BS朝日 2023年12月31日OA
あなたの知らない京都旅~1200年の物語~ 大みそか4時間スペシャルを見ました。
「青もみじ」天龍寺 塔頭宝厳院、哲学の道 関雪桜、岩倉 実相院門跡 床みどり、旧邸御室の座卓
東寺の五重塔、幻の 法勝寺 八角九重塔、相国寺 七重塔、醍醐寺 五重塔
「女ひとり」に歌われた大原 三千院 栂尾 高山寺 嵐山大覚寺。家康「伊賀越え」
幕府と戦った天皇
BS11 京都浪漫 悠久の物語 大徳寺の塔頭寺院
こんな京都にいつかまた行けたらいいなとメモにしました。
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2023年 新緑絶景「青もみじ」めぐり
青もみじとは 春の若葉からどんどん深みを増す、緑の若い楓のことで、京福電気鉄道が 嵐山 嵯峨野の魅力を発信するために 2006年 “青もみじ”という言葉を取り上げた事がきっかけで知られるようになった。
嵐山 天龍寺の塔頭「宝厳院」
世界遺産 天龍寺は 室町幕府を開いた足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を願い創建。
塔頭 「宝厳院(ほうごんいん)」は春と秋の特別拝観期間にのみ入ることができます。
新緑の頃のもみじを「青もみじ」と呼びます。「獅子吼の庭」は「仏が説法する」の意味であり庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって、無言の説法を得ることができる。
普段は非公開の書院を特別に案内していただき、書院から庭を見る。
哲学の道 関雪桜の並木
永観堂あたりから銀閣寺まで続く 琵琶湖疏水沿いの約2kmの散歩道「哲学の道」。京都大学の教授であった西田幾多郎が この道を歩いて思索にふけっていたことにちなんで名付けられた。近くの白沙村荘に住んでいた 日本画家 橋本関雪が、大正10年 京都に恩返しをしたいという想いから、哲学の道に38歳で約300本の桜の木を寄付した。春には満開の桜の花が川沿いの道を彩り、花が散る時期になると、花びらが水面を埋め尽くす「花いかだ」になり、新緑の名所に。
比叡山を望む岩倉 実相院門跡「床みどり」
実相院門跡は 鎌倉時代に、皇室が住職となる門跡寺院(もんぜきじいん)となってから、およそ800年の歴史を誇るお寺です。ご本尊は鎌倉時代に作られたと伝えられる木造立像の不動明王。皇室との関わりを示す寺紋「実相院菊」。狩野派の見事なふすま絵がある。
「滝の間」の磨き上げられた黒い床にうつる緑は「床みどり」と呼ばれ、幻想的な雰囲気を醸し出す。「見えないところを見てあげる」教えが込められていて 正面からは見えない緑の上部も映す。
秋は「床もみじ」、冬は「床銀華」と季節毎に表情を変える。
比叡山を借景にした四季折々の表情を見せる「こころのお庭」岩で日本列島を白砂と木材で大海原で表現。
京都市右京区にある「旧邸御室」の座卓に広がる緑
仁和寺で知られる京都府右京区の御室。その一角にある 昭和12年に建てられた 数寄屋造りの 旧邸御室酒造会社が所有していた。漆を重ね塗りした花梨の座卓には緑が写されており、50年も置かれているという。
あなたの知らない京都旅 1200年の物語 幕府と戦った天皇
下鴨神社(賀茂御祖神社)
後醍醐天皇は 天皇親政を復活としようとて討幕を計画したが、正中の変 元弘の変をおこしたが失敗に終わり隠岐に流された。名和・楠・新田・足利の力により 鎌倉幕府を滅亡させ京都に帰還した。
建武の新政の成功を祈願するために訪れたと伝わる 下鴨神社。後醍醐天皇の肖像画には 武力で鎌倉幕府と戦った証の太刀がもともとは描かれていたという。
後醍醐天皇が御手洗池で水をすくったところ、最初に泡がひとつ浮き、やや間を置いて4つの泡が浮き上がったという言い伝えがあって、その泡を団子に見立てて作った みたらし団子 神へのささげ物でした。
後醍醐天皇は武士の力を借りて鎌倉幕府を倒したが 武士をないがしろにするような政治だったので、足利尊氏の反乱により 吉野に「南朝」を開きました。
実相院 ‥歴代天皇の位牌が並ぶ
床もみじで有名な 実相院 (⬆にあり)。江戸幕府と戦った後水尾天皇 直筆の宸翰、天皇がみずから書いた“忍”という字が象徴する、後水尾天皇の耐え難い4つの出来事があった。
