GoogleマップでWeb旅行!李白長江を行く& 中国 大路通天 中国横断国道318号線&空海

NHKBS 空旅中国 李白長江を行く(南京から三峡へ) 大路通天「中国横断・ヒッチハイクの旅」見ました。詩が残って歴史が証明された。中国の今の姿 すぐ忘れてしまうので 備忘メモです。

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NHKBS 空旅中国 李白長江を行く(南京から三峡へ)

初回放送日: 2022年1月29日 語り・宇崎竜童
唐代の詩人 李白(701~762)は大河 長江流域の出身。都で活躍も失敗し長江に戻り 旅が始まる。

長江の河口は 幅40kmもあり 中州に60万人 住んでいる。 遣唐使がついたところ。
李白はダイナミックで自由奔放な作風 「白髪三千丈
400km さかのぼり 南京へ 南京河西城市生態公園
南京は3世紀 古代王朝の都だった。水上交通の要衝で 川の中州に灯台。
李白は西域に生まれ その後 蜀(四川省 成都)に暮らし 24才で旅に出た。商人の家なので科挙を受ける資格がなかった。宮廷から41才の時 声がかかり 宮廷詩人になり 長安で 玄宗 楊貴妃をたたえる詩を残すが やがて宮廷を追われた。
中国では学校に行く前から子供に 李白の詩を覚えさせる。

秦淮河 Qinhuai He 唐の時代からある 南京きっての繁華街
・安徽省 査済古村 昔ながらの製法で作られる餅米の「米酒」度数は8度。
親しかった杜甫は「李白は酒を1斗飲むと 詩を百篇作る」と書いていた。

はるか チベット高原の氷河に源を発す6000 キロ 流れる長江。
1300年前 長江をゆく船の上にいた。朝廷を首になったのち 都長安を去って 各地を巡るうちに いつか来た道 長江に戻ってきた。そして 長江を上っていった。

向きを変えずに乗り降りできる 左右対称の渡し船、長江に20世紀後半まで橋は架けられていなかった。
野菜を運ぶ農夫が乗っていた。ここには 青空市場 大通水駅が置かれ 大通古鎮と呼ばれていた。

魏万は李白の大ファンで何千キロも追いかけて ついに巡り会った。
李白は感激して 詩の編纂を魏万に頼んだ。

都での活躍ゆえ各地で歓待された。
ある村から 招待状が届いた。「桃の花が10里も続き 酒屋が1万もある」の誘い文句で訪れた 長江支流の桃花潭。山紫水明 桃源郷のような村だが「桃花」という川と「万」という酒屋だけしかなかったが 李白は満足した。

李白はもう一度都で一花咲かせたいと思った。
朝廷に反乱が起きたという。動乱から氷河に削られた岩山の廬山に身を隠す。
ここの五老峰に隠れ「廬山の瀑布を望む」銀河が天からら落ちてきたと詠った。
千人洞:李白も少年時代から 道教に強く惹きつけられていた。道教は仙人となって現実世界を超越し不老長寿の薬を得て 自然と生きることを理想とした。

朝廷から混乱を避けるために 派遣された皇太子永王が 参謀に迎えたいと言ってきた。
李白は 兵を率いる軍船に乗り込んだ。
廬山のふもとに拡がる 鄱陽湖 中国最大の淡水湖(今は渇水期で1割程度の大きさに縮む)広大な湿地は野鳥の楽園だ。

まもなく 永王 は玄宗皇帝の跡を継いだ兄と仲違い、やがて反乱軍として殺されて、李白も一味として捕まってしまう。
鄱陽湖の畔 靴山島 天女の忘れてきた靴がに似ているのが由来だそうだ。

河北省 洪湖市 一面に拡がっているのは カニの養殖場。李白も詠っていた。

流刑になり さらに上流 野郎(可楽古夜郎遺址)に流されることになった。

武漢に古くからの 黄鶴楼がある。李白は若き日 訪れたことがあった。囚われの身ながらも 宴会を開いてもらった。
普通なら3ヶ月で行ける道のりを あちこちの宴会に呼ばれ 1年以上かけていったというから驚きだ。

河口から1300km 地平線の彼方まで続く 曲がりくねり直線で80Km 実際は3倍の長さがある。
中国を貫く大きな龍も時に牙をむく。
ここは水上市場。川底の砂が商品。船に積まれて売られる。買い手も船でやってくる。
長江が長い時間をかけて運んで来た砂。暴れ龍の置き土産だ。

