テレビで視た 京都の清水寺、奈良時代末に作られたときに 蝦夷征伐で活躍した 坂上田村麻呂が関わっていました。御室桜で有名な仁和寺は門跡寺院筆頭です。
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2時間でまわる清水寺
NHK BS 初回放送日: 2023年8月
清水寺の歴史
清水寺は正式名称 音羽山清水寺(おんわさんきよみずでら)といい、東山連峰のひとつ、音羽山の中腹に建つ北法相宗の大本山です。778年 奈良で修業を積んだ僧の賢心(けんしん)が夢でお告げを受け、音羽山で清らかな水が流れる滝を見つけます。瀧のほとりで修行をする老仙人 行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会い 賢心に観音を造立するにふさわしい霊木を授けた。賢心は霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置したのが清水寺の始まりでした。
その2年後、桓武天皇側近として蝦夷征伐に活躍した征夷大将軍 坂上田村麻呂は妻の病気平癒の薬となる鹿の生き血を求めて音羽山中で狩りを行っていました。出会った賢心は田村麻呂に 観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説いた。780年 帰依した坂上田村麻呂は、妻の三善高子とともに十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。
平安時代に観音信仰が広く浸透し その中で清水寺は最も人気のあるお寺の1つだった。
観音は世の中の音、つまり あらゆる声を聞いてくれ 誰にでも救いの手を差し伸べてくれる。ですから昔から清水寺では いろいろな人の願いを受け入れてきました。
現在は観光客が押し寄せているので 朝6時から拝観できるので 早朝がオススメ!
桜を愛でながら清水寺の全貌を2時間のルートでたっぷりと味わう。
1)地蔵院善光寺堂:清水寺正面石段の手前にあるお堂。南北朝時代に作られ 現在の建物は昭和の半ばに再建されたもの。堂内は、如意輪観音坐像を中央に、向かって右側に善光寺阿弥陀仏三尊像、左側に地蔵菩薩立像が祀られている。洛陽三十三所観音第10番札所として知られている。
縁先右側には、願い事のある方向に首を回して拝めば願いが叶うという 首ふり地蔵がある。
2)仁王門(重文):丹塗りの色鮮やかな朱色から「赤門」とも呼ばる。扁額の「清水寺」の文字は藤原行成の筆と伝わる。仁王門は、参拝した庶民が本堂から天皇陛下の住まう御所を見下ろさないよう目隠しのために建てられたともいわれています。応仁の乱で焼失、1500年頃に再建し、2003年に解体修理された。両脇に立つ金剛力士像は鎌倉時代末期のもので、高さ約365cmと最大級の仁王様。両方阿形のこま犬がある。右手に八重紅しだれ桜がある。境内には1000本の桜がある。
室町時代のお寺の様子を描いた案内図『清水寺参詣曼荼羅図』にも描かれてあり、現在とほぼ同じ配置です。
3)岩駒(がんく)石灯籠:江戸時代の絵師 岩駒が描いた絵を元に彫られたもの。(岩駒は虎を描かせれば当代一といわれていた。一休さんの虎退治に出てくる屏風の話に出てくる)。刻まれている虎が毎晩吠えたり、池の水を飲むために抜け出すと言われています。この虎は、どこから見ても睨んでいるように見える八方睨みといわれる。
京は四神相応の地、東を守る 神獣の青龍 祥雲青龍 の像がある。龍は水の神だった。
4)西門(重文):1631年徳川家光 再建。『清水寺参詣曼荼羅図』 西山に沈む夕日を見ながら西方極楽浄土を観想する日想観の聖所である。朱鮮やかな建物で通り抜けはできませんが 横にある 音羽山の中腹 標高100mの見晴台 から京都市街・西山を眺望出来ます。
5)三重塔(重文):青い空に映える極彩色の建物が美しい 清水寺のシンボル的存在です。高さ約31mと三重塔としては国内最大級です。847年に創建され、1632年に現在の姿に再建されました。塔の屋根の鬼瓦 東南角のみ龍の瓦、龍は雨を呼び 火を防ぐ守護神とされているため 江戸時代に再建されてから火事に遭っていない。それまでは10回以上焼失していた。
塔の 中央には大日如来像が祀られ、四方の壁には真言八祖像が、天井や柱などには密教仏画や龍が極彩色で描かれています。
