GoogleマップでWeb旅行! 京都 南山城の古寺&一休寺&丹後半島 天の橋立&愛宕山&花の寺&六地蔵

テレビで視た 京都 南山城の古寺巡礼 一休寺・海住山寺・岩船寺&丹後半島 天の橋立・伊根の舟屋・経ヶ岬灯台・立岩・美山かやぶきの里。六地蔵めぐりと地蔵盆
2020年 天の橋立と 伊根の舟屋 実際に歩いてきました。

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南山城の古寺巡礼 一休寺・海住山寺・岩船寺

京都浪漫 悠久の物語 第100回 緑輝く南山城の古寺巡礼~一休寺・海住山寺・岩船寺~
BS11 2022年6月12日 初回放送
京都府南部に位置する南山城の里山に点在する国宝や仏像の数々を巡る。

酬恩庵一休寺 京田辺市

京田辺は、かつて盛んな水運を誇った木津川に面し、奈良・京都・大阪に接する交通の要衝として栄えた地でした。酬恩庵一休寺は、一休宗純禅師が、鎌倉時代の禅道場 妙勝寺を中興し宗祖の大應国師の恩にむくいる意味をこめて「酬恩庵」と命名した。
一休はその後洛中に戻ったが、応仁の乱の戦火を避けて、再びこの寺に戻り、88歳で亡くなった。
宗純王廟(一休禅師の墓) 現在墓所は宮内庁が管理され 門扉に菊花の紋があるのはそのためです。
虎丘庵は風雅な檜葺きの建物で、一休が晩年の住んだところと伝わる。

方丈は住職の接客や仏事を行うところで、江戸時代 加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建された。大阪夏の陣で大阪に向かう途中 参詣し 一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き、方丈・庫裏・東司(お手洗い)・鐘楼などをを寄進。茶人だった 利常公は 一休を敬愛していた。
方丈の襖絵狩野探幽 49歳の時の筆によるものである。「ショウショウ八景」など描かれている。複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。
京田辺は、かつて盛んな水運を誇った木津川に面し、奈良・京都・大阪に接する交通の要衝として栄えた地でした。酬恩庵一休寺は、一休宗純禅師が、鎌倉時代の禅道場 妙勝寺を中興し宗祖の大應国師の恩にむくいる意味をこめて「酬恩庵」と命名した。
一休はその後洛中に戻ったが、応仁の乱の戦火を避けて、再びこの寺に戻り、88歳で亡くなった。
宗純王廟(一休禅師の墓) 現在墓所は宮内庁が管理され 門扉に菊花の紋があるのはそのためです。
虎丘庵は風雅な檜葺きの建物で、一休が晩年の住んだところと伝わる。

方丈は住職の接客や仏事を行うところで、江戸時代 加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建された。大阪夏の陣で大阪に向かう途中 参詣し 一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き、方丈・庫裏・東司(お手洗い)・鐘楼などをを寄進。茶人だった 利常公は 一休を敬愛していた。
方丈の襖絵狩野探幽 49歳の時の筆によるものである。「ショウショウ八景」など描かれている。複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。
方丈中央の昭堂一休禅師の木像を安置してある。この木像は亡くなる前に 高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。
方丈庭園 南庭(国指定名勝)は宗純王廟と虎丘を背景としている。築地塀沿いの東庭は十六羅漢の庭、方丈の真裏になる北庭は 北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園で、京田辺の平野~山並みの借景も美しい。この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされている。

宝物殿には一休禅師の頂相(肖像画)や遺偈(ゆいげ 臨終のとき、あとに残す詩句)などの墨跡他を展示している。

一休禅師は 後小松天皇の落胤といわれています。 6歳のとき、京都にある安国寺に入門・受戒し、周建とよばれます。近江国の華叟宗曇(かそうそうどん)に師事し、法名を宗純に改名します。
修行中「有漏路より無漏路に帰る一休み 雨ふらばふれ 風ふかばふけ」と詠んで 師より 一休の号を与えられます。
とんち小坊主 一休さんのイメージが浸透していますが、これは江戸時代に創作された「一休とんち噺」によるもの。実際は高い学識と真摯な禅への姿勢をもち反骨の精神を貫いた人物で、多くの弟子や信者の尊敬を集めました。

虎丘庵は一休禅師が晩年過ごした庵で元は東山にあり、応仁の乱の戦火を避けるために一休寺に移されました。晩年に通じあった女性・森女と住んだ場所とされています。
一休禅師の筆による「虎丘」の額が上がり、内部は二畳の水屋と六畳と三畳の小部屋だけの簡素な造り。室町時代の枯山水の庭園で村田珠光の作と伝えられています。
一休禅師を慕う多くの文人たちが虎丘庵に集い、当時の文化サロンとして、室町文化の開花に大きく貢献しました。能楽師の金春禅竹(こんぱるぜんちく)音阿弥、連歌 柴屋軒宗長、俳諧 山崎 宗鑑、書画 曾我蛇足 ら多く集った。
「一休寺納豆」は、一休禅師が 応仁の乱で飢えに困っていた人々にその製法を伝えた。蒸した大豆にはったい粉と麹を混ぜ発酵させ 塩湯と共に納豆桶に移し約一年間天日干しにしたものです。肉食をしない僧侶にとり 貴重なたんぱく質補給の栄養源として、保存食として珍重されてきました。