はしけに大型車自動車が何台も積まれ それを船が押している。ミニカのようだ。さすが長江、中流に入ってもスケールが違う。

長江につながる洞庭湖(どうていこ) 中国第2位の広さの淡水湖、琵琶湖の4倍。
湖の畔に建つ岳陽楼。唐代には「天下の楼」とうたわれ 李白も訪れた。
古来ここからの眺め絶賛された。

長江中流 この一帯は湖が多く 1000年前の人々は選りすぐりの8つの絶景を 瀟湘八景(しょうしょう はっけい)と名付けた。日本でも○○八景 金沢…、近江…と呼ぶようになった。
洞庭湖で見られる八景は 遠浦帰帆(えんぽきはん)と洞庭秋月
中国では 中秋の名月は 一家団欒を楽しむのが習わしだった。

洞庭湖に注ぐ 汨羅江(べきらこう) 。ここに一面咲き誇るのは タデ科の花、あの「蓼食う虫も好き好き」の蓼です。さらに1000年前 戦国時代 楚の詩人・政治家 屈原が川に身を投げ亡くなったところ でした。屈子祠がある。

屈原の悲劇を生んだといわれる ドラゴンボートの発祥の地。沖縄のハーリーや 長崎のベーロンもそれが伝わったものです。屈原を救うため多くの ドラゴンボートが川にこぎ出した。
ドラゴンボートの工房もこのあたりに集中し、船の先頭に 厳粛な作法で龍の頭が付けられる。

河口から1800kmの上流まで来た。山に挟まれて 川幅が狭くなってきた。
明月湾というところ 長江は三日月のように曲がり 凡そ70度の鋭角で急カーブする。
このあたりの風景は 李白が生きていたときと大きく変わった。この上流と下流にダムが相次いで作られ水かさが増した。(三峡ダム湖の長さは四川省重慶までの約600km)
多くの村が沈んだ、無事だった村もある。李白の訪れた村はどうか。

断崖絶壁が迫ってくる。罪人として運ばれる李白 流刑地の 野郎にも着々と近づいていく。
こんな上流にも コンテナ船。長江は上流も物流を支えてきた。山間部では陸上の道が頼りなかったため 船が重要な運搬手段だった。 灯台がここにもある。
ミカン畑の段々畑 、運搬用の機械が動いていた。
余家砦という村があり 数千人の村人がいて 山賊稼業で 船を見つけると積み荷を奪っていた。金目の物すべて奪って リレー形式で山の上まで運んだ。

どうやって 長江をさかのぼったんだろう。その答えが今も支に残されていた。
ナント 男達が歌で慰めながら 船を引いている。棹をつきさして船を進めていた。こんな急流つらかろうに 李白も詩に残していた。

歌の言葉には民衆の思いが込められている 社会の上に立つ者は それを注意深く くみ取らねばならない という考え方が中国にあった。李白が詩を武器に世の中を動かそうとしたのも 言葉の力を信じていたからであろう。

山が色づき始めている。標高が上がってきた。ここは巫峡 前後に大きな峡谷が連なりまとめて三峡と呼ぶ。李白が通ったのは冬だったらしい。
最近できた奇妙な展望台。ナント床がガラス張り。吊り橋もガラス張り、青い靴は滑り止めだそうだ。

特に三峡の中程には絶景が多く 古来12の嶺が優れていると言われてきた。その1つを李白が詩に詠んだ。「神女峰」古代楚の国で王様の夢に神女が現れ「私は巫峡の山の神女 雲や雨に姿を変え再び参ります」。これを引用して作ったのが都長安で宮廷詩人っだた時の作品。 李白が楊貴妃の美しさを褒め称えたのにクレームがついて 長安追放につながった。

Photo by TONY SHI HOU TANG on Unsplash

李白の詩を味わえるのも紙と筆があったからこそ、唐の時代からあった「宣紙」その産地が支流沿いにあります。安徽省小嶺村 今も100軒以上の工房があり青檀という樹を用い伝統的な工法で宣紙作る。
試し書きした 李白の詩の一節「日本晁卿」の文字 晁卿とは遣唐使として 唐に渡り政府高官になった阿倍仲麻呂のこと。李白と同世代で 仲良くしていたらこそ こうして残っている。

