BS朝日 2024年1月25日 あなたの知らない京都旅~紫式部の素顔~なぜ源氏物語は生まれたのか~
BS11 2024年2月12日 京都浪漫 悠久の物語 源氏物語ゆかりの地を訪ねて~廬山寺・清凉寺・石山寺・夢浮橋之古蹟~
紫式部 完全ガイド(晋遊舎)を参考にさせて頂きました。
石山寺源氏物語起筆の地 廬山寺 紫式部が生活 執筆していた。嵯峨野 清涼寺は 光源氏のモデルの一人嵯峨天皇の皇子の源融公の山荘。紫野 紫式部の産湯の井戸 晩年を過ごした雲林院・墓所。京都市に残る 源氏物語に登場したところ
また京都に旅に行けたらいいなとメモにしました。
Googleマップにマーキングして 登録されている写真を 楽しんでます。
Googleマップ
見たい場所のマーカーを選ぶと Googleマップからの写真左側が表示されます。
Google マップで見る をクリックすると 新しいタブで Googleマップが開きます。
写真をクリックすると 右側に大きな写真が表示されます。< > で前の・次の写真へ
Googleマップに登録されている写真が楽しめます。実際に行けたらなと思います。
紫式部の素顔~なぜ源氏物語は生まれたのか~
石山寺(滋賀県大津市)源氏物語起筆の地
平安時代に貴族による石山詣が人気だった 石山寺。奈良時代後期に聖武天皇の命により良弁(ろうべん)僧正が創建。
第16帖「関屋」でも光源氏が参籠のため向かった場所になっている。
平安時代の女性は外出機会が少なく 神社仏閣への参拝などに限られていた。
硅灰石(けいかいせき)と言う巨大な岩盤の上に立つ本堂(国宝)は懸造で 本尊は勅封秘仏 本尊 如意輪観世音菩薩(天皇の勅命によって封印されていて 33年に一度か 天皇即位の翌年にのみ開帳される。次回は2047年の予定です)。岩の上に座る 秘仏の写真を見ることができる。
多宝塔(国宝)は源頼朝公による寄進と伝えられる。
貴族の観音信仰が高まった平安時代 宮廷の女人達の間で観音堂に籠もり お経を唱えて一夜を過ごすことが流行った。寺の記録によると、紫式部は源氏物語の構想を得るため7日間参籠していた際、琵琶湖・瀬田川の水面に映る月を見て、「今宵は十五夜なりけり」と「須磨」の巻から書き出したといわれる。本堂の一角に「紫式部 源氏の間」が残る。
■慈眼堂:織田信長による比叡山焼き討ちの後 復興に尽力した天海大僧正の廟所。境内には、江戸時代以降の歴代天台座主の墓があり、徳川家康や紫式部の供養塔もある。
廬山寺 紫式部が生活 執筆していたところ
廬山寺は京都御所 東側にある。比叡山天台座主の元三大師(がんざんだいし)良源(りょうげん)が、船岡山(現在の京都市北区)の南麓に開いたのが始まり。織田信長の焼き討ちを免れて 秀吉の寺町建設のため現在地に移った。御土居(おどい)が境内東端に残る。
代々皇室の帰依が厚く1794年に 本堂は光格天皇の勅命により仙洞御所の一部を移築された。明治維新までは宮中の仏事を司る御黒戸四箇院の1つだった。
紫式部の曽祖父で 中納言 藤原兼輔 が建てた邸宅で 、父 為時の邸宅でした。当時通い婚なので、ここで20歳ほど年上の藤原宣孝と結婚生活を送り 一人娘の賢子(かたこ)を育て 源氏物語を執筆したといわれる。3年目で夫と死別。初めは物語を親しい友に見せていたと思われる。源氏物語は相当な長編で 当時手に入りづらかった紙をふんだんに使えたのは 藤原道長のバックアップを受けていたと思える。
この邸は平安京の東に接し、現在の寺町通りに沿って流れていた中川と鴨川の間に 多くの公家屋敷が建ち並んでいた。貴族の屋敷には大きな庭があって大きな池を設け 中川などから水を引いていた。紫式部邸は現在の廬山寺の境内全域とされる。
