BS朝日 2024年2月1日OA
あなたの知らない京都旅~1200年の物語~ 京の通りをゆく 三条通でタイムトラベル を見ました。
東海道五十三次の終点 三条大橋から渡月橋までの三条通を歩いた。三条大橋袂の老舗、新選組、明治・大正・昭和初期 のモダン、平安時代、六角堂、坂本龍馬、秦氏など 聖徳太子の時代から現代までの史跡があった。
京都に旅に行けたらいいなとメモにしました。
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京の通りをゆく 三条通でタイムトラベル
BS朝日 2024年2月1日OA あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
中村雅俊さんが らくたび 山村純也さんの案内で三条通から西の終点 渡月橋まで散歩しました。
お通り男史 京の町に邪悪な悪霊が入らないように道を守る「道神」をキャラクター化した。
東西組通神の三条も登場。
平安京の三条大路は 幅24mもあった。現在は 幅が細くなっても 残っている。
・三条大橋:2024年1月16日改修完了、1590年 豊臣秀吉の命で石柱の橋に大改修され 江戸時代 東海道五十三次の起終点だった。
・高山彦九郎 皇居望拝之像: 鴨川 三条大橋の東に現在の群馬県太田市出身で江戸時代後期に活躍された尊王の思想家 高山彦九郎が皇居に向かって拝礼している。
・弥次喜多像:東海道五十三次の起終点
・三条大橋 高札場跡:かつて三条河原は処刑場でした。豊臣秀吉の甥で のちに養子となった秀次は関白になりながら、秀頼が誕生したことで 謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれ 縁故の者39名が三条河原で処刑された。
・瑞泉寺:そばを流れる高瀬川開発の際 角倉了以が豊臣秀次らを弔う塚を発見 供養のために建立した。
三条大橋たもとにある老舗
・桔梗利 内藤商店:200年続く 創業は文政元年(1818年)の老舗で 天然素材を使ったホウキや棕櫚タワシを売っている。
・本家 船はしや: 明治38年創業 五色豆・あられ・おかきの老舗
・三条小橋:高瀬川にかかる橋
・小刀屋忠兵衛:江戸時代 1656年に旅篭屋として創業し、現在は京雛人形や祇園祭 長刀鉾のミニチュアを販売。当時のことを記録した古文書「八朔御馬」(毎年 旧暦8月1日 江戸将軍家から御所へ駿馬を献上していた)など残っている。
幕末 この周辺に長州・土佐など藩邸が多くあり事件があった
・池田屋騒動之址
・池田屋はなの舞 :旅籠 池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の新選組が襲撃した事件があった。池田屋の大階段や帳場などが残る。現在は飲食店で新選組をイメージしたメニューがある。館内見学のみでも可。
河原町通越え
寺町通~烏丸通 明治・大正・昭和初期 近代を感じるエリア
・1928ビル:名前の通り 1928年竣工のモダンな建物で 毎日新聞京都支局が入っていた。星形のバルコニーがある。
・家邊徳(やべとく)時計店(家邊家住宅):時計貴金属商として明治4年に創業され、煉瓦造2階建ての店舗部分は明治23年に建てられた。奥には住居棟が建つ。3連アーチが特徴で現在はテナントとして活用されている。修学院離宮が描かれた当時の金庫やらせん階段が残る。
・SACRAビル:大正時代 不動貯金銀行 京都支店のレトロなビルでテナントが入っている。
・京都バスケットボール発祥の地:石碑
実はメインストリートが昭和初期に四条通に変わったため 多くの建物が残っていた。
・京都文化博物館 別館:日本の近代建築の祖ともいうべき辰野金吾とその弟子が設計し、明治39年に竣工した日本銀行京都支店の建物です。
・中京郵便局:日本最初のファサード(外壁をそのまま保存)建築で ネオルネッサンス様式の建物は、昔の建物の雰囲気を残したまま中を改装した。
平安時代の遺構
・弁慶石:武蔵坊弁慶が愛してやまなかったと伝えられる石と石碑。この辺で生まれた弁慶は源義経とともに奥州平泉で命をお落とし。こに戻された。弁慶石には様々な説がある。弁慶石町という地名も実在する。
・三条西殿・三条大路跡:説明書によると、北は姉小路通、南は三条通、東は烏丸通、西は室町通に囲まれた一帯は、平安時代後期の皇族や有力貴族の高級住宅街だった。白河法皇、鳥羽上皇時代 三条西殿は院政時代の政治の中心地でした。
・三条烏丸御所跡:鳥羽法皇の御所
・石黒香舗:平安時代から使われた匂袋を扱う老舗、自分の好みの香りでオリジナルの匂袋を作れる。香りが薄くなったら中身だけ入れ替えてくれる。