支流の1つ 小三峡 ダムができる前の水深の浅い昔の三峡の様子を残しているといわれる。

目のくらむ断崖絶壁 水平に走った亀裂の中に木の箱のようなものが並んでいる。懸棺と呼ばれるひつぎで 近くに住む少数民族のものだそうだ。

李白が三峡を通るときに創った詩には 逃げることもかなわない奥地、心労で老け込む我が身 悲痛な叫びが刻まれている。

河口から2000km 李白の船は三峡の最も奥 瞿塘峡(くとうきょう)に入った。
見えてきたのは 白帝城 三国志で知られる 蜀の劉備が没した地。

都から恩赦の知らせが届いた。朝廷が干ばつを止めようと 天に祈願するのに恩赦が行われた。
李白は 再び都に戻る喜びを詩に残した。
しかし 3年後 長江下流の村でひっそり生涯を終えた。享年61。

NHKBS 大路通天「中国横断・ヒッチハイクの旅」

上海からチベットを横断する 中国最長の国道318号線 G318 を中国人ディレクターがヒッチハイクする。今の中国を生きる人々は何を思うのか。絶景に美食、人情味たっぷりの出会いなど、今日の中国の息吹をつぶさに伝えるドキュメンタリー。

上海 郊外 G318 スタート、なかなか ヒッチハイクの車が捕まらない。(中国のクルマは右側通行でした)
ようやく 退役軍人の車に乗せてもらう。役人の世間話

江蘇省 京杭大運河を横断 …北京から黄河と長江を横断し、杭州へと至る全長1794km。紀元前5世紀に開削が始まり、6世紀に隋の煬帝が完成させた。

三輪バイクで 震沢へ 清の乾隆帝が西欧と向き合う
太湖:中国第3位の湖
善璉:筆作りの街 毛沢東時代は筆がよく売れた。国策の苗木ビジネスの社長と話す 子供の病気のこと聞く。
乗せてくれた人 実家が旅館 お客の話 誤ってコロナのアプリのボタン押したら アプリが真っ赤になって 、警官が来て、PCR検査させられた。陰性が認められ 正常な生活に戻すのが大変だった。年寄りは間違って押す事あるよね。

48時間以内のPCR検査 陰性の証明書を持って 安徽省九華山へ入った。ここは 厳しい仏教の聖地。1000m級の山々に80以上の寺がある。祭っている地蔵菩薩は地獄に落ちた人も助ける。中国は 近年 仏教ブームです。高台にたたずむ99mの地蔵菩薩像 。高低差400m 800段を超える階段、そこを 80kg以上の野菜を両天秤で 山の上の寺に運んでいる人がいた。1回900円程度で日に5~6回運ぶそうだ。

西に進むこと2日 今回の旅 初めて長江とで会う。濃い霧が発生 待たされて ようやく 連絡船で長江を渡る。安徽省 安慶市に着いた。

西へ進むこと1日で潜山市の山のふもとのレストランに。この地方では 客が厨房に入り 素材を選び 調理法を相談。まかないを食べてる 人と雑談を楽しむ。方言は難しい。

のせてもらった人と この辺「人がいないね」と話す。
安徽省 西部にさしかかる。高速道路ができ 国道318号を通る車は激減。起伏の激しいところで 再び 車は停まってくれず 歩き続ける。

11月下旬 旅を始めて1ヶ月近く 中国中部最大の都市 武漢に着いた。
コロナが起きて 武漢はどうなっているか 海鮮市場の方へ行ってみた。市場は移ったそうで フェンスが張られていた。近くのターミナル駅は人通りの多い区域だったが閑散として空き店舗が目立っていた。
国道に戻るタクシーで聞いた話。コロナは深い影を落としている。はじめは何も知らせられずに ロックダウン。20日くらい外に出られなかった。中国政府の発表で 感染者5万人以上 死者3869名でした。
コロナを完全に押さえ込みに成功したとして 今は長江を挟んだ両岸の高層ビルで盛大にライトショーを行っている。

武漢は100以上湖を持つ都市と言われる。その周辺は農産物が豊富な地域として古くから民謡に歌われている。武漢の南部にある 嘉魚(かぎょ)に寄り道して 李さんデュエットした。
嘉魚はレンコンの名産地。
ミャンマーでネットで詐欺を働いたと43名 支配指名されている看板が出ていた。若者ばかり しかも第2グループ 、貧富の差は拡大し ネットで豊かな暮らしを見る 若者の焦燥感半端ないと思う。自分が必死でがんばっても 絶対手に入らないとわかると。

