GoogleマップでWeb旅行!中国 世界遺産 雲崗石窟・武当山・黄山

雲岡石窟 北魏では皇帝が仏になり祀られている。皇太子を産んだ妃を殺害する制度があり 馮太后は義理の孫の孝文帝を養育した。☆永楽帝の築いた武当山には 100を超える道教のお堂がある。☆1億年前にできた花崗岩地帯に押し寄せた2つのプレートが引き起こした大隆起で 奇峰・怪石・冬雪・立体山水画 が生まれた黄山

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愛と異端のシルクロード 雲崗石窟

NHK BSP 初回放送日: 2022年3月19日

世界遺産 雲崗石窟は モンゴル高原近く 山西省 省都大同市 西へ16キロに位置する。
レンガの城壁の残るこの町は かつて 平城(へいじょう)と呼ばれ、5世紀 シルクロード東の拠点として繁栄した。平城は雲崗石窟を造営した北魏(386年ー534年)という王朝の都。
中国の著名な女優・趙濤(チャオ・タオ 「青の稲妻」2002年 という大同市が舞台の映画で主演)が案内。当時 大同は石炭の採掘が盛んで 石窟は黒い粉をかぶっていた。今回は白い雪の中 -20°。

第5窟~第13窟 北魏最盛期

雲崗石窟は東西1kmの断崖に穿たれた254の洞窟があります。

第12窟 別名「音楽窟」正面壁に弦や管、打楽器など 14種類を手にした 最も古いオーケストラが刻されている。壁面をくまなく覆う彫刻群。堅い岩壁を直接ノミで彫り 彩色を施した芸術品。

奥に 石窟を彫らせた 供養する人も彫られていた。これは大興安嶺山麓に住む 鮮卑と呼ばれた 馬で放牧や狩りをしながら移動する民族で 現在オロチョン族と呼ばれる人が住んでいる。肉や乳製品が主食で 政府による定住政策が進むまで 狩猟採集生活で テント暮らしをしていた。

第16窟~第20窟 曇曜五窟

曇曜という僧侶が北魏の皇帝に命じられ最初に大仏を作った。
第20窟には露天の座仏。高さ 13.7m 台座含め16m 鼻が高くて丸顔 大陸東北部の山麓からやってきた民族のリーダーの姿です。袈裟が特別で 厚みがありラシャやフェルト製品みたいです。
ガンダーラ つまりパキスタンの山岳地帯の特徴、 2世紀ころガンダーラ地方で誕生した 仏像制作がこの地で 独特の発展を遂げていきます。

壮大な美の殿堂を作ったのは 大仏の現し身の皇帝たちの夢でした。
私は 皇帝であり仏である。私は地上を治め天を治める 名は 北魏の初代皇帝 拓跋珪(たくばつ けい)。戦乱の時代 30年続いた王朝はなく 民の数は激減した。私が乳飲み子の時父は殺された。 戦に負けると 一族は皆殺し 良くて禅院奴隷になる。私は 勇敢な母のおかげで実家に逃げ込めた。そして 14才 私は一族のリーダー 大人(たいじん 部族長)に選ばれ、草原の民である鮮卑を束ね 中国の中心部 中原へ進軍した。」

LoggaWigglerによるPixabayからの画像

当時の中国は5胡16国時代と呼ばれていた。
皇帝即如来 国を安定させ 仏法を守る王者は生きた如来である。

皆10代半ばで即位した 北魏初期の5人の皇帝たち、仏の道を実践する為政者(いせいしゃ)として振る舞うことで 国に平和をもたらそうとした。

第19窟には、明かり窓を通じてこの世界を見ています。巨大な坐像です。
壁には無数の仏、数々の脇侍。

かつての丸い岩山を人の手で削り断崖にすることから始まった。階段状に足場を築きながら 空洞を作る。その過程で おおまかな姿を壁面に彫る。そして足場を作り 細かく彫り 彩色した。
当時の平城には 100万人が住んでいた。

