テレビで視た 京都の平安遷都よりも古い伏見稲荷 のキツネ・千本鳥居・パワースポット 。
北政所 絆めぐり 高台寺・豊国神社・恵美須神社・八坂神社。銀閣寺と哲学の道。
西本願寺の国宝を巡る。
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伏見稲荷大社のすべて
BS11 2023年5月14日 初回放送
京都浪漫 悠久の物語 第122回 伏見稲荷大社のすべて~神々の鎮まる聖域を巡る~
伏見稲荷大社の創建は 平安遷都よりも古く、京都盆地の中でも いち早く稲作が始まった伏見の地の 五穀豊穣、衣食住の神様として 人々の暮らしを守ってきた。全国に3万社あると言われる稲荷神社の総本宮である。
標高233m京都 深草(ふかくさ)で神の山と崇められる 稲荷山。和銅4年(711年)秦伊呂具が稲荷山の三ヶ峰に神を祀ったのが伏見稲荷大社の創建とされる。秦氏は朝鮮半島の新羅地方の出身です。
本殿には稲荷大神を祀り、毎月1日に月次祭(つきなみさい)が執り行われる。4月には 華道家元 池坊の 献花祭、あらゆる産業の守護神である稲荷大神様の御神恩を感謝する 産業祭、稲種を苗代田におろすにあたり 稲荷大神様に 立派な稲の成長を祈願する水口播種祭。
最も重要な 稲荷祭 神幸祭は 稲荷大神様が年に一度、御旅所にお出ましになり 神徳を垂れ給うお祭りで 平安時代より始まった。2023年は4月23日に 5基の神輿が供奉列と共に 3km離れた御旅所に向かった。5月3日の環幸祭で伏見稲荷大社に戻る途中 東寺の東門の前に駐輿し 東寺の神供が行われる。
827年淳和天皇が体調を崩したのは 東寺五重塔の創建時に 稲荷山から大木を切って使用し、その祟りとされ、稲荷社に謝罪の意味で従五位下の位が与えられ、天皇の病は快方に向かったとされています。稲荷社は後に正一位まで昇格し、各地の稲荷社の旗にその文字を見ることができます。
・境内には稲荷大神のお使いである「狐」が眷属(けんぞく)として鎮座、宝珠の「玉」や稲を納める蔵の「鍵」や「巻物」や「稲穂」などをくわえています。
(私の撮った写真にも「狐」映っていました)
※花火を打ち上げるとき「たまや~、かぎや~」と掛け声をかけるのは 江戸期に伏見稲荷にお詣りした花火師が屋号を「玉屋」「鍵屋」と付けて技を争ったのが 掛け声として残っている。

・朱塗りがまぶしい壮麗な楼門(重要文化財)。豊臣秀吉が 母大政所殿の病悩平癒祈願のため楼門を寄進したもの。いわゆる“命乞いの願文”が伝来している。
・ 外拝殿(げはいでん 重要文化財)、釣り灯籠の図柄が 蟹・天秤・サソリ、明治の終わりに寄進されたもので黄道十二宮がデザインされている。
・奥宮(重要文化財) 本殿と同じ 稲荷大神が祀られている。
・白狐社(重要文化財) 眷属 の狐を祭神としている。
・稲荷塗と言われる朱色に彩色された鳥居が建ち並び、多くの観光客を魅了してきました。命婦参道と呼ばれています。鳥居は江戸時代以降に 願いごとが「通るように」または「通った」というお礼をこめて、鳥居の奉納が広まったそうです。鳥居の料金は大きさで異なり 現在 一番小さいもので21万円から誰でも奉納可能だそうです。
さらに進むと鳥居は二股に分かれトンネルのように。ここが千本鳥居で、千本は数が多いという意味で 実際は稲荷山全体におよそ1万基を越えるといわれる。

稲荷山を神々が宿る「神奈備(かんなび)」とする伏見稲荷大社では、およそ4キロの山道を歩き 点在する社やお塚を巡る「お山めぐり」が 平安時代から盛んに参拝されてきました。
・千本鳥居を抜けると 奥社奉拝所(おくしゃほうはいしょ)。ここにある 「おもかる石」といわれる一対の石です。願い事の記念した後 宝珠石を持ち上げ、思っていたよりも軽ければ願い事は叶うといわれます。白い狐の絵馬も有名です。
