BS朝日 2023年12月21日OA
あなたの知らない京都旅~1200年の物語~ 都のナンバーワン巡り 2時間スペシャルを見ました。
京都一の広い舞台、高い鳥居、大きい雲龍図、古い国宝のある建物、信長の定宿、大きな木造の仏像、木魚、鐘、高い門、塔頭の多い寺院がありました。京都に旅に行けたらいいなとメモにしました。
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京都で最も広い舞台 青龍殿
・京都で最も広い舞台を持つ 青蓮院(しょうれんいん)門跡 将軍塚青龍殿。青龍殿の大舞台の面積は1046㎡(約316坪)と清水の舞台の4.6倍で、舞台からは都の絶景を望むことができます。
※天台宗の京都五ヶ室門跡の一つ。宗祖伝教大師以来の比叡山上の住坊「青蓮坊」が発祥。その京都での里坊として天台座主行玄が平安後期に院の御所に準じて建立。「青蓮院」と称した。
平成26年 京都東山山頂に大護摩堂「青龍殿」国宝 青不動(不動明王二童子像)を祀る建物を建立、併せて木造の大舞台を新築しました。
・清水寺の「清水の舞台」は、古くから雅楽や能、狂言、歌舞伎がなどが演じられてきた。舞台は高さ約13m、広さ約190㎡(100畳)です。
鳥居の高さ 平安神宮の大鳥居
・3位 北野天満宮の鳥居は、高さ約11.4m。継ぎ目のない1本柱です。
平安時代より 1000年以上の歴史を持つ北野天満宮は 学問の神様 菅原道真公(菅公)を祀っている 全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社です。梅が有名です。
・2位 松尾(まつのを)大社、1300年以上の歴史を持つ。酒造りの神様を祀っており、境内に酒造メーカーから寄贈された樽が並ぶ。「松尾大社」の鳥居は、高さ約14m。
松尾大社にもう一つの鳥居に 脇勧請(わきかんじょう)という束ねた榊を結び垂れ下げ、その昔 榊の枯れ具合で農作物の出来を占っていた。
・1位 平安神宮の大鳥居。実は 平安神宮が作られたのは 明治28年 平安遷都千百年記念祭・第4回内国勧業博覧会を記念して創建された。平安京の朝堂院を8分の5の規模で再現している。鳥居は高さ24.4m 柱の直径 約3.6mの鉄筋 コンクリート製で 昭和4年に 昭和天皇即位の大礼を記念し 京都市民の募金で作られた。
雲龍図の大きさ 狩野探幽作 妙心寺 法堂 一円相の雲龍図
京の禅寺では天井に描かれた龍の図 いわゆる雲龍図をよく見かける。
・大きさ1位は妙心寺で 1337年に花園法皇が離宮を禅寺に改め創建された。明智光秀や豊臣家の帰依を受けて発展しました。 広大な敷地に 大法丈・三門など 重要文化財が立ち並びます。
重要文化財の 法堂(はっとう)に直径約12mの一円相に描かれた雲龍図がある。狩野探幽が55歳の時に描いた。16歳で幕府のお抱え絵師となった探幽は類い希なる才能を発揮「元離宮二条城」の障壁画を25歳の若さで指揮したといわれる。探幽が8年をかけて手掛けた作品です。
天から降りてくる下り龍、反対側から見れば 昇り竜。龍の目が中心に描かれているので どの角度から見ても目が合うように感じられ 「八方睨みの龍」と呼ばれる。法堂は僧侶が法を説くための場所なので仏法の守り神が天井に描かれ 「法の雨を降らす」と言われる。また 龍は水の神ともいわれ 火災から法堂を守る役割も果たしている。
他に、雲龍図があるのは 建仁寺 双龍図 平成時代 小泉淳作 筆。法堂の天井いっぱいに阿吽の口をした2匹の龍が描かれる。阿形の龍は手に玉をつかむ。
東福寺 蒼龍図 昭和9年 堂本印象 が わずか17日間で仕上げたといわれている。 体長55mあって 鋭い角 玉を持ち 雲間を抜ける姿は 迫力満点です。