第18窟は、左手を胸に小指を浮かした不思議なポーズで 立ち尽くしている。さらに衣には小さな仏をびっしりと浮き彫り。
北魏の3代皇帝 拓跋燾(たくばつ とう) 狼王の姿とされる。15才で即位戦いに明け暮れ 中国の北半分を統一した。中原のみならず西域にも遠征 河西回廊と呼ばれる シルクロードの要衝を陥落させた。莫高窟の造営が始まった 敦煌も支配下に入れた。莫高窟は粘土の像、壁画には圧倒的な力がある。
タクラマカン砂漠のオアシス国家を次々と攻めた。平城はシルクロードの出発点となった
西域やアジアの文化はここに集中させた。大仏の脇には菩薩や弟子の姿があり 顔立ちは実に様々。
釈迦の10大弟子である像は異国の人の顔立ち 国際色にあふれる。
歴代皇帝が帝国運営のため手厚く保護した仏教。

北魏 皇太子を産んだ妃を殺害

第11窟 小さい付属洞窟がたくさんある。周囲一面が小さな仏龕(仏像や経文を安置するために壁面や塔内に設けられた小室)で埋め尽くされている。
1つ1つが仏教徒が金を出し合って作り、あるものは54人で国の興福のため仏像のユニットを作りその54人(男子18人 女子36人)の姿も彫った。女性の地位の高さがうかがえる。

女性をモデルにした像も多数。鮮卑の国は女国と呼ばれたこともあった。
女性の強さは統治の上では危機をもたらすことが多かった。妻の親戚一同が口を出すからだ。
故に 皇太子を産んだ妃を殺害する制度を確立した。何代にもわたって幾人かの女性か犠牲になってきた。

第5窟は入り口を木造の楼閣で飾る。2階の東の端に仏となった女性の像 雲岡で一番美しい。息子のため犠牲になった母親と重なる。

馮太后は実質的な最高権力者 義理の孫の孝文帝を養育

第9窟 本尊前にある部屋には脚を交差している交脚菩薩 弥勒菩薩 半跏思惟像 がたくさん並んでいる。ギリシャ神殿のような柱 その一面を飾る 無数の仏 インドの影響で東洋と西欧の文化が融合。
主尊は 5世紀後半 北魏の最高権力者 馮太后(ふうたいごう)、両隣で敬意を表すインドのバラモン像。

馮太后「私は国の母 北魏に滅ぼされた小さな国の王族だったが機会を得て 4代皇帝 文成帝 の妃となった。文成帝が崩ずると幼い皇帝 拓跋弘 を育てるが成長するにつれ 振る舞いが尊大になり 私と対立するようになり 17才で私のもとを離れた。上皇になり権力を握ろうとして 5年後 毒殺された。
なき皇帝の残した幼子 やはり母親は死を賜りいなかった。私は この子 拓跋宏を育てることにした。
この子はのちに 孝文帝 名君の1人となった。27才にして 新たな皇帝の祖母となった私はこの子を養育することで 国の最高権力を握りつぶした。」

第10窟は孝文帝と馮太后の第9窟と隣り合わせ。ほぼ同じ形で 通路でつながった双窟です。
第10窟の入り口前の壁面に2体の仏が対になって向かい合っています。過去を築いた馮太后と現在を築く孝文帝。北魏の民達は二聖 または聖皇聖母と呼んだ。

馮太后は実質的な最高権力者として 孝文帝の名で 次々と新しい政策を打ち出した。
その1つが 農民の戸籍と土地の管理を国で行った(均田制)

日本にも受け継がれ 奈良は平城京と呼ばれ 班田収授法と受け継がれた

第6窟は馮太后と孝文帝 二人の統治の時代最盛期に作られた。
雲崗石窟で一番美しく、 像は3200以上あり一番多く、一番大きい中心塔柱窟。
一番下は庶民達の姿、次は王宮 つまり釈迦の家のこと 釈迦の誕生から悟りを開くまでのエピソートが連なり、3段目は立ち上がって教えを説き始める釈迦の姿 四方八方に説法し周辺の国々に仏法が広がって行く。さらに上に行くと仏の国の天空に達する 段階的な表現です。