武漢から 西へ200キロ 三国志の関羽ゆかりの街 荊州。旧市街を囲む城壁 中国で1番の歴史を持ち 最っとも多くの王朝を跨いだ。旧市内は再開発の影響もあって 多くの店が閉まり 閑散として失業者だらけだ。タクシーの運転手に聞くと 8月に市内一斉にPCR検査したそうだ。コロナ下の生活を聞いた。

長江沿いに 国道318号線は走り、108kmもある絶景の 湖北省の 恩施大峡谷へ到着、東洋のグランドキャニオンといわれカルスト地形で 絶壁桟道 488m続く。回音谷(やまびこの谷)

民宿の主人に乗せてもらう。外食代が高い 子供に 良い教育を受けさせると とてつもなく高い。

12月中旬 四川省の東の 万州に。2009年に完成した三峡ダムの最大の移住先となった街。市街地の半分近くが水の底に沈み 26万人が移住を余儀なくされた。
李さん マッサージを受けた先で聞いた話。移住させられたご夫婦で 10年ほど前大改造プロジェクトがあった。当時のトップは外資の導入に成功し 地元で人気を博した 薄熙来だったが 汚職・スキャンダルの摘発により失脚した。そのため 計画は全部流れた。

西に進むこと3日間 成都に着いた。成都は三国志の蜀の都で 四川省の経済の中心地で 最近 西部大開発の拠点都市として著しい発展を遂げ、現在人口 2000万人を越える。
街を散策すると 新聞を閲覧できる掲示板があった。日本 自由民主党 憲法改正へ指導、とかアメリカの記事だった。
人口増加は街に活気をもたらしたが、富の分配における矛盾も顕在化した。
有名な 女性のライブ配信者が約117億円脱税したニュース。
今回の旅はここまでと決めた。
夜 繁華街に出た。中国政府の発表で2021年340万以上の企業が倒産し 1億人以上の人が失業しているとみられる。中国 今一番国力が充実しているといわれてる…。

大路通天!~中国横断・ヒッチハイクの旅 チベット編~

NHK BS 2023年12月21日
中国の国道318号線をヒッチハイクで走破する旅ドキュメンタリー第3弾。上海からチベット自治区のダム鎮という街まで 中国を東西に貫く 最長の国道で 全長 5476kmを中国人ディレクター 李忱が旅する。
・2021年11月 「今の中国を生きる人々の本音に触れたい」という思いで上海をスタート。
・2022年9月 上海から3300km地点を通過、 いよいよチベット自治区 という地点で、当時ロックダウン状態のチベットに入れなかった。
・2023年 3月中旬 長江上流の大河 金沙江を渡れば チベット自治区 という地点から 再スタート。ポタラ宮(ラサ)まで 1420km。
・ヒッチハイク開始、工事車両を運転する 四川省から出稼ぎにきていた運転手。学校に設置する暖房を取り付ける材料を運んでいた。運転手から聞いた話では こういった仕事は政府が公募を出したもの、漢民族が仕事し 契約で現地のチベット人を一定数 雇用し 彼らを育てなくていけない。文字を書けない人が多いが子供達は成長しているので、大丈夫 大事な仕事も任せられる。アップダウンの激しい道が続く。
・3日目 国道で最高の海抜5130mの ドゥンダ・ラ峠を越える。チベット人の運転する車に乗って 村の温泉に。入湯料は300円 水着着用で入浴。温泉が豊富で昔から湯治する習慣があった。8年前政府が出資して銭湯と宿泊設備を作った。年間の売り上げ日本円で1000万円 それを村の住民に分配していた。
温泉の入り口には「貧困扶助銭湯」とあって 、湯船の壁に張ってある スローガン「少数民族には漢民族が欠かせない」 ちょっとモヤモヤした。
・国道は蛇行し 高低差1500mを越えて谷底へ下っていく。甘粛省の南部からラサへ 徒歩で2000km余りも 行く巡礼者達に出会う。一日30km以上 時には険しい近道を行くチベット人達。
・国道は谷底に降りると 道はどんどん狭く険しくなってきた。そばを走るのは中国 屈指の大河 怒江。国道318号一二を争う難所で、無数の細かい石が堆積してつくられた崖で脆さを物語る。春になると地滑りや山崩れが頻発する。