・根上がりの松 2つのご利益があると言われ、ひとつは腰や膝などの痛みが治るというもの、もうひとつは株の値が上がるというもの。
清少納言の「枕草子」にも「うらやましげなるもの」としてその様子が描かれている。
室町時代に入ると応仁の乱で社殿はことごとく焼失し 平安のころと様子は変わったが、パワースポットとしての厳かな雰囲気は変わりません。
石段が続く このあたりには 「お塚」と呼ばれる小さな神社が無数にある。稲荷神を信仰する方が私的な守護神として思い思いの名前を付けて奉納したもので、明治時代から増え 1万基はくだらないといわれる。
・熊鷹社(くまたかしゃ)は谺ケ池(こだまがいけ:別名 新池)の石積みに設けられた社殿。熊鷹大神が祀られ、伏見稲荷大社随一のパワースポットとして知られています。池畔の前に立って拍手をすると、その音がこだまして戻って来た方向に、失せ人の手がかりがあるといわれる。熊鷹社は商売繁盛 勝負事に強くなるといわれる。向かいの茶店でロウソクを購入でき 火打ち石で切り火をし 清めてもらえる。奉納された多くのロウソクに火が灯り、それが風にゆらめいて小さな鳥居の赤を濃く照らし とても神秘的だ。
・さらに上ると 三徳社に到着。三徳は衣食住を表し 人々を守る 三徳大神が祀られている。
・山道を登ると 市街が眺望できる四ツ辻に到着する。幕末からある茶店 にしむら亭 京都市内を見下ろしながらキツネうどんやいなり寿司が味わえる。分岐点でどちらを選んでも四ツ辻に戻ってきます。
・大杉社 神様が降り立ち邪気を払ったという言い伝えがある。ご神木の大きな木を祀っている。木材業者や大工・工務店の信仰が多く、近くの鳥居の奉納者には木材業者や工務店の名前が多い。商売繁盛 金運。
・眼力社(がんりきしゃ」眼の病がよくなる。先見の明を授かり 商売の目先が利くようになるというご利益が得られる。
・御膳谷奉拝所 毎年1月5日 「大山祭 山上の儀」が行われる。昭和38年に開かれた場所で、横山大観画伯の筆塚があり、周りには黒竹が植えられています。
・無病息災・健康長寿のご利益があるという 薬力社。
・喉のご利益があるという おせき社 には郵便箱があり 参拝できない人達からの祈願や お礼のハガキが届く。
・御劔社(みつるぎ 長者社神蹟)神様が宿ったされる剣石・焼刃の水と呼ぶ井戸がある。金属加工業者の参拝が多い 。三条小鍛冶宗近が一条天皇に捧げた宝刀 小狐丸を鍛えたと語られています。
・頂上にあるのが 一ノ峰上社(いちのみねかみしゃ)、末広大神(すえひろおおかみ)が祀られ、商売繁盛の他、人気 芸能の英知を受けるといわれる。
・少し下った所にあるのが 二ノ峰中社(にのみねなかしゃ)があり 青木大神と崇められる。
・さらに下ると三ノ峰下社(さんのみねしもしゃ)があり 白菊大神と崇められる。
三ノ峰を下ると お山を一周 四ツ辻に戻ってきます。
坂東彌十郎が発見!東山の魅力
BS朝日 2024.5.23 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
東山は京都盆地の東側にある山の総称で北は比叡山から南は稲荷山まで、総称して、東山三十六峰 とも呼ばれる。なだらかに連なる東山の山々を洛中から見て、おおよそ三十六ほどは連なっていようかと例えられた。東山の山麓には多くの神社・寺院がある。
清少納言の「枕草子」の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」は東山の夜明けの空です。
伏見稲荷大社
東山の南端、稲荷山にある 伏見稲荷大社 へ。朱色が美しい 千本鳥居の絶景が有名です。稲荷山の山頂を含めてグルッと一周することを「お山めぐり」と呼び、これが本来の参拝の姿だと言います。
⬆(前に)別の放送がありました。
伏見神宝神社