中川の地は源氏物語にたびたび登場します。第3帖「空蝉」の舞台は中川にあった紀伊守の邸宅、第11帖「花散里」でも光源氏が中川を通りかかった時の話が出てきます。葵祭の見物場所をめぐって光源氏の妻と愛人が車争いをした一条大路は直ぐ近くとされる。
昭和40年に考古学者により紫式部邸跡とされて、記念の顕彰碑がたてられ 源氏庭が整備されました。源氏物語の花散里の屋敷はこのあたりであったといわれる。源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことで、紫の桔梗が花開きます。
節分の日に、3匹の鬼が剣や斧、槌をもって踊り、追儺使(ついなし)が紅白の豆を投げて鬼を追い払う 鬼の法楽」が有名。
嵯峨野 清涼寺は 光源氏のモデルの一人嵯峨天皇の皇子の源融公の山荘
清涼寺(嵯峨釈迦堂とも呼ばれる)は 嵐山の北に位置する。
仁王門をくぐり、本堂 には 本尊釈迦如来(国宝)が祀られている。お釈迦さまが37歳の時の姿を写した像とされ、“生身の釈迦如来”とも呼ばれます。インドで作られ中国に渡り 東大寺の 奝(ちょう)然上人の手によって その模刻像が京都に987年に 持ち帰った。上洛の際の行列は熱狂的に迎えられ列をなしたたという記録が残っている。日本三如来の1つとして数えられ、全国に100体近くの模像が多数制作され 清涼寺式釈迦像と呼ばれている。
平安時代前期 この地は 嵯峨天皇の皇子の源融(みなもとのとる)公の山荘 棲霞館(せいかかん)があった。融公は光源氏のモデルの一人とされています。お隠れになったあと寺に改められ棲霞寺(せいかじ)となり、その境内地に奝然上人やその弟子たちによって清凉寺が建立されたのは(1016年)のことです。
江戸時代焼失したが徳川五代将軍 綱吉の生母桂昌院が発願 豪商の住友吉左衛門の援助で1701年に再建されている。
本堂にあたる阿弥陀堂、現在の建物は江戸時代後期のもの。本尊は阿弥陀三尊像、その顔立ちは源融を写したものと伝わる。国宝の阿弥陀蔵は霊宝館に安置されている。
源氏物語 第18帖「松風」には「 光源氏が造営した御堂は大覚寺にも劣らない趣深い寺である」と書かれている。位置関係からも棲霞寺をイメージしたものと考えられる。
紫野 紫式部の産湯の井戸・晩年を過ごした雲林院・墓所
京都の北 船岡山の東麓は 紫野と呼ばれる一帯で、根が]紫色の染料になる紫草が生えていた。紫は高貴な色で天皇しか入れない禁屋で、狩りを楽しんだ。
■大徳寺の塔頭 真珠庵、通常 非公開で 室町時代 1491年創建。厳しい わびしいあばら屋に 吹き込んだ雪が 月に照らされて真珠のように輝いた という故事にちなんで付けられた。
開祖はとんちで著名な一休和尚です。方丈には 一休和尚座像 木造が祀られている。四季花鳥図 曽我蛇足 筆のふすま絵がある。堺の貿易商人 尾和宗臨が 明から取り寄せた 玉でできたビーズの天蓋が残る。
真珠庵に残る「紫式部 産湯の井戸」を見せていただいた。
■京都深村 皮に真珠庵の井戸水を使用している「紫式部どら焼き」
■雲林院 現在は狭い敷地が発掘中だが、もとは大徳寺辺りに300m四方ともいわれる広大な敷地があり池を配していたとされる。
9世紀初め 淳和天皇( 桓武天皇の第三皇子・嵯峨天皇の弟)の離宮「紫野院」を869年に 「雲林院」という寺にした。ここで紫式部が晩年を過ごしたといわれる。
平安時代、その規模から「雲林院」は誰もが知る有名な寺でした。『今昔物語』『大鏡』など平安時代の書物に必ずといって登場するほど平安貴族に親しまれていたお寺でした。
第10帖「賢木」にも恋い慕う藤壺に拒まれ 傷心の光源氏が雲林院に籠もる場面がある。
鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。現在の雲林院 観音堂は宝永4年(1707)に再建され、十一面千手観世音菩薩像、大徳寺開山大燈国師像を安置している。