・禁中並公家諸法度‥江戸幕府が天皇と公家の行動を規制するために定めた。第一は御学問なり。
・紫衣事件‥僧侶に紫衣着用を許可したことを幕府が違法だとして 取り消させた。天皇の命令は必ず実行されていた。
・本尊の隣の馬郎婦観音板押絵は東福門院和子(徳川秀忠とお江与の五女)の作。「徳川の血を引く天皇」を誕生させるという使命を背負っていた。
・上洛中の徳川秀忠・家光の招きに応じ、後水尾天皇が二条城に行幸しました。天皇が出向くのは屈辱であった。
圓通寺‥後水尾上皇の離宮
後水尾上皇が造営された幡枝離宮だった 圓通寺。御本尊は聖観音菩薩。
比叡山を取り入れた 都の富士 借景庭園、大海から群島をイメージして石を配置するなど、後水尾上皇が造ったこの庭は、江戸時代の初期から景色は変わっていない。住職はこの借景を守るため 間に建物が建てられないように行政に訴え 景観を守る条例が制定された。
後水尾上皇は江戸幕府の援助を受け、源氏物語や伊勢物語などの注釈書を執筆したほか、俵屋宗達など絵師達の活動も援助していた。さらに、様々な身分の人が参加可能なコンテストを開催するなど、庶民が文化に触れられるよう尽力、「寛永文化」という名前で後世に語り継がれている。
二条城 行幸で出した料理を 割烹やました でいただいた。それは溶き卵をだしなどで調味してつくる「玉子ふわふわ」でした。
古都を見守る塔の謎
東寺の五重塔
新幹線からも見える 京都のランドマーク、東寺の五重塔、およそ55メートルあり、日本で最も高い木造の塔です。
塔の起源は、お釈迦様の遺骨「仏舎利」を祀るインドのお墓「ストゥーパ」、中国では「卒塔婆」と呼ばれ、楼閣のように高くなり、日本に入ると三重塔や五重塔が造られた。
特別に五重塔の中へ!心柱そのものを大日如来に見立て、心柱を背に如来像と8体の菩薩像が祀られ 壁や天井には色鮮やかな絵が描かれていた。五重塔を造った弘法大師 空海は、曼荼羅の世界を再現した。塔自体が仏さまそのものと考え、遠くからでも拝めるように高く造られていた!
かつてあった 法勝寺 八角九重塔、相国寺 七重塔
実は日本の長い歴史の中には、さらに高い塔が作られた事があった。
京都市平安京創生館に平安京の都の姿が一目でわかる「平安京復元模型」(1/1000)がある。
平安京からやや離れた鴨川の東 白河地域に 1081年白河天皇が建てた 法勝寺 八角九重塔 高さ81m が 現 京都動物園 観覧車の位置にあった。当時 個人的に 都の中に塔を作ってはいけなかったので、権力の誇示のため建立したが、落雷で焼失。平安時代 多くの塔が立てられ 百塔参り が行われていた。
109メートルの巨大な塔が 絶対に塔を作ってはならない「禁断の場所」御所の直ぐ北に 相国寺 七重塔を 足利義満が 建て 見下ろしていた。 自分の権力を誇っていた。
京都にある木造の塔で最古 醍醐寺 五重塔
塔の多くは落雷や火災などにより失われてしまう事が多かった。1000年以上残るのが 951年創建された醍醐寺 五重塔 。豊臣秀吉の「醍醐の花見」で有名な寺で、桜を700本植えたそうです。
平安時代の世界遺産の金堂は もともと和歌山のお寺にあったものを 本堂が焼失してたので 秀吉が移築したもの。
醍醐寺にそびえる五重塔。上に行くほど屋根の幅が小さく 美しい、京都にある木造の塔で最も古いと言われます。塔の中には後醍醐天皇の位牌があり、てっぺんの相輪に仏舎利(釈迦の遺骨)が治められている。
奈良 薬師寺 東塔 相輪 解体修理で仏舎利発見
1300年前の姿を今に残す 世界遺産 奈良 薬師寺。本尊は薬師三尊像 薬師如来、日光菩薩、月光菩薩。
1300年前に立てられた 東塔 と 戦国時代に失われ 1981年に再建された 西塔。
お釈迦様の仏舎利をお祀りするものと お釈迦様の教えをお祀りするもの。
塔の数や配置は、時代により変化してきたとのこと。実は 本屋根と裳階のある三重塔です。
「東塔」は、12年かけた史上初の全面解体修理を終えたばかり。相輪は新しい物に作り変えたそうで、創建当時の物を特別に拝見させていただいた。インドのお墓の形で 一番下が伏鉢、上に九輪、その上に水煙。相輪の一部である 奈良時代の銅製の「東塔 水煙」の高さは1m90cmで、400kgにもなる。昔は金色に輝いていて、24人の天人の透かし彫りがある。水煙が被せられていた心柱の最頂部に仏舎利が納められていた。
