空からクルージング マルタ 騎士たちの島々を見て、地中海に浮かぶ小さな国マルタの絶景と巨石文明・使徒パウロ・聖ヨハネ騎士団・フランス イギリスの関係など 交通の要衝だった故のを歴史でした。
Googleマップにマーキングして 登録されている写真を 楽しんでます。
Googleマップ

見たい場所のマーカーを選ぶと Googleマップからの写真左側が表示されます。
Google マップで見る をクリックすると 新しいタブで Googleマップが開きます。
写真をクリックすると 右側に大きな写真が表示されます。< > で前の・次の写真へ
Googleマップに登録されている写真が楽しめます。実際に行けたらなと思います。
空からクルージング マルタ 騎士たちの島々
NHKBS 2023.2.4
マルタ共和国
シチリア島の南に80キロに位置する小さなマルタ島、首都 ヴァレッタは 聖ヨハネ騎士団によって築かれた城塞都市で世界遺産に町全体が指定されている。
面積は東京23区の面積の約半分の大きさで、人口は約53万人。
地中海のほぼ中央にあり、アフリカ大陸にも近い。このためカルタゴ、共和政ローマ時代には地中海貿易で繁栄した。かつてイギリスの支配を受けマルタ語及び英語が公用語。
マルタ島の巨石文明と青い海
マルタ島の南端を出発 西側を廻る。
■セント・ピーターズ・プール:小さな入江 岩に囲まれた波のない天然のプール。景色が美しく水もエメラルドで砂浜はなく、飛び込みを楽しむ場所。
■青の洞門 Blue Grotto:真っ白な石灰岩の断崖 サメが口を開けたような穴は 波が台地を浸食した結果、巨大なアーチが造られたもの。どこまでも青く深い神秘的な洞窟。
■イムナイドラ神殿:断崖の上に浸食を防ぐために立てられた白い屋根が見える。
紀元前3800年~紀元前2500年 の古代ギリシャより前の遺跡で、ハジャーイム神殿・イムナイドラ神殿は、実際に中に入ることもできます。巨石の配置から台所や居間、寝室と考えられます。入り口の石にはたくさんの穴があり 月齢や天体を観測していた説もある。
■カート・ラッツ:岩に無数の線があって 鉄道の操作場のように見える。巨石を運んだ車輪のわだち?灌漑用水?謎です。
■ディングリ クリフ:バームクーヘンのような白い断崖
■スコルバ遺跡:古い遺跡で紀元前3600年ころ作られた。神々に捧げた痕跡が残る。新石器時代の最古の村と考えられる。紀元前2000年のころ突然マルタから巨石文明が消えた。
■マルサックスロック:古くからの港町で今も漁港でルッツと呼ばれる青や黄色の木で作られた伝統の船で、フェニキア人の持ち込んだ お守りの目玉が船の舳先に付いている。
アルファベットの生みの親であり、商業都市カルタゴを創り上げた海洋民族フェニキア人がマルタ島を支配して巨石文明を作るが 紀元前218年頃 カルタゴが共和政ローマとのポエニ戦争で滅亡。その後、ローマ帝国の支配下に。

使徒パウロの道を行く
使徒パウロはもともとキリスト教徒を迫害する立場でしたが、のちに回心してキリスト教を広めるために 中東からヨーロッパに向かう途中 ローマ軍に捕らえられ、皇帝(カエサル)に上告するためローマへと護送される途中 パウロ一行が乗る船が難破して マルタ島に漂着した。
■聖パウロ島:使徒パウロがここに漂着
■ラバト:使徒パウロが閉じ込められた地下の洞窟が残る。マルタの人にキリストのことば伝えた。後に 洞窟の上に聖パウロ大聖堂が建てられ イムディーナの街になった。大聖堂の側面の壁には聖パウロの難破や肖像画が描かれている。
313年 キリスト教が公認され広がる。
395年 ローマ帝国から分離した西ローマ帝国が滅亡、ビザンティン帝国(東ローマ)が支配。
9世紀 イスラム王朝が支配。進んだ文明でかんがいシステムやフルーツの栽培方法が伝わり 農業が発展した。
■サン・パウル・ミルイ San Pawl Milqi:イスラム王朝の痕跡のある遺跡で、髪を黒い髪で覆う独特の衣装で踊る オネラ。イスラム教とキリスト教が共存していた。
■イムディーナ:聖パウロ大聖堂がある 中世の面影が色濃く残る古都で城塞に囲まれている。かつて首都があったところで はちみつ色のマルタストーンで造られている。島全体が見渡せる。
聖ヨハネ騎士団の道
■バレッタ:現在のマルタの首都で 16世紀に聖ヨハネ騎士団によって建設された。今でも 蜂蜜色の石灰岩「マルタスト-ン」できた立派な城壁やバロック様式の建物など 要塞都市としての面影が深く残り 世界遺産に登録されている。11世紀 聖地エルサレムに 行く人々の病気やケガを治療する 療養院がバレッタに残っている。
■騎士団長の宮殿:イスラム勢力から聖地を奪回するため 十字軍が派遣されるようになると 聖ヨハネ騎士団も駆り出されるようになります。ヨーロッパ中の貴族の子弟が集まり 禁欲的な生活をして軍事訓練を行っていて、聖ヨハネ騎士団に選ばれることは たいへん名誉なことでした。
しかし1530年 聖ヨハネ騎士団が敗れ、スペインから与えられたマルタに移ってきた。