随求堂(ずいぐどう)真っ暗闇の中を歩く「胎内めぐり」を行うことができる。
6)鎮守堂(春日社・重文) :小さいお堂で 元来は清水寺の宗派であった法相宗の鎮守である奈良の春日大社の春日大明神を勧請して祀った鎮守堂でした。神仏習合で改称した。切妻造りで庇を取り付た向拝がある典型的な春日造りの神社建築です。
7)千体石仏群:1000体以上はあるであろう石仏が山肌にずらりと並ぶ。これらは明治初頭に起きた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって 行き場を失って清水寺に運び込まれた石仏です。
8)成就院前:音羽山向こうに見え池があって公園のよう。成就院は応仁の乱で全焼したとき いち早く再建され社務所として使われた。中に月の庭があって 新緑と紅葉の時に特別公開される。幕末にここで住職を勤めていた 月照上人、尊皇攘夷派の人で西郷隆盛と交流があって、幕府の罪人として追われる身となり、薩摩へ逃亡してきたのですが 西郷とともに鹿児島湾に身を投げて月照上人だけが亡くなった。月照の17回忌に西郷が詠んだ漢詩の碑が残る。舌切茶屋を営む人のおじいさんのおじいさんが月照上人にお仕えしていて、京を脱出したとき 行方を教えずに自ら舌をかみ切ってなくなった。
9)田村堂:平安時代 蝦夷征伐に活躍した征夷大将軍 坂上田村麻呂は 妊娠中の妻のため音羽山の麓に鹿狩りに出かけ 音羽の滝で 僧の延鎮と出会い、田村麻呂に 観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説いた。坂上田村麻呂は、感銘し ここにお寺を建てるため 自宅を解体し 移築し清水寺とした。『清水寺参詣曼荼羅図』に妻も描かれている。そのため身分お高い女性も訪れるようになった。清少納言も良く来て本堂に籠もってお参りしていた。
向かいにある本堂拝観券売り場で購入。
轟門 扁額の「普門閣」はあまねき門 「観音様は誰にでも救いの門を開いている」という意味。
14mの回廊があります。右手の山の景色もすばらしい。
10)本堂の腰長押(こしなげし):本堂の腰の高さぐらいにある 腰長押には幅1cmほどの 溝があって筋がついています。僧侶や信者が祈りを捧げながらお堂の周りをグルグルと夜通し歩いた時の跡のだそうです。夜中は真っ暗なので指や木の棒などでこの筋をたどってお堂の周りを歩き続けた。木の束を持って1周することに1本落とし数えていた、残っている串には名前や年齢が描かれていた。お百度参り、お千度参りも同様の意味合いです。このお堂を何回も巡り歩くことから「堂々めぐり」と言う言葉が出来たそうです。
11)弁慶の錫杖:鉄製の杖のこと小14kg、大90kg あって持ち上げられると 御利益があるといわれる。弁慶と牛若丸の対決がここだったという説がある。
12)出世大黒天:像の高さ1.2m、室町時代に作られたインパクトのある大黒様。御利益は立身出世。2008年補修された。『清水寺参詣曼荼羅図』には鴨川の中州に祀られていた。境内に移され 本堂に安置されるまで出世した。
13)本堂(国宝) 千手観音お前立ち:最も神聖な場所 テレビも参拝者も撮影 できない。
公式写真で 秘仏なので眼に出来ない、替わりにそっくりの仏様を拝む。
御正体 天井付近にかけられてある 直径2m 銅板が張られていて 中央にご本尊が刻まれている。清水寺の十一面千手観音像は両脇左右上方の腕を頭上に伸ばし、釈迦如来像形の化仏を両手で捧げ持っています。このお姿は『清水型』と呼ばれ清水寺独自のものです。33年ごとに開扉される習わしになっていて次のご開帳は2033年。
14)清水の舞台:ここも撮影できない。広さは100畳の総檜張りです。少し先で景色を見ましょう。
断崖にせり出した舞台、高さは13m 4階建てのビルに相当。舞台を支えているのは18本のケヤキの柱。
そこに格子状に木材が組まれています。釘1本使われていません。江戸時代の再建から400年以上建ってもびくともしません。最初に坂上田村麻呂が建てた本堂には舞台がなかった。参拝に来る人が増え、場所を拡げてせり出していった。 観音さまに 歌や踊り奉納するための舞台としても使われた。
江戸時代に清水の舞台から飛び降りた人は236人にもいたそうですが。85%の人が生き残った。
歌舞伎の「音羽山恋慕飛泉」清水寺の僧侶 清玄が美しい桜姫に出会い恋をするが、桜姫には別に思い人がいて‥。清玄は死して幽霊となっても桜姫を追いかける。その中で桜姫が傘を開いて舞台から飛び降りる場面があって、人気になった。
