GoogleマップでWeb旅行! 京都 東山 伏見稲荷&北政所 絆めぐり 高台寺・豊国神社・恵美須神社・八坂神社

テレビで視た 京都の平安遷都よりも古い伏見稲荷 のキツネ・千本鳥居・パワースポット 、東山。

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伏見稲荷大社のすべて

BS11 2023年5月14日 初回放送 第122回 伏見稲荷大社のすべて~神々の鎮まる聖域を巡る~
伏見稲荷大社の創建は 平安遷都よりも古く、京都盆地の中でも いち早く稲作が始まった伏見の地の 五穀豊穣、衣食住の神様として 人々の暮らしを守ってきた。全国に3万社あると言われる稲荷神社の総本宮である。
標高233m京都 深草(ふかくさ)で神の山と崇められる 稲荷山和銅4年(711年)秦伊呂具が稲荷山の三ヶ峰に神を祀ったのが伏見稲荷大社の創建とされる。秦氏は朝鮮半島の新羅地方の出身です。
本殿には稲荷大神を祀り、毎月1日に月次祭(つきなみさい)が執り行われる。4月には 華道家元 池坊の 献花祭、あらゆる産業の守護神である稲荷大神様の御神恩を感謝する 産業祭、稲種を苗代田におろすにあたり 稲荷大神様に 立派な稲の成長を祈願する水口播種祭
最も重要な 稲荷祭 神幸祭は 稲荷大神様が年に一度、御旅所にお出ましになり 神徳を垂れ給うお祭りで 平安時代より始まった。2023年は4月23日に 5基の神輿が供奉列と共に 3km離れた御旅所に向かった。5月3日の環幸祭で伏見稲荷大社に戻る途中 東寺の東門の前に駐輿し 東寺の神供が行われる。
827年淳和天皇が体調を崩したのは 東寺五重塔の創建時に 稲荷山から大木を切って使用し、その祟りとされ、稲荷社に謝罪の意味で従五位下の位が与えられ、天皇の病は快方に向かったとされています。稲荷社は後に正一位まで昇格し、各地の稲荷社の旗にその文字を見ることができます。

・境内には稲荷大神のお使いである「狐」眷属(けんぞく)として鎮座、宝珠の「玉」や稲を納める蔵の「鍵」や「巻物」や「稲穂」などをくわえています。
(私の撮った写真にも「狐」映っていました)
※花火を打ち上げるとき「たまや~、かぎや~」と掛け声をかけるのは 江戸期に伏見稲荷にお詣りした花火師が屋号を「玉屋」「鍵屋」と付けて技を争ったのが 掛け声として残っている。

・朱塗りがまぶしい壮麗な楼門(重要文化財)。豊臣秀吉が 母大政所殿の病悩平癒祈願のため楼門を寄進したもの。いわゆる“命乞いの願文”が伝来している。
外拝殿(げはいでん 重要文化財)、釣り灯籠の図柄が 蟹・天秤・サソリ、明治の終わりに寄進されたもので黄道十二宮がデザインされている。

・奥宮(重要文化財) 本殿と同じ 稲荷大神が祀られている。
白狐社(重要文化財) 眷属 の狐を祭神としている。

稲荷塗と言われる朱色に彩色された鳥居が建ち並び、多くの観光客を魅了してきました。命婦参道と呼ばれています。鳥居は江戸時代以降に 願いごとが「通るように」または「通った」というお礼をこめて、鳥居の奉納が広まったそうです。鳥居の料金は大きさで異なり 現在 一番小さいもので21万円から誰でも奉納可能だそうです。
さらに進むと鳥居は二股に分かれトンネルのように。ここが千本鳥居で、千本は数が多いという意味で 実際は稲荷山全体におよそ1万基を越えるといわれる。

稲荷山を神々が宿る「神奈備(かんなび)」とする伏見稲荷大社では、およそ4キロの山道を歩き 点在する社やお塚を巡る「お山めぐり」が 平安時代から盛んに参拝されてきました。

・千本鳥居を抜けると 奥社奉拝所(おくしゃほうはいしょ)。ここにある 「おもかる石」といわれる一対の石です。願い事の記念した後 宝珠石を持ち上げ、思っていたよりも軽ければ願い事は叶うといわれます。白い狐の絵馬も有名です。
・根上がりの松 2つのご利益があると言われ、ひとつは腰や膝などの痛みが治るというもの、もうひとつは株の値が上がるというもの。