国宝の古い建物 醍醐寺 五重塔
・3位 浄瑠璃寺 本堂(木津川市)奈良時代に聖武天皇が僧行基に建立させたのが始まりと伝えられ、平安時代末期に九体阿弥陀仏を安置する本堂(阿弥陀堂)は 1157年に建立されたと伝わる。本堂には9体の阿弥陀如来像が安置されている。
・2位 平等院鳳凰堂(宇治市) 10円玉に描かれた「鳳凰堂」で 世界遺産「古都京都の文化財」の1つです。永承7年(1052)に、時の関白藤原頼通によって開かれ、翌1053年に建立された。左右に伸びた翼廊と呼ばれる建物は、一番下の部分だけが歩くことができ、2階部分は建物を美しく見せるためだけにつくられた。
・1位 醍醐寺 五重塔 醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で平安時代初期の874年 空海の孫弟子 聖宝が 笠取山頂上に開山し 醍醐山と命名した。「醍醐寺」の五重塔は、現存する京都最古の木造建造物として国宝に指定されている。塔の内部には醍醐天皇の位牌が祀られており、壁には曼荼羅が描かれている。「花の醍醐」と呼ばれるように 桜の名所としても知られる。
織田信長が上洛の定宿 義父斎藤道三縁の妙覺寺
織田信長が上洛する際、最も多く泊まった寺は「本能寺」ではない。本能寺に宿泊したのは僅か3回で、3回目に本能寺の変が起きた。
・妙覺寺(みょうかくじ)は織田信長が京都に上洛した20数回中18回宿舎にした。日蓮宗の本山寺院で“日蓮宗京都八本山”の一つ。南北朝 室町時代の1378年創建。当初は開基 日実上人の支援者だった小野妙覚より寄進された四条大宮の地に開かれ、その後に室町幕府9代目将軍 足利義尚の命で二条衣棚の地に移転。織田信長の正室 濃姫の 父となる美濃国の戦国大名 斎藤道三が武将になる前 妙覚寺で出家していて 子の日饒も妙覚寺の住職に。そこから信長の京都での定宿となり、本能寺の変 当日 妙覚寺を宿舎としていたのは信長の子 織田信忠でした。
・妙顕寺は、鎌倉時代後期に創建され 大規模な敷地をもち、本能寺の変後は豊臣秀吉が京都の宿所としていた。妙覺寺の近くにあった。
秀吉の洛中整理命で 京の街を大改造、 西と南の端は御土居(おどい)を建設し 北と東は寺町、寺之内に 寺を集め 北の守りを固めた。妙覺寺、妙顕寺共に移転した。
最も大きな木造の立仏像 泉涌寺塔頭 戒光寺
御寺 泉涌寺(せんにゅうじ) は皇室の菩提所として多くの天皇の葬儀が行われた。
泉涌寺塔頭 戒光寺にある木造の立像で世界一の大きさを誇る「丈六釈迦如来立像」約4.8mは、お釈迦様の身長と同じ。台座から光背まで 約10mある。鎌倉時代の 運慶・湛慶父子の合作です。
仏像は宋代の極彩色 伸びた爪、伸びた髪の大きな螺髪。鎌倉時代 末法(誰も救われない時代)がやってくるので日本で復活してもらうため「生きた仏様」としてつくられた。
喉元を見ると汚れてるように見えます。これは江戸初期、後水尾天皇が即位争いに巻き込まれて暗殺者に命を狙われたとき お釈迦様が身代わりになられてついた血の跡だと言われています。この事から「身代わりの仏様」と呼ばれる。この仏様は 転々と移動していて ここに来るときは 立てたまま曳いてきたので 遠くからは歩いてきたように見えた。
最も大きな木魚のある轉法輪寺
西の御室といわれるエリアにある 轉法輪寺(てんぽうりんじ)は、1758年に関通上人により開かれた浄土宗の寺院。本尊の阿弥陀如来像(御室大仏)は、二丈四尺(約7.5m)あり 座像では京都一の大きさで、日本一衣をまとっている仏様。
