世界遺産「京杭大運河」 洛陽➡江南・北京、北京➡まっすぐ江南へ
ドラマの「永楽帝~大明天下の輝き~」や「康熙帝~大河を統べる王~ 」黄河で洪水があったり、物資輸送のため運河を切り開いています。
ウィキペディア やネットであちこち検索させて頂きました。
長田格 (著)「中国の世界遺産 大運河: 巨大世界遺産の大運河の歴史、構成物件をめぐる」
NHK BSP 2023.11 OA 「世界遺産いただきます 中国大運河」では現代の高速道路だった運河
も参考に地図にマーキングしました。
中国は広大で 中国語 読めなく わかりずらく、何も判らないばーちゃんが 黄河や京杭大運河 と描かれているところを ザッと結んでみました。複数運河があったり 見失ったり 正しいか判りません。違っていたら ゴメンナサイ。自分用に 模式図作ってみました。こちらも間違っていたらご容赦ください。
GoogleマップでWeb旅行!NHK BSP 万里の長城&大運河 は(こちら)
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中国の南北を結ぶ世界遺産「京杭大運河」
判りづらいづらいので my分類しています。Googleマップ 運河をザッとなぞってみました。
A 京杭大運河は中国の北京から杭州までを結ぶ大運河で、黄河と長江を横断している。
北から 昔の名称で呼ぶことがある。
(A1) 通恵河 北京~通州区(北京)
(A2) 北運河 通州区(北京)~天津 ➡渤海湾
(A3) 南運河 天津~聊城(臨清) 黄河と天津を結ぶ 永済渠の一部、曹操が元となる 平虜渠掘る。
(A4) 会通河 聊城~台児庄
(A5) 中運河 台児庄~淮安 淮河 ➡ 東シナ海
(A6) 淮安運河(山陽瀆)(邗溝) 淮安~揚州 淮河と長江(揚子江)結ぶ
(A7) 江南運河 揚州の長江 対岸 鎮江~杭州
B浙東運河は 杭州~紹興~寧波( 明州) 寧波は 東シナ海に注ぐ甬江に臨み 古くから日本や南海との交易で繁栄。
東晋 西興運河 杭州西興~紹興まで
C隋唐大運河 昔のルートで 北京から杭州まで繋がっていた。現在大部分埋没してしまった。
(C1)通済渠 鄭州~商丘~宿州~淮安 黄河と淮水を結ぶ 鴻溝(こうこう)運河⇒汴渠(べんきょ)
(C2)永済渠 聊城~安陽~焦作 黄河と天津を結ぶ
大運河の歴史
・呉の夫差は 淮河と長江を結ぶ 邗溝(かんこう)A6 淮安~揚州 を造り 北の斉との戦いに兵や食料を送った。
・魏の都であった大梁(のちの開封)から南東に向かって作られた C1 鴻溝(こうこう)運河は黄河と淮河とをつなぐものです。
・秦の始皇帝の造った鄭国渠(ていこくきょ)。大規模な水利工事で秦国を弱体化させる目的で、韓が送り込んだ水利工の鄭国が造った灌漑用の運河で現在も使われている。華中と嶺南を南北に結ぶ霊渠を造り 灌漑用の運河として現在も使われている。
・前漢は長安、後漢は洛陽 の首都に 輸送するため いくつもの運河が造られた。鴻溝は何度か改修され C1 汴渠(べんきょ)といわれるように。
・三国時代 曹操が南運河の元となる A3 平虜渠(へいりょきょ)を掘った。
・東晋 B 西興運河 杭州西興~紹興まで造られた。
・隋を建国した楊堅(文帝)が 豊かな江南地方と首都 大興城(長安)を結ぶ大運河の建設を開始。
長安と黄河を結ぶ広通渠、淮河と長江を結ぶ 淮安~揚州 A6 山陽瀆(さんようとく)、基本的に古くある 邗溝(かんこう)改修した。
604年に即位した二代皇帝 煬帝は 黄河と淮河を結ぶ C1 通済渠(つうさいきょ)を築く。 前半は汴渠(べんきょ)を改修、これによって長江から長安に至る運河が貫通した。
さらに、長江の南岸 揚州~杭州 A6 淮安運河 (江南河)を完成させた。
高句麗遠征のため 黄河と北京付近を結ぶC2 永済渠を開いた。
・元 になり大都(北京)と江南地方を直接結ぶ、南北縦断する運河の建設を新たに開始した。