清少納言「枕草子」にも「うらやましげなるもの」としてその様子が描かれている。
室町時代に入ると応仁の乱で社殿はことごとく焼失し 平安のころと様子は変わったが、パワースポットとしての厳かな雰囲気は変わりません。

石段が続く このあたりには 「お塚」と呼ばれる小さな神社が無数にある。稲荷神を信仰する方が私的な守護神として思い思いの名前を付けて奉納したもので、明治時代から増え 1万基はくだらないといわれる。
・熊鷹社(くまたかしゃ)は谺ケ池(こだまがいけ:別名 新池)の石積みに設けられた社殿。熊鷹大神が祀られ、伏見稲荷大社随一のパワースポットとして知られています。池畔の前に立って拍手をすると、その音がこだまして戻って来た方向に、失せ人の手がかりがあるといわれる。熊鷹社商売繁盛 勝負事に強くなるといわれる。向かいの茶店でロウソクを購入でき 火打ち石で切り火をし 清めてもらえる。奉納された多くのロウソクに火が灯り、それが風にゆらめいて小さな鳥居の赤を濃く照らし とても神秘的だ。
・さらに上ると 三徳社に到着。三徳は衣食住を表し 人々を守る 三徳大神が祀られている。

・山道を登ると 市街が眺望できる四ツ辻に到着する。幕末からある茶店 にしむら亭 京都市内を見下ろしながらキツネうどんやいなり寿司が味わえる。分岐点でどちらを選んでも四ツ辻に戻ってきます。

・大杉社 神様が降り立ち邪気を払ったという言い伝えがある。ご神木の大きな木を祀っている。木材業者や大工・工務店の信仰が多く、近くの鳥居の奉納者には木材業者や工務店の名前が多い。商売繁盛 金運。
・眼力社(がんりきしゃ」眼の病がよくなる。先見の明を授かり 商売の目先が利くようになるというご利益が得られる。
・御膳谷奉拝所 毎年1月5日 「大山祭 山上の儀」が行われる。昭和38年に開かれた場所で、横山大観画伯の筆塚があり、周りには黒竹が植えられています。
・無病息災・健康長寿のご利益があるという 薬力社
・喉のご利益があるという おせき社 には郵便箱があり 参拝できない人達からの祈願や お礼のハガキが届く。
・御劔社(みつるぎ 長者社神蹟)神様が宿ったされる剣石焼刃の水と呼ぶ井戸がある。金属加工業者の参拝が多い 。三条小鍛冶宗近が一条天皇に捧げた宝刀 小狐丸を鍛えたと語られています。

・頂上にあるのが 一ノ峰上社(いちのみねかみしゃ)、末広大神(すえひろおおかみ)が祀られ、商売繁盛の他、人気 芸能の英知を受けるといわれる。
・少し下った所にあるのが 二ノ峰中社(にのみねなかしゃ)があり 青木大神と崇められる。
・さらに下ると三ノ峰下社(さんのみねしもしゃ)があり 白菊大神と崇められる。
三ノ峰を下ると お山を一周 四ツ辻に戻ってきます。

坂東彌十郎が発見!東山の魅力

BS朝日 2024.5.23 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
東山は京都盆地の東側にある山の総称で北は比叡山から南は稲荷山まで、総称して、東山三十六峰 とも呼ばれる。なだらかに連なる東山の山々を洛中から見て、おおよそ三十六ほどは連なっていようかと例えられた。東山の山麓には多くの神社・寺院がある。
清少納言「枕草子」の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」は東山の夜明けの空です。

伏見稲荷大社

東山の南端、稲荷山にある 伏見稲荷大社 へ。朱色が美しい 千本鳥居の絶景が有名です。稲荷山の山頂を含めてグルッと一周することを「お山めぐり」と呼び、これが本来の参拝の姿だと言います。
(前に)別の放送がありました。

伏見神宝神社

伏見神宝(かんだから)神社は 伏見稲荷大社 の千本鳥居のそばの石段を5分ほど上がっていきます。竹林の美しい 独立した神社です。創建は平安時代初期で、かつてより稲荷山に祀られております。宇多天皇をはじめ皇室の信仰も篤かった神社です。主祭は天照大御神で、稲荷大神を配祠、十種神宝(とくさのかんだから)を奉安しています。十種神宝とは、別名「天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」とも呼ばれる天孫の証となる10種類の宝物で、三種の神器のルーツとされています。拝殿の前には、左右1対の 狛龍 が鎮座しています。「竹取物語」ゆかりの地といわれています。(諸説あり)