縦横約1.2m・高さ1m・重さ約200kgの木魚を拝見!大きさの理由は不明だが、檀家から寄付していただいたもの、1本の楠で作られている。叩く バイ 1.3m ゴム 4.5kgもある。木魚には、目を閉じない魚のように寝る間を惜しんで修行に励むようにという戒めが込められている。ドクロなど さまざま 16個の木魚がある。
最も大きな鐘 方広寺の梵鐘は大阪冬の陣の要因に
豊国神社の ほど近く 豊臣秀吉が創建した 方広寺。
「方広寺」の梵鐘は、高さ4.2m・重さ約82.7t・厚さ約27cm。この鐘は豊臣秀頼により 1614年に鋳造された。当時広大な敷地を有し 19mの巨大大仏があったとされ まもなく巨大な地震で崩壊した。徳川家康が鐘に刻まれた文言に因縁を付けたことから大坂冬の陣が勃発 豊臣家は滅亡した。
寺の高い門 は浄土真宗 真宗大谷派の本山 東本願寺の御影堂門
・3位 南禅寺 700年以上前 創建された。
「南禅寺」の三門は高さ約22m。歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と大見得を切った場所として知られている。
・2位 知恩院 浄土宗の総本山
「知恩院」の三門の高さは約24mで、横幅は約50m。国宝であるこの門は、徳川秀忠によって建立された。
・1位 東本願寺 京都駅のほど近くにある。400年以上前 創建された 浄土真宗 真宗大谷派の本山です。
「東本願寺」の御影堂門の高さは約27m。門の中には釈迦三尊像が祀られている。頭上に三尊があるおかげで 門を通った全ての人にありがたい教えが降り注ぐ。
最も古い喫茶店 京大前進々堂
京都はコーヒーの消費量がしばしば全国一になるほど。1930年に開店した「進々堂」の入り口には「京大第二の図書室」との看板がある。道向かいに京都大学があり、店内は教室のよう。創業者 続木斉(つづきひとし)が 日本人としてはじめてパリへパン留学「パンのある心豊かな生活を、お客様と分かちあいたい」。テーブルは 人間国宝 黒田辰秋 の作で、名物である「カレーパンセット」パンにカレーをつけていただくスタイルとなっている。
塔頭の多い寺院 五山から外れた妙心寺
塔頭(たっちゅう)とは 本山の寺院の住職や高僧の死後 その徳を慕って 結んだ庵 境内外にある小寺院を指す。
有名な 金閣寺、銀閣寺も 大本山 相国寺の塔頭で、相国寺の僧侶達が代々住職を務めている。
相国寺は臨済宗相国寺派の大本山の寺院。十四世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建されました。本尊は釈迦如来。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺です。
・3位 大徳寺 の創建は鎌倉時代 末の 1315年 茶の湯を大成させた千利休の菩提寺でお茶の寺として有名になった。臨済宗大徳寺派の大本山。応仁の乱で大部分の伽藍を焼失するなど一時寺運が衰えたが、一休禅師が再興し、安土桃山時代には豊臣秀吉をはじめ諸大名が伽藍の建立に力を入れたため隆盛を極めた。
大徳寺の塔頭は22箇寺。信長が父・信秀の供養のために創建した黄梅院は 千利休ゆかりの庭 直中庭で知られている。総見院は豊臣秀吉が信長を弔うために建立した。重要文化財 織田信長像があり 。総見院を立てたことがきっかけで信長を慕う武将が菩提寺を設けるようになった。
・2位 東福寺 九條道家が創建した臨済宗東福寺派の大本山。九條家の菩提寺として1255年創建、奈良最大の寺院 東大寺と 隆盛を極めた興福寺にあやかろうと 東福寺と名づけられた。本尊は釈迦如来。本堂は昭和9年再建、三門は室町時代に建立され高さは22m 禅宗の三門で現存最古で国宝になっている。実際に3つの門があり 空門(物事にとらわれない)・無相門(見かけで判断しない)・無作門(欲望のままに求めない) の三解脱門 略して三門。
