GoogleマップでWeb旅行! 京都 南山城の古寺巡礼 一休寺 &丹後半島 天の橋立&愛宕山

テレビで視た 京都 南山城の古寺巡礼 一休寺・海住山寺・岩船寺&丹後半島 天の橋立・伊根の舟屋・経ヶ岬灯台・立岩・美山かやぶきの里。
2020年 天の橋立と 伊根の舟屋 実際に歩いてきました。

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南山城の古寺巡礼 一休寺・海住山寺・岩船寺

京都浪漫 悠久の物語 第100回 緑輝く南山城の古寺巡礼~一休寺・海住山寺・岩船寺~
BS11 2022年6月12日 初回放送
京都府南部に位置する南山城の里山に点在する国宝や仏像の数々を巡る。

酬恩庵一休寺 京田辺市

京田辺は、かつて盛んな水運を誇った木津川に面し、奈良・京都・大阪に接する交通の要衝として栄えた地でした。酬恩庵一休寺は、一休宗純禅師が、鎌倉時代の禅道場 妙勝寺を中興し宗祖の大應国師の恩にむくいる意味をこめて「酬恩庵」と命名した。
一休はその後洛中に戻ったが、応仁の乱の戦火を避けて、再びこの寺に戻り、88歳で亡くなった。
宗純王廟(一休禅師の墓) 現在墓所は宮内庁が管理され 門扉に菊花の紋があるのはそのためです。
虎丘庵は風雅な檜葺きの建物で、一休が晩年の住んだところと伝わる。

方丈は住職の接客や仏事を行うところで、江戸時代 加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建された。大阪夏の陣で大阪に向かう途中 参詣し 一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き、方丈・庫裏・東司(お手洗い)・鐘楼などをを寄進。茶人だった 利常公は 一休を敬愛していた。
方丈の襖絵狩野探幽 49歳の時の筆によるものである。「ショウショウ八景」など描かれている。複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。
京田辺は、かつて盛んな水運を誇った木津川に面し、奈良・京都・大阪に接する交通の要衝として栄えた地でした。酬恩庵一休寺は、一休宗純禅師が、鎌倉時代の禅道場 妙勝寺を中興し宗祖の大應国師の恩にむくいる意味をこめて「酬恩庵」と命名した。
一休はその後洛中に戻ったが、応仁の乱の戦火を避けて、再びこの寺に戻り、88歳で亡くなった。
宗純王廟(一休禅師の墓) 現在墓所は宮内庁が管理され 門扉に菊花の紋があるのはそのためです。
虎丘庵は風雅な檜葺きの建物で、一休が晩年の住んだところと伝わる。

方丈は住職の接客や仏事を行うところで、江戸時代 加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建された。大阪夏の陣で大阪に向かう途中 参詣し 一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き、方丈・庫裏・東司(お手洗い)・鐘楼などをを寄進。茶人だった 利常公は 一休を敬愛していた。
方丈の襖絵狩野探幽 49歳の時の筆によるものである。「ショウショウ八景」など描かれている。複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。
方丈中央の昭堂一休禅師の木像を安置してある。この木像は亡くなる前に 高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。
方丈庭園 南庭(国指定名勝)は宗純王廟と虎丘を背景としている。築地塀沿いの東庭は十六羅漢の庭、方丈の真裏になる北庭は 北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園で、京田辺の平野~山並みの借景も美しい。この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされている。

宝物殿には一休禅師の頂相(肖像画)や遺偈(ゆいげ 臨終のとき、あとに残す詩句)などの墨跡他を展示している。

一休禅師は 後小松天皇の落胤といわれています。 6歳のとき、京都にある安国寺に入門・受戒し、周建とよばれます。近江国の華叟宗曇(かそうそうどん)に師事し、法名を宗純に改名します。
修行中「有漏路より無漏路に帰る一休み 雨ふらばふれ 風ふかばふけ」と詠んで 師より 一休の号を与えられます。
とんち小坊主 一休さんのイメージが浸透していますが、これは江戸時代に創作された「一休とんち噺」によるもの。実際は高い学識と真摯な禅への姿勢をもち反骨の精神を貫いた人物で、多くの弟子や信者の尊敬を集めました。