坂本龍馬ゆかりの 京都霊山護国神社

東山通りから八坂の塔を望みながら上る坂道が維新の道です。幕末の志士達の会合場所だった 翠紅館跡があります。「維新の道」の坂を登ると 多くの志士たちが眠る 京都霊山護国神社。 境内には坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎を始めとする志士たちの墓、慰霊碑の他、従軍記念公園「昭和の杜」がある。平安時代以来の 葬送の地 鳥辺野にほど近い。

歌舞伎公演でおなじみの 京都南座

伝・阿国歌舞伎発祥地かぶき踊りを最初に始めたのは出雲大社の巫女、阿国(おくに)と言われています。出雲大社への寄付集めに全国をまわっていた阿国一行が、客の歓心を得るためにかぶき踊りを行ったのです。阿国がかぶき者のような男装で歌って踊る姿は評判となり、1603 年には京都で大変な人気だったという記録が残っています。その評判は江戸にも伝わり、たくさんのかぶき踊り集団が現れました。しかし 女歌舞伎は演出がきわどいものが多かったため禁止され 男性が演じる現代の歌舞伎へなりました。
東山にある「南座」彌十郎さんに6年前に改修工事を終え生まれ変わった 南座の舞台裏を案内して頂きます。楽屋口、花道への通路など、普段、歌舞伎俳優たちが行き来する特別な空間。屋上には 小さな洞が会って 芸能の神様である弁財天が祀られ 俳優さんたちはお参りしてから舞台に向かうそう。目の前には鴨川・北山を眺望できます。
続いて東山の「食」を楽しむため向かったのは、彌十郎さんが普段から通っているという祇園の名店「阪川」。初夏の味覚を満喫しました。

北政所 絆めぐり 高台寺・豊国神社・恵美須神社・八坂神社

京都浪漫 悠久の物語 第147回 北政所ねね 印で結ぶ絆めぐり~高台寺周辺を訪ねる~
BS11 2024年6月10日
令和6(2024)年、高台寺を建立した豊臣秀吉公の正室北政所ねね様が亡くなられて400年を迎えます。敵味方問わず多くの人から慕われ、今なお愛されているねね様の400年遠忌を記念した事業、ねねにゆかりのある東山の神社仏閣を巡ります。

高台寺

北政所ねねが秀吉の菩提を弔うために建てた高台寺。ねねはすぐ近くにある圓徳院から毎日、 開山堂から回廊を通り御霊屋に詣るのが 日課だったと伝わります。
霊屋(重要文化財)秀吉とねねを祀った建物で、ねねが埋葬された場所です。須弥壇中央に随求菩薩が祀られ、向かって左厨子に立て膝の北政所像、右厨子に秀吉像が安置されています。須弥壇や厨子に壮麗な蒔絵が施されていますが、これは「高台寺蒔絵」と呼ばれ、桃山時代の漆工芸の粋を集めたものです。
時雨亭、傘亭(重要文化財) 共に伏見城からの移築された茶室 。
1615年に豊臣家滅亡、2大将軍 徳川秀忠は 北政所を慕い 京に上洛する度に尋ねたという。
1624年 北政所は亡くなり 御霊屋の地下に眠っています。

境内は桜、竹、百日紅、紅葉と、一年を通じて目を楽しませてくれます。
開山堂(重要文化財)を取り巻く池泉回遊式庭園(史跡・名勝)は、江戸初期の総合芸術家で大名の小堀遠州の作庭と伝わっています。北書院では様々な芸術家が展示を行う一方、夜間公開の時期は毎年趣向を凝らしたライトアップで多くの拝観者が訪れます。

豊国神社

豊臣秀吉を祀る豊国神社。伏見城の遺構と伝わる国宝 唐門。豊臣家の家紋である「五七桐」の他、鶴や鯉などの彫刻が施されており、名工「左甚五郎」によるものだと伝わっている。
秀吉が亡くなり遺言により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌慶長4年、中腹に秀吉公を祀る豊国神社 が創建された。朝廷からは正一位の神階と「豊国大明神」の御神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な神社であった。北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次いだ。
豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となり 豊国廟 共放置されていた。265年後の明治13年 明治天皇の勅命により再興された。本殿はかつて京の大仏を安置する方広寺の跡地であった。
大正14年 本殿の南隣に、秀吉の正室 北政所を祀る社として貞照神社が創建された。
宝物館には 桃山絵画の傑作として知られる「豊国祭礼図屏風」があって 秀吉の七回忌の様子を描いている。屏風には当時の京都の町並みや、人々の祭りを楽しんでいる様子が描かれています。幾重にも輪になって踊る人々の姿があって 「風流踊り」といい盆踊りの源流です。