済州河 徐州の北の茶城から北西に向かい,済州(山東省済寧市)を経て須城県(山東省東平県)の安山に達し大清河(済水の故道) A4 会通河が開かれた。杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれた。元代には海運が発達し 対外貿易を主にし 大運河の重要度は落ちていった。
A1 通恵河 首都大都から通州まで開設された大運河の一部。
明代に入り、さらに永楽帝によって南京から北京に遷都されると、再び大運河の重要度が増した。明は海禁策(貿易禁止、海上交通の禁止)を採っていたため再び内陸水運が見直され、また新たに運河が開鑿された。杭州から北へ進み、淮安→徐州→済寧→滄州→天津とつながる運河ができて、これが現在の大運河となった。南河総督や漕運総督など大運河を管轄する重要な役職や役所が置かれた。
世界遺産 京杭大運河
京杭大運河は中国の北京から杭州まで約2500km結び、世界遺産として登録されているのは、その中でも1011kmの運河と58ヶ所の関連設備などを含む。
(※ 段とは運河のある区間、閘 は水門のこと)
C1 通済渠 鄭州~商丘~宿州~淮安(洪沢湖) 黄河と淮水を結ぶ 北の方は大半埋もれている。
1)河南省 洛陽市 含嘉倉(がんかそう)遺跡、回洛倉(かいらくそう)遺跡は 唐の地下穀倉群であり、400余基に上る巨大な穴倉(あなぐら)が発見されている。
2)河南省 鄭州市 鄭州段
3)河南省 商丘市 商丘南光段、商丘夏邑段
4)安徽省 准北市 柳孜運河遺跡
5)安徽省 宿州市 泗県段
C2 永済渠(衛運河) 聊城・臨清~安陽~焦作(鄭州の黄河対岸) 黄河と天津を結ぶ かなりの部分 埋もれている。
7)河南省安陽市・鶴壁市 滑県~浚県段、黎陽倉遺跡
A1 通恵河
北京は、かつて元の都 大都であった。中心部には 前海、后海、西海の3つの人工の湖があり、通恵河は西海のある 什刹海~通州までの 約50kmを結ぶ。高低差が37mもあり 閘門(ロック)が18もあった。
・北京市 北京旧城段 東便門、澄清上閘、澄清下閘
A2 北運河 通恵河が 燕山山脈から流れる温楡河が 通州区で 通恵河と交差して 北運河と名を変え 天津 の海河までの 186km。海河は渤海湾へ注ぐ。
天津の三岔口は 南運河・北運河と海河・子牙河 が交錯する所。元代の大規模な海上運輸は、直沽(天津)の繁栄を促した。直沽はマルコ・ポーロに「天城」と称された。三岔口は運河運輸の中継所として、かつて多くの舟が集まるところだった。元の時代になると、朝廷は三岔口の両岸に天津天后宮を建てた。
A3 南運河 天津~臨清 黄河と天津を結ぶ 永済渠の一部、曹操が元となる 平虜渠掘る。
・河北省 滄州市・衡水市、山東省 徳州市 滄州 – 徳州段 、連鎮謝家堰(ダム・ 何度も決壊している)、華家口夯土険工(急に曲がる箇所・ 何度か決壊している)
・山東省 聊城市 臨清段 臨清市は聊城市配下の県級市で 西のかつての首都、北の天津、南の山東との 河・運河の交差する交通の要衝でした。会通河の2つの支流と衛運河の合流点。
・臨清運河鈔関は明の時代 運河を通る船から徴税するための税関だった。
・聊城には「中国運河文化博物館」がある
A4 会通河 臨清~台児庄
・山東省 聊城市 陽穀段 張秋鎮 黄河との合流点
・山東省 泰安市・済寧市 南旺水利工程遺跡(こちらにもあり)
南旺は標高が少し高い地帯にあり 水深が浅く 航行が困難な場所だった。北にある大清河は 水が豊富だったので そこに戴村壩(ダム)を築き、南旺まで水を引いた(小汶河)。 徐建口斗門、邢通斗門 の水門を造り 水量を調節した
泰安市には 中国五岳 の一つで 「道教」の聖地 泰山が世界遺産になっている。
・山東省 済寧市 微山段は ほとんど繋がっているような 南陽湖・独山湖・昭陽湖・微山湖・ 段運河の 南4湖 の東側に運河があったが 湖に吸収された部分が多い。利建閘は何度も修復されている。