維摩文殊の対間像:釈迦を中心に 世俗の男と文殊菩薩が語り合っている。
「不二法門」互いに相反する2つのものは 実は別々に存在するものでない、生と滅 善と不善は対立するのではなく 元々1つのものであった。漢と鮮卑 農耕民と放牧民が 別々のものでなく1つのものである。
馮太后と孝文帝 民族融合・文明融合のあらたな中華文明を構想していた。

僅か23才で最高権力を握った馮太后は49才でなくなる。大同の北の山の上 巨大な墓(永固陵)に眠っています。
義理の孫の孝文帝の造営で、隣に 小さく質素な孝文帝の墓があります。

龍門石窟

馮太后の死後3年後 夢の実現のために孝文帝は都を南の 洛陽に移します。
雲崗石窟に変わり ここ 龍門石窟を作った。 ここには 孝文帝のうつしみの大仏 があります。
賓陽中洞 孝文帝のために息子が作った洞窟で 功徳窟という。鼻が高く眉が濃い 胡人のイメージもある。来ている服は中原化している。
洛陽に移った 孝文帝さらに大胆な 民族融合政策を進める。鮮卑語を禁止し 服も漢民族風に 姓も漢字1文字にするように命じた。
皇帝自ら 鮮卑の王族の姓 拓跋を捨て を名乗ります。さらに貴族達には 漢民族と鮮卑の結婚を勧めます。
孝文帝は中国全土を統一する夢のために 戦いのさなか崩御。その僅か34年後 北魏王朝は滅亡します。
夢を受け継いだのは鮮卑の貴族達。

北魏が滅んで50年後、581年に中国を統一した。それを引き継いだ いずれも末裔です。

龍門石窟でひときわ大きい この大仏 則天武后 (中国で唯一の女性皇帝)です。
この時代 シルクロードを軸に 東西交流は一層活発に 様々な文化を受け入れ 国際色豊かな 社会が実現します。
その後 唐の滅亡と共に 鮮卑は歴史の表舞台から消えてしまいます。

世界遺産 時を刻む 大彫刻 石に魂を込める・中国 大足石刻

NHK BSP 初回OA 2012-2
中国四川省の大足石刻(だいそくせっこく)、大足とは「水や作物が大きく足る地」という意味で、に、9世紀から13世紀に造られた約5万体の塑像がある。なかでも北山、宝頂山の石窟が知られているる。

宝頂山にある「釈迦涅槃聖跡図」は31メートルの涅槃仏が横たわる。
金箔を張った「千手観音菩薩」実際に830の手があり 修復中でした。

北山にある 女性らしさにあふれた「数珠手観音像(媚態観音像)」
「普賢菩薩」柔和な顔だちに眉目秀麗でいて、東方のヴィーナスと呼ばれています。
「文殊菩薩」「宝印観音」

TBS 世界遺産 武当山の古建築群 〜 72の峰がそびえる 天空の聖地

中国・湖北省の武当山は72の峰がそびえる広大な山地で 100を超える道教のお堂がある。道教の道士たちが山に分け入り、修行をかさねた天空の聖地。1994年に世界遺産「武当山の古建築群」に登録された。

山の中腹にある道教のお堂「復真観」に参道に造られた曲がりくねった 九曲黄河壁
紫霄宮には29のお堂などが立ち並ぶ武当山で最大の建築群。正殿は高さ18m、横幅30mの巨大な木造建築。