15) 阿弥陀堂(重文):本尊は高さ 2m程の阿弥陀如来 仏様の後ろにも1000体の仏様がいる。扁額の「日本最初 常行念仏道場」江戸時代初期の1631年の再建。浄土宗の開祖 法然上人が唱導した常行念仏が日本で最初に行われた場所。法然上人二十五霊場第十三番札所として多くの参拝者が訪れます。1つのお寺で 普く いくつもの宗旨認めていた。
16)ぬれて観音と金色水:1m余りの小さな観音様に ひしゃくで 音羽山から染み出る水(金色水)をかけてお参り。煩悩や悪い行いが洗い流される。水は器によって形を変えることが出来る。観音様も姿を変えて あの手この手で 人々を救おうとしてくださるので 水の化身ともいわれる。
17)奥の院(重文): 音羽の瀧の真上に建ち、現在の建物は 本堂と同時期の1633年に再建され 2017年に修復が完了しました。本堂と同様の懸造りの舞台があって 本堂の全貌を見渡すことができる。清水の舞台の撮影スポットです。本堂の檜皮葺き屋根 平安時代の寝殿造りで 軒先に向かって反って優美です。紅葉の500本のカエデも見事です。
さくら道といわれる参道を5分ほどかけて下りる。分かれ道を右へ下り、左手の階段を上る。
18)子安の塔(重文):清水寺の本堂から錦雲渓をへだてた丘の上にある。明治までは仁王門の左手前にあったが移された。総丹塗り、桧皮葺の三重塔で室町時代後期の再建。清水寺の塔頭で泰産寺という寺名をもつ。塔内には千手観音が安置されている。聖武天皇・光明皇后がこの観音に祈願され、孝謙天皇を安産された。安産祈願の 子安観音とあがめられる。塔前からの清水寺全景の眺望は素晴らしい。
19)音羽の滝:清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となった瀧です。こんこんと流れ出る清水は古来「金色水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願します。
20)青龍会:清水寺には、観音さまの化身である龍が音羽の瀧に夜ごと飛来して水を飲むという伝承があります。また、奥の院南脇堂に祀られている夜叉神は、この青龍の地と御本尊を守り、人々の悪縁を断ち、良縁を結ぶ神として信仰されてきました。青龍会(門前の商店会)では、長さ18メートルの青龍を先頭に、荘厳な装束に身を包んだ会衆が地域守護と除災を祈願して境内と門前町を年3回 練り歩きます。
21)本堂清水の舞台の柱組 :錦雲渓の真下から清水の舞台を見上げると、整然と柱が立ち並び 舞台をどっしりと支えている。舞台床に敷き詰められた桧板はおよそ410枚 100畳の広さ。高さ13メートルの舞台を支えている18本の欅の柱。大人ひとりでは抱えきれないような太さの柱を渓谷の傾斜にあわせて並べ、その縦横にいくつもの貫と呼ばれる欅の厚板を通して接合している。懸造りと呼ばれるこの伝統工法は、格子状に組まれた木材同士が支え合い、衝撃を分散することで通常、建築が困難な崖などでも耐震性の高い構造になっている。
22)阿弖流為 母禮之碑:蝦夷(えみし)の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の名が刻まれた石碑。征夷大将軍 坂上田村麻呂の蝦夷討伐で 勇敢に戦ったアテルイとモレは 田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築くと、住民のため 田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂は 二人を連れて京へ戻り、朝廷に二人の助命を願ったが許されず 処刑されたと伝わる。 石碑は、平安建都1200年を期して、1994年に有志により建立された。
23)放生池からに眺め:殺生を戒める 放生池は捕えた魚を放してやる池。清水寺の放生池は西門と三重塔の下にあり、写真を撮影すると三重塔が池の背景として美しい。
清水寺の坂めぐり
歩いて10分ほどの所に5の坂がある
・五条坂
・清水坂:飲食店や土産物屋など150軒以上 軒を連ね 古都の風情が楽しめる。
・産寧坂:安産祈願の人が多く この名がついた。150年以上続く ひょうたん店、全てが丸く収まり、清水の水をひょうたんに入れ持ち帰った。
・二寧坂
・茶わん坂:清水焼が多く売られる。