■小野篁卿墓・紫式部墓所 雲林院の敷地内にある。閻魔大王の補佐役だった小野篁(おののたかむら) は紫式部が生まれる120年前に没していたが、好色を描きすぎて式部は地獄へ落ちたという噂が拡がり 哀れむ多くの読者が、篁に彼女を助け出してほしいと、彼の墓を式部の墓の横に移したという説もあります。
京都市 源氏物語に登場したところ
■京都御所:平安時代の御所はたびたに火災で消失。現在の建物は江戸時代に復元された。光源氏はここで生まれ育った。平安時代はもう少し西にあった。
■平安宮内裏跡・弘徽殿跡・昭陽舎跡:案内板がある。
■引接寺 (千本ゑんま堂):「紫式部供養塔」がある。 開基した小野篁(おののたかむら)(802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていたとされる。
■一条院跡:説明板がある。「紫式部日記」に出てくる 一条天皇の中宮である藤原道長の娘の彰子に使えていた里内裏はこの場所だった。
■渉成園(枳殻邸):東本願寺の飛地境内地の庭園。徳川家光が約1万坪の土地を寄進し、石川丈山らとともに作庭した庭園です。平安時代前期には 光源氏のモデル源融の別荘があったところで 源融河原院址がある。
■一条戻橋: 堀川に架かる橋で 「あの世とこの世をつなぐ橋」といわれ、安倍晴明がこの橋の下に式神を封じていたともいわれ、様々なミステリーが残る橋です。源氏物語の中でも「ゆくはかへるの橋」と詠まれ 葵の上と六条御息所が車争いを近くで繰り広げたとされる。
■風俗博物館:古代から近代にいたるまでの日本の風俗・衣裳を実物展示する博物館として昭和49年にオープン。4分の1の縮尺で、さまざまな平安時代の生活の場面を立体的に表現している。時代考証に基づき、装束の色目や文様も忠実に復元されている。
■清水寺:778年 延鎮上人が音羽の滝の上に庵を結び千手観音を祀ったのが始まり。798年 坂上田村麻呂が長岡京の旧紫宸殿を移築して堂宇を建造したと伝わる。断崖に立つ舞台造の本堂(国宝)は徳川家光が再建したもの。平安時代東山は広大な葬送地 延年寺旧跡墓地 (鳥辺山墓地) だった。源氏物語では夕顔の亡骸を安置した光源氏が放心のまま清水寺を訪れている。
■片山御子神社:上賀茂神社の境内にあって紫式部も通ったという、「新古今和歌集」にも詠まれた。
源氏物語に 上賀茂神社の賀茂祭での車争いが描かれた。上賀茂神社の斎王が愛でられたと伝わる八重紅枝垂桜の「斎王桜」、「御所桜」。
■大覚寺:嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」が寺に改められ 大覚寺になった。嵯峨天皇は光源氏のモデルといわれる 源融公の父。源氏物語では 光源氏が 晩年に 出家し 「嵯峨院」で数年過ごした。
■野宮神社:野宮(ののみや)は天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。源氏物語「賢木の巻」に六条御息所との別れを惜しむ様子が描かれています。黒木鳥居と小柴垣が今も残ります。
■鞍馬寺:鞍馬弘教の総本山。770年鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を本尊として奉安したのが起こり。平安時代は京都の北方守護の寺として信仰を集めた。源氏物語 「若紫巻」で光源氏が「北山のなにがし寺=鞍馬寺」で、少女若紫に出会う。又、怨霊による「おこりの病」を鞍馬の高僧の験力によって癒され、都に帰る際、別れの宴を催した「涙の滝」。
宇治市
■源氏物語ミュージアムでは、模型や映像により光源氏や「宇治十帖」の世界を分かりやすく紹介。光源氏の邸宅であった六条院の縮小模型のほか、牛車、屏風、燈台など、平安貴族の乗り物や調度品が実物大で復元されています。暗くなると 外側から透けて見えるが内側では判らない 垣間見(かいまみ) を体験できる。