標高1612mの天柱峰には 武当山のシンボルである「金殿」急な斜面に20ものお堂や楼閣。
ここに道教の建築群を築いたのは およそ600年前 中国皇帝 永楽帝だった。太和宮(たいわきゅう) では皇帝が儀式を行うことから名付けられた。
大獄太和宮(正殿)は山頂への入り口、上に作られた嶺を取り巻く 城壁は総延長345m。かつては、城壁の中に庶民は立ち入れなかった。城壁の内側に紫禁城 に皇帝が住まう 高さ5.5m、幅4.4m金殿が存在する。寸法ぴったりに鋳造した建材を山頂まで運び組み立てた。そして300kgの黄金を使い金のメッキを施した。
北京の故宮にも紫禁城と呼ばれる宮殿がある。制作したのは明の 永楽帝で北京の建築が終わると30万人の労働者を派遣した。北京を政治の都とし、武当山を信仰の都にしようとした。
建材は北京から 大運河や 長江 支流を使って運搬。大極湖へと到着すると 20t の建材を担いで運び山頂で組み立てた。金殿には仙人になった真武大帝が祀られており、永楽帝は道教の力で国を守ろうとした。

南厳と呼ばれる断崖にもお堂が造られており、谷底からの高さおよそ700mに造られた天乙真慶宮には武当山で修行した仙人が祀られている。絶壁の中空に突き出た「竜頭香」長さ2.9m 幅30cm 竜の模様が彫られた石の先端には香炉が置かれ、その先には天柱峰がそびえる。25年前には実際に線香をあげられていた。現在は事故が多いという事で禁止となっている。

中国の民間宗教から生まれた「道教」。今も200人のほどの人が山に篭もり修業をし不老不死の仙人を目指している。仙人を目指す道士達 自然の姿を尊び 髪も切らず ひげも剃りません。
武当山は中国一を誇る薬草の宝庫で 16世紀にまとめられた本には800種の薬草が紹介されている。
道士には漢方医学の智識も必要である。道士の牛道長さんに漢方に使える薬草として「黄清」などを教えてもらった。

体感!グレートネイチャー 「謎の立体山水画 中国・大黄山」

NHK BSP 初回放送: 2021年3月
中国東部 安徽省に位置する 黄山。日本から飛行機で3時間かけ 上海へ 。そこから南西に420キロ 車で6時間ほどの内陸部にあります。
屏風のように見える山塊が 絶景の宝庫と知られる黄山です。黄山は安徽省中心に東西 約150キロの及ぶ広大な山岳地帯の総称です。とりわけ景色が美しいのは中心部 世界遺産に登録されています。
中心部の面積は 山の手線内側の凡そ 2.5倍。その中に標高1000mを越える77の嶺々が林立しています。
中国屈指の観光地を訪れる人は 年間300万人。観光シーズンは大混雑。
中国の人にとって 一生に一度は登りたい 特別の山で、どんな山も黄山には及ばない」と言われ、日本にとっての富士山みたいな存在です。

黄山は4500年前 漢民族の祖といわれる 黄帝がこの山で不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという言い伝えに基づいている。その神秘的な美しさは、昔から水墨画を通して多くの画家により伝えられてきました。

2021年1月 コロナ禍で 訪れる人は殆どありません。
黄山は、仙人が住む地「仙境」といわれていた地域で 古くから仏教や道教を信ずる人たちが修行をするために 山に足を運んでいます。一歩歩くことに景色が変わると言われています。

案内してもらうのは 世界遺産に指定された 南北15キロ 東西10キロほどの広大なエリア。
南西部の登山口からスタート。奇峰と呼ばれる不思議な嶺々を巡ったあと、この季節にしか見られない絶景 冬雪(とうせつ)を堪能する2日掛りの工程です。

黄山の登山道の特徴は 長い長い石段。設置された石段 17世紀ころから修行する僧侶達が作り始め 今では5万段もあると言います。

石段を登ること3時間で 標高 1700mまで登ってきました。絶景 スポットから 巨大なマグマだまりが見えます。
天都峰(1810m) は仙人が集まる天上の都といわれる。
蓮花峰(1864m) 黄山の最高峰で その名の通り蓮の花を思わせる優美な姿。8世紀 李白が褒め称えていた。