伏見神宝(かんだから)神社は 伏見稲荷大社 の千本鳥居のそばの石段を5分ほど上がっていきます。竹林の美しい 独立した神社です。創建は平安時代初期で、かつてより稲荷山に祀られております。宇多天皇をはじめ皇室の信仰も篤かった神社です。主祭は天照大御神で、稲荷大神を配祠、十種神宝(とくさのかんだから)を奉安しています。十種神宝とは、別名「天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」とも呼ばれる天孫の証となる10種類の宝物で、三種の神器のルーツとされています。拝殿の前には、左右1対の 狛龍 が鎮座しています。「竹取物語」ゆかりの地といわれています。(諸説あり)
坂本龍馬ゆかりの 京都霊山護国神社
東山通りから八坂の塔を望みながら上る坂道が維新の道です。幕末の志士達の会合場所だった 翠紅館跡があります。「維新の道」の坂を登ると 多くの志士たちが眠る 京都霊山護国神社。 境内には坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎を始めとする志士たちの墓、慰霊碑の他、従軍記念公園「昭和の杜」がある。平安時代以来の 葬送の地 鳥辺野にほど近い。
歌舞伎公演でおなじみの 京都南座
伝・阿国歌舞伎発祥地、かぶき踊りを最初に始めたのは出雲大社の巫女、阿国(おくに)と言われています。出雲大社への寄付集めに全国をまわっていた阿国一行が、客の歓心を得るためにかぶき踊りを行ったのです。阿国がかぶき者のような男装で歌って踊る姿は評判となり、1603 年には京都で大変な人気だったという記録が残っています。その評判は江戸にも伝わり、たくさんのかぶき踊り集団が現れました。しかし 女歌舞伎は演出がきわどいものが多かったため禁止され 男性が演じる現代の歌舞伎へなりました。
東山にある「南座」彌十郎さんに6年前に改修工事を終え生まれ変わった 南座の舞台裏を案内して頂きます。楽屋口、花道への通路など、普段、歌舞伎俳優たちが行き来する特別な空間。屋上には 小さな洞が会って 芸能の神様である弁財天が祀られ 俳優さんたちはお参りしてから舞台に向かうそう。目の前には鴨川・北山を眺望できます。
続いて東山の「食」を楽しむため向かったのは、彌十郎さんが普段から通っているという祇園の名店「阪川」。初夏の味覚を満喫しました。
北政所 絆めぐり 高台寺・豊国神社・恵美須神社・八坂神社
京都浪漫 悠久の物語 第147回 北政所ねね 印で結ぶ絆めぐり~高台寺周辺を訪ねる~
BS11 2024年6月10日
令和6(2024)年、高台寺を建立した豊臣秀吉公の正室北政所ねね様が亡くなられて400年を迎えます。敵味方問わず多くの人から慕われ、今なお愛されているねね様の400年遠忌を記念した事業、ねねにゆかりのある東山の神社仏閣を巡ります。
高台寺
北政所ねねが秀吉の菩提を弔うために建てた高台寺。ねねはすぐ近くにある圓徳院から毎日、 開山堂から回廊を通り御霊屋に詣るのが 日課だったと伝わります。
・霊屋(重要文化財)秀吉とねねを祀った建物で、ねねが埋葬された場所です。須弥壇中央に随求菩薩が祀られ、向かって左厨子に立て膝の北政所像、右厨子に秀吉像が安置されています。須弥壇や厨子に壮麗な蒔絵が施されていますが、これは「高台寺蒔絵」と呼ばれ、桃山時代の漆工芸の粋を集めたものです。
・時雨亭、傘亭(重要文化財) 共に伏見城からの移築された茶室 。
1615年に豊臣家滅亡、2大将軍 徳川秀忠は 北政所を慕い 京に上洛する度に尋ねたという。
1624年 北政所は亡くなり 御霊屋の地下に眠っています。
境内は桜、竹、百日紅、紅葉と、一年を通じて目を楽しませてくれます。