平安時代の貴族の女性たちは 夫や肉親以外に顔を見せないのが決まりで、御簾の下から見える 長い髪や着ている装束の色の組み合わせが美の基準となっていた。
3000冊以上もの蔵書をとりそろえてあります。
■夢浮橋ひろば:紫式部像がある
■宇治十帖の像:匂宮が浮舟を小舟に乗せ宇治川の対岸へと連れ出す場面をモチーフとされています。
■平等院:光源氏のモデルのひとりの源融(みなもとのとおる)の別荘でした。 源氏物語の宇治十帖の中では、光源氏の遺産である宇治の山荘として登場します。長谷詣からの帰途の匂宮を薫はこの山荘で迎えます。
■橋姫神社:祀られているのは、瀬織津姫(せおりつひめ)という女神。宇治橋の守護神ですが、縁切りの神でもあり、悪縁を斬るご利益があるそうです。
源氏物語 宇治十帖の第一帖は「橋姫」と名付けられており、宇治橋の守り神でした。「京の都から離れた宇治に住む恋人」の意味があった。
越前
紫式部の父 藤原為時 は漢学が得意で 学者肌の中級貴族だった。弟に漢籍を教えていて, 横で聞いていた
紫式部が弟より覚えていて、父は「おまえが男だったら」と嘆いたとか。
結婚前、受領の父に伴い京を離れて越前で2年ほど暮らしをしていた。
■紫式部公園
■紫式部像
須磨・明石
■須磨寺 (大本山 上野山 福祥寺):源氏物語「須磨の巻」で須磨に隠遁した光源氏が若木の桜を植えて都を思い出していた。その若木の桜跡が残る。
■現光寺:「源氏物語」の主人公光源氏の住居跡と伝えられ、もとは「源氏寺」ともいわれていました。境内には松尾芭蕉の三段切の名句「見渡せば 眺むれば見れば 須磨の秋」の碑や正岡子規の句碑があります。
なぜ明石に隠遁したのか?
これまで 左大臣派(桐壷院 藤壺宮 東宮のちの冷泉帝 左大臣 その女婿の源氏)と右大臣派(朱雀帝 その母弘徽殿大后 外祖父の右大臣)とで、かろうじてパワーバランスを保っていた。
しかし、桐壷院が亡くなると右大臣一派は勢いづき、左大臣は引退。
また 右大臣の六の君の朧月夜は後の朱雀帝への入内が予定されていたが 源氏に誘惑され関係を持ってしまう。朧月夜は尚侍という形で 入内したが 関係を持ち続け右大臣に発見される。弘徽殿大后の怒りは爆発。このままでは 後見となっている のちの冷泉帝 にも累が及ぶと 須磨に行くことを決意した。
須磨は 在原業平の兄 行平が蟄居した地で有名した。平安時代 貴族が朝廷の許可もなく 畿内の外に出る事は禁じられていた。暴雨風により 隣接しているが幾外の播磨国の「明石」に行くことになった。
■無量光寺:光源氏が月見をした寺として知られ、境内には「源氏稲荷」があります。山門前には、光源氏が明石の上の住む 岡辺の館 へ通ったとされる蔦の細道 があります。
■善楽寺:戒光院・円珠院の総称で、明石で最も古い寺院です。明石入道の 浜の館があった場所とされる。戒光院には平清盛を供養したという「平清盛五輪塔」や源氏物語に由来する「明石入道の碑」や「浜の松の碑」があり、円珠院には宮本武蔵が作庭したと伝わる枯山水があります。
紫式部年表
・大徳寺 真珠庵 「紫式部 産湯の井戸」
24歳で 越前へ
26歳で 宣孝と結婚… 通い館なので 住まいは 父の邸(現在の 廬山寺)
27~28歳で 出産
29歳で 宣孝死去
30歳 源氏物語 書き始める
34歳 宮仕え始める。道長の娘 彰子に皇子誕生。
42歳~59歳 没 諸説あり。1013年が紫式部の記録が残る最後の年。
晩年を過ごした雲林、敷地内にある紫式部墓所 。
陰陽師 安倍晴明は何者か
BS朝日 2024年3月14日 あなたの知らない京都旅
賀来千香子が 川合章子さんと 陰陽師 安倍晴明ゆかりの地を巡る!