虎丘庵は一休禅師が晩年過ごした庵で元は東山にあり、応仁の乱の戦火を避けるために一休寺に移されました。晩年に通じあった女性・森女と住んだ場所とされています。
一休禅師の筆による「虎丘」の額が上がり、内部は二畳の水屋と六畳と三畳の小部屋だけの簡素な造り。室町時代の枯山水の庭園で村田珠光の作と伝えられています。
一休禅師を慕う多くの文人たちが虎丘庵に集い、当時の文化サロンとして、室町文化の開花に大きく貢献しました。能楽師の金春禅竹(こんぱるぜんちく)音阿弥、連歌 柴屋軒宗長、俳諧 山崎 宗鑑、書画 曾我蛇足 ら多く集った。
「一休寺納豆」は、一休禅師が 応仁の乱で飢えに困っていた人々にその製法を伝えた。蒸した大豆にはったい粉と麹を混ぜ発酵させ 塩湯と共に納豆桶に移し約一年間天日干しにしたものです。肉食をしない僧侶にとり 貴重なたんぱく質補給の栄養源として、保存食として珍重されてきました。

海住山寺(かいじゅうせんじ) 木津川市

加茂盆地の北、瓶原(みかのはら)を見下ろす山塊の中腹にある海住山寺は、天平7年(735) 聖武天皇の勅願により 東大寺の良弁僧正が 平城京の鬼門(北東)に 十一面観音菩薩像を安置したのがはじまりといわれる。平安後期 火事にあい、鎌倉時代に 解脱上人貞慶 が移り住み 復興 海住山寺と名づけた。最も繁栄時 58以上の寺院構造で構成されていました。海住山寺は、南海にあるといわれる観音の浄土の名から、海(南海)住(観音が住む)山寺(浄土の山にある寺)を意味しています。

瓶原(みかのはら)と呼ばれたというこの地は、「みかの原わきて流るゝ泉川、いつみきとてか恋しかるらむ」との小倉百人一首に収められた兼輔の歌で、ひろく人々に知られています。
天平13年(741)聖武天皇は 恭仁(くに)京を造営
最も繁栄しているのは58以上の寺院構造で構成されていました。海住山寺は、南海にあるといわれる観音の浄土の名から、海(南海)住(観音が住む)山寺(浄土の山にある寺)を意味しています。
本堂は明治になって再建 されたもので すが、本尊の十一面観音菩薩立像(重要文化財)は像高167.7センチメートル、榧(かや)材の一木造、彩色の立像ですが、彩色はほとんどが剥落し 現在見られるのは後世の補彩です。
五重塔(国宝)は、建保2年(1214)に、舎利を安置するために 貞慶の跡を受けた慈心上人によって建立されました。塔としては総高17.7mと 小さい方ですが、昭和38年(1962)の解体修理にあたり、初重の軒下に裳階(もこし)と呼ぶ庇が復元された。心柱は2層から。
内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

文殊堂(重要文化財)
解脱房貞慶十三回忌に向けて建てられた経蔵にあたると考えられている。ふつう経蔵には文殊菩薩を本尊として祀ることが多いので、この経蔵ものちに経典収蔵の機能を失った後も本尊はそのままにして、文殊堂とよばれるようになったものと思われる。

岩船寺(がんせんじ) 木津川市

四季を通じて様々な花が目を楽しませてくれる木津川市の岩船寺。毎年6月になると、三重塔を背景に咲き誇る紫陽花が観光客の人気を集めている。

岩船寺のある地区は 京都府と奈良県の境にあって 当尾(とうの)と呼ばれている。東大寺にもほど近く 奈良時代 南都仏教の高僧や修行僧の隠棲の地となり 多くの寺院が建立されたために、三重塔や石塔が尾根をなしていたことから「塔尾(とうの)」と呼ばれたことによる。
平城京の石仏を彫った石工達が周辺に暮らしていたため 辺り一帯の古道「石仏の道」沿いに 自然石に刻まれた磨崖仏が数多く残されている。ほど近くにある 「一願不動明王」の磨崖仏は鎌倉時代中期の作とされるが、そこには 岩船寺の名が刻まれている。
天平元年(729年)に聖武天皇行基に命じて 1つの阿弥陀堂を建立したのがはじまり。のちに弘法大師の甥である智泉大徳が 嵯峨天皇の命で 皇子誕生の祈願をさせたところ、皇子(仁明天皇)が誕生、その功で伽藍が整備され、寺号を岩船寺と改めた。膨大な土地をいただき、最盛期には寺塔三十九坊の広壮を誇ったが、承久の乱により焼失、現在の岩船寺だけ残った。

岩船寺の見所は本堂に安置されている 阿弥陀如来坐像(重文 平安時代)、ケヤキの1木で作られ 重量感あふれる 3m近い 大きな坐像です。946年の作で、上品上生印 を結ぶ丈六の阿弥陀如来像としては 日本最古。緋の衣が残っている。以降の阿弥陀は全て金箔なので特徴がある。
周りには四天王立像が並ぶ。鎌倉時代の寄せ木造りの持国天像で岩船寺の名の通り岩座に乗っている。