仏教の修行に当たり 悟りを開くまで通らなければならない 3つの関門を示している。
「東福寺」の塔頭は25箇寺。東福寺の一帯は藤原氏の地であり、公家を中心に禅宗を広く普及させ、寄進によって塔頭が増え 多い時は120を超える塔頭があった。明治の廃仏毀釈や統廃合を繰り返して現在の数になった。15mの短い臥雲橋は紅葉の名所です。
塔頭の大機院、霊雲院は重森三玲が関わった庭が有名、同聚院は不動明王が重要文化財になっている。
勝林寺は1550年 東福寺 第205代目 住職 高岳令松が創建。近衛家ゆかりの寺。花手水、和傘を紅葉と共に飾られている。本堂は近衛家の大玄関を移築したもの。 特別公開中だという毘沙門天王像は平安時代に作られ 財運、勝負運のご利益があるといわれ、左手に宝塔 右手に三つ叉の鉾を持つ憤怒の仏像。東福寺の北側に位置し鬼門を守る。実は東福寺の仏殿の天井裏に毘沙門天王像が安置されていた。高岳令松の夢枕に出てきて発見された。
五山の制度は臨済宗の格式や序列を定めたもので、室町幕府が臨済宗の禅寺を格付けした制度
別格=南禅寺、第1位=天龍寺、第2位=相国寺、第3位=建仁寺、第4位=東福寺、第5位=万寿寺 で禅林(叢林)と呼ばれる。
これに対し 林下と呼ばれる 権力に屈せず 修行を重んじる厳しい禅風を持ち続けた寺院 妙心寺、大徳寺などがある。
・1位 妙心寺 には京一番の雲龍図があった。(⬆こちら)
臨済宗 妙心寺派の大本山。臨済宗約6000の内 3400箇寺が妙心寺派。
妙心寺の塔頭は46箇寺。中心にある伽藍を囲むように 様々な寺院がひしめくように建ち並んでいる。
塔頭の徳雲院、大龍院。
塔頭の大法院は1625年創建、六文銭の家紋があって 松代藩主 真田信之の菩提寺。大法院は戒名。毎年春と秋に特別公開される 樹齢100年70本の紅葉が彩る庭を書院造りの建物から望む。外露地、中露地、内露地に分かれた露地庭園を歩き、茶室から露地庭園を望む。
室町幕府の庇護を受けていない 地方の武将達が 五山から外れた 妙心寺に こぞって 塔頭を立てた。
壽聖院は石田三成が創建、大通院は早くから秀吉に使えた 美濃の一柳直末の菩提樹、智勝院は信長 秀吉
家康の家臣だった稲葉貞通が創建。
Add.日本最大の禅寺 妙心寺 「禅」
BS11 2022年3月6日 初回放送 京都浪漫 悠久の物語
第93回 心穏やかに~日本最大の禅寺・妙心寺で「禅」に触れる~
●妙心寺(みょうしんじ)は、正式名は 正保山妙心寺といい、臨済宗妙心寺派の大本山です。妙心寺を開いた花園天皇は、鎌倉後期 南北朝時代 花園天皇は12歳で即位、22歳で上皇となりました。風光明媚な花園の離宮で 仏門に入られ、特に禅の教えに深く帰依されました。
妙心寺は10万坪の広さがあり、南総門から境内に入ります。西にある勅使門は平生は閉じられていて、妙心寺住持の入山・晋山時に新住職はこの門より入られます。放生池を過ぎると七堂伽藍がそびえています。
・山門…朱塗りの桃山時代の建物で 三門( 空門・無相門・無作門)3つの解脱した悟りの境地をあらわす。楼上には、通常非公開で 観世音菩薩と十六羅漢が祀られ、極彩色鮮やかに飛天や鳳凰、龍の図が柱や梁に描かれています。不思議なことに 描かれた楽器がひもで縛られているのは極楽浄土が静かなところという考えから。
・仏殿…江戸時代 1827年に建築され 釈迦三尊如来像を祀ります。本尊は釈迦如来で、珍しく釈迦の弟子 摩訶迦葉と阿難尊者を脇侍にしています。この釈迦像は会衆を前に 金波羅華(こんぱらげ)をひねったのに 弟子の迦葉 (かしょう) だけが微笑して応じました。以心伝心、拈華微笑(ねんげみしょう)といわれる。
・法堂…鏡天井には、8年の歳月を費やして描かれた狩野探幽の筆による雲龍図。(⬆こちら)