真如堂の正式名は鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺。その本堂「真如堂」を通称して寺全体をそう呼んでいます。
本尊の阿弥陀如来は、比叡山の慈覚大師円仁の作。慈覚が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と祈ると首を横に振り 「都へ下って すべての人を 特に女性をお救い下さい」と祈ると頷いたのだという。そのため「うなづきの弥陀」と呼ばれている。
比叡山の常行堂に安置されていたが、100年後の984年 延暦寺の戒算(かいさん)上人の夢枕に阿弥陀如来が現れ「急ぎ下山させよ」と告げたことから、一条天皇の生母 東三条院(藤原詮子・道長の姉)の離宮に安置され、真如堂の始まりとなる。詮子も同じ夢を見ていたとか。
本尊脇侍の不動明王は、安倍晴明の念持仏とされる像。伝説によると 安倍晴明が突然死したとき、閻魔王に懇請したため、閻魔王は晴明を蘇生させ、あまねく人々を導くようにと 半分に割った貝の化石を使って作られた五行之印(決定往生の秘印)を晴明に授けたと伝えられている。
「晴明蘇生図」の絵巻が残る。陰陽道の魔除けの 五芒星(木火土金水) 水は火に勝ち、火は金属を溶かし金に勝ち、金は木を切ることが出来木に勝ち、木は土から出て土に勝ち、土は堤防などで水に勝つ。五行相克になる。
晴明は円融天皇の女御 東三条院(藤原詮子)や、一条天皇に仕えていた。
一条戻橋 :平安京造成時に造られた約6mの橋「一条戻橋」。平安時代、ここを通った遺体が一時的に蘇ったことから、あの世からこの世に戻れる場所として「戻橋」と呼ばれるようになった。
もともとの橋の名前は「土御門橋(つちみかどばし)」。橋の西側に屋敷を構えた安倍晴明が、使役する式神(陰陽道などで使われる鬼神・使役神のことで人の目には見えません。屋敷内の雑用から掃除、儀式などさせていた)を「妻が怖がる」と橋の下に封じ、用があるときに呼び出したと伝えられる。
晴明神社:天皇の住む内裏の鬼門である北東を守っていた安倍晴明の屋敷があったところで、亡くなった2年後、一条天皇の勅旨で創建され晴明が祀られた。厄除け、魔除けのご利益があるといわれる。社殿には晴明桔梗印といわれる五芒星の神紋 があしらわれ、境内には桔梗が植えられている。改修前の一条戻橋の欄干の親柱を移設している。
「安倍晴明肖像画」が残っていて、50歳を過ぎた頃 天文博士(太陽や月や星、風や雲の動きに異常がないか観察する 国家公務員のトップ)に昇格した。当時は星の動きが政治とか出来事を予測できるとされ、晴明は「天文密奏」といって 天文・気象に異常が見られた際に 状況と吉凶を占った結果を天皇だけに奏上していた。
厄除桃 (魔除けの道具) 陰陽師は 占いや 厄除けの祈祷を行っていた。
方位や干支が描かれた図を見ると 丑寅の方向が鬼門で(鬼が虎のパンツをはいて牛のような角がある)、鬼門の反対には申酉戌がいて桃太郎 桃が使われた)
当時陰陽師は 方位とか時間を元に占っていたので 日時とか方位が大事でした。出かけるときは陰陽師にその日で出かけても大丈夫か 方向は大丈夫か占ってもらっていた。
方違え(かたたがえ)は外出または帰宅の際に目的地に方位神がいる場合、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かっていた。
今日は良くない日だというと 物忌みといって 家に誰にも会わずにじっと籠って待っていた。
陰陽師は 上の丸い部分天を表し、下の板の部分は地を表す 六壬式盤(りくじんしきばん)を用いていた。丸い部分を廻し 天気を予想、病気の原因、生まれてくる子供の性別など 様々なことを占っていたという。
花山天皇 が即位する日を占ったり、一条天皇が外出する際邪気を払うまじないを行うなど天皇から絶大な信頼を得ていた清明。しだいに 陰陽師は藤原道長をはじめとする貴族とも関係を深めた。晴明は道長の娘 彰子の入内の日にちを占うなど、仕事や生活において道長専属の陰陽師であるかのように、様々なことを請け負っていたそうです。