・五条坂
仁和寺
京都浪漫 悠久の物語 第96回 御室桜が彩る世界遺産・仁和寺の春~門跡寺院筆頭の風格~
BS11 2022年4月10日 初回放送
仁和2年(886年)光孝天皇によって父母を祀る寺の建立を発願されましたたが 崩御されたため、宇多天皇が 仁和4年(888年)に創建。寺号も元号から仁和寺となりました。
宇多天皇は譲位し 出家し法皇となります。皇室出身者が代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。応仁の乱で、仁和寺はほとんど焼失しました。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
1634年 徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾され、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)などが下賜され、1646年に伽藍の再建が完了し 創建時の姿に戻った。明治20年には御殿の焼失がありましたが、大正時代になると再建されました。明治期まで皇族が住職を務めた格式高い寺院です。
遅咲きの桜として有名な仁和寺の御室桜は、江戸時代の観光ガイドブック「京城勝覧」で「洛中洛外にて第一」と絶賛された京都屈指の桜で 背が低いことによって目の前で美しい桜の花を観賞することができる。
●二王門(重文・江戸時代) きぬかけの路からのぞむ、重厚な二王門には左右に金剛力士像が立ち、京の三大門の一つにも数えられる。
●金堂(国宝・桃山時代) 仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。御所の紫宸殿を賜って仏堂としたもの。創建時から伝わる阿弥陀三尊像(国宝)で、境内にある霊宝館に安置されている。これは宇多天皇が父、光孝天皇の供養のために造らせたもので、一木造で、腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られる。脇侍である勢至菩薩立像、観音菩薩立像も創建当時のもの。
●御影堂(重文・桃山時代) 御所の清涼殿を仏堂としたもので 檜皮葺を用いた外観。内部には、弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置する。毎月21日には、宗祖弘法大師の遺徳を偲ぶ法要が執り行われる。
・三十帖冊子(国宝) 空海が遣唐使として唐に渡った際に、現地で経典などを写して持ち帰ってきたもので 手元に置いていた。
・孔雀明王像(国宝・北宋) 三面六臂で描かれ、また寒色系や白色主体の色調は北宋時代に遡る作例と考えられている。孔雀が毒虫や毒蛇を好んで食べることから、あらゆる悩みや苦しみを取り除く功徳があるとされる。
●五重塔(重文・江戸時代) 高さ約36m。東寺の五重塔と同じく 上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない。仁和寺のシンボルとなっている。内部は立体曼荼羅で心柱に大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。
●仁和寺御殿は 歴代門跡の住まい。宸殿・白書院・霊明殿など7棟と、北庭・南庭・茶室からなる。宸殿は京都府技師であった亀岡末吉の代表作の一つ。
●北庭は宸殿から見て北側にある池泉式の庭園である。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を望む事が出来る。令和3年 御所庭園が国の名勝に指定された。
●光格天皇遺愛の席である飛濤亭(重文)と 仁和寺門前の尾形家から移築された遼廓亭(重文)と呼ばれる趣の違う二つの茶室がある。
2024 都の美しき桜
BS朝日 2024.4.18 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~ 「2024 都の美しき桜」
賀来千香子さんが 池坊専宗さんに550年以上続く華道家元池坊ならではの京都の桜の楽しみ方を学んだ。
■頂法寺(六角堂)
京都市内の中心 ビル街の中にあって 市内でもいち早く しだれ桜が開花します。未だ蕾でしたが 先駆けとなる 花が開花 その花の色が白から段々紅くなっていくのです。移ろいゆく桜を楽しめます。