須弥壇だけあって 内部のケヤキの柱は、原木を四つ割にして丸く削られたもので、高さは8メートル、周囲は2メートルの巨木です。
・大方丈…江戸時代の建立で 明治維新までは勅使や賓客をもてなす場所でした。内部は仏間を中心とした6室からなり 192畳分の広さがあります。各部屋の襖絵は雲龍図と同じ狩野探幽 の筆によるもの。
・大方丈と大庫裏をつなぐ 大廊下はいくつかの映画の撮影に使われたそうです。
・大庫裏…一度に何百人もの食事を一度に調理でき 200合炊きの4つのかまどがあります。
・浴室…大きな釜で湯を沸かし、蒸気を浴びるサウナ風呂の仕組みです。着替えの間があって、僧侶達は 風呂の前で 着ていた服を布で包んで置いたことで「風呂敷」と呼ばれるようになった。明智光秀は信長を討った後に、妙心寺を訪ね 光秀の叔父である塔頭 大嶺院の密宗和尚にお金を託し、密宗和尚が光秀の菩提を弔うため 逆賊という汚名を洗い流すという意味で「明智風呂」を建てたとされています。
・経堂…江戸時代中期のに大坂の豪商 淀屋辰五郎の寄進によって建立されたと言われています。八角輪蔵に一切経 6,527巻の経巻が納められています。輪蔵を回転させることによって、納められた経文をすべて読誦した功徳を得ることが出来るとされた。
●玉鳳院 は妙心寺のはじまりで、花園法皇が離宮を禅寺に改めた山内最古の塔頭寺院である。この開山堂で禅の教えを深められた。禅の師匠は 大徳寺の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう・大燈国師)。病気で余命いくばくもない大燈国師に花園法皇は「このあと誰に帰依すればよいのか」と尋ねたところ、大燈国師は関山慧玄(かんざんえげん・後の夢想大師)を推挙しました。関山慧玄を初代住職としました。寺の命名は大燈国師によるもので正式名称は 正保山妙心寺 です。
関山慧玄の 生活は質素をきわめ、形式に拘らず厳しく弟子を指導し、授翁宗弼(じゅおうそうひつ)ただ一人でした。関山は旅の支度をして 行脚に出るといい「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとったという。
・開山堂…東福寺から移築されたもので、関山慧玄を祀る 妙心寺山内最古の建造物である。
●春光院は日本の「禅」を世界の「Zen」にするのに貢献した禅寺。
妙心寺の塔頭で、1590年に後の初代松江藩主 堀尾吉晴公によって息子の菩提を弔うために創建されました。堀尾家断絶後、縁戚関係の当時伊勢亀山藩の石川家がこの寺を引き継いだ際に、春光院と改名されました。春光院の方丈には花鳥図にキリシタンのシンボルが密かに描かれているという 狩野永岳 筆と伝えられる 金の襖絵がある。
また織田信長が京都に建立を認めた南蛮寺(キリスト教会堂)で用いられていた、イエズス会の紋章と1577年の銘が刻まれた「南蛮寺の鐘」も所有しています。
方丈前庭は「さざれ石の庭」と呼ばれ、石川家の出身地である伊勢信仰を表現した庭園になっており「伊勢の庭」の通称でも知られる。
禅哲学者の久松真一と英語で禅についての著書を刊行して世界に「ZEN」を広めた鈴木大拙は、春光院で禅について語り合いお互いの理解を深めたとされる。
この縁もあり春光院では主に外国人観光客を対象とした英語による座禅体験や茶道教室を実施している。
●桂春院は妙心寺の塔頭のひとつ。1598年 織田信長の嫡男信忠の次男である津田秀則によって見性院として創建され、1635年に美濃国の豪族石河貞政が建物を完備し、名を桂春院と改めた。