・頂法寺(六角堂):587年に聖徳太子により建立された。本堂を真上から見ると屋根が六角形をしているため 「六角さん」とか「六角堂」と呼ばれる。
・へそ石:もとは寺の門前の六角通にあったが 明治初期に境内へと移された。平安京造営の際、本堂の位置に道を通すことになり、桓武天皇が「少し動いてください」と祈ったところ、一夜にして本堂が約15m北の現在の場所へ移動し、あとには礎石がひとつ残されたという。江戸時代の『都名所図会』には、へそ石が寺の門前に描かれている。六角堂は都のほぼ中心に位置し、祇園祭の山鉾巡行の順を決める「くじ取り式」も江戸末期まで六角堂で行われていた。
烏丸通から堀川通に向かって進むと かつて室町幕府の花の御所があった室町通や 千利休考案の茶釜などが作られた釜座通が交差。
堀川通から千本通まで800mもアーケードが続く三条会商店街
・ブラザーベーカリー:あんこ系のパンを購入。
・八坂神社又旅社:赤い鳥居がある神社は祇園祭と深いゆかりがある。66本の鉾を建てた神泉苑に八坂神社(祇園社)の神輿を送り疫病退散を願った 祇園祭、ここは広大だった神泉苑の南端で 今も祇園祭後祭の還幸祭では必ず神輿が立ち寄るという。
・フルーツジャンキー Fruits junkie:リンゴ飴専門店 抹茶とビターキャラメルを堪能!
坂本龍馬 愛を育んだ神社
・武信稲荷神社:平安時代初期より子供の命名 姓名判断に全国から大勢の人々が訪れる。境内の榎の御神木は健康長寿と縁結びの御利益がある。坂本龍馬と妻 おりょうにまつわる逸話(おりょうの父が神社近くの牢屋にとらわれていた時、龍馬はこの榎に登りおりょうの父の様子を見に来ていたそうです。 そのとき龍馬は、後に訪ねてくるはずのおりょうへの伝言としてエノキの幹に「龍」の文字を彫ったといいます)
千本通を越え西大路通へ 嵐電という路面電車走る交差点
三条通を走る嵐電に乗り 山ノ内駅を過ぎ 三条通と嵐電がカーブし始めるあたりが平安京の西の端。洛外に出る。
・山ノ内猿田彦神社 (山ノ内庚申)
道は直線でなくなる。
・養蚕神社(蚕ノ社):平安京ができる前から 京で栄えた 秦氏ゆかりの地。森が島のように遠くから見えた「木嶋座天照御魂神社(蚕ノ社)」鎮守の森で、創建に関わった秦氏が養蚕の技術に優れていた。京都三珍鳥居の一つに数えられる三柱鳥居(3つの鳥居を正三角形に)が鎮座している。
秦氏は土木の技術を生かし 桂川や京の西の地域を整備した。太秦という名にもなり聖徳太子も秦氏を頼りにしていた。
・渡月橋:三条通のゴールが渡月橋。平安時代の貴族が癒やしを求め訪れたのが 嵐山嵯峨野でした。看板にも三条通がありました。
禁断の扉 特別公開SP
BS朝日 2024年2月22日OA あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
中村雅俊さんが作家丘眞奈美さんと京都ガイド吉村晋弥さんが 貴重さゆえ入ることが許されない 京でも指折りの4つの名所の禁断の扉を開いた。
知恩院 家康の母「於大の方」の菩提寺
知恩院 は法然上人を祖とする浄土宗の総本山で 東山三十六峰のひとつである華頂山のふもとに位置する、7万3千坪の広大な敷地に多くの伽藍が立ち並ぶ。
徳川二代将軍 徳川秀忠が建立した三門(国宝、内部非公開)は高さ24m 幅50m 木造で日本最大級です。外に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上です。楼上からは京都を一望できる。徳川家が朝廷を見張るにはいい感じとか! 二条城がもしもの場合 城にするつもりだった。
内部は 仏堂となっており、中央に珍しい冠をかぶった 宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像が安置され、天井や柱、壁などには幕府お抱えの狩野派が迦陵頻伽(かりょうびんが:上半身は人間、下半身は鳥)や天女、飛龍が極彩色で描かれている。400年前に描かれた彩りが ほぼそのまま残っているのは 閉ざされていたので 保存状態が良かった。
男坂を登り 知恩院の中心的建物 御影堂(大殿)(国宝)は、元祖法然上人の御影(みえい)を祀っています。現在の御影堂は徳川3代将軍家光公によって建てられ、間口45メートル、奥行き35メートルの 巨大な伽藍です。2020年 約9年間に及ぶ大規模な修理を終えた。今回の修理で400年前の姿に蘇った。装飾品や柱に使われた金箔は10cm四方を10万枚以上使用された。
本尊の法然像にお参りし、隣に並ぶ、豪華絢爛な三つの厨子の扉、中央は 伝通院坐像(於大の方)、右は 木造 徳川家康坐像、左は 木造 徳川秀忠坐像を拝見!