海住山寺(かいじゅうせんじ) 木津川市

加茂盆地の北、瓶原(みかのはら)を見下ろす山塊の中腹にある海住山寺は、天平7年(735) 聖武天皇の勅願により 東大寺の良弁僧正が 平城京の鬼門(北東)に 十一面観音菩薩像を安置したのがはじまりといわれる。平安後期 火事にあい、鎌倉時代に 解脱上人貞慶 が移り住み 復興 海住山寺と名づけた。最も繁栄時 58以上の寺院構造で構成されていました。海住山寺は、南海にあるといわれる観音の浄土の名から、海(南海)住(観音が住む)山寺(浄土の山にある寺)を意味しています。

瓶原(みかのはら)と呼ばれたというこの地は、「みかの原わきて流るゝ泉川、いつみきとてか恋しかるらむ」との小倉百人一首に収められた兼輔の歌で、ひろく人々に知られています。
天平13年(741)聖武天皇は 恭仁(くに)京を造営
最も繁栄しているのは58以上の寺院構造で構成されていました。海住山寺は、南海にあるといわれる観音の浄土の名から、海(南海)住(観音が住む)山寺(浄土の山にある寺)を意味しています。
本堂は明治になって再建 されたもので すが、本尊の十一面観音菩薩立像(重要文化財)は像高167.7センチメートル、榧(かや)材の一木造、彩色の立像ですが、彩色はほとんどが剥落し 現在見られるのは後世の補彩です。
五重塔(国宝)は、建保2年(1214)に、舎利を安置するために 貞慶の跡を受けた慈心上人によって建立されました。塔としては総高17.7mと 小さい方ですが、昭和38年(1962)の解体修理にあたり、初重の軒下に裳階(もこし)と呼ぶ庇が復元された。心柱は2層から。
内陣を厨子風に造り、8枚の扉に一体ずつ、華麗な彩色で梵天・帝釈天などの天部や比丘像が描かれる。

文殊堂(重要文化財)
解脱房貞慶十三回忌に向けて建てられた経蔵にあたると考えられている。ふつう経蔵には文殊菩薩を本尊として祀ることが多いので、この経蔵ものちに経典収蔵の機能を失った後も本尊はそのままにして、文殊堂とよばれるようになったものと思われる。

岩船寺(がんせんじ) 木津川市

四季を通じて様々な花が目を楽しませてくれる木津川市の岩船寺。毎年6月になると、三重塔を背景に咲き誇る紫陽花が観光客の人気を集めている。

岩船寺のある地区は 京都府と奈良県の境にあって 当尾(とうの)と呼ばれている。東大寺にもほど近く 奈良時代 南都仏教の高僧や修行僧の隠棲の地となり 多くの寺院が建立されたために、三重塔や石塔が尾根をなしていたことから「塔尾(とうの)」と呼ばれたことによる。
平城京の石仏を彫った石工達が周辺に暮らしていたため 辺り一帯の古道「石仏の道」沿いに 自然石に刻まれた磨崖仏が数多く残されている。ほど近くにある 「一願不動明王」の磨崖仏は鎌倉時代中期の作とされるが、そこには 岩船寺の名が刻まれている。
天平元年(729年)に聖武天皇行基に命じて 1つの阿弥陀堂を建立したのがはじまり。のちに弘法大師の甥である智泉大徳が 嵯峨天皇の命で 皇子誕生の祈願をさせたところ、皇子(仁明天皇)が誕生、その功で伽藍が整備され、寺号を岩船寺と改めた。膨大な土地をいただき、最盛期には寺塔三十九坊の広壮を誇ったが、承久の乱により焼失、現在の岩船寺だけ残った。

岩船寺の見所は本堂に安置されている 阿弥陀如来坐像(重文 平安時代)、ケヤキの1木で作られ 重量感あふれる 3m近い 大きな坐像です。946年の作で、上品上生印 を結ぶ丈六の阿弥陀如来像としては 日本最古。緋の衣が残っている。以降の阿弥陀は全て金箔なので特徴がある。
周りには四天王立像が並ぶ。鎌倉時代の寄せ木造りの持国天像で岩船寺の名の通り岩座に乗っている。

岩船寺の周辺は当尾と呼ばれる石仏の里、一帯に広がる花崗岩を利用して奈良時代から石造りが盛んでした。 境内では鎌倉時代にさかのぼる 石仏や石塔がある。
石室不動明王(重文 鎌倉時代)、十三重石塔(重文 鎌倉時代)

阿字池の奥にそびえる 三重塔(重文 室町時代)は 平安時代 仁明天皇智泉の遺徳を偲んで建立されたと伝わる。しかし承久の乱により焼失、現在の塔は室町時代の再建されたもので、3層のそれぞれの四隅には「隅鬼」と呼ばれる鬼が配置されていることで知られています。
特別公開では、いちばん下の層に入ることができ、復元された内部の壁画を見学できます。
正面中央に須弥壇と十六羅漢図を描いた来迎図、板壁には真言八祖 8枚の扉には、方角を守るとされる八天部が 修復され赤や緑などの極彩色で1体ずつ描かれていてる。