イスラムの大国 オスマントルコの侵略から キリスト教世界を守る防波堤になった 聖ヨハネ騎士団はヴィットリオーザ(バーグ)に拠点を置き 突端の聖アンジェロ砦を司令部とした。バレッタに聖エルモ砦を建設 オスマン軍に備えた。1565年マルタ包囲戦と呼ばれる長い戦いが始まる。騎士団長の館 に戦いの様子が描かれて残っている。
オスマン帝国の大軍がマルタに押し寄せますが、マルタ側は1/3にも満たない圧倒的不利な兵力ながら、当時の騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ヴァレットの指揮のもと、降伏することなく耐え、援軍が到着しオスマン帝国軍はマルタから撤退していきました。
ヨーロッパ各地から寄付が集まり 聖ヨハネ騎士団は街を作り、事実上の国家築きます。中でも繁栄の象徴だった 聖ヨハネ大聖堂。外観はシンプルですが、その内部は豪華絢爛、重厚できらびやかな装飾が施されています。天井には騎士団の守護聖人である聖ヨハネの生涯が描かれ、床には400人の墓が並ぶ。両端にある礼拝堂 騎士団の出身地別に祀られ、それぞれが美しさ豪華さを競いあう。付属美術館には、天才画家カラヴァッジョの貴重な絵画が展示されています。
やがて騎士団は海賊になって 異教徒の財宝を奪い、騎士団長の宮殿では連日オペラや演劇が連日上演された。貴族になった騎士団は 瀟洒なヴェルダーラ宮殿やマノエル劇場を作った。
やがて財政破綻し 1798年にナポレオン率いるフランス軍の侵攻でマルタを追われ、各国の支持者の領地を転々とした後、1834年にローマに本部を置くことを許されます。現在のマルタ騎士団は領土を持たないながらも約1万人、マルタ騎士団国としての治外法権が認められており 世界の約110か国と外交関係を持っています。
ゴゾ島・コミノ島
マルタ島のすぐ北にある ほぼ無人島で手つかずの自然が残る コミノ島 のビーチ ブルーラグーン、真っ青な空の下に輝く透明度の高い海です。
ゴゾ島 はマルタ島の北西6キロに有り 3万5千人が暮らす。
■ラムラ湾 Ramla Beach:少し赤みがかった砂の美しい砂浜である。砂浜に聖母マリア像、古代ローマ時代別荘があった。ビーチを見下す高台には、ホメロスの2大叙事詩のひとつ「オデュッセイア」にてオデュッセウスが美しい妖精に7年間引きとめられたといわれる カリプソの洞窟 Calypso Caveがある。現在洞窟内へ入ることはできないが、近くの展望台から内部の様子を見ることができる。
■ソルトパン:岩を正方形にくり抜いて作られた塩田は、海岸沿いに約3キロも続いています。
■ジュガンディーヤ神殿:世界遺産に登録されていて 新石器時代に造られた巨石神殿で、マルタ語で「巨人の塔」を意味します。世界的に見ても最古の宗教施設の1つと言われており、豊穣神崇拝の場として使われていた。
■アースリー渓谷 Wied il-Għasri:海の峡谷で海から300メートル内陸にある静かなビーチ。
■ミエラ Wied il-Mielaħ:石灰岩の自然のアーチで 垂直の壁でロッククライミングする人もいる。
■アズールウィンドウ:海に突き出た岸壁が長年の海水の侵食などでアート型となっており、その自然美から世界遺産に登録されていましたが 2017年3月の嵐によりアーチ部分は崩壊してしまった。
■ゴゾ大聖堂:ゴゾ島の主都ヴィクトリアに立つ大聖堂で 古代ローマ神殿の跡地に建てられた、18 世紀のバロック様式の大聖堂。資金不足のため天井にあるドームはだまし絵でできている。
反乱・戦争・独立・そして
内陸の古都イムディーナ、フランス軍はカトリック教会の権力を嫌い 財産没収、高価な物を競売にかけようとした。1798年 カルメル修道会も競売が行われようとしたとき 信仰の篤いマルタの人は反発する。当時 一位の少年が鐘をならすと 反発する群衆が集まり、将校が逃げ出し、反乱は全土に広がった。多くの犠牲者が出た。ついに 1800年フランス軍はバレッタを放棄 マルタから撤退。
ヨーロッパ諸国は マルタの自治許さず イギリスが変わって支配し公用語を英語に定めた。イギリス支配の象徴だった ビクトリアゲート。その後も自治を求め 度々反乱を起こした。
第2次世界大戦が勃発 バレッタの戦没者慰霊碑シージ・ベル、戦争は中東や北アフリカにも拡大し マルタは重要な中継基地となった。その輸送路を絶つべくドイツ軍とイタリア軍は無差別攻撃。首都バレッタやビットリ・オーサは焦土に。そんなとき 内陸部のモスタに 教会では世界3位のドームがあるモスタ・ドームがある教会 1942年 ミサ中に ドイツ軍が爆弾を落とすが 奇跡が起き 爆発しなかった。人々は耐え忍んでいく。バレッタの入り口にあった王立歌劇場 破壊された姿のまま残されている。
戦争後立ち上がり町並みをとりもどした。1964年 国民投票を経て独立を果たす。
ヴィットリオーザの自由の碑のモニュメント 独立後も駐留していたイギリスが1979年撤退したことを記念している。
その後マルタはNATOなどいかなる軍事同盟に加わらないことを選択した。
1989年 マルサックスロック湾の船上でマルタ会談を行い アメリカのプッシュ大統領とソビエトのゴルバチョフ書記長が冷戦の終結を宣言した。 冷戦終結の記念碑