方丈内部の襖絵は狩野山雪の筆。茶室 既白庵(きはくあん)は長浜城から書院とともに移築されたもの。江戸時代に小堀遠州の弟子、玉淵坊により作庭され、修行に入った人が悟りを開くまでを表しており、「侘」「清浄」「思惟」「真如」と名付けられた4つの庭は、国の名勝及び史跡に指定されている。
菅原道真ゆかりの地 北野天満宮・吉祥院天満宮・菅原院天満宮神社・八瀬天満宮社
BS11 2022年3月11日 京都浪漫 悠久の物語2024年3月3日 放送
第141回 菅原道真ゆかりの地をめぐる~北野天満宮・吉祥院天満宮・菅原院天満宮神社・八瀬天満宮社~
北野天満宮
北野天満宮は学問の神様として知られる菅原道真公(天神様)を御祭神としておまつりする全国約一万二千社の天満宮、天神社の総本社です。
北野天満宮に伝わる 国宝『北野天神縁起』は菅原道真の一生と、怨霊となって猛威を振るう様子、道真の霊を鎮めるために創建までを絵巻物にしたもの。
菅原道真は宇多天皇に重用され、「右大臣」に任じられます。しかし朝廷に対する謀反の疑いにより「大宰府」へ左遷されてしまい、無念のうちに逝去。その後、都で多くの要人が亡くなったために人々は菅原道真の祟りだと恐れ、のちにすべての罪を許されて「天神様」として祀られました。
父祖三代の輝かしい伝統をもつ学者の家に生まれた道真は 幼名を阿呼 (あこ)といい、後世菅公 (かんこう)と尊称された。
丑年丑の日の 845年(承和12年)6月25日 菅原道真は文章博士であった「菅原是善」(すがわらのこれよし)の三男として誕生。
幼い頃から詩歌に才能を発揮し、11歳で初めて漢詩を読み、18歳で「文章生」(もんじょうしょう:漢詩学・中国史を学ぶ学生)となります。
菅原道真は若いときから学者や役人としての力を発揮し、右大臣になりました。901年 左大臣の藤原時平は菅原道真を信頼していた宇多天皇が退位し、醍醐天皇に代わると「弟で 菅原道真の娘婿(斉世親王)を天皇にしようとしている」と醍醐天皇に告げ口し、大宰府(現在の福岡県太宰府市)に左遷します。
都を離れるとき、菅原道真は「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」という歌を屋敷にあった梅の木に向かって詠みました。梅の木は菅原道真を慕い、一夜にして菅原道真の元へやってきたという飛梅伝説の元となったご神木があります。
大宰府での生活は極めて厳しく、菅原道真は衣食にも事欠く劣悪な環境の中で生活を送ることを余儀なくされました。身の潔白を証明する機会もなく、道真は左遷からわずか2年後にこの世を去ります。
菅原道真の遺骸を運んでいる途中、車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、近習達がやむなくその付近のにあった寺院「安楽寺」(現在の大宰府天満宮)に埋葬したと伝えられています。
菅原道真の死後に祟りが相次ぐ
程なくして 彼の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が雷に打たれて死亡。
道真を不幸に追い込んだ藤原時平も39歳という若さで急死。
その後、自然災害や伝染病などの異変が毎年のように続きます。人々の間では道真が怨霊となり、祟りを行っているのではないかという噂が広まります。
醍醐天皇の皇太子の保明親王(藤原時平の妹の子)が21歳で亡くなる。
醍醐天皇は 道真の祟りを鎮めるため 右大臣に戻し、正二位を追贈しました。
しかしながら、新たに皇太子となった保明の子である慶頼王もわずか5歳で夭折。
930年、御所の清涼殿に雷が落ち、醍醐天皇の側近の 藤原清貫と平希世が亡くなる。この衝撃的な出来事に 醍醐天皇は体調を崩し、寛明親王に皇位を譲り、その年のうちに崩御しました。
祟りを鎮めるために菅原道真が神として祀られることに