A5 中運河 台児庄~淮安
・山東省 棗荘市 台児荘段 台児荘古城景区 大きな門には「天下第一荘」と書かれており、古城の中には水路や池が多数あり、船に乗って古城の中を観光することができる。
・江蘇省 宿遷市 宿遷段 は駱馬湖、宿遷市街を廃黄河と平行して流れる。
宿遷龍王廟は清の第6代皇帝・乾隆帝が、都のある北京から南部へ南巡する際に6度も仮住まいとして泊まった場所。最大規模で特に保存状態が良いと言われる。
項王故里 古代中国の英雄項羽の誕生の地に建てられた。
A6 淮安運河(里運河 旧 山陽瀆 邗溝) 淮安~揚州 170km 淮河と長江 結ぶ
・江蘇省 淮安 淮河と京杭大運河の交差するところ。明・清時代には中国大運河で繁栄を極め、淮安、揚州、蘇州、杭州は 運河沿線の「四大都市」に数えられました。約2000年もの間水上交通の要衝だった。
廃黄河 実は 黄河は 淮安市内を流れていた。
清江水門 明は 宋の時代の運河を浚渫し蘇らせた。運河の道筋にもなっている洪沢湖に長い堤防を築き 湖と運河の水位を上げれば 黄河から土砂が流れ込まずになくなるはずと 明から清にかけ モチ米で接着 鉄の杭を打ち 70kmの堤防を築いた。清口水利枢紐遺跡
総督漕運部院遺址公園は漕運を司った総督(転運使)が勤務した役所。
清晏園 は清代の1678年に建てられた淮安で唯一今に残る古典庭園。
古鎮河下 古代中国の街にタイムスリップしたような雰囲気が味わえる。
明祖陵 1386年に建立された「明祖陵」は、明の初代皇帝である「朱元璋」の祖父、曽祖父、高祖(祖父の祖父)が三代祀られた墓地。
・江蘇省 揚州市 揚州段
高郵 秦の始皇帝が郵便事業を始めた。 盂城駅博物館(船や馬車の立ち寄る重要な宿駅が残る)
2500年前 呉の夫差は 淮河と長江を結ぶ 古邗溝(かんこう) 淮安~揚州 を造りました。
大運河を完成した煬帝、揚州が好きでたびたに滞在していたがここで部下に殺された。后と共に煬帝陵に眠る。
邵伯古堤(宋の時代に作り始め清の時代に完成した堤) 湖に堤防を築き水路を作り 今も利用している。
劉堡閘、邵伯碼斗、天寧寺行宮遺址(乾隆帝行宮)、汪氏小苑(Wang’s Residence)
・痩西湖は運河と結ばれた人工の湖、清の時代多くの屋敷が建てられた。清の乾隆帝が揚州に巡幸した際に、釣り糸を垂れたという釣魚台もある。五亭橋は見る角度によってアーチが変わる。日本に渡来 唐招提寺を建立した鑑真が住職を務めていた大明寺。
・揚州は 運河の都、東関街(東門遺址)は石造りの町 塩の売買で稼いだ商人が 美しい邸宅や庭を築いた。个園(個園 こえん)竹の姿が「个」の字に似ていることから命名され 四季の景がある、塩宗廟(塩の神3人祀る)
古い運河の入り口 クネクネして 高低差を乗り越えた。16世紀 明の時代に建てられた 文嶺塔は修復されたが傾き始めている。
A7 江南運河 揚州の長江対岸 鎮江~杭州 銭塘江まで
・鎮江 京口水門 は 長江への出入り口 で 多くの水門で水位を調節した。西渡津 荷物を運ぶ人の待機場所だった。階段の中央に一輪車用の坂があった。
北固山 Beigushan Park に 三国志の 劉備と孫権の像がある。二人が会談した 甘露寺。劉備と孫権の妹である尚香がお見合いをした多景楼、劉備の死後尚香が長江に身を投げたとされる祭江亭。阿倍仲麻呂の有名な歌「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」 と刻まれた歌碑がある。阿倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡り、玄宗皇帝に重く用いられ、朝衡と称した。船が難破して帰国できず唐の地で没。
・江蘇省 常州市 常州段
・江蘇省 無錫(むしゃく)市 無錫段 、清名橋歴史地区