知恩院は家康の母「於大の方」の菩提寺です。
平安時代末期に生まれた法然(1133-1212年)は「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えると救われると説いた。知恩院の歴史は法然のなくなった場所に建てられた 小さなお堂 勢至堂(せいしどう)から始まりました。江戸時代徳川家から莫大な寄与により境内が拡がり多くのお堂が建てられた。
廬山寺 光秀の念持仏三尊
廬山寺は 紫式部が育ち 生涯を過ごした所。今年大河ドラマに合わせ ゆかりの品が特別展示されている。普段は非公開の元三大獅堂に祀られている明智光秀の 木を岩窟に見立てた厨子の中に 念持仏三尊が祀られていて 不動明王立像、毘沙門天立像に挟まれた 中央の地蔵菩薩坐像は 女性や子供を護る仏様であり、取り外せ肌身離さず持っていた。
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした際に、同じ天台宗系の寺院だと考え 廬山寺も焼き討ちを光秀に命じた。それを知った正親町天皇が明智光秀に取り次いで、廬山寺の焼き討ちを中止した縁で 光秀の念持仏が廬山寺に伝わっている。
「京の冬の旅」非公開文化財特別公開
・泉涌寺派 別格本山 雲龍院 水墨画家 堂野夢酔による ダイナミックな 龍のふすま絵「双龍風雷図」
・相国寺 塔頭 光源院 日本画家 水田慶泉が描いた 色彩豊かな「一二支の襖絵」
狩野探幽は 江戸初期の絵師で若くして 日本最大の絵師集団 狩野派を率いた天才。
二条城の 国宝二の丸御殿の障壁画をはじめ数々の傑作を残してきた。
・大徳寺 の法堂 には 狩野探幽によって天井に描かれたいつもは非公開の「雲龍図」を拝見!35歳の時に手がけたもので若さや勢いのある筆使いを堪能できる。
・妙心寺の法堂 「雲龍図」も 泉涌寺 仏殿 「蟠龍図」も探幽が晩年に緻密に描いた。
六波羅蜜寺 空也上人像
六波羅は平安時代の終わりに平家一門が本拠地を構え、鎌倉幕府の拠点の1つ六波羅探題があったところ。
平安時代中期に活躍した僧 空也上人が建てたお寺 西光寺が 名を改め 六波羅蜜寺 になりました。
本堂で御本尊にお参りした。足利尊氏が奉納した厨子には 秘仏の十一面観音菩薩立像(御前立)。
空也上人が1070年ほど前 京に悪疫が流行ったときに この本尊の造顕を願われた。一説には醍醐天皇の第2皇子で 高貴な身分を捨て 民衆のために尽くしたといわれる。「捨ててこそ」
空也上人は自ら彫った十一面観音菩薩立像を車に乗せ 市中を廻り 念仏を唱えた。その仏が御本尊です。
隣の令和館にて、逸話の通り念仏を唱え、歩いているかのような姿をされた「空也上人立像」を拝見!像の中で最も特徴的な口元は、南無阿弥陀仏という六文字を六体の仏様で表現している。鎌倉時代の仏師 運慶の四男 康勝作。
さらに、像ができる200年前に描かれたという軸「開山 空也上人像」を見せていただいた。この絵は空也上人の弟子 中信上人が描いたもので像の原点だった。口元の仏様が 文字だけ違っていた。
嵐電でめぐる嵐山と映画の聖地
BS朝日 2024年2月29日OA あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
嵐電でめぐる嵐山と映画の聖地、今回は、中村雅俊が嵐電に乗り込み、各地の名所をめぐる!