岩船寺の周辺は当尾と呼ばれる石仏の里、一帯に広がる花崗岩を利用して奈良時代から石造りが盛んでした。 境内では鎌倉時代にさかのぼる 石仏や石塔がある。
石室不動明王(重文 鎌倉時代)、十三重石塔(重文 鎌倉時代)

阿字池の奥にそびえる 三重塔(重文 室町時代)は 平安時代 仁明天皇智泉の遺徳を偲んで建立されたと伝わる。しかし承久の乱により焼失、現在の塔は室町時代の再建されたもので、3層のそれぞれの四隅には「隅鬼」と呼ばれる鬼が配置されていることで知られています。
特別公開では、いちばん下の層に入ることができ、復元された内部の壁画を見学できます。
正面中央に須弥壇と十六羅漢図を描いた来迎図、板壁には真言八祖 8枚の扉には、方角を守るとされる八天部が 修復され赤や緑などの極彩色で1体ずつ描かれていてる。

普賢菩薩騎象像(重文 平安時代)現在は本堂内本尊脇に安置されているが、元来は三重塔内部に納められていた。6本の牙を持つ白い象に乗る 普賢菩薩は 彩色のある一木造り 女性的で優美な姿は平安前期のものと考えられる。智泉大徳作と伝わる。

京都の北部エリア 5つの絶景 天橋立と古代ロマン

BS朝日 2024.6.13 あなたの知らない京都旅 「5つの絶景 天橋立と古代ロマン」

天橋立

日本三景の一つ 天橋立 。リフトに乗って 天橋立ビューランド へ 定番の「股のぞき」で、白砂青松がまるで龍が天に舞い上げるような眺めは「飛龍観」と呼ばれている。
天橋立宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州で、通学にも使う 生活路になっている。廻旋橋という 船が通るたびに90度旋回する珍しい橋を渡って 歩いて天橋立へ。
・天橋立神社(橋立明神)八大龍王を祀り 恋愛成就のパワースポットとして人気の場所です。天橋立はその昔、天上にいるイザナギノミコトが地上にいるイザナミノミコトに会いに行くための梯子だったという伝説があります。すぐ横には日本名水100選の一つ「磯清水」があり、周りを海に囲まれているにもかかわらず真水が湧いている不思議な井戸が手水として利用されています。
・東側は 美しい白砂の浜がある宮津湾。都人の憧れの地で 足利義満が6回訪れていたという。また『小倉百人一首』「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」と和泉式部を母に持つ小式部内侍(こしきぶのないじ)が詠んでいます。
・西側の内海は 阿蘇海 とよばれる 潟湖で穏やか。
古代から交易の拠点として栄えました。

「京都のヴェネツィア」と言われる伊根の舟屋

江戸時代の中頃から作られるようになった舟のガレージ「舟屋」が 波静かな 透き通った 海の上に並び建つ様子は まるで海上に浮かんでいるかのようです。さらに船に乗り込んで海上で養殖されている岩牡蠣に舌鼓を打ちます。

経ヶ岬灯台

断崖絶壁のリアス式海岸のカマヤ海岸
丹後半島の最北端、海抜148mの断崖に建つ白亜の経ヶ岬灯台。設置されたのは明治31年(1898年)で、国内に5ヶ所のみの希少な第1等レンズ(フレネルレンズ)を使用した第1等灯台です。
ドローンの空撮映像を見ると 柱状の岩石が縦に何本も並んでいます。これが経巻を立てたように見えることから「経ヶ岬」の名前がつけられたといわれています。柱状の岩石は、約400万年前の火山の噴火で流れ出た溶岩で、冷え固まる時に縦の割れ目模様(柱状節理)ができました。『山陰海岸ジオパーク』のスポットになっています

袖志の棚田

扇状地に開けた約4百枚の棚田からは日本海を望むことができます。

立岩(たていわ)

「丹後のエアーズロック」と呼ばれ 竹野川河口にそびえる高さ約20mの巨岩です。地下から上昇してきたマグマが固まり、その後の侵食により周囲の岩石が削り取られてこの岩が残されました。竹野川が運んできた砂が砂州となり、離れ島になっていた立岩とつながっています。縦方向に力強く延びた柱状節理と、周囲の白い砂浜とのコントラスト。
飛鳥時代の「大江山の鬼退治」、伝説によれば、第31代用明天皇のお后間人(はしうど)皇后第3皇子麿子親王 (第2皇子は聖徳太子)が 鬼を岩に封じ込めました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。今でも風が強く、波の高い夜などは鬼たちの号泣する声が聞こえるといわれています。