・開山堂(重要文化財)を取り巻く池泉回遊式庭園(史跡・名勝)は、江戸初期の総合芸術家で大名の小堀遠州の作庭と伝わっています。北書院では様々な芸術家が展示を行う一方、夜間公開の時期は毎年趣向を凝らしたライトアップで多くの拝観者が訪れます。
豊国神社
豊臣秀吉を祀る豊国神社。伏見城の遺構と伝わる国宝 唐門。豊臣家の家紋である「五七桐」の他、鶴や鯉などの彫刻が施されており、名工「左甚五郎」によるものだと伝わっている。
秀吉が亡くなり遺言により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌慶長4年、中腹に秀吉公を祀る豊国神社 が創建された。朝廷からは正一位の神階と「豊国大明神」の御神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な神社であった。北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次いだ。
豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となり 豊国廟 共放置されていた。265年後の明治13年 明治天皇の勅命により再興された。本殿はかつて京の大仏を安置する方広寺の跡地であった。
大正14年 本殿の南隣に、秀吉の正室 北政所を祀る社として貞照神社が創建された。
宝物館には 桃山絵画の傑作として知られる「豊国祭礼図屏風」があって 秀吉の七回忌の様子を描いている。屏風には当時の京都の町並みや、人々の祭りを楽しんでいる様子が描かれています。幾重にも輪になって踊る人々の姿があって 「風流踊り」といい盆踊りの源流です。
恵美須神社
商売繁盛で知られる 恵美須神社。平安末期、栄西禅師が宋からの入僧の折、暴風雨に遭ったとき栄西禅師が海上に向かい祈ったところ、海上より恵美須神が現れたので これを祀っている。京都の正月を彩る「十日ゑびす」で知られる。
京都ゑびす神社 二の鳥居の中央部分にかかっているのは扁額ではなく ゑびす様の福箕(ふくみ)。参拝客は これに向かって お賽銭を投げ入れて、入れば縁起がいいとか、願いが叶うといわれる。
八坂神社
八坂神社は 平安京遷都 以前より「祇園さん」と呼ばれ親しまれていた。
主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)はあらゆる災いを祓う神様として信仰され、境内には数多くの神様が祀られている。全国約2300社鎮座する八坂神社 祇園社の総本社です。
祇園祭は 疫神怨霊を鎮める 御霊会(ごりょうえ)が起源で 貞観11(869)年 全国的に疫病が流行した時 その退散を祈願して長さ2丈程の矛(ほこ)を 日本66カ国の数にちなみ66本を立て 牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりといいます。
豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し 焼失していた大塔を再建しましたが焼失。
869年 疫病流行の際、始まったのが祇園祭である。山鉾は、前祭の巡行で京都の町中の穢れを祓ってから八坂神社の神様を神輿で町にお迎えする 神幸祭(しんこうさい) 、後祭でもう一度巡行し再度穢れを祓い神様を八坂神社にお返しする 還幸祭(かんこうさい) が行われ
豊臣秀吉は 祇園祭を再興し 山鉾を運営する山鉾町周辺の町や土地を指定し、山鉾運営資金を徴収する寄町制度を制定したと言われています
・本殿(国宝・江戸時代) 現在の社殿は 1654年 徳川家綱が再建した。祇園造と呼ばれる独特な建築様式となっている。
・西楼門(重要文化財) 応仁の乱で焼失後 1497年 桧皮葺で再建。永禄年間(1558~1570)に瓦葺きに替えた。大正2年 四条通拡張に伴い移動。同時に翼廊(重要文化財)を建て現在の姿となった。94年ぶりの大規模な改修工事が平成19年に行われた。