普賢菩薩騎象像(重文 平安時代)現在は本堂内本尊脇に安置されているが、元来は三重塔内部に納められていた。6本の牙を持つ白い象に乗る 普賢菩薩は 彩色のある一木造り 女性的で優美な姿は平安前期のものと考えられる。智泉大徳作と伝わる。

仏像の聖地 南山城

京都浪漫 悠久の物語 第154回 仏師と巡る『仏像の聖地』南山城
BS11 2024年9月8日
奈良 平安時代から続く歴史ある寺が点在する京都府南部の南山城、戦禍を免れた貴重な仏像が数多く残る。

浄瑠璃寺

京都府木津川市浄瑠璃寺 三重塔の内陣に安置されている薬師如来の浄土「瑠璃光浄土」が寺名の由来で、建物や仏像など、国宝や重要文化財が多く残されています。
梵字の阿字をかたどった池を中心に、東に薬師仏、西に阿弥陀仏を配した庭園が極楽世界をこの世に表わしていて、本堂は横に長く 本尊は 九体阿弥陀(くたいあみだ)という九体の阿弥陀如来を安置しています。平安時代には京都を中心に30以上あった 九体阿弥陀 の寺も、ここだけ当時のまま残っている。
九品 生前の行ないや信心深さに応じて 極楽浄土に往生するときに9段階あるとされており「上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生」。仏像では、それぞれ「印」(手の形)が異なる。ちなみに「上品」「下品」の語源に。
庭園には馬酔木やアジサイ、紅葉、千両など、四季折々の花が咲き乱れる。 

神童寺

京都府木津川市の 聖徳太子によって創建されたと伝わる神童寺。本尊は蔵王権現。役小角が修行するなど、平安時代には修験道の聖地であった。奈良の吉野山に対して北吉野山と称し、一時は一帯に二十六坊のお堂があったが、全山焼失した。現在の本堂は室町時代に再建されたもので、重文指定の仏像を多数所蔵する。

壽寶寺

京田辺市壽寶寺、本尊は昼と夜で表情がまったく違って見られる 十一面千手千眼観音、実際に千の手を持つ千手観音さまで、葛井寺(大阪)唐招提寺(奈良)の千手観音さまとならび、三大名作といわれる。手の平一つ一つに墨で眼が書かれています。

禅定寺

治田原町禅定寺、平安時代中期の東大寺53代別当であった平崇上人により創建された。 もとは、天台宗だが、現在は禅宗の曹洞宗で、曹洞宗中興月舟宗胡禅師終焉の地である。
十一面観音立像や日光・月光菩薩立像など多くの文化財が宝物殿に安置されている。また、本堂裏には開創千年を記念した巨大壁画「禅定寺平成大涅槃図」が描かれている。

京都の北部エリア 5つの絶景 天橋立と古代ロマン

BS朝日 2024.6.13 あなたの知らない京都旅 「5つの絶景 天橋立と古代ロマン」

天橋立

日本三景の一つ 天橋立 。リフトに乗って 天橋立ビューランド へ 定番の「股のぞき」で、白砂青松がまるで龍が天に舞い上げるような眺めは「飛龍観」と呼ばれている。
天橋立宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州で、通学にも使う 生活路になっている。廻旋橋という 船が通るたびに90度旋回する珍しい橋を渡って 歩いて天橋立へ。
・天橋立神社(橋立明神)八大龍王を祀り 恋愛成就のパワースポットとして人気の場所です。天橋立はその昔、天上にいるイザナギノミコトが地上にいるイザナミノミコトに会いに行くための梯子だったという伝説があります。すぐ横には日本名水100選の一つ「磯清水」があり、周りを海に囲まれているにもかかわらず真水が湧いている不思議な井戸が手水として利用されています。
・東側は 美しい白砂の浜がある宮津湾。都人の憧れの地で 足利義満が6回訪れていたという。また『小倉百人一首』「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」と和泉式部を母に持つ小式部内侍(こしきぶのないじ)が詠んでいます。
・西側の内海は 阿蘇海 とよばれる 潟湖で穏やか。
古代から交易の拠点として栄えました。

「京都のヴェネツィア」と言われる伊根の舟屋

江戸時代の中頃から作られるようになった舟のガレージ「舟屋」が 波静かな 透き通った 海の上に並び建つ様子は まるで海上に浮かんでいるかのようです。さらに船に乗り込んで海上で養殖されている岩牡蠣に舌鼓を打ちます。