美山かやぶきの里

京都府のほぼ中央に位置する 南丹市美山町は、福井県など日本海沿岸の町から京都市へと続く「西の鯖街道」の経由地として栄え、今もかつての街道の面影を残しています。町内には数多くのかやぶき民家が現存 「北」集落には50戸のうち39棟がかやぶきの屋根です。

愛宕ものがたり~愛宕神社と月輪寺

京都浪漫 悠久の物語  第125回 愛宕ものがたり~愛宕神社と月輪寺
BS11 2023年7月 初回放送

愛宕神社

京都市内にそびえる 標高924mの愛宕山の山頂にある 愛宕神社、全国約900社からなる愛宕神社の総本社で「火伏せの神」として信仰が厚い。
大宝年間(701~704年)に修験道の祖とされる役行者と加賀 白山の開祖として知られる泰澄が 天狗(愛宕山太郎坊)の神秘的な力に触れ、朝廷の許しを得て 山城国で 最初に日が当たる 朝日峰(愛宕山)に神廟を開きました。
京都市内から愛宕山への入口となる 嵯峨鳥居本は 愛宕山の門前町として栄えてきた。
愛宕神社 一の鳥居 近くに400年続く 鮎茶屋「平野屋」がある。上り亀石があって 道中の安全祈願します。亀のようにゆっくり着実に登りなさいという意味がある。神社の起点で霊峰まで50丁(約5.5キロ 、1丁=109m)。
清滝から登る表参道月輪寺を経由する月輪寺参道、ゆずで有名な水尾から表参道に合流する水尾参道、首無し地蔵に抜ける裏参道などたくさんあるが 今回は表参道を上ります。
表参道の登り口は清滝トンネルの先の清滝集落から。トンネルができる前は 試峠を越えていました。
この峠で愛宕山まで登れるか試したそうで 古典落語にも出てくる。清滝川で身を清める。
愛宕神社 二の鳥居
一丁目毎に地蔵様の形をした丁石が建っている。17丁目には火燧ひうち権現の社の跡が残り ここにも 火の神様が祀られていた。途中 1丁ごとにあったといわれる茶店兼宿泊所だった茶屋跡が残る。30丁目からは眼下に京都市街が広がる。
水尾別れの休憩所 亀岡市や南丹市からの登山口 水尾 からの合流地点。その先に ハナ売場 樒 (しきみ)という植物を売っていて、かまどのそばに樒をさしていて 1日1枚火に焼べると火よけの御利益があるといわれた。
44丁目のがんばり坂を越えると黒門 ここから白雲寺の境内でした。
50丁目 に到着。
弘法大師 空海の師とされる 慶俊和気清麻呂が 唐の五台山にならい、朝日峰の愛宕権現白雲寺・大鷲峰の月輪寺・高雄山の神護寺・竜上山の日輪寺・賀魔蔵山の伝法寺を建立した。
朝日峰に建立された白雲寺には 愛宕権現が祀られ 鎮護国家の道場となり、平安時代には山岳修練のお寺として発展、修験道七高山の一つとされ、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。白雲寺六坊と呼ばれる6つの坊が建ち並んでいたという。
愛宕神社は明治の廃仏毀釈で 坊は取り壊され 一部は社務所に。
急な石段を登ると 銅鳥居が建っていて その先に神門 最後の石段を登ると 拝殿本殿 が建つ。
本殿には 稚産霊神(わくむすひのかみ)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)が祀られている。
若宮に 雷神(いかづちのかみ)、迦遇槌命(かぐつちのみこと)、破无神(はむのかみ)を祀る。
火伏せの神 迦遇槌命は 愛宕神社の祭神 実は母神の伊弉冉尊(いざなみ)が出産時焼け死んでしました。一説には「仇子 あだご」からきているとも。
「火迺要慎」(ひのようじん)のお札。
愛宕太郎坊権現を描いた大絵馬が、愛宕神社に奉納されています。現在の絵馬は2015年に京都愛宕研究会によって奉納されたもので、元の絵馬は、伊達政宗の家臣であった片倉小十郎重綱が大坂の陣の前に勝軍地蔵に祈願し奉納したものです。
参拝後は、下り亀石に詣り 表参道を通らずに月輪寺方面へと下る。

月輪寺

40~50分で月輪寺へ 、月輪寺は慶俊僧都により中興された。白洲正子が愛した千手観音立像と空也上人像など見ごたえのある仏像がズラリと祀られている。京都市街を一望できる境内に立ち、自然と共生する住職の話に時がたつのを忘れる。