神泉苑 は平安京遷都で大内裏の南に築かれた天皇の庭園で当時はもっと広大で、桜の花見の発祥地でもある。824年 弘法大師 空海が雨乞いの祈祷を行った聖地としても知られている。願い事を念じながら渡ると叶うといわれる 朱塗りの 法成橋。その先に 空海が インドよりお招きになった龍神様を祀る 善女龍王社。ここで 晴明の息子 安倍吉平も陰陽師として祈祷をして雨を降らせたという。
大河ドラマ「光る君へ」紀行
第1回 京都市
今からおよそ1200年前 平安京がつくられました。平安遷都1,100年を機に創建された平安神宮。
京都市北西部 小野篁卿墓・紫式部墓所 紫野(むらさきの)で 紫式部は生まれたとも晩年を過ごしたとも言い伝えられる。
第2回 京都御所・平安宮内裏弘徽殿跡・平安宮内裏内郭回廊跡・大極殿跡
現在の京都御所からは西に位置する 千本丸太町が 紫式部が生きた時代 都の中心である平安宮があったとされる。
第3回 京都市 風俗博物館は平安時代後期の宮廷行事や 貴族の遊びなど 当時の暮らしを今に伝える。
第4回 岩手県奥州市 歴史公園 えさし藤原の郷
第5回 京都市 市比賣(いちひめ)神社 平安時代創建で、京都の神社や寺などで継承されてきた雅楽を伝え広めようと、地元の人たちに雅楽指導を行っています。
第6回 山口県防府市 防府天満宮、周防国衙跡 清少納言の父親は百人一首の歌で知られる歌人 清原元輔です。山口県防府市は赴任した元輔について 清少納言が多感な少女時代を過ごしたとされる地です。
第7回 人と馬が息を合わせ 得点を競う打毬 平安時代、年中行事として宮中で行われていました。現在は宮内庁のほか、山形県山形市の豊烈神社や、青森県八戸市の長者山新羅神社で受け継がれています。
第8回 滋賀県長浜市 琵琶は7~8世紀ごろ中国大陸から日本に伝来し、源氏物語では琵琶を演奏する場面がたびたび登場します。北国街道の宿場町 木之本町は良質の生糸が取れることから、琵琶など和楽器の弦が生産され 昔ながらの糸を撚(よ)る伝統的な技法が守り継がれています。
第9回 奈良県奈良市 散楽(さんがく)は奈良時代に中国からもたらされた芸能で、曲芸や人形劇、滑稽芸、奇術など さまざまな芸がありました。東大寺の大仏建立の開眼供養で散楽も奉納されたといいます。平安時代には散楽は敬遠され 路上で庶民に芸を披露するようになった。やがて滑稽芸は能楽、人形劇は浄瑠璃といった新たな芸能へ発展、散楽は姿を消しました。2019 年東大寺でふたたび散楽が奉納されました。
第10回 京都市 平野神社は桜の名所で毎年4月10日に「桜花祭」が行われます。花山天皇が桜をお手植えした日に由来元慶寺は 平安時代創建の古刹で、花山天皇は藤原道兼の勧めによりこの寺で出家。しかし 出家は藤原氏の謀略であったと歴史物語『大鏡』に書かれています。出家して花山院となった後 巡礼で訪れた 兵庫県宝塚市の中山寺で仏を表す宝印を見つけ 廃れていた西国三十三所の霊場を再興したといわれています。花山法皇は巡礼した際に木の短冊に和歌をしたため 寺院の柱に打ち付けたといわれ、これが西国三十三所の御詠歌となり、今も広く親しまれています。
第11回 京都市 一条戻橋、晴明神社
第12回 京都市 八坂庚申堂 :「庚申」とは、十干(じっかん)と十二支を組み合わせた60種類で構成される“干支”のひとつ、庚(かのえ)・申(さる)を意味します。平安時代の貴族たちの日記にも、庚申の夜についての記述が残され、この夜は外出をすることなく ふだんよりも慎み深く過ごしながら、朝が来るのを待ったといいます。八坂庚申堂では 現在も 60日に一度めぐってくる庚申の日には、本堂で護摩焚きや、無病息災を願うこんにゃく焚きが行われています。
第13回 奈良市 春日大社は 御蓋山(みかさやま)の麓に 藤原氏によって創建された。藤原兼家や道長は 春日大社をあつく崇敬し、足しげく通いました。摂政となった兼家は、一条天皇に春日大社への参詣を勧め、円融院の反対がありながらも実現させた。