あの名曲に歌われた三つの名所 ・「女ひとり」を巡る旅
昭和40年発売の 永六輔作詞、いずみたく作曲、デューク・エイセスが歌った「女ひとり」
♪ 恋につかれた 女がひとり ‥ が大ヒットして 京都 大原の名は 全国に知られるようになった。
京都 大原 三千院
「♫ 池の水面に ゆれていた」
1番の歌詞の舞台となった「三千院」は 天台宗五箇室門跡の一つで 最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したのが起源で、寺地を転々と移転しながら門跡寺院として発展。明治維新後、大原に移り「三千院」として1200年の歴史を紡ぐ。
往生極楽院に安置されているのは、国宝の阿弥陀三尊像、命を終えた人間をあの世へと導く 阿弥陀如来座像、右に観世音菩薩座像、左に勢至菩薩を従えている。座ると 阿弥陀様と目が合い、両菩薩は亡くなった方を直ぐに迎えるよう大和座りです。舟底天井で極彩色の天井画が描かれていた。
聚碧園(しゅうへきえん)から様々の緑が楽しめます。永さんが庭師に庭は座ってみるものといわれたエピソードがあるそうで、部屋の後ろに座ってみると額縁付きの絶景になります。
有清園(ゆうせいえん) では、青紅葉と苔のじゅうたんが織りなす絶景が見られる。
三千院 「女ひとり」に登場する 弁天池。恋に「つかれた」とあえて平仮名で書かれる。「疲れた」でなく「憑かれた」と解釈しても構わないと語ったそうだ。
三千院のふもとに「和紙の店 もとしろ」の店主が建てた「女ひとり」の歌碑がある。
大原は隠遁の地でもある。 寂光院 は 建礼門院徳子が 源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い、終生この地で過ごした。
京都 栂尾(とがのお)高山寺(こうざんじ)
「♫ 影を落とした石だたみ」
2番の歌詞の舞台となった「栂尾 高山寺」は奈良時代創建の古刹、鎌倉時代に明恵上人が後鳥羽上皇の帰依を得て再興した。非常にたくさんの国宝や重要文化財がある。
鎌倉時代の遺構 国宝 石水院 川端康成「古都」の舞台です。ここには 国宝「鳥獣人物戯画」が所蔵されている。鳥や獣、人間を戯れに描いた絵という意味で、甲巻・乙巻・丙巻・丁巻 4巻あり 全長44mも誰が何のために書いたか不明。明恵上人の樹上座禅像も国宝で、お釈迦様に近づきたいと右の耳を切って耳なし法師と呼ばれた。鎌倉幕府の北条泰時の作った御成敗式目に明恵上人が影響を与えている。明恵上人愛玩していた子犬の像もある。高山寺は明恵上人を慕う人が集い日夜仏教を学ぶ文化サロンだった。栄西が崇から持ち帰った茶の種を ここで栽培され宇治へつながった。
「女ひとり」に歌われた高山寺の石畳 は 参道の階段を上りきったところに ひし形の石畳が連なる。
京都 嵐山(らんざん)大覚寺
「♫耳をすませば滝の音」
3番の歌詞に登場する名所「嵐山」、平安時代より貴族の別荘地・景勝地として知られた嵐山は、この歌ができた1960年代は、今よりも静かな景勝地だった。嵐山と呼ばれる渡月橋一体、その北側の 嵯峨に紋を構える 大覚寺。
寺で最も大切な建物の一つ 心経前殿(御影堂)、普通のお寺の本堂とは違い、真ん中に仏像が無く、向こう側の建物を拝んでいる。その訳は 元々は京に都を移した 桓武天皇の息子 嵯峨天皇の離宮で、弘法大師と 直接会っていた場所でした。818年 都に疫病が流行り それは世を治める者の不徳とされた。嵯峨天皇が般若心経を写経、1文字書くことに3回仏様に礼拝し世の安寧を祈った。書き上がったときに疫病が平らかになったという伝説のお経が納められている。
大沢池は、平安時代に唐の洞庭湖を模して造られた人工池。この池で当時にならい 今も催されるのが「観月の夕べ」。嵯峨天皇が 中秋の名月に舟を浮かべ 池に映る月を楽しんだ ことに始まるとされる。池の天神島には 離宮を大覚寺にする上奏文を書いた天神様(菅原道真公)が祀られる。
「女ひとり」3番の歌詞に歌われた「名古曽の滝跡」に平安時代には枯れてしまったという名古曽の滝にあった石組みが置かれている。百人一首には、この滝を詠んだ有名な歌がある。
「滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」藤原公任
永さんは聞く人に任せるような、涙になぞらえた? 京都は奥深い!