・美御前社(うつくしごぜんしゃ)美しいことで知られる3人の女神が祀られ、お参りすると心身ともに美しくなるといわれ、祇園の舞妓さんや芸妓さんをはじめ若い女性のお参りが多いことで知られています。手や顔を洗うと肌も心も美しくなるといわれるご神水「美容水」が湧き出ています。
銀閣寺と哲学の道 ~新緑と日本文化の源~
BS朝日 2024.6.13 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~
哲学の道
銀閣寺から若王子神社までの琵琶湖疏水沿いに続く1.5kmほどの小径。哲学者の西田幾多郎がこの道を歩きながら思索にふけったことから「哲学の道」と呼ばれるようになったそう。まばゆい新緑が美しい。
永観堂禅林寺
紅葉の名所で、「もみじの永観堂」の名で知られていますが、今の時期は「青もみじの名所」として京都の人たちに親しまれています。
永観堂とは、浄土宗西山禅林寺派の総本山。正式名称を禅林寺といい、853年に空海の弟子「真紹」が開山しました。3000本の楓におおわれた釈迦堂や開山堂などの諸堂は回廊で結ばれている。本堂の阿弥陀如来像は、顔をななめ後ろに向けており「みかえり阿弥陀」と呼ばれている。山上には多宝塔があり
見る場所によって違う新緑の風情があります。
東山慈照寺 銀閣寺
銀閣寺参道を通り世界遺産 銀閣寺へ。
正式名称を東山慈照寺(とうざん じしょうじ)といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
総門から中門まで長さ約50メートルの参道で、 左側が石垣の上に約1メートルの銀閣寺垣(竹垣)があり、その上に椿などの常緑樹の生垣が続いています。右側は石垣の上に椿などの常緑樹の高い生垣が2段構えでになっています。
銀閣(観音殿・国宝)足利義政が好んだ西芳寺(苔寺)を手本に造られたといわれます。祖父義満が西芳寺を参考に舎利殿(金閣)を建てていた。金閣と反対側で 埋葬地だった東山の応仁の乱で焼失した浄土寺の跡地に建てた。
下層の心空殿に千体地蔵像を祀る。上層の潮音閣は黒漆の仏間で 観世音菩薩木像を祀る。北山の金閣とにているため、江戸時代になって、金閣に対して銀閣と呼ばれるようになった。
開山は日本初の作庭家ともいわれる臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むそう そせき)といわれる。作庭は足利将軍家に仕えた絵師でもある相阿弥(そうあみ)と伝わる。
庭園は、方丈前の白砂で中国 西湖の波を再現した 銀沙灘と 向月台が美しい池泉廻遊式の庭園。
銀閣寺の美しい新緑の景色を楽しみながら裏に進むと、滅多に出会えない光景 こけら葺きの屋根から湯気がでていた。
足利義政は 従来「応仁の乱」を引き起こしたのは後継者選びの迷いが発端を作り、政治から逃げたとされていたが、近年 評価が変わって、文化・芸術の保護者だった。
義政が書斎として使ったという東求堂(国宝) 同仁斎は 四畳半で(これまで板の間に必要な部分に畳を置いていたが部屋全体畳敷き)から生まれた、また付書院や違い棚は 書院造りの原点でした。障子を開けると 風景を掛け軸にした。足利義政は「東山文化」の担い手で、食生活では この時代「油」が入り 炒める・揚げるが加わった。また出汁も 義政が広めた。
西本願寺の国宝を巡る~唐門 阿弥陀堂 御影堂 書院 飛雲閣
BS11 2024年6月9日 放送 京都浪漫 悠久の物語
第148回 西本願寺の国宝を巡る~唐門・阿弥陀堂・御影堂・書院・飛雲閣~
龍谷山本願寺は親鸞聖人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山でお西さん(西本願寺)とも呼ばれています。国宝や重要文化財の建造物が多く、世界遺産にも登録されているお寺です。