『生中継 古都の春 光る君へ千年の桜』
■大覚寺 望雲亭:光源氏のモデルといわれる 源融公の父嵯峨天皇の離宮が寺に改められ 大覚寺になった。中国の洞庭湖を模してつくられた大沢の池の湖岸にある。嵯峨天皇が大沢池に咲く菊を手に取り、始まったとされる生け花。貴族たちは龍頭鷁首舟(りゅうとうげきすせん)を浮かべ、雅楽と共に 水面に映る月を眺めていた。蹴鞠、椿餅 砂糖ではなく ツタのの樹液を煮詰めて作った 甘葛煎(あまづらせん)を用いた。
■園城寺 (三井寺):滋賀県大津市の 琵琶湖南西の長等山中腹の広大な敷地の中に位置し 1300年の歴史を持つ寺院です。創建は686年、859年に唐からもどった知証大師円珍が密教修学の道場として唐院を設け、天台別院として伽藍を再興し、平安時代以降、東大寺、興福寺、延暦寺 とともに四大寺院のひとつとされてきました。三井寺と呼ばれるようになったのは、 天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に産湯に用いられたという霊泉があることに由来しています。広大な境内にはソメイヨシノを中心に約1300本の桜が咲き、満開時には夜間特別拝観として一帯がライトアップされる。近年、湖面に浮かぶ月を楽しむように作られた 観月舞台(かんげつぶたい)アクリル板を敷き詰め、桜のリフレクション(反射)を撮影できるようにしたところ、SNSで大人気に。完全予約制だそう。着物の色重ね。
■長谷寺:奈良 桜井市にあって 「花の御寺」の愛称があり四季折々 花が楽しめます。399段の階段を登って本堂に。ご本尊は十一面観世音菩薩様で平安時代になると女性の参拝者が絶えず、「蜻蛉日記」の藤原道綱母 や「更級日記」菅原孝標女 もここを訪れた。この長谷の観音様は『源氏物語』や『枕草子』にも登場することで知られています。
さくらの名所
・京都御所 :左近のさくら
・東山 岡崎:道長の別荘 白河院がある。
・平安神宮:神苑には150本の紅しだれ桜。
・仁和寺:平安時代初期 888年に宇多天皇によって創建。御室御所(おむろごしょ)という別名の通り皇室と縁が深く、明治期まで皇族が住職を務めた格式高い寺院です。京都一の遅咲きといわれる 背丈の低い 御室桜(おむろざくら)背が低いことによって目の前で美しい桜の花を観賞することができる。
・平野神社:花山天皇が手植えした桜がある。(⬆にあり)境内には約60種400本の桜があるそうです。
・石山寺:桜並木の参道がある(⬆にあり)
・大原野神社:784年、桓武帝の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神である奈良春日大社の神々をこの地に祀られた。藤原氏の女の子が后になれるよう祈願。千眼桜 という 花びらが白く満開の期間が3日間と短い一重の枝垂れ桜は見ると願いが叶うという。
東寺 平安京の唯一の遺構
BS11 2024.3.27 京都夜桜生中継2024~世界遺産東寺を堪能する夜~
桓武天皇の平安京遷都の際に 都の東を守るために建てられた官寺(国立の寺院)が 東寺(教王護国寺)です。次の嵯峨天皇が、823年に弘法大師空海に東寺を託したことで、日本初の密教寺院となった。
都の西を守る 西寺、羅城門 も共に築かれたが 度重なる焼失で 再建されることはなかった。東寺も何度も焼失したが、その度に豊臣秀吉や徳川家康などによって復興された。
■南大門(重文):1895年に三十三間堂から移築された。境内に入ると 3万坪の広大な敷地に 金堂・講堂・食堂が南から北へと一直線に並ぶ 伽藍配置は平安時代からのもの。
■金堂(国宝):東寺の本堂で最初に作られたが 1486年 土一揆で焼失。現存の建物は1603年に豊臣秀頼の寄進により再建された。本尊である薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の像が安置され、周りに十二神将が並ぶ。
■講堂(重文):密教を伝え広めるために建立され 1491年に本堂よりも先に再建された。