・江蘇省 蘇州市 蘇州段、呉江運河古繊道
蘇州といえば、「東洋のヴェニス」とも称されるほど美しい水郷の街、呉が都を築く、呉越同舟 の「呉」と「越」は中国・春秋時代の宿敵同士。旧市街とも水路で繋がり、平江歴史地区や 白壁の山塘歴史地区の街並みが世界遺産になっている。
南西部に残る元代の城門 盤門、中に八角七層の塔 瑞光塔 Ruiguang Tower 。
別の世界遺産の 滄浪亭 は蘇州の中では最も古い庭園の一つで運河を借景にしている。
蘇州の小高い丘にある虎丘、春秋時代の呉王 闔閭(こうりょ)の陵墓があり、葬儀の3日後に白虎が出てきて墓の上にうずくまったという伝説がある。広大な敷地に 高さ約47m 八角七層の 雲岩寺塔が建っている。宋代に建てられたもので傾いて中国のピサの斜塔と呼ばれている。 斜塔の下にある細長い池の下に 3000本の剣が闔閭とともに埋葬されたといわれる 剣池。刀で石を切った 試剣石。千人石、真嬢墓。
運河の四つ辻に架かる長大な石橋 宝帯橋 は 船を曳くために作られた。
また大運河沿いには、唐代の張継の詩に「夜半鐘聲到客船(夜半の鐘声、客船に到る)」と詠まれた名刹の寒山寺もある。
・浙江省 嘉興市・杭州市 嘉興~杭州段 187kmあり 太湖 – 銭塘江間
杭州は南宋 の都 臨安 だった。街中に運河が延びる。西湖でとれる エビ・魚がおいしい。
長安閘遺跡、鳳山水門、「天下の穀倉」と言われた富義倉、長虹橋、19世紀に改築され 中央のアーチが大きい 拱宸橋、アーチが7つ ライトアップが美しい 広済橋、直ぐそばの 塘楼古鎮 手作り餅が有名。
・浙江省 湖州市 南潯古鎮
B 浙東運河 杭州~寧波 239km
・浙江省 杭州市 銭塘江 南岸の蕭山区から始まる。西興碼頭、過塘行遺跡
・安昌 木造の家並み いろいろな形の橋がある。
・浙江省 紹興市 紹興酒が有名 起源前6世紀 越の都だった。大小の運河が縦横に走る。八字橋(宋の時代 12世紀に作られ 登り口の長い4つの階段がある)、広寧橋(16世紀に作られ 裾が長くキレイ)、紹興古繊道(運河の中に船を引っ張る道がある)、上虞 – 余姚運河、柯岩風景区 池の中に巨大な石があってその中に天工大仏がある。雲骨 高さ30mの巨大な岩の足元が細い。
・余姚江 小西壩 宋代に作られた古い運河の入り口、今は新しい水門だが 水位を調節して運河に入った。
・浙江省 寧波市 (ねいは 明州):東シナ海に注ぐ甬江(ようこう)に臨み 古くから日本や南海との交易で繁栄した。慶安会館 船で着いた人がくつろいだ所、上海より早く 外国人居留区 老外灘ができ、天主教会もあった。西洋風の街並みが残る。
・三江口は 唐代からの港で、甬江支流の余姚江と奉化江が合流して甬江(ようこう)になる地点。日本からの遣唐使や貿易船などもここにきました。海のシルクロードへの出発点の1つ。
・甬江口 東シナ海に注ぐ所
中国王朝 英雄たちの伝説 巨大遺産の謎 大運河 煬帝から永楽帝へ
NHK BSP 2019.3初回放送(こちらに全体)
北京から黄河と長江をつなげ 杭州の先まで 総延長は古代の運河跡を含め 2700kmの世界最長の京杭大運河は、世界遺産に登録されています。
7世紀 建設を命じたのは 隋王朝 第2代皇帝 煬帝(ようだい)です。朝鮮半島の高句麗に遠征軍を派遣しようとします。その軍事物資運搬のため 洛陽から黄河の北方まで、さらに必要な食料や物資を調達するために長江流域の江南まで運河を通そうとしたのです。大運河の工事は 各地にあった運河をつなぎ合わせながら進められました。
河南省 洛陽 煬帝の大運河の拠点です。2004年に発掘された 直径17m深さ10mの巨大な穴 は1400年前に作られた 江南から運んだ 穀物の貯蔵庫でした。貯蔵方法も理にかなっており 調査すると350m×1000mに700個の穴が並んで 巨大な貯蔵庫で、周辺の100万の民に 7年間分け与えられるものでした。