恵美須神社

商売繁盛で知られる 恵美須神社。平安末期、栄西禅師が宋からの入僧の折、暴風雨に遭ったとき栄西禅師が海上に向かい祈ったところ、海上より恵美須神が現れたので これを祀っている。京都の正月を彩る「十日ゑびす」で知られる。
京都ゑびす神社 二の鳥居の中央部分にかかっているのは扁額ではなく ゑびす様の福箕(ふくみ)。参拝客は これに向かって お賽銭を投げ入れて、入れば縁起がいいとか、願いが叶うといわれる。

八坂神社

八坂神社は 平安京遷都 以前より「祇園さん」と呼ばれ親しまれていた。
主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)はあらゆる災いを祓う神様として信仰され、境内には数多くの神様が祀られている。全国約2300社鎮座する八坂神社 祇園社の総本社です。

祇園祭は 疫神怨霊を鎮める 御霊会(ごりょうえ)が起源で 貞観11(869)年 全国的に疫病が流行した時 その退散を祈願して長さ2丈程の矛(ほこ)を 日本66カ国の数にちなみ66本を立て 牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりといいます。
豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し 焼失していた大塔を再建しましたが焼失。
869年 疫病流行の際、始まったのが祇園祭である。山鉾は、前祭の巡行で京都の町中の穢れを祓ってから八坂神社の神様を神輿で町にお迎えする 神幸祭(しんこうさい) 、後祭でもう一度巡行し再度穢れを祓い神様を八坂神社にお返しする 還幸祭(かんこうさい) が行われ
豊臣秀吉は 祇園祭を再興し 山鉾を運営する山鉾町周辺の町や土地を指定し、山鉾運営資金を徴収する寄町制度を制定したと言われています

本殿(国宝・江戸時代) 現在の社殿は 1654年 徳川家綱が再建した。祇園造と呼ばれる独特な建築様式となっている。
西楼門(重要文化財) 応仁の乱で焼失後 1497年 桧皮葺で再建。永禄年間(1558~1570)に瓦葺きに替えた。大正2年 四条通拡張に伴い移動。同時に翼廊(重要文化財)を建て現在の姿となった。94年ぶりの大規模な改修工事が平成19年に行われた。
美御前社(うつくしごぜんしゃ)美しいことで知られる3人の女神が祀られ、お参りすると心身ともに美しくなるといわれ、祇園の舞妓さんや芸妓さんをはじめ若い女性のお参りが多いことで知られています。手や顔を洗うと肌も心も美しくなるといわれるご神水「美容水」が湧き出ています。

銀閣寺と哲学の道 ~新緑と日本文化の源~

BS朝日 2024.6.13 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~

哲学の道

琵琶湖疎水沿いに1.5km。まばゆい新緑が美しい。

永観堂禅林寺

紅葉の名所で、「もみじの永観堂」の名で知られていますが、今の時期は「青もみじの名所」として京都の人たちに親しまれています。見る場所によって違う新緑の風情。
御本尊「みかえり阿弥陀」

銀閣寺

世界遺産・銀閣寺へ。銀閣寺はもともと、室町幕府八代将軍・足利義政が造営した山荘でした。では、なぜ義政は国宝・銀閣を、この地に建てたのか?祖父・足利義満とこの立地に深い理由が…。さらに、銀閣寺の美しい新緑の景色を楽しみながら進むと、滅多に出会えない光景が待ち受けていました。また、足利義政の人となりも明らかに。従来、「応仁の乱」の発端を作り、政治から逃げたとされていた義政ですが、近年、評価が変わってきていると言います。義政が書斎として使ったという東求堂・同仁斎から生まれた、様々な日本文化とは?

銀閣寺

義政が育んだ文化の中には、食文化もあります。続いてのテーマ「食」を楽しむために向かったのは、銀閣寺から歩いて10分ほどの場所にある日本料理店。義政も楽しんだ出汁の美味しさや、新緑の季節の味わいを堪能します。