羯磨曼荼羅は 弘法大師空海の手によるもので、教えを視覚的に表した立体曼荼羅として 大日如来や不動明王など21尊の仏が安置されている。
■食堂(じきどう):平安時代に建立され 本尊は約6メートルの千手観音菩薩でした。足利尊氏は東寺に本陣を置き この食堂に居住していたこともありました。現在の建物は、昭和5年に建てられた。
■五重塔(国宝):高さ約55mで木造建築では日本一の高さ。弘法大師空海が唐から持ち帰った、釈迦の仏舎利(遺骨)が収められている。落雷などで4度焼失 現在の五重塔は1644年に徳川家光が再建したもの。
初層内部は、心柱そのものを大日如来に見立て、心柱を背に如来像と8体の菩薩像が祀られ 壁や天井には色鮮やかな絵が描かれていた。
■御影堂(国宝): 弘法大師空海の住まいで、ここで講堂の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮をとりました。屋根は檜皮葺 、毎朝6時にお膳とお茶を 空海 に届ける「生身供(しょうじんく)」は生前から今にいたるまで続いている。
■不二桜:樹齢120年を超え、高さ13mに達するシダレザクラは、2006年に「弘法大師帰朝1200記念」に寄贈され移植された。「不二の教え」に基づいて命名された。
平安時代から現存
■宝蔵(重文): 慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建てられている。平安時代後期建立の校倉(あぜくら)造の倉庫で、東寺最古の建造物である。
■北大門をくぐると 現れる白い石畳の道、櫛笥小路(くしげこうじ)は平安時代の位置と道幅が変わっていない。京都は秀吉の頃に大規模な整備が行われたことで ここだけが唯一残っている。
■宝物館:崩れた羅城門の楼上で、都を監視していた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)が東寺の宝物館にある。鎖を編んだ鎧を着て 目を見開いた勇ましい形相は、武装した中央アジアの人物のようで、中国産のサクラで彫られている。
■今様(いまよう):平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて流行した歌謡で、七五調の4句を鼓、笛や笙などの伴奏を付け 白拍子などが歌い舞った。『梁塵秘抄』は後白河法皇が編者。
2024年 おすすめ サクラ名所
■神泉苑:大内裏の南に築かれた天皇の庭園 ⬆にあり
■大原野 天台宗十輪寺:本尊は延命地蔵菩薩。 平安時代初期の歌人で六歌仙のひとり在原業平が、晩年この寺に隠棲したとされることから「なりひら寺」とも称される。中庭に植えられている樹齢約200年の なりひら桜(枝垂れ桜)が美しい。
■渉成園(しょうせいえん):東本願寺の飛地境内地とびちけいだいちの庭園。1641(寛永18)年に三代将軍・徳川家光から当地(約1万坪)が寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされました。庭園には四季折々の花が咲きほこり、変化に富んだ景観は「十三景」と称されています。東本願寺 飛び地境■渉成園(枳殻邸):東本願寺の飛地境内地。徳川家光が寄進し、作庭した庭園です。平安時代前期には 光源氏のモデル源融の別荘があった。⬆にあり
■伏見 御香宮神社:貞観時代に香水(名水)が湧き出したことから名づけられた、御香水は環境省名水百選の一つ。五間社流造りの本殿ほか桃山時代の建物が並ぶ。神功皇后を祀る。鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍(薩摩藩)の陣所となり、南側の伏見奉行所の幕府軍(新選組 会津藩)と対峙した。
伏見十石舟は船着き場で 伏見城築城のため作られた。現在は観光で運行 宇治川派流の水面が鏡のようになり、美しい桜並木が映りこみます。伏見であい橋は 映画「君の膵臓をたべたい」のロケ地で桜の穴場スポットです。