嵐山本線 嵐山駅
通称 嵐電(らんでん)と呼ばれる 京福電気鉄道
嵐山本線は四条大宮駅から嵐山駅までの13駅、途中の帷子ノ辻駅 から 北野白梅町駅までの北野線 。
700円の1日フリー切符を購入。嵐山駅は壁・天井・柱 は竹で作られています。
駅のホームに 足湯があります。嵐山には温泉があります。
鹿王院駅 鹿王院
室町幕府3代将軍 足利義満が1379年に建立した 鹿王院。夢の中で「寺を建立すれば寿命が延びる」とお告げを受けた義満は、延命を願って鹿王院を開いたそうです。創建当時のまま残る山門には「覚雄山」と描かれた扁額は足利義満の自筆です。
庫裡に入ると、庭園の奥に見える建物 舎利殿 は、お釈迦様の御遺骨(仏舎利)を祀るお堂で、金閣寺とよく似た雰囲気であることから、元金閣と呼ばれる。
金閣寺は正式名称を鹿苑寺といい 、これは「鹿の王」はお釈迦様の前世で 足利義満が「鹿」という字を重んじた。
車折神社駅 車折神社・芸能神社
車折(くるまざき)神社は 駅の目の前にある。御祭神は、平安時代後期の儒学者・清原頼業(きよはら よりなり)。頼業の廟がこの地に設けられた。鎌倉時代 後嵯峨天皇が大堰川への行幸の際 牛車の轅(ながえ)が折れ動けなくなったので 調べてみたところ頼業の廟があったことから、ご神威を畏れ「車折大明神」の御神号と正一位を贈られました。
さらに「よりなり」という響きが「(商売が)より成る」に通じることから、商売繁盛を願う人もあとが絶えません。
石と縁の深い車折神社、願いが叶うパワーストーンとして人気の「祈念神石のおまもり」を授かり、お守りを両手にはさみ、願いごとを強く念じながら参拝した後、財布やかばんなどに入れて肌身離さず持ち歩きます。願いごとが叶ったら、車折神社 以外で石を一つ拾い、お礼の言葉を書いて神社に納めます。
日本にいる全ての神々を祀る八百萬神社。
境内にある 末社の 芸能神社 に祀られている 天宇受売命(あめのうずめのみこと)は天照大御神が天の岩戸に入ってしまった時に天の岩戸の前で舞を踊り 引き籠った天照大御神を外に出した神様です。
芸能・芸術・技芸上達のご利益がある。
太秦の撮影所で働く映画関係者らの要請で八百萬神社から分祀 昭和30年代に社殿が建立された。社殿の周りや参道に朱色の玉垣 4千枚以上奉納されている。には、誰もが知る俳優やアイドル、お笑い芸人、アニメの登場人物まで!“推し”の名前を探すのも楽しみです。
『枕草子』の作者 清少納言をまつる 清少納言社。祭神と同じ清原家の出身というご縁から、この地にまつられています。
帷子ノ辻駅 大映通り商店街
帷子ノ辻駅(かたびらのつじえき)からは 北野線が出ている。
日本映画の発展と共に栄えてきた大映通り商店街は 時代劇の役者も歩いています。
三吉稲荷神社(映画神社)は日活太秦撮影所の建設時に見つかった二つの御神体を合わせて祀っているそうで、境内に映画関係者が願掛けした絵馬があった。
松竹撮影所へ特別に入らせていただくことに!およそ40年前、中村はこの場所で人気時代劇「必殺渡し人」を撮影したとのこと。
京都モダン建築の旅
BS11 2024.3.18 京都浪漫 悠久の物語
第142回 もっと気軽に!京都モダン建築の旅~名建築の知られざる物語~
昭和初期にかけて建てられたモダン建築、京都の街に数多く点在。
■同志社大学今出川キャンパス:アメリカ人宣教師のグリーンなどが設計した レンガ造の建物学舎や礼拝堂など5棟が重要文化財に指定されています。クラーク記念館のチャペルは、二つの部屋に仕切られ 別の天井になっていたが 修復で元通りの船底天井が再現した。
■無鄰菴(むりんあん):明治の元勲である山縣有朋の別荘。敷地内に建つ洋館は、日露戦争開戦前の外交方針を決める 無鄰菴会議が行われた場所。東山を借景に七代目小川治兵衛により作庭された。折上格天井や金碧障壁画が輝く応接間が見どころ。
■京都鉄道博物館:現存する国内最大級・最古の鉄筋コンクリート造りの機関車庫が見られる。ずらりと並ぶ蒸気機関車は圧巻の美しさ。
■駒井家住宅:遺伝学の研究者として知られる駒井卓博士の住まいだった。名建築を数多く手掛けたヴォーリズによる設計で、住みやすさに配慮したこだわりが随所に見られる。
水谷豊がめぐる嵐山SP
BS朝日 2024年4月4日 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
俳優の水谷豊さんが、嵐山を「絶景」「歴史」「食」の3つの面から深堀り。
・星のや京都‥かつて江戸時代の豪商 角倉了以が別荘を構えた場所でした。