元の初代皇帝フビライは 運河のルートを変更して大規模な改修を試みるが 標高が高い地帯に阻まれ大きい船が通れなかった。
14世紀 明王朝の第3代皇帝 永楽帝は皇帝権力の強化に努め 大運河を拡幅し 当時南京に合った都を北京に遷都しました。モンゴルの襲来に備えるために 北京に紫禁城を 永楽帝が造営した。
大運河全ルートで 最も標高が高い地帯は山東省の南旺で、閘門で仕切りを使り 水を満たして送くるため 多くの水が必要なので ダムを築いて大きな船が通れるようになった。 (南旺水利工程遺跡)
水源を見つけるのに苦労して 延べ30万人が動員され8年かけ完成、運搬量が10倍になった。
空旅中国 名僧たちの足跡 「空海と川に生きる人びと」・「空海が越えた峠」
初回放送日: 2022年1月
804年 空海は唐の都 長安を目指し 遣唐使船に乗るが 嵐にあい予定より 400キロ 南に漂着。元のルートまで福建の山岳地帯を進むことに。
空海らの一行がたどり着いたのは 赤岸村。干潮になると広大な干潟が現れます。空海は漢文で 地方長官に手紙を書き ようやく上陸。空海の記念堂がある。
福建最大の河 閩江(びんこう)は川幅は1キロ 長さは500キロ もあります。福州は海のシルクロードに位置し お茶や陶器を輸出する重要な貿易港でしたが、当時はそこいら中に水たまりのある 湿地でした。空海一行は 空に星があるうちに出発し 再び星が見える時まで進み続けたと言い伝えられる。
幾重にも山が重なる福建は当時険しい山道ばかりで 代わりに河は主要な道として使われた。当時 閩江の急流をさかのぼるには 地元の人達が腰まで水につかり 船を引き続けなければいけなかった。
福州を出発して 200キロ 南平は 川の合流地点で、唐の時代 多くの人や物が行き交い水上交通の要衝でした。ダムが建築されるまで南平は水害に悩まされていた。
閩江の上流まで来た 空海一行は船を下り 建甌の山岳地帯を歩き続けた。福建省のお茶を味わったでしょう。
福建省と浙江省にある 仙霞古道(せんかことう)と呼ばれる 全長120kmの山道は 古くから交通の要衝とされてきました。ここには軍事的防衛のために 9つの関所が置かれ 税金の徴収なども行われていた。その1つ 楓嶺関(ふうれいかん)に空海が旅したことを記念し銅像が建てられた。
深い山中に突然人里が 二十八都で、山からの湧き水で豆腐が作られる。日本に伝え 高野豆腐になったと言われる。二十八都は福建省、浙江省、江西省の境にあり 別名 鶏鳴三省と呼ばれます。紛争が少ない地で多くの人が集まり 様々な文化が混ざり合い 独自の文化が生まれた。
福建省と浙江省を隔てる 仙霞峰(せんかれい)は最大の難所の峠越えで、最盛期には1000人を超える 天秤棒でお茶など荷を運ぶ労働者がいた。
山岳地帯を抜けると広大な平原が広がり、手前に不思議な形の山 江郎山です。
ふたたび水運を使って蘭江・富春江・銭塘江を下り 本来の出発点 杭州に着いた。
空旅中国 空海 長安へ
初回放送日: 2023年1月
およそ1200年前の平安初期 仏の教えを求め日本から渡った空海が唐の都 長安へ向かった道、杭州から世界遺産 京杭大運河を北へ飛ぶ。
774年 空海は讃岐国に生まれ 桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父 阿刀大足(あとのおおたり)から詩や漢語 儒教を学ぶ。15歳になると都へ上り 18歳で大学に入学し 官僚を目指すが 求めているものとは異なっていた。仏教の教えが重要だと考えた空海は、大学を中退し修行を重ね 僧侶になるため受戒し名前を空海に改めたとされる。密教と出合い 経典を読んだだけでは分からないと 31歳で遣唐使の1人として念願の唐へ渡ることになった。804年7月6日、長崎県の田浦を出港。