恐れを抱いた朝廷は、道真の霊を慰めようと罪を許すとともに 最高位である正一位を贈り 最高職である太政大臣まで追任。さらに 道真を葬っていた安楽寺に新たな社殿(太宰府天満宮)を設けて祀った。
道真薨去から数えて39年後の 942年 平安京に住む少女 多治比文子(たじひのあやこ)に道真の霊が乗り移って、自らを祀るよう託宣したのが京都市上京区にある北野天満宮の始まりでした。
広大な境内のあちこちには、大小様々な牛の像が10数体置かれています。これは祭神である菅原道真(天神様)が、丑歳の生まれで、牛は天神様のお使いと言われることが由来とされています。
自分の身体の悪い箇所を撫でた後、牛の像の同じ箇所をなでると、自分の悪い箇所が治るとか、牛の像の頭を撫でると頭がよくなるといわれ、受験生をはじめ、たくさんの人が訪れ、牛をなでていくので黒光りしています。形や色は様々ですが、共通しているのは、臥牛(横たわった牛)であること。
吉祥院天満宮
菅原道真公が生まれたところ 定かではなく いくつか言い伝えられ その1つです。
菅原道真公が逝去後31年目に当たる承平4年(934)に、朱雀天皇の勅命により、菅原家のあった 誕生の地に創建された最初の天満宮。
菅原道真の祖父である清公(きよきみ)が、遣唐使の洋上で嵐にあって船が沈みそうになった時、最澄・空海とともに清公が一心に祈願すると、吉祥天女が現れ海難を逃れた。吉祥天女を自ら刻み祀って氏寺とした。応仁の乱の時 地中に埋め火災からのがれたという。
境内には「菅公御誕生之地」の石碑が建っており、ここに産湯に使った井戸があったとされている。道真公のへその緒を埋めたと伝えられる「胞衣(えな)塚」をはじめ、少年時代に習字に使用したという「硯の水」や顔を写したと伝える「鑑(かがみ)の井」などがある。
金のなで牛・くぐり牛は撫でれば健康成就、くぐれば大願成就という牛像です。
菅原院天満宮神社
こちらも道真が生まれ育った場所の一つとして知られ 京都御所の直ぐ西にある 菅原院天満宮神社。「烏丸の天神さん」とも呼ばれてる。
道真公の先祖三代がお住まいになった 菅原院(すがわらいん)があった場所とされており、菅原道真公とその父是善卿、祖父清公卿を祀っております。
左大臣・藤原時平によって大宰府に左遷させられた道真は都に戻ることなく903年に薨去。その後、京の都には異変が相次いだ。道真らの菩提を弔うために菅原院跡地には歓喜寺が創建され、その後 六条河原院に移転して、合併されて歓喜光寺に変更。
その後、残された小祠から新たに社殿を配し、菅原道真・是善・清公の三代を祭神として祀り、北野天満宮の御旅所としたのが 菅原院天満宮神社の始まりです。
しかし、南北朝・室町時代は 室町幕府将軍などの屋敷に取り込まれましたが、江戸時代以降、現在地に神社が再興されたとみられています。
道真の姿を描いた掛け軸や、道真の書かれたと言われる般若心経の写経があります。
境内には臥牛像が置かれ梅の木が植えられています。また、道真が誕生した際に初湯に使ったという井戸もあります。道真公御遺愛の灯籠が残る。中央に鎮座される本殿は明治時代の再建。
一番端にある小さな「梅丸大神」は癌封じの御利益で有名だそうです。
八瀬天満宮社
比叡山の麓にある八瀬天満宮社は祭神として菅原道真を祀る。道真が亡くなった後、師である叡山の尊意の勧請により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られています。この十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)であるといわれています。
幼少の頃、勉学のために八瀬坂から比叡山に通った道真が、山から下りて一服していたという腰掛石などがある。
(終)