西本願寺は 2023年に「親鸞聖人御誕生850年」、2024年には「立教開宗800年」という節目の年を迎えるにあたり、修復工事が進められてきた。
『お西さんを知ろう。』本願寺の僧侶”お西のお坊さん”がガイドとなって本願寺の境内を案内する本願寺ツアーを無料で行っています。「本願」とは「あなたを必ず仏にしたい」という阿弥陀様の願い。「他力本願」は阿弥陀様の願いの働き。親鸞上人の教え 一般の人も他力 すなわち阿弥陀様に任せることによって 救いの手を差し伸べてもらえる。
堀川通りの 移築された 総門(重文)、御影堂門(重文)が正門です。
・唐門(国宝)‥桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、勅使門です。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮らし門」とも呼ばれています。「牡丹に獅子」「雲に麒麟」「竹に虎」など躍動感あふれる彫刻が極彩色に塗り直された。
・御影堂(国宝)‥中央に親鸞聖人の木像(御真影)、両脇に本願寺歴代宗主の影像を安置されてます。元和3年(1617)の火災で焼失したが、寛永13年(1636)に再建。内部は外陣と内陣に分かれ、外陣は多くの門信徒が参拝できるように、特に広く作られている。
・阿弥陀堂(本堂 国宝)‥中央に本尊の阿弥陀如来の木像、両脇にインド・中国・日本の七高僧の内、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚の六師を、両余間に法然聖人と聖徳太子の影像を安置しています。極楽浄土を表す儀式空間「内陣」の修復には、14万枚もの金箔が使われた。本堂と御影堂は 渡り廊下で繋がる。廊下の床に ひょうたんや富士山 の細工がある。
・書院・通常非公開、玄関口の「虎の間」の板戸に狩野派 渡辺了慶とその一派の筆になるものとされ 虎とヒョウが描かれている。対面所「鴻の間」204畳半の大きい広間で、上段正面の欄間に雲間を飛ぶ鴻の透かし彫りがあることから、鴻の間と呼ばれています。手前は柱の間隔が広く、奥は狭くなっています。遠近法により 広く見えるよう工夫されています。天井は格天井、襖・壁等の障壁画は 渡辺了慶の筆と推定されている。桃山文化の豪壮華麗な書院造の代表的なものです。西側に雀の間、雁の間、菊の間などの小室には それぞれの障壁画があります。白書院は 小広間で ご門主の対面の儀式や賓客の接待などに使われていました。一の間(紫明の間)を主室とし、二の間、三の間(孔雀の間)の三室が一列に並んでいます。紫明の間は、折上(おりあげ)格天井。三の間は樹木と孔雀を中心とした金碧花鳥図です。この三の間は、室内能舞台にもなります。
・能舞台(国宝)‥書院の北側に 現存する最古の能舞台である北能舞台、南側には親鸞聖人の降誕会に祝賀能が舞われる南能舞台があります。
・飛雲閣(国宝)‥金閣・銀閣とともに「京都三名閣」に数えられる。 滴翠園(てきすいえん)の池に建ち、全体的に柱が細く障子の多いことから、空に浮かぶ雲のようだということで、飛雲閣と名づけられたといわれています。
一層には舟入の間があり、お忍びや私的なもてなしに 舟で渡った。主室の招賢殿(しょうけんでん)と八景の間、さらに後に増築された茶室 憶昔(いくじゃく)がある。二層は三十六歌仙が描かれた歌仙の間、三層は摘星楼(てきせいろう)と呼ばれています。
瑠璃光院
無量寿山光明寺 京都本院 瑠璃光院は比叡山の麓 京都・八瀬に位置し、四季折々に色づく景観が古来より人々を惹きつける名所となっている。