日本に戻り 空海は高野山 総本山金剛峯寺(こんごうぶじ) 開創。東寺を嵯峨天皇から賜り 真言宗の基盤を確立。空海が開いた真言宗では、大日如来(だいにちにょらい)が本尊、即身成仏(そくしんじょうぶつ)が大切な教えです。即身成仏は 今この世に体のあるうちに仏になれること。
嵐にあい 400キロ 南に漂着 ようやく 本来の出発点 杭州に戻る(⬆ 空海が越えた峠)
・銭塘江 大潮の時逆流することが知られている。
・霊隠寺 西湖の西にある密教寺院、錫杖をついた空海の像がある。
・杭州から北京まで1800キロも続く 京杭大運河、最初にできたのは7世紀の隋の時代 日本では聖徳太子の時代、今も現役です。
・拱宸橋 ハツ蝮という神話に出てくる龍が4匹。
・烏鎮(うちん)運河沿いに浮かぶ水上楼閣や古い建物が並ぶ路地「アジアのヴェネツィア」と呼ばれる。
・蘇州に入る。寒山寺 創建は6世紀初め、小さなお堂に玄奘・鑑真・旅を続ける空海の像がある。太湖石 石灰岩の穴の多い複雑な形の奇石。
・運河から見える山頂にある 古刹 霊厳山寺。神聖な黄色い建物がたくさんある。密教の寺で厳しい修行を積んでいた。
・太湖 中国NO.3の淡水湖、蘇州の絹織物
・長安までおよそ1100キロ 長江の手前の常州 古刹 天寧寺 塔が2つ 高さ153m 世界一高い仏塔、古そうだが 2007年に鉄筋コンクリートで作られた。
・金山寺 長江の近く 遣唐使の多くが立ち寄り学んだ。「空海大使留学処」の看板があった。
・長江と交差するところ。運河の方が数m高いので 閘門(ロック)に入れ水門を閉め 水を出し入れして水位を上げ下げして 水門を開け 船を運行させた。長江は水位が大きく変わるためです。閘門がなかった時代は 堤防があって 船を大勢で引き上げていた。
・揚州に入ります。水運の要として繁栄した。東アジアやアラブからの船もきていた。運河沿いの郊外は一大穀倉地帯 空海が通った頃収穫の季節で、現在はコンバインで稲刈りをしていた。
・島の多い 痩西湖は運河とつながる人口の湖で1400年前 隋が建設が始まり, 清の二人の皇帝が訪れた由緒ある庭園の島、市民の憩いの場に。今の運河の中で最も幅が広く往来が多い。
・高郵 マルコポーロの東方見聞録(こちら詳しく)にも繁栄振りが描かれる。 盂城駅という楼閣を中心に発展してきた。駅とは秦の始皇帝が道沿いに設置した交通網の拠点で今も残っている。駅は役人が巡回し皇帝の命令を地方に行き渡らせ、皇帝のため地方の情報をあげる拠点だった。楼閣の太鼓は役人の到着を知らせるもの。当時1600以上の駅 で2万人の役人が従事していた。
運河は北へ伸びているが 当時 運河は西に向きを変えていた。
寄り道:運河は狭まり 橋になっていて 下を運河が通る。運河の立体交差点。古代の土木技術に圧倒される。古来「水を治める者は国を治める」といわれる中国。空海は中国で治水の技術も学んだといわれ、帰国後 満濃池を改修した際 役だった。
・洪沢湖 中国NO.4の淡水湖。12世紀 黄河が流れを変え、洪水が多くの街や村を呑み込み、古い運河は湖の底に沈んだ。
諸行無常の中で人間はどう生きるのか? 空海の後に書いた詩の一節
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、死に死に死に死んで死の終りにくらし」 『秘蔵法鑰』
・古いルートのほとんどが 長い歳月の中で埋もれてしまった。住宅街にわずかに残っています。唐の時代幅60mもあったそうだ。
・南湖があって 大きくて四角い島は 商丘古城という古代から続く都市。地下には周の時代から6つの王朝で築枯れた街が埋もれています。唐の時代は運河が通り商業都市として栄えていました。ところが今 歴史テーマパークを作るため 立ち退きを迫られている。
∴商は殷国の正式名称で商の人々はモノの売買にたけていて国が滅んでも 活躍。商人と呼ばれた。
・長安まで600キロ