経ヶ岬灯台

断崖絶壁のリアス式海岸のカマヤ海岸
丹後半島の最北端、海抜148mの断崖に建つ白亜の経ヶ岬灯台。設置されたのは明治31年(1898年)で、国内に5ヶ所のみの希少な第1等レンズ(フレネルレンズ)を使用した第1等灯台です。
ドローンの空撮映像を見ると 柱状の岩石が縦に何本も並んでいます。これが経巻を立てたように見えることから「経ヶ岬」の名前がつけられたといわれています。柱状の岩石は、約400万年前の火山の噴火で流れ出た溶岩で、冷え固まる時に縦の割れ目模様(柱状節理)ができました。『山陰海岸ジオパーク』のスポットになっています

袖志の棚田

扇状地に開けた約4百枚の棚田からは日本海を望むことができます。

立岩(たていわ)

「丹後のエアーズロック」と呼ばれ 竹野川河口にそびえる高さ約20mの巨岩です。地下から上昇してきたマグマが固まり、その後の侵食により周囲の岩石が削り取られてこの岩が残されました。竹野川が運んできた砂が砂州となり、離れ島になっていた立岩とつながっています。縦方向に力強く延びた柱状節理と、周囲の白い砂浜とのコントラスト。
飛鳥時代の「大江山の鬼退治」、伝説によれば、第31代用明天皇のお后間人(はしうど)皇后第3皇子麿子親王 (第2皇子は聖徳太子)が 鬼を岩に封じ込めました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。今でも風が強く、波の高い夜などは鬼たちの号泣する声が聞こえるといわれています。

美山かやぶきの里

京都府のほぼ中央に位置する 南丹市美山町は、福井県など日本海沿岸の町から京都市へと続く「西の鯖街道」の経由地として栄え、今もかつての街道の面影を残しています。町内には数多くのかやぶき民家が現存 「北」集落には50戸のうち39棟がかやぶきの屋根です。

愛宕ものがたり~愛宕神社と月輪寺

京都浪漫 悠久の物語  第125回 愛宕ものがたり~愛宕神社と月輪寺
BS11 2023年7月 初回放送

愛宕神社

京都市内にそびえる 標高924mの愛宕山の山頂にある 愛宕神社、全国約900社からなる愛宕神社の総本社で「火伏せの神」として信仰が厚い。
大宝年間(701~704年)に修験道の祖とされる役行者と加賀 白山の開祖として知られる泰澄が 天狗(愛宕山太郎坊)の神秘的な力に触れ、朝廷の許しを得て 山城国で 最初に日が当たる 朝日峰(愛宕山)に神廟を開きました。
京都市内から愛宕山への入口となる 嵯峨鳥居本は 愛宕山の門前町として栄えてきた。
愛宕神社 一の鳥居 近くに400年続く 鮎茶屋「平野屋」がある。上り亀石があって 道中の安全祈願します。亀のようにゆっくり着実に登りなさいという意味がある。神社の起点で霊峰まで50丁(約5.5キロ 、1丁=109m)。
清滝から登る表参道月輪寺を経由する月輪寺参道、ゆずで有名な水尾から表参道に合流する水尾参道、首無し地蔵に抜ける裏参道などたくさんあるが 今回は表参道を上ります。
表参道の登り口は清滝トンネルの先の清滝集落から。トンネルができる前は 試峠を越えていました。
この峠で愛宕山まで登れるか試したそうで 古典落語にも出てくる。清滝川で身を清める。
愛宕神社 二の鳥居
一丁目毎に地蔵様の形をした丁石が建っている。17丁目には火燧ひうち権現の社の跡が残り ここにも 火の神様が祀られていた。途中 1丁ごとにあったといわれる茶店兼宿泊所だった茶屋跡が残る。30丁目からは眼下に京都市街が広がる。
水尾別れの休憩所 亀岡市や南丹市からの登山口 水尾 からの合流地点。その先に ハナ売場 樒 (しきみ)という植物を売っていて、かまどのそばに樒をさしていて 1日1枚火に焼べると火よけの御利益があるといわれた。
44丁目のがんばり坂を越えると黒門 ここから白雲寺の境内でした。
50丁目 に到着。
弘法大師 空海の師とされる 慶俊和気清麻呂が 唐の五台山にならい、朝日峰の愛宕権現白雲寺・大鷲峰の月輪寺・高雄山の神護寺・竜上山の日輪寺・賀魔蔵山の伝法寺を建立した。
朝日峰に建立された白雲寺には 愛宕権現が祀られ 鎮護国家の道場となり、平安時代には山岳修練のお寺として発展、修験道七高山の一つとされ、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。白雲寺六坊と呼ばれる6つの坊が建ち並んでいたという。
愛宕神社は明治の廃仏毀釈で 坊は取り壊され 一部は社務所に。
急な石段を登ると 銅鳥居が建っていて その先に神門 最後の石段を登ると 拝殿本殿 が建つ。
本殿には 稚産霊神(わくむすひのかみ)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)が祀られている。
若宮に 雷神(いかづちのかみ)、迦遇槌命(かぐつちのみこと)、破无神(はむのかみ)を祀る。
火伏せの神 迦遇槌命は 愛宕神社の祭神 実は母神の伊弉冉尊(いざなみ)が出産時焼け死んでしました。一説には「仇子 あだご」からきているとも。
「火迺要慎」(ひのようじん)のお札。
愛宕太郎坊権現を描いた大絵馬が、愛宕神社に奉納されています。現在の絵馬は2015年に京都愛宕研究会によって奉納されたもので、元の絵馬は、伊達政宗の家臣であった片倉小十郎重綱が大坂の陣の前に勝軍地蔵に祈願し奉納したものです。
参拝後は、下り亀石に詣り 表参道を通らずに月輪寺方面へと下る。