奇峰は花崗岩 別名 御影石からできています。一億年以上前 ユーラシアプレート太平洋プレートが急速に沈み込み、地中の岩がたくさん溶け 大量のマグマが発生 広範囲に 巨大なマグマだまりができました。この巨大なマグマだまりが悠久の時をかけ ゆっくりと冷え 花崗岩が生まれた。
現在のシベリア東部から 中国南東部に至る 長さ6000キロを越える花崗岩地帯が誕生しました。

大地殻変動が生んだ黄山 中には面白い形の奇峰があります。
鳌鱼(ごうぎょ)峰 中国の伝説に出てくる巨大な魚のようです。
筆架峰 筆を立てかける筆架に似ています。

傾斜のきつい階段が続き 百歩雲梯です。石段を這うように進んでいくと 道の両側にそそり立つ岩壁、上の隙間には岩が挟まって 落ちてきそうです。空が1本の線に見える 一線天 という場所。
両側の岩は 元々 1枚岩で 地殻変動で 岩にひびが入り 雨により浸食が進み 隙間が拡がった。
これが 奇峰が生まれた メカニズムでした。
中国で 最も雨の多い場所の1つ 大量の雨が 花崗岩の割れ目に入り込み 徐々に岩を浸食し 独特の形に変えていった。

風変わりな 奇峰 奇岩、豊かな雨と 花崗岩が出会い 生まれた。

翌朝 冬雪(とうせつ)を望める 光明頂(1860m)にきました。
薄くまぶされたような雪化粧黄山を代表する絶景 冬雪です。
黄山は安徽省の中でも最も高い場所、山頂付近は1年のうち8ヶ月が10°以下の冬。

最後に 始信峰、足がすくむほどの断崖絶壁。視界に入る嶺々 すべて垂直に切り立っています。見たこともない深い大峡谷です。

日本では 花崗岩の山は なだらかでした。堅い花崗岩と もろい花崗岩があります。 花崗岩は長年の日光や雨で風化により 真砂土に変化していました。

花崗岩なのに なぜ黄山は険しいのか?
立派な門を通り 森を流れる川沿いの道を40分ほど登ると 九龍瀑という 滝、600mに渡り 9段に落ちる滝 がある。高速な隆起のため 段差が浸食されてなくなる前に また大地が隆起、浸食されるより隆起が早かったので9段小滝ができた。
黄山は隆起の速度が速いため、土砂は山の上にとどまらず 麓へ流れ落ちます。高速な隆起が続く限り急峻な形を保ち続けることができた。

少し離れた場所に 玄武岩と110mの花崗岩の絶壁が隣り合っていました。断層で、九龍瀑のそばにも断層があります。1億数千年前からユーラシアプレートに 太平洋プレートが沈み込み、6500万年前からインドプレートがユーラシアプレートに衝突して 断層が動き 太地が隆起した。
プレート衝突により 黄山あたりに断層が生まれた。花崗岩に無数の割れ目が発生。2方向からの圧力で押し上げられ、ここにだけ 激しい隆起が起きた。

黄山付近では2000年前から人々が暮らしてきた。
山間の村では 今も独特な文化が残る。明代の雰囲気が残る 世界遺産の村 宏村
黄山から流れ出た水が 水路を通じ集落を巡る。黄山周辺の独特な 建築様式 徽派建築。採光と換気のための 中庭。防火のための壁、外壁には独特な装飾 。
800年前から作られている レンガ彫刻 磚彫。黄山のふもとの土から作られたレンガ。

風化の過程で 奇妙な岩のオブジェ 怪石が生まれ、たまった きめ細やかな粘土がレンガに使われた。
槐塘 黄山怪石 崖の上にそそり立つ巨大な岩 飛来石 高さ12m 重さは推定500t以上。実は下の岩とつながっていた。
地下深くの花崗岩は周囲の岩盤から圧力を受けていて プレート衝突により 地下から隆起すると 花崗岩に無数の割れ目が発生。そこに雨水が入り 風化して土砂になり 粘土が麓に流れレンガの原料になっていた。さらに浸食が進み 怪石になった。
黄山には120個も怪石があり、それぞれ名前があります。 孔雀戯連花・仙人晒靴・仙人採薬・猿岩・南海観音・一八羅漢朝南海(18人の聖者)