瑠璃とは、極楽浄土を飾る七宝の一つである浄土の色。種々の楓が繁茂する深山の地に、幾重もの苔に覆われ清らかな泉が湧く。その主庭全体がまさに瑠璃色に輝かんとする様子から「瑠璃光院」という寺号がつけられました。
紅葉の名所で、2階の書院の間 一面の新緑と写経机と床に反射する青紅葉は絶景です。
能楽ゆかりの地~御香宮神社・因幡堂・豊国神社・彦根城
BS11 2023年7月9日 初回放送 京都浪漫 悠久の物語
第126回 狂言師と巡る能楽ゆかりの地~御香宮神社・因幡堂・豊国神社・彦根城
狂言大藏流五家の一つ茂山千五郎家一門の最年長 茂山七五三(しめ)さんと「能楽」ゆかりの地を巡る。
伏見 御香宮神社
伏見にある 御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)、主祭神は安産の神様「神功皇后」で、安産守護、子育てのご利益を授かることができる。平安時代(862年)に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇より「御香宮」の名を賜りました。豊臣秀吉や徳川家康ともゆかりが深く、幕末の鳥羽伏見の戦いの舞台になった場所でもあります。
毎年9月に「御香宮神能」が行われ「ろうそく能」とも呼ばれる奉納能の歴史は古く、600年ほど前から能楽のルーツ「猿楽」が境内で行われていた。
平等寺(因幡堂)
下京区の 因幡堂 平等寺は 因幡堂縁起(重文)によれば、997年 橘行平が任を終え帰国の途中、夢告により海中から薬師如来を引き上げ、祀ったのが起源だそう。がん封じで有名な「因幡堂」ですが、病気を治してくださる薬師如来が祀られているということで、無病と六匹の猫の「六猫」をかけて「六猫お守り」が人気です。町衆の寺として 芸能に縁が深く一説には浄瑠璃発祥の地ともいわれ、また、狂言にも「因幡堂」「鬼瓦」など、当寺を舞台にした演目が残っています。
豊国神社
豊臣秀吉を祀る豊国神社も「能楽」ゆかりの地だ。秀吉は天皇の前で自ら能や狂言を演じてみせたほどの「能楽」愛好家。秀吉が眠る豊国廟には明治31年の「豊太閤三百年祭奉納能」の記念碑も残っている。徳川四天王のひとり井伊直政の次男
宝物館には 秀吉の七回忌の様子を描いた「豊国祭礼図屏風」があって 、当時の京都の町並みや、人々の祭りを楽しんでいる様子が伝わります。
(⬆にあり)
彦根城
彦根城は徳川四天王のひとり井伊直政の次男 井伊直孝により 1622年から20年かけ 建てられた。江戸幕府の威光を示すための「美」と、高い軍事的機能を併せ持つ名城として有名です。 天守閣から琵琶湖を一望できる。江戸幕府は能を式楽(公式の場での音楽)に定めた。彦根藩でも幕府に倣って能役者を召し抱え、能舞台を築いて能を催した。彦根藩“井伊家お抱え”だった茂山千五郎家。城内にあった能舞台が彦根城博物館の中に移築されており、現在も能舞台が上演される。
智積院・円山公園から大雲院へ散歩
京都浪漫 悠久の物語 第152回 夏の京都の朝さんぽ~智積院・円山公園から大雲院へ~
BS11 2024年8月19日
智積院(ちしゃくいん)
智積院 は正式名称「五百仏山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。根来寺は和歌山にある 新義真言宗の総本山で、智積院は根来寺の塔頭の1つでした。1585年に豊臣秀吉の焼き討ちに遭ってしまいます。学頭の玄宥僧正が弟子を連れ高野山に逃れます。豊臣秀吉が愛児鶴松のために創建した祥雲寺を1615年玄宥僧正が徳川家康から もらい受けて復興した。
“利休好みの庭”と称される庭園は国指定名勝です。長谷川等伯・久蔵親子とその一派による国宝の障壁画。非公開の宸殿には堂本印象の障壁画も。
2023年宝物館が完成 多くの障壁画を鑑賞できる。
円山公園
観光キャンペーン「2024 京の夏の旅・名勝円山公園から京都一望の祇園閣へ」の朝散歩!