月輪寺(つきのわでら)

40~50分で月輪寺へ 、月輪寺は慶俊僧都により中興された。この時地中から 「人天満月輪」と刻まれた鏡が出てきたので 月輪寺といわれる。塔頭や宿坊が並んだ境内も今は2つの堂が残るだけ。戦後荒れ果てた寺を住職の両親が入寺し再興しました。本尊は阿弥陀如来像(御前立て)。
月輪寺は若き日の空也上人が慶俊僧都を慕い籠もって 悟りを開いたところ。かつて空也院があった。
空也上人が修行した際 観音様のお告げで龍神を救い お礼として授かったという伝説の「龍奇水」今も大事な飲用水です。空也上人は修行の後 都で六波羅蜜寺を創建したと伝えられる。
宝物殿には重要文化財に指定されている仏像がずらりと祀られています。本尊の阿弥陀如来坐像、空也上人立像(空也上人の自作といわれ 六波羅蜜寺の像との違いはお口からでる「南無阿弥陀仏」が2列)
月輪寺には空也上人のほかにも有名な僧侶たちが訪れたと伝わっています。
三祖師堂には、法然上人・親鸞聖人・九条兼実の3人が自らを刻んだという像が祀られています。九条兼実は鎌倉時代に源頼朝と結び摂政・関白となった公卿です。晩年、出家し、月輪寺に隠棲したことから『月輪殿』と呼ばれました。
境内には3人とゆかりのある時雨桜があります。法然上人が讃岐に流される際、親鸞聖人と共に月輪殿を訪ね名残を惜しんで記念に植えたと伝わります。時雨桜は江戸時代の都百景にも選ばれています。
白州正子さんは月輪寺の空也上人立像や千手観音立像を愛し 何度か訪れている。

千日参りは正式には千日通夜祭(せんにちつうやさい)といい、7月31日夜から8月1日早朝にかけて参拝すると千日分の火伏・防火の御利益があると云われ、毎年数万人の参拝者が訪れます。当日、麓の清滝から山頂の愛宕神社まで 明かりが翌朝まで点灯されます。

昭和4年~19年まで 嵐山駅から清滝駅までの鉄道と、清滝川駅から 山頂近くの愛宕駅までのケーブルカーを稼働していました。ホテル 遊園地 スキー場を運営していたが 世界恐慌 第二次世界大戦などで廃止された。その遺構が残っている。

夏の京都~花咲き誇る 詩仙寺

京都浪漫 悠久の物語 第150回 夏の京都~花咲き誇る寺院を訪ねて~
BS11 2024年7月14日 放送
フォトジェ二ックな夏の京都の風景を求めて花の寺を巡る。

詩仙堂丈山寺

徳川家康に仕えた 石川丈山(1583年~1672年)が 晩年 詩仙堂を造営。90歳で没するまでの約30年間、悠々自適の生活を送り、漢詩や書、作庭に励んだと伝えられる。
詩仙堂は、正しくは 凹凸窠(おうとつか)と呼ばれ、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。詩仙堂の入口にある小さな門 小有洞(しょうゆうどう) をくぐると、木漏れ日の注ぐ石段があります。石段を登ったところには 老梅関 があり、そこをくぐると詩仙堂の建物があります。その先には情緒あふれる唐様庭園が広がり、庭園も散策することができます。庭園には鹿おどしの心地良い音が響き、四季折々の風景を楽しみながら散策できます。
石川丈山が林羅山と選んだ 中国の詩人三十六人を絵師の狩野探幽が描き人三十六人の肖像画があり、各詩人の肖像画には石川丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。
四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としていることから、現在は「詩仙堂」と呼ばれています。

「蓮の寺」法金剛院

平安時代に右大臣 清原夏野が 山荘を建てた場所を寺に改め 双丘寺(ならびがおかでら)と改められたのがはじまり。当時から花が多く 嵯峨上皇らが行幸された。青女の滝(せいじょのたき)を中心とした回遊式浄土庭園です。極楽浄土には、青、黄、赤、白色の大きな蓮の花が咲いているということに因み、4色の蓮の花が法金剛院に集められ 「蓮の寺」とよばれています。四季を通じて美しい花を見せる花の寺として知られ、特に春の待賢門院桜夏の蓮に人気があります。
974年火災に遭い衰退したが 鳥羽天皇の中宮 待賢門院が復興し法金剛院とした。
仏殿 地蔵堂には、国宝の本尊阿弥陀如来坐像、十一面観世音菩薩(重文)など多数の仏像が安置されています。