六角堂の北側に 聖徳太子が身を清めたと伝えられる池の跡があります。如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は 587年 京都盆地を訪れました。太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり 六角形の御堂を建てて安置したといわれます。
小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり「池坊」と呼ばれる。代々六角堂の住職を池坊が務めます。代々池坊が住職を務めている六角堂。隣接するいけばな資料館で 約400年前に作成されたいけばなの図集「桜一色」を拝見。
■京都が誇る桜の名所
・仁和寺…背の低い遅咲きの御室桜
・毘沙門堂…千両の価値があるいわれる枝垂桜
・平安神宮…八重咲き枝垂桜
・東寺…不二桜
■川の桜
賀茂川のほとり、常に行列を成す老舗 出町ふたばで名代豆餅を購入。日露戦争の戦勝記念に市民によって植えられた師範桜、樹齢約120年の大木から出る 細い枝の桜を楽しみます。比叡山、大文字山も望めます。
・京都府立植物園…多くの種類の桜が楽しめます。
・嵐電櫻花隧道…嵐電北野線の鳴滝駅から宇多野駅の間200mは、線路の両脇に見事な桜並木が続き、「桜のトンネル」と呼ばれています。
■山の桜
・嵐山公園 亀山地区 の展望台で 保津川下りの遊覧船やトロッコ列車など 嵐山の景色を一望、葉も花も同時に開く山桜。
■専宗さんの「桜一色」の立花
心を整える 〜景色・歴史物語・食〜
BS朝日 2024.9.19 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~ 「心を整える 〜景色・歴史物語・食〜」
白峯神宮
白峯神宮 境内にある 精大明神 は球技の神様として、サッカーをはじめとする球技全般とスポーツの守護神として崇められています。精大明神 は蹴鞠・和歌の宗家である公卿・飛鳥井家が代々守護神として邸内にお祀りしてきたもの。
明治天皇が 讃岐の白峯陵から崇徳天皇の御霊を遷し創建された。その後 淳仁天皇も淡路陵から御霊を遷し合祀。 崇徳天皇は「保元の乱」で、淳仁天皇は「藤原仲麻呂の乱」で配流されていた。
蹴鞠の会で中大兄皇子の鞋が外れ、中臣鎌足がこれを拾い上げた。このことをきっかけに中大兄皇子と中臣鎌足が親しくなり、大化の改新が始まったという 記録が残っている。
正伝寺(しょうでんじ)
正式には吉祥山正伝護国寺といい、鎌倉時代に創建された。本堂は 1652年に伏見城から移築されたもので、重要文化財。現在も手形や足跡が残る血天井や、狩野山楽作の襖絵も。江戸初期に作庭された枯山水庭園は、サツキの刈り込みが7・5・3に配され、「獅子の児渡し庭園」とも呼ばれている。借景には比叡山を望むことができる。
イギリスのミュージシャン、デビッド・ボウイが愛したお寺だと言われています。CM撮影にここのお庭を指定したそうです。谷村新司さんも中学生の頃から通っていた寺だった。
神光院
上賀茂神社の北西に建つ真言宗の神光院 ‘西賀茂の弘法さん’として親しまれている。真言宗。1217年の創建で 本尊弘法大師像は、空海(弘法大師)42歳の時の自刻の木像と伝え、厄除け大師として信仰を集めている。東寺・仁和寺と並ぶ京都三弘法の一つです。
境内に幕末の歌人・陶芸家 大田垣蓮月尼 隠棲の茶所がある。「無私の日本人」(磯田道史)に評伝されている。夫・子との死別など多くの苦難を経験したのち出家し、和歌を書いた 蓮月焼という 陶器を作り 生計を立てました。美貌を捨て、私財を捨て、人に尽くした「無私」の物語。蓮月が鳥羽伏見の戦いに心を痛め、和歌を西郷隆盛に届けさせて江戸城無血開城を決心させたと伝わる。晩年富岡鉄斎を侍童とし、のちの大文人画家を育てた。
禅寺 閑臥庵(かんがあん)
閑臥庵(かんがあん) は山号を瑞芝山(ずいしざん)という黄檗宗の禅寺。初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆(せんがい)禅師を招いて1671年に開山した。
中国伝来の精進料理 普茶(ふちゃ)料理 使うことを禁じられた肉や魚の料理を、植物性の食材だけで見た目を味を再現した「もどき料理」を寺の奥で日本庭園を眺めながら頂く。夜には本堂や庭園がライトアップされる。