天候のうつろいによる 一瞬の絶景を追い求めるカメラマン頼さん、霧の中の仏光と呼ばれる はかない現象を待っている。
黄山は長江と東シナ海からの湿った空気が霧になりやすい。
太陽を背にして見ると 太陽光が霧により散乱し 見てる人の影を包むように 虹のような光の輪が現れる。これが仏光です。

黄山松は岩山の上で霧の水分を取り込み 花崗岩に僅かに含まれる養分を得て ゆっくり育ちます。
そこに霧が流れ込むと 静と動が一体となった 黄山ならではの光景になります。
多くの画家達 を誘った。
平山郁夫 「神峰 黄山雲海図」7mを越える作品
400年前 黄山派の山水画が発展した。

麓の街 屯渓 では 硯・墨・筆・紙 の 文房四宝 は黄山で作られた。
1000年前から作られている 徽墨(きぼく)黄山松の松ヤニを燃やし煤を集め ニカワと固め上質な墨で 表面には美しい絵付けがほど施され美術品の価値がある。徳川家康が好んで収集していた。
歙硯(きゅうけん)という硯 1000年前から作られている名高いもので この店の最高品 660万円。

黄山山脈の南 硯山村、ここにある岩のかけらが硯の材料です。
10億年前 今とは全く違う形の地球 黄山は2つの陸の間にあり 海底の中にあり 陸から流れ出てきた泥がたまり泥岩ができた。地殻変動で 粘板岩になり 地殻変動で地表に現れた。

黄山の麓の街で 大きな車輪を持って踊る人々、車輪を発明した 伝説の皇帝 黄帝をたたえる行事

昔から様々な薬草が採られ 皇帝に献上されてきた。花崗岩の断崖に生えるのは 地衣類の一種 岩茸、様々な効能があるとされ 高値で取り引きされる。上質なお茶もとれる。

1億年前にできた花崗岩地帯に押し寄せた2つのプレートが引き起こした大隆起で ここだけの黄山が生まれた。
奇峰・怪石・冬雪を上回る絶景、奇峰・怪石雲海があわさると 静と動が一体となった 立体山水画 黄山ならではの大絶景。

中国四大名園

蘇州「拙政園 せっせいえん」

世界遺産「蘇州古典園林」の1つ、初めは唐代の詩人の住居だったが、元代には大宏寺となり、明代に退官した役人、王献臣が寺を買い取り造園した。
中国随一の庭園ともいえる拙政園は、大きな池泉にいくつもの中島が造られ、それぞれが回廊で繋がっている。

蘇州「留園 りゅうえん」

世界遺産「蘇州古典園林」の1つ、明代に造園された個人庭園で、最初は「寒碧山荘」という名であった。清代に劉蓉峰が改築をした際に劉園と改め、その後、同じ発音の留園となった。

北京「頤和園 いわえん」

世界遺産 「頤和園」は 北京の北西部にある清王朝の夏の離宮で、創建は金代で、元、明、清と4王朝800年にわたり造営が続けれてきた。総面積290万平方mという広大な敷地をもち、4分3を占める人工湖・昆明湖の周囲に華麗な建物が点在している。乾隆帝が建造した玉欄堂や 西太后が居室とした楽寿堂などがある。昆明湖の北畔には万寿山があり、山頂部には八角三層の仏香閣がそびえている。

承徳の「避暑山荘」

世界遺産「承徳避暑山荘と外八廟」として登録されている。
清の皇帝がかつての首都 奉天(瀋陽)へ行き来する際、立ち寄る場所として87年間にわたり整備された離宮である。この離宮の整備にあたっては蘇州の寒山寺などがモチーフにされている。
その周りには外八廟がある。外八廟にはポタラ宮をモデルにして建造された普陀宗乗之廟(ふだしゅうじょうしびょう)があり、チベット様式と中国の様式を折衷した。

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