「花風鈴」が人気 正寿院

お茶の町 宇治田原町に およそ800年前、飯尾山医王教寺の塔頭寺院として建立されたと伝えられています。客殿「則天の間」にはハート型の猪目窓があり、窓からは四季折々の景観が楽しめる。。猪目(いのめ)とは、古来から伝わる日本伝統文様のひとつで、約1,400年前からお寺や神社の建築装飾として使用されています。そこには 花と日本の風景をテーマに描かれた160枚の天井画が見事で、寝転んで天井画を見ることができ、写経体験や写仏体験もできる。
7月1日~9月18日の「風鈴まつり」、境内を彩る約2000個の「花風鈴」風鈴の絵描き体験などが楽しめる。宇治の茶畑や山景をバックに揺れる風鈴は、涼やかな音色と可愛らしい見た目で参拝客を癒してくれる。花風鈴小径では、季節に合わせて紫陽花・向日葵・コスモスをあしらった風鈴が頭上を囲む。

六地蔵めぐりと地蔵盆 ~大善寺 上善寺 壬生寺 あだし野念佛寺

京都浪漫 悠久の物語 第128回 六地蔵めぐりと地蔵盆~大善寺・上善寺・壬生寺・あだし野念佛寺
BS11 2023年8月 初回放送

六地蔵めぐり 発祥の地 大善寺

京都は古くから 地蔵菩薩信仰が盛んな街で、8月後半 「六地蔵めぐり」や「地蔵盆」が行われます。
六地蔵めぐり発祥の地と言われている京都市伏見区にある大善寺。平安時代初期、嵯峨天皇に仕えた 公卿 小野篁(たかむら)が、熱病を患い仮死状態となって 地獄に落ちて苦しむ人々を六道を巡って救済している地蔵菩薩に出会い「地獄の苦しみと私のことを人々に伝えてほしい」と告げられます。生き返った 小野篁は 1本の桜の木から6体の地蔵を彫り大善寺に収めました。
平安時代後期になると地蔵信仰が高まり、1157年に都を病魔や魔物から守るため、後白河法皇の命を受けた平清盛は、西光法師に都の出入り口となる6カ所に六角形のお堂を建てさせ 篁が彫った地蔵菩薩をまつりました。これが六地蔵めぐりの始まりと言われています。現在、地蔵菩薩は6つの寺院に安置され、地蔵盆の行われる8月22日・23日に巡って無病息災を祈願し、お幡(はた)と呼ばれるお札を授かる六地蔵めぐりが行われます。
地蔵菩薩は いずれも白塗りで鮮やかな装飾が施されて、六地蔵めぐりの2日間のみ 地蔵堂の戸板が外され 直接参拝することができます。各寺に用意されている色違いの「お幡」(有料)6枚まとめて玄関に吊るすと、厄病退散や福徳招来のご利益があるとされています。前年のお幡は、各寺境内に用意された紐に結んだり、古札箱に収めます。
・奈良街道 大善寺 伏見地蔵 お幡(白)
・西国街道 浄禅寺 鳥羽地蔵 平安時代の1182年文覚(もんがく)上人の開基と伝えられいます。境内にある袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)から、恋塚浄禅寺とも呼ばれてる。お幡(黄)
丹波街道 地蔵寺 桂地蔵 桂大納言と呼ばれた源経信の別邸が寺に改められたとされています。桂地蔵は、高さ約2.65mもある一番大きな地蔵で、「大きい=お姉さん」といった意味で 姉井地蔵とも呼ばれてる。お幡(緑)
・周山街道 源光寺 常盤地蔵 嵯峨天皇の第3皇子で左大臣の源常(ときわ)の山莊を寺に改めた。常盤地蔵は6体の中で 一番小さな 1.4mで 地蔵菩薩で乙子(おとご)地蔵とも呼ばれています。「乙子とは末っ子」といった意味で、お幡(紫)
・鞍馬街道 上善寺 鞍馬口地蔵は 明治時代の廃仏毀釈で 深泥池(みぞろがいけ)の畔にあった鞍馬街道近くから移されました。姉子地蔵とも呼ばれる。お幡(赤)
お盆の風物詩として有名な 国の重要無形民族文化財「六斎念仏」が奉納される
・東海道 徳林庵 山科地蔵は東海道の守護仏として慕われてきました。1550年に南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が開創した。お幡(青)

新選組ゆかりの壬生寺

新選組ゆかりの壬生寺(みぶでら)。近藤勇や沖田総司ら隊員たちはこの境内で訓練し、時には子供らと遊んだ。991年に快賢僧都により創建された律宗(りっしゅう)の寺院。中興の祖である円覚上人が身振り手振りで仏教を広めるために行った融通念仏がもととなった壬生狂言が有名。昭和37年に本堂が全焼し、本尊の地蔵菩薩など多くの寺宝を失った。その後 総本山の唐招提寺から延命地蔵菩薩立像(重文)が本尊として移された。
千体の石仏を安置した千体仏塔がある。これらは明治時代に都市計画のために市内各地から集められたものです。旧本尊である延命地蔵菩薩像(縄目地蔵尊像)は、2020年4月24日に復元され、開眼法要が行われました。お地蔵さまのない町内に地蔵盆の「貸し出し地蔵」を行っている。