寄り道:隋の時代 運河が開通した当初から賑わった 臨渙、往来する商人が休憩する茶館が当時の面影を残す。街は衰退してしまったが、茎だけの安い「棒棒茶」が人気で のんびりお茶を飲み観劇し過ごす。
・開封(当時 汴州) 安史の乱で中国北部一帯が戦場となり農業が壊滅したため 食料を遠く長江流域から運こばれて集積地として 賑わっていた。
・大相国寺 1500年の歴史を誇り 空海が足を運んだ。八角形の羅漢堂 (羅漢とは悟りを開いた僧侶) には同じものが無い多くの像たち。多様性をありのまま示す。
・天下第一塔 つまり中国で最高の塔。1000年前のもので鉄塔と呼ばれ、特殊なレンガでできている。
・黄河に到達 古い渡場 玉門古渡 東西南北を結ぶ水路と道路の要衝で 多くの商人が集まり 船や人で賑わった。
黄河は肥沃な大地を生んで人々に恵みをもたらし、一方 容赦なく牙をむいた。いくつもの王朝が栄枯盛衰を繰り返してきた。
・龍門石窟 黄河の支流にあり、岩肌に無数の穴があって 1つ1つに岩から掘られた仏像が鎮座。破壊や盗難で多くが失われた。中央に大きな 盧舎那仏(大日如来) は万物の母であり 森羅万象の根源で 宇宙の真理そのものとされる。
∴ 「弘法筆を選ばず」「弘法にも筆の誤り」の 空海 弘法大師ですが、湖州 善璉鎮 毛筆の産地として名高い。熟練の職人たちが羊の毛を使い作っていた。
・黄河三峡 今世紀始めダムが完成。空海が来た時代 深い谷に黄河が流れていた。岸から山の上まで耕された段々畑。
・さらに西へ 黄河は再び広くなり、90度急に折れ曲がる。直ぐ南には険しい山脈、天然の堀と城壁に挟まれた 潼関 は長安を守る関所が置かれた。現在はテーマパークに
・黄河と別れ小さな運河に入る
寄り道:連城塩湖 世界有数の塩湖で塩を作る塩田がある。大量に発生する藻によって 赤・緑・黄のカラフルな景色に。
・長安まで100キロ 南に秦嶺山脈が迫り 華山 といわれる峰々、道教の聖地で仙人が住むと考えられ 多くの道士が修行の場にしてきた。今は観光客にも開放されている。長空参道 標高2000mという高さの垂直に切り立っている崖に作られている登山道で命綱を張るワイヤーは張られているが 歩くところは幅40cm程の薄い板。手すりもありません。
・804年12月23日 空海は日本からの5か月の長旅で長安に到着。今の城壁は唐代のものを基礎に明代に築かれた 現存する世界最大の古代城壁です。日本の平安京のモデルにもなった長安。人口100万人を擁する世界最大の都市 文明の最先端。世界中から人材・物材が集まった。
・大明宮 大明宮国家遺址公園 には復元されている。 当時の皇帝 徳宗が住んでいた。その規模に空海は息をのんだのでは。正面の 正殿 含元殿 で 外国使節を謁見していた。遣唐使もここで皇帝に会った。
・大雁塔 唐の高僧玄奘三蔵(こちら詳しく)がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために建立した塔。空海が着いたのはその150年後でした。
・大興善寺 密教の中心的寺で 布教の為に訪れたインド僧や海外から来た留学僧などが多くの経典をサンスクリット語からの中国語に翻訳し、密教の修行をしていた。空海はここに滞在 梵語 サンスクリット語を初めとする色々な知識を蓄える。
言葉を頼らずに悟りの世界を知るために 曼荼羅、金剛界・胎蔵界曼荼羅に 大日如来をはじめ 様々な仏や菩薩、そして森羅万象を包み込む 宇宙観が描かれている。
・半年して 青龍寺で真言密教 最高位の恵果に入門。2か月後 恵果は二千人の門人から空海を後継者に選び、12月に没するまでに密教の奥義全てを伝えて仏典や宝物を授けた。直ぐに日本に持ち帰り広めるよう言い残した。
空海は翌年きた遣唐使と共に帰った。それを逃すと30年後だった。その後仏教は大弾圧が始まり 密教は程なくして表舞台から消えた。
旅の最後に中国人僧侶は「空海のおかげで密教が途絶えなかった。私は高野山で学んだ 」と語った。