・紺碧のラウォ・ツォ湖(然烏湖) 今から200年ほど前 地震で崩落した山が川をせき止め 生まれたと言われる。湖面の標高 3850m、国道は湖畔の北を走り 谷に向かう。
・3月下旬 ヒマラヤ山脈 の一番東の裾野に位置するポメ県(波密県)
・国道318号の歴史を物語る古びた壁画があった。1950年中国人民解放軍が毛沢東の指示で、西に進軍 チベットへの道も切り開く工事を開始 延べ11万人が参加、3000人以上が命を落とし完成したのが 国道318号線 ラサへ通じる道でした。
・甘粛省から4年前にきて インフラ工事に携わっている人に乗せてもらった。チベットの方が稼ぎが良く多くの同郷の人が来ているという。チベットの人達は今潤っている。子供達が学校に行かず冬虫夏草を採って1~2か月で数十万稼げる、子供は大人よりよく見つけるので学校にあまり行かないので、政府は学校に行かせたいから補助金を出している。それからインドとの国境地帯に住むだけで 漢民族でもチベット民族でも 政府から一人年間10万円以上もらえ 甘粛や雲南から移住してる人もいる。
・3月末 上海から4000km地点を通過し 太陽の玉座と呼ばれる ニンティ(林芝)地方に到着。1年中インド洋からの温暖な気流の影響を受け チベット一緑に恵まれた地域。
山あいを悠々と流れる ヤルツァンポ川(雅魯蔵布江) は源流の標高が世界一です。ヤルツァンポ川がヒマラヤ山脈を横切り大きく曲がったところに 名峰 ナムチャバルワ峰(7782m)がそびえる。
狩猟を生業とするコンボ人が 春の到来を祝う祭りで、弓を射て腕前を競う。 命中した人に白い布を架け酒を勧める。周りの人も酒を交わし かけ声と共に歌うのを見て 都会暮らしのディレクターは羨ましかった。
・無料の高速道路ができて すっかり人気のなくなった街、五体投地をしてラサに向かう人に遇った。8回拝んで前に進む彼らは 四川省 西北部から 4年かけ ここにいた。近くに車が停めてあった。

・また 標高5000m地帯に入り 峠を越えればラサです。雪の ミラ峠 標高5013m (米瓊拉) 色とりどりの経文が書かれた魔除けと祈りの旗「ルンタ」がはためく。
・出発して 3週間、国道の隣を キチュ川(拉薩河) が太地の西に向かい流れる。大きな橋があって川岸には人だかり、「ラーソル」といって土地の精霊や仏を拝み 松などを焚いて焼香 酒や主食のツァンパを捧げていた。男達が魚を放し 「ツェタル」 (捕らえた命を助け自然に返す 徳を積む行為)を行う。「ルンタ」を橋に結ぶ。
・4月の始め ラサに到着。人口およそ60万人、近年商売などを目的に漢民族の移住が進む。一方 東側の旧市街には多くのチベット人が暮らす。旧市街の老舗茶館に入ってみた。ここは 早朝から夕方まで ぎっしりの客が 1杯 1元(19円)のミルクティーをすすりながら 他愛のない話をしていた。
古都 ラサは 7世紀に チベットを統一したソンツェン・ガンポによりチベットの都と定められ 1300年以上 チベットの政治的・宗教的中心地として 続いています。
ポタラ宮は 世界遺産に登録されて、ダライ=ラマの居住する巨大な宮殿でした。
大昭寺(ジョカン寺) 7世紀に建てられた、チベット仏教の信者の もっとも聖なる聖地で バルコムという巡礼路を時計回りに歩く信者、五体投地をしている人がいる。
ジョカン寺は 1966年の文化大革命 で中国共産党により 全てが粉々に破壊された。その後大掛かりな修復が行われた。巡礼の中 毛皮を着て撮影する人、マニ車を回し功徳を積む人々の中 停めて撮影する人がいた。今まで見てきて チベット人は怒りを現していない 2つの顔がある。あるときは穏やかだが あるときは沈黙に包まれる。微笑みに優しさと寛容を感じるときがあるが、外から来た人を拒む 反感を感じるときがある。チベットには 複雑な事情があると感じられる。
・4月下旬 国道318号 上海から5000km地点を通過し 無人の荒野を進む。
南にそれ 峠から チョモランマ(エベレスト)を望む。
ニャラム(聶拉木鎮)に到着、終点のダム(樟木)鎮 はあとわずかだが、「道路状態が悪く入れない」と足止めを喰らう。思うように行かないことがある。(終)
これより西へは 体感!グレートネイチャー 大遡行!ヤルツァンポ川〜聖地を生んだ大陸衝突〜(こちらに)