「空中茶室」や部屋から大堰川を望む絶景を堪能出来ます。宿の船着き場から船に乗り 渡月橋まで平安貴族も楽しんだ舟遊びを体験出来ます。
・清凉寺 ‥ 本尊の釈迦如来立像は奝然(ちょうねん)が宋で作らせたもので 37歳の時の釈迦を掘ったもので 生き写しの顔と言われます。この釈迦の特徴は 身体に張り付くような衣が同心円状で、彫りが深い顔で、髪の毛が縄を巻いたよ清凉寺式といわれる。1000年の前の 釈迦如来立像の体内から五色の絹による内臓模型(五臓六腑)が見つかったそうです。清凉寺は光源氏のモデルとされる 嵯峨天皇の皇子で左大臣に上った 源融(みなもとのとおる)の山荘跡に建立されました。阿弥陀如来像は亡くなる前に源融自らが自分の顔に似せて作らせたといわれるため、「光源氏写しの顔」の伝説を持っています。
・大河内山荘庭園‥百人一首で有名な小倉山の南面2万㎡の斜面を敷地に持つ。昭和の大スター 大河内傳次郎が30年もの歳月を掛けて作り上げた美しい庭。桜や楓が多く植栽された園内からは、嵐山に保津川の清流、比叡山や京の町並みなども眺められます。
・京都吉兆嵐山本店‥もとは明治初期に建築された事業家の別荘だった。絶品料理を味わう。
(終)
金閣寺と花の社
BS朝日 2024年5月30日 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
滅多に撮影が許されない金閣寺に、特別にカメラが入ることが許された。檀れいさんが、金閣寺をはじめ数々の京の名所に絵を奉納している日本画家の森田りえ子さんの案内で旅をします。
平安京遷都とともに創建された城南宮
城南宮は平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建された古い神社で、方除けの神として信仰を集めている。鳥居の中央に 太陽と月と星を組み合わせた 三光の御神紋があります。
平安、室町、桃山、城南離宮の庭と趣向が凝らされた庭園「楽水苑」は、「源氏物語花の庭」として親しまれ、季節ごとに美しさが楽しめる。「春の山 」白やピンクの 枝垂れ梅が咲き誇ります。毎年2月から3月にかけて「しだれ梅と椿まつり」が行われています。「平安の庭」では小川に杯を流し和歌を詠み御酒を頂く「曲水の宴」が、毎年春と秋の2回行われます。「室町の庭」は武家好みの庭で藤の花。
そしてむすび殿で 三光の御神紋にちなみ 森田さんが奉納した4枚の絵馬を間近で見せていただいた。
金閣寺(正式名称 鹿苑寺 ・相国寺の塔頭寺院)
鏡湖池の畔に建つ 金閣寺。普段は立ち入り禁止のルートから特別に見せていただくことに。
元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。金閣寺は舎利殿で 中には入れません。
昭和62年秋、漆の塗替えや金箔の張替え、更に天井画と義満像の復元を行いました。屋根の上の鳳凰も光り輝いています。
■正面から見ると 階層ごとに様式が異なる珍しい建物です。
一層の法水院(ほっすいいん)は 平安貴族の寝殿造で白木造りで 金箔は貼られていません。 宝冠釈迦如来像、と足利義満坐像が安置されている。
二層の潮音洞(ちょうおんどう)は、武家造りで 床や壁が黒漆で 安置されている 岩屋観音坐像と四天王像が床に映る。
三層の扁額には「究竟頂(くっきょうちょう)」とある。禅宗仏殿造で 床は黒漆で塗られていて、天井と壁は金箔が貼られてている。中央には仏舎利(仏の遺骨)を安置してあり、花頭窓から光が差し込む。
鹿苑寺庭園 の中心は金閣・舎利殿の前に広がる大きな池泉回遊式庭園 鏡湖池 約6,600平方メートルの中に鶴亀島、葦原島などの大小の島々や、当時の大名が寄進したことから名付けられた畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が配され、神仙蓬莱の世界が表現されています。
滅多に入ることができない方丈。金閣寺(鹿苑寺)の御本尊 聖観音菩薩像や後水尾天皇が植えたと伝わる椿「胡蝶侘助」、足利義満の盆栽が始まりの「陸舟の松」。
金閣寺に奉納された森田さんの杉戸に描かれた絵と対面。実はこの絵、江戸時代に活躍した絵師 伊藤若冲の大書院障壁画の影響を受けて 虫食った葉を描いている。現在は金閣寺の本山寺院である相国寺内の「承天閣美術館」に保管されています。
京料理の名店「木乃婦」。細長い露路に一歩足を踏み入れれば、そこには非日常的な空間が。入り口には、春をイメージしたという森田さんの絵が飾られていました。