畳がところどころ残る。この先は標高1000mの峠で 大砲の運搬は諦めた。(グーグルマップに 85国道 Rte Napoleon と書いてある) 香水の街 グラース ナポレオンもジャスミンの香りを愛用していた、 峠にサン・マルタン礼拝堂があって 人が住む。古代ローマ時代に作られた ジグザグの道 ローマ街道、鋭角なカーブとまっすぐな道を登り ようやく 深夜 今は廃墟になっている セラノンの貴族の館 フルンデ城に到着し泊まる。付近には ナポレオンの座った石ゆかりの ホテル など 「皇帝」・「ナポレオン」と名のつくもの が多くあって ナポレオンが愛されていたことが分かる。
3日目 セラノンの村 山が迫って 険しくなる。断崖にある ノートルダム・デュ・ロック礼拝堂 そのふもとにある カステラーヌ で昼食に招かれた。屋根は比較的 平ら。このあたり 標高720mぐらい。この日は雪で 荷物を運ぶ ラバもたくさん調達。また標高1000m地帯に。バレームに到着 村人総出で歓迎の記録残る。屋根が少し急になった。
ナポレオンが食べていた 栄養のあるパン ヒマワリの種・オートミール・麻の実が入っていた。
4日目 ナポレオン街道と並走してプロバンス鉄道が。岩山から壁が突き出ている地形、大昔海底だったところが隆起し 地層が縦になっている。ショドン 最も標高の高い 1211m コロバン峠 (コル・ド・コロバン) で 林から 尾根に出たあたりで 金貨を積んだラバが谷底に落ちたが ナポレオンは急いでいたので諦めた。
廃墟になってしまった村 ラ・クラップ 当時は100人程住んでいた。峠を越え マリジャイに。ナポレオンが宿泊したマリジャイ城は、現在市役所になっている。
5日目 マリジャイを越えると高さ100mを越える 岩の群れ Rochers des pénitents、 礫が積み重なってできたもので 「罪を悔い改める人」と名がついている。
デュランス川の両側から岩山がせり出して 門のようになっている。門の手前が プロバンス地方、向こうがアルプス地方。ルイ18世の手勢が多い プロバンス地方がまもなく終わる。

敵の拠点の1つの システロンの街を通らなくてならない。そして、そしてデュランス川架かる橋 Arrivée de l’ancienne Route Napoléon au Pont de la Baumeで ここしか橋がなかったので 必ず渡らなければいけない。
大勢の人々が待ち構えていた。門の城壁を作るこの岩も石灰質の堆積物、今や ロッククライマーに人気。システロンでは高級ラムと知られる羊が多く飼われている。
アルプス地方に入り ガップに泊まる。到着は夜遅かったが 数千人が灯りを手に迎えた。お礼に軍旗を渡した。
6日目 道沿いに中世の城が朽ちていた。 ナポレオン街道 国道85号線 アルプスの村々では 歓迎色が強まり 村人が一緒に歩きたいと加わった。宿泊はコルの町、家の屋根 傾斜がきつくなった。
7日目 山を登り また下る。典型的な南フランスの岩山。美しい川が作る渓谷 その谷に沿って 進む ナポレオン街道。標高900mにあるラフレ湖。上陸した浜から304km、実は敵対するルイ18世側の王党の軍勢がナポレオン軍を上回って進んできた。激突すればナポレオンに勝ち目はない。敵兵が「皇帝万歳」と叫んだ。敵が味方に廻って この時勝利を確信した。雪が積もっていた ラフレの その場所を文豪 スタンダールが「出会いの草原」と呼んだ。湖の向こうの中腹の山に 偶然なのか 鷲のマークに見える。
ナポレオン愛好家が集まってくれた。それぞれのお気に入りの衣装で 女の人も同行して炊事や洗濯をしていた。フランスの国内外で歴史的な再現イベントに参加するという。
ナポレオン街道を328kmを7日間で踏破し グルノーブルに到着。この先 パリまで険しい山はない。
グルノーブルに到着したとき 兵士は7000人に増えていた。市民はボンヌ門の扉を壊して 敬意を込めナポレオンに見せた。後にナポレオンは「グルノーブルまでは冒険家だった。グルノーブルでプリンスになった」と語った。宿泊したホテル、今はレストランになっていて その時の様子の絵が飾ってあった。