あだし野念佛寺

野ざらしの風葬の地であったあだし野(はかない・むなしいの意味を持つ) 六道
あだし野念佛寺は約1200年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。
「あだしの」は「化野」と記し「あだし」とははかない、むなしいとの意味がある。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となった。
境内には死者が生まれ変わる6つの世界 六道を巡って衆生の救済にあたる地蔵菩薩が多く祀られている。竹林の小径の奥に祀られるのは六角形のお地蔵様「六面体地蔵」
多くの石仏・石塔は 何百年という歳月を経て、あだしのの山野に散乱埋没していた。明治中期に地元の人々の協力を得て極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。賽の河原に模して 西院の河原と名付けられた。8月の最終土日に 約8000体の石塔、石仏に灯明を捧げる千灯供養は夏の嵯峨野の風物詩になっている。愛宕古道街道灯しは二十年ほど前から来訪者を迎え入れるため、地域の地蔵盆を盛り上げるため、古い町並みが残る街道沿いに、手作りの小さな行灯の灯りを点したのがはじまりです。

百万遍から神楽岡へ

BS11 2023年9月初回放送 京都浪漫 悠久の物語 京都市左京区にある吉田山周辺を散策
第129回 百万遍から神楽岡へ~庶民に寄り添う知恩寺と女性を救う真如堂~

百萬遍知恩寺

東大路通と今出川通が交差するあたり 京都大学が近くにある。浄土宗七本山のひとつ 百萬遍知恩寺
知恩寺は、法然上人の弟子・源智上人が師の恩徳をしのび、”恩を知る寺”として建立した寺です。
百万遍の由来は1331年 京都の町で大きな地震が起こり 疫病が流行り、多数亡くなり 鴨川の河原に遺体の山ができるほどでした。後醍醐天皇より京都中の寺社に対して「祈祷をし疫病を鎮めよ」と命が下りました。知恩寺の8代目住職 空円上人が、7日7晩 百万回(遍)念仏を唱え続けたところ、疫病が鎮まり、「百万遍」という称号を天皇から賜った。念仏を唱えながら大念珠を繰る「百万遍念珠繰り」が寺の恒例行事となっています。

吉田山 茂庵 田舎席

百萬遍知恩寺を東へ向かったところにある吉田山神楽岡(神が集いし岡)と呼ばれ親しまれている、茂庵(もあん)は大正時代の建物を利用した 懸造が特徴的な 山上のカフェ。運輸業で財を築き,数寄者としても知られた谷川茂次郎が 吉田山山上に茶席の場として建築した建物群で 国の登録有形文化財に指定されている。西側に京都市内、東側に大文字山の絶景が一望できます。旧点心席,田舎席,静閑亭,待合が現存している。

真正極楽寺 (真如堂)

真如堂は 天台宗の寺院で、正式には真正極楽寺、正真正銘の極楽の寺という意味がある。
比叡山の戒算が、常行堂の本尊阿弥陀如来(慈覚作)を円融天皇の女御で一条天皇の生母である東三条院(藤原詮子)の離宮に安置したのが始まり。女人を救う仏で「うなずきの弥陀」という別称で庶民に親しまれ、毎年11月15日に開扉される。安倍晴明の念持仏と伝わる本尊脇侍の不動明王像、不慮の死で閻魔大王の裁判を受けることとなった晴明を不動明王が現れて乞いをし 閻魔大王は晴明に 天寿を全うでき 死後にこの印を持ってきた者は必ず極楽往生できる五行之印(決定往生の秘印)を授けた。桜・紅葉の名所としても有名である。

京都 花ごよみ~妙蓮寺・楊谷寺・勝林寺・八大神社~

BS11 2023年10月初回放送 京都浪漫 悠久の物語
第131回 京都 花ごよみ~妙蓮寺・楊谷寺・勝林寺・八大神社~

妙蓮寺

妙蓮寺は、鎌倉時代に開かれた法華宗の寺。日蓮聖人の孫弟子 日像聖人によって創建された。
四季折々の花が咲くことから「花の寺」としても知られ、特に芙蓉が美しい。10月中旬から咲き始め、お釈迦様ご生誕の頃満開になる 御会式桜(おえしきざくら)妙蓮寺椿
豊臣秀吉より贈られた臥牛石を中心とした枯山水庭園 十六羅漢の庭も見事。
長谷川等伯一派の筆による障壁画が 宝物殿に収蔵されています。

楊谷寺

「花手水」発祥の寺として全国から参拝者が訪れる長岡京市柳谷観音楊谷寺
806年 清水寺の開祖 延鎮僧都(えんちんそうず)が夢のお告げにより、西山の地で眼病に霊験あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩を見つけられ、その仏様を御本尊に創建された。
西の清水とも謳われ、柳谷観音は、眼病平癒の祈願所として、平安時代より天皇家公家を初めとする眼病に悩む人々に信仰されてきました。
境内にある上書院は、かつて特別な方のみをお通しする茶室として使用されていました。上書院の眼下に広がるお庭は、作庭家 重森三玲が選んだ古都百庭 浄土苑
庫裏の奥に湧き出る 独鈷水(おこうずい) 。平安時代初期、親ザルが子ザルの患った眼を、お寺の水で洗い続けたところ、なんと17日目に小ザルの眼が開いたのだとか。その光景を見た弘法大師空海が、この水を祈祷し、眼病平癒の霊水としたという逸話がのこります。
境内には「龍手水」「苔手水」「庭手水」「恋手水」「琴手水」の5つの花手水があり SNSで人気に。