円山公園は八坂神社、知恩院に隣接して 有名な祇園しだれ桜 がある。初代は江戸時代から祇園社(現 八坂神社)の坊舎 宝寿院にあった名木でした。しかし明治の初めに、廃仏毀釈で寺がなくなり、伐採の危機に実業家の明石博高(ひろあきら)が買い取り救われた。初代の木は明治から昭和初期にかけて円山公園のシンボルとして親しまれましたが、昭和22年に樹齢220年で枯死してしまいました。現在ある桜は初代のサクラから種子を採取し育成したものを 昭和24年に現地に植栽したものです。
1887年(明治20年)には京都市へ移管され最初の都市公園となった。国の名勝に指定されている円山公園、美しい池泉回遊式庭園(大きな池を真ん中につくり、その周りに道や小さな島、橋がある庭園)を作り上げたのは七代目の小川治兵衛と言われています。
その奥にある 慈圓山安養寺 最澄が創建。吉水(よしみず)坊と称し、法然が30数年間ここを本拠に称名念仏を宣揚・親鸞も入信したが、専修念仏弾圧で荒廃。時宗に改めて興隆、境内に子院六阿弥坊(中の重阿弥で赤穂浪士が円山会議を開いた。)があったが、明治後期に消失、今は本堂、書院、弁天堂と料亭「左阿弥」を残すだけ。同寺の山号慈円山が円山公園の名称のもとになった。は最澄(伝教大師)が開創したと伝え、法然・親鸞両上人念仏発祥の地 吉水(よしみず)草庵として有名である。のち、慈鎮(じちん)(慈円 関白九条兼実の弟)が中興し、安養寺と称した。境内には 六阿弥(りくあみ)坊が立ち並び、遊興の地としてにぎわった。明治になり 世阿弥は連阿弥、重阿弥を合併し、京都で始めて外国人向けの也阿弥ホテルになったが その後 焼失しました。桜を買った明石博高はここに 吉水温泉を開業。医者で科学者だった明石は温泉の効能を研究し ていた。
吉水弁財天は祇園の舞妓や芸妓達がお参りに足繫く通ったという宇賀神(福の神)。
西行庵は西行法師の終焉の地であったと伝えられている。西行法師は 平安時代末期の僧侶で新古今和歌集の代表的歌人の一人である。もと鳥羽上皇の北面の武士であったが出家し諸国を行脚して全国各地の風光明媚な自然を愛で和歌を詠んだ。明治中頃には荒廃を極めていたが、明治26年の万博の時 富岡鉄斎が勧進文(寄付を呼びかける文)を書き小文法師が浄財を募り再建された。茅葺きの母屋「浄妙庵」は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したもの。 茶室「皆如庵」は北野の久我別邸より移された桃山時代の名席で、円窓床と道安囲の点前座が有名である。
芭蕉堂 西行を心の師としていた芭蕉も 西行を慕って旅の生涯を送り、この東山の地で一句を詠んだといいます。芭蕉の木像が安置されていて 同敷地内のレンタル着物店が管理してる。
大雲院
大雲院は織田信長とその子信忠の菩提を弔うために正親町天皇の勅命を受け、安土宗論で活躍した浄土宗の僧 貞安(じょうあん)が開山となって創建された。昭和48年現在地に移転された。通常非公開の掛け軸が展示されている。祇園祭の山鉾をモチーフにした祇園閣 斬新な 伊東忠太設計である。昭和2年に大倉財閥の創始者 大倉喜八郎が自身の別荘の敷地内に建設した望楼である。設計したのは近代日本きっての奇想の建築家 伊東忠太。望楼に至る階段の壁に敦煌 莫高窟壁画模写が中国人画家の手により描かれている。