空旅中国 名僧たちの足跡 「鑑真の見た桂林」

初回放送日: 2022年2月
奈良・唐招提寺を開いた中国の僧侶 鑑真の旅を紹介。
鑑真は742年入唐僧の栄叡・普照の請によりわが国への渡来を決意し 約12年、その間 5度にわたる渡航の失敗を経験、753年6度目の試みで日本に渡ってきた。
5度目の旅は揚州を出て 日本を目指し 東シナ海に乗り出したが 船が難破し 1800キロ南にながされ 海南島に漂着。 鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。なれない南方の気候に栄叡が疲れ果て 桂林に向かう。
山中にある気候穏やかな桂林の棲霞寺(せいかじ)に滞在。山水画の世界、桂林の絶景を味わったとされる。棲霞寺に鑑真の袈裟が残っている。旅を再開 端州の地で栄叡が死去する。揚州までの間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。

桂林は 奇山・奇石が多く山水画を思わせるカルスト地形の風景は昔から多くの人に愛されてきました。
漓江では鵜飼い漁で鯉をとる。

有名な景観は 象山水月、コウモリの岩、冠岩幽洞、楊堤風光、九馬画山、五指山、タニシ山、美女照鏡、月亮山などがあります。
黄布倒影は、20元札の裏側のデザインに用いられている。

空旅中国 名僧たちの足跡 「空海と川に生きる人びと」・「空海が越えた峠」

初回放送日: 2022年1月
804年 空海は唐の都・長安を目指し遣唐使船に乗るも、嵐にあい予定より 400キロ 南に漂着してしまう。そこから元のルートまで福建の山岳地帯を進む「まわり道」をすることに。

空海らの一行が命からがらたどり着いたのは 赤岸村。干潮になると広大な干潟が現れます。空海一行は身分を証明するものを持っておらず 上陸を拒まれ、空海は漢文でこの地を治める地方長官に手紙を書き ようやく受け入れられた。空海の記念堂がある。
福建最大の河 閩江(びんこう)は川幅は1キロ 長さは500キロ もあります。福州は海のシルクロードに位置し お茶や陶器を輸出する重要な貿易港として発展しました。しかし当時はそこいら中に水たまりのあるような 湿地のような場所でした。空海一行は 空に星があるうちに出発し 再び星が見える時まで進み続けたと言い伝えられる。幾重にも山が重なる福建は当時険しい山道ばかり。代わりに河は主要な道として使われた。閩江には 今でも家を持たず 河で暮らし続ける人がいる。その歴史は古く 現在のベトナムあたりにあった 越の末えいと言われる。当時 閩江の急流をさかのぼるには 地元の人達が腰まで水につかり 船を引き続けなければいけなかった。疲れ果て 急流に飲まれる命を落とす人も少なくなかったといいます。
福州を出発して 200キロ 南平です。川の合流地点が町の中心で、唐の時代 多くの人や物が行き交い水上交通の要衝でした。ダムが建築されるまで南平は水害に悩まされていた。
閩江の上流まで来た 空海一行は船を下り(建甌) 山岳地帯を歩き続けた。

福建省の茶畑でお茶を味わったかもしれません。
福建省と浙江省にある 仙霞古道(せんかことう)と呼ばれる 全長120kmの山道は 古くから交通の要衝とされてきました。ここには軍事的防衛のために 9つの関所が置かれ 税金の徴収なども行われていた。その1つ 楓嶺関(ふうれいかん)と呼ばれる関所です。ここに空海が旅したことを記念し銅像が建てられた。
福建省と浙江省を隔てる 仙霞峰(せんかれい)
深い山中に突然人里が現れた 二十八都です。村には山から水が湧き出し、その水を使い豆腐が作られる。空海はこれを日本に伝え 高野豆腐になったと言われる。二十八都は福建省、浙江省、江西省の境にあり 別名 鶏鳴三省と呼ばれます。紛争が少ない地で 周辺から多くの人が集まり 様々な文化が混ざり合い 独自の文化が生まれた。
二十八都を過ぎると 最大の難所 仙霞峰の峠越えです。最盛期には1000人を超える 天秤棒でお茶など荷を運ぶ労働者がいた。
山岳地帯を抜けると広大な平原が広がっていた。手前に不思議な形の山 江郎山です。

そして河に戻ります。富春江です。三都村に住む人は福建から越してきた人達で船の上で暮らしていた。今でも河のそばで暮らす。

空海らはようやく杭州に着いた。東シナ海で遭難しなければ、とっくにこの杭州を経て長安に着いていたはずである。ここからはまた「京杭大運河」の水運である。