勝林寺

東山にある 臨済宗東福寺派の大本山 東福寺には、25の塔頭寺院があります。その一つ 勝林寺 は1550年 東福寺第205世の高岳令松(こうがく れいしょう)禅師によって創建された。こちらの花手水は立体的なのが特徴で、花の持つ個性を活かした造形が人気。
勝林寺は東福寺の鬼門に位置し仏法と北方を守ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれています。御本尊の毘沙門天立像は平安時代の作で、長らく東福寺仏殿の天井裏に安置されていた。毘沙門天のお使いにちなんだ“虎”の大襖絵も迫力満点です。
本堂前には美と幸運の神様・吉祥天が宿るという「吉祥紅葉」が植えられ 紅葉名所に。

八大神社

一乗寺にある八大神社、祇園の八坂神社と同じ御祭神を祀っていることから「北天王」「北の祇園社」と称されており、京の東北「表鬼門」に位置し 方除の神として知られています。
剣豪 宮本武蔵が境内地である 一乗寺下り松(さがりまつ) に於いて吉岡一門と決闘し、その決闘の前に奉拝した神社としても知られ、境内には決闘当時の「下り松」古木が祀られています。
境内の参道脇の「鎮守の森」にある、国指定天然記念物の 淡墨桜(うすずみざくら)は、平成5年(1993年)の「八大神社」鎮座700年祭の記念に植えられました。この「淡墨桜」の元の木は岐阜県本巣群根尾村にあり、高さ17m、東西南北の枝張り20mを超える巨大な古木で「継体天皇」が手植えしたと言われています。真っ白の花びらが、満開を過ぎて散る頃には、うっすらと墨色に変わるのでこの名が付けられました。

秋の高雄 写真家と訪ねる紅葉の名刹

BS11 2024年11月初回放送 京都浪漫 悠久の物語 第157回 秋の高雄 写真家と訪ねる紅葉の名刹
京都市の西北に愛宕山から連なり それぞれ山号に「尾」がつくことから、三尾(さんび)と呼ばれる 高雄山神護寺槙尾山西明寺栂尾山高山寺という古刹がある。

高雄山 神護寺

高雄山の中腹に建つ真言宗の 神護寺。平安京造営に功績のあった和気清麻呂が愛宕山を中心に 五つの寺院が建立された一つで、後に神願寺に合併され、「神護国祚真護寺」と称したのが始まりです。和気一族は、叡山の最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いた。弘法大師は唐より帰朝して、入山 真言宗立教の基礎を築いた所でもあります。
空海の住房を復興 再建した大師堂には 板彫弘法大師像がある。金堂の本尊の薬師如来像高雄曼荼羅など 平安時代初期から鎌倉時代初期にわたる多くの寺宝を所有。「日本三名鐘」のひとつとされる梵鐘でも名高い。錦雲渓(きんうんけい)の雄大な眺めも素晴らしい。その渓谷に「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器を投げて厄除けをする「かわらけ投げ」も楽しむことができる。

唐から戻った空海が活動拠点とした神護寺では、錦雲渓からの絶景を紹介。また、国宝・鳥獣人物戯画が有名な高山寺や空海の甥が創建した西明寺では、連綿と寺に伝わる歴史を紐解く。

槙尾(まきのお) 西明寺(さいみょうじ)

清滝川を掛かる指月橋を渡って入る西明寺は弘法大師の高弟の智泉により神護寺の別院として開創された。平安時代の末期に荒廃しましたが、鎌倉時代に我宝自性上人が中興しました。
1290年 後宇多天皇より名前を賜り、神護寺から独立した。現在の本堂は、徳川代将軍綱吉の生母 桂昌院が、寄進したものと伝えられ、正面の須弥檀(しゅみだん)に本尊の釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)が祀られている。この像は、高さ51cmの小像で、清涼寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来像を模して、鎌倉時代に運慶によって作られたものである。

栂尾(とがのお)高山寺(こうざんじ)

栂尾山 高山寺は奈良時代創建の古刹、鎌倉時代に明恵上人が後鳥羽上皇の帰依を得て再興した。非常にたくさんの国宝や重要文化財がある。
国宝「鳥獣人物戯画」が所蔵されている。鳥や獣、人間を戯れに描いた絵という意味で、甲巻・乙巻・丙巻・丁巻 4巻あり 全長44mも誰が何のために書いたか不明。明恵上人の樹上座禅像も国宝で、お釈迦様に近づきたいと右の耳を切って耳なし法師と呼ばれた。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があった。これが宇治茶につながった。
「女ひとり」に歌われた高山寺の石畳 は 参道の階段を上りきったところに ひし形の石畳が連なる。