家康「伊賀越え」 運命の二択
戦国武将、織田信長が家臣である明智光秀に裏切られ、自害してしまった「本能寺の変」。
信長の招待で少人数で大坂・堺へ来ていた家康は、明智光秀の軍勢1万3000人の捜索をかい潜りながら、領地の三河へと帰る 命がけの「伊賀越え」に。総距離は200kmで、最も危険な京都を抜けるには約40km移動する必要があった。実際のルートを歩いてみた。
・本能寺の変 天正10(1582)年6月2日 AM4:00
・家康は堺から 京に戻る途中 6月2日 PM 2:00 家森山付近で 親しくしていた京都の豪商 茶屋四郎次郎から知らされた。家康が「信長の後を追い、切腹する」と言い出した
■二択 三河に帰る方法「海路」or「陸路」
紀州には 反信長勢力の雑賀衆らが、四国には 長宗我部がいて水軍を恐れた。「陸路」も南の奈良は明智配下の筒井家で くぐり抜けるルートを選んだ。家康は信長が死んだことを確信できずにいたが 誤報を信じて勝手に帰国したら大問題になるだろうと ひとまず京に向かった。
(現 京田辺市)
・6月2日 夜 甘南備山(かんなびやま)標高200m程あり 京都市内が一望できた。
・6月3日 AM7:00 甘南備山の東を流れる木津川の近くで、別行動した穴山梅雪が殺されてしまう。飯岡地区の共同墓地に穴山梅雪の墓が残る。
■二択 穴山梅雪を殺害したかも。勝頼を見限り 家康に内通し 勝頼を倒した。その褒美に家康と同行していた。将来 旧武田領を得ることを恐れた。実際に天正壬午の乱で家康は 信濃・甲斐を得た。家康の天下人としての資質を感じる。
・草内の渡し 茶屋四郎次郎が家康の名を隠し手配し 木津川を渡る。
(現 宇治田原町)
・6月3日 PM2:00 山口城跡 信長の家臣である長谷川秀一が同行していて、 信長の家臣である山口甚介秀康の居城で 家康が昼食をとり馬を変えたと伝わる。地区民が警護し 家康がお礼に短刀を贈った。
・家康の通った 信楽街道の「口伝えの古道」は草だらけの山道。
・黒豆坂 鬱蒼とした細く急な山道
・湯屋谷 永谷宗円生家 日本で初めて煎茶を発明した宗円、5代前の家弘は伊賀越えで家康を警護したという。現在の永谷園のルーツです。
・松峠「松峠入り口」しばらく歩くと、約1kmの険しい登り道が続いて、道中の分岐路。
■二択 分かれ道 左へ行くと 瀬田を経て危険な東海道へ、右は信楽へ
・遍照院(へんじょういん)家康が京都で最後に立ち寄ったと伝わる。休息を取るため腰掛けたという石が残っている。家臣が見張りに立ったと伝わる場所があった。
京都はここでお終い、この後 信楽、柘植、加太、関、白子の浜から船で三河へ。
大徳寺の本坊へ
BS11 京都浪漫 悠久の物語 ☆第119回 春は大徳寺の本坊へ!~初公開の仏殿と名僧・茶聖の面影~
京都 紫野の大徳寺は、「一休さん」こと一休宗純や「たくあん和尚」こと沢庵宗彭といった名僧を輩出してきた臨済宗大徳寺派の大本山で、山号は龍宝山。
大徳寺 の創建は鎌倉時代末期の1315年に 大燈国師(宗峰妙超禅師)は 叔父である 播磨の赤松則村(円心)の帰依を受け、現在の地に小堂 大徳庵を建立したのが大徳寺の起源。花園上皇や後醍醐天皇が帰依し、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。その後 後醍醐天皇 が吉野に移り「南朝」を開きました。
室町幕府の五山制度からはずれ「林下」と呼ばれる独自の道を歩みます。
1467年からの応仁の乱で多くの伽藍が消失。
今も一休さんの名で親しまれる一休禅師(後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれる)が 大徳寺の住職になったあとも 暮らしていた 山城の 酬恩庵(一休寺・現京田辺市)に熱心な信者が集まった。
堺の豪商 尾和宗麟は方丈・仏殿を再建。連歌師の柴屋軒宗長は山門を再建しました。
茶道の祖 村田珠光 の作庭と伝わる 一休寺の虎丘庵庭園。
千利休は信長の茶頭(ちゃどう)として茶事を司り、信長亡き後は、秀吉の茶頭として重用され、天下一の茶人としての地位を高めていきます。しかし豊臣秀吉の怒りを買って切腹を命じられ 死後、利休の首は一条戻橋にさらされた。
江戸幕府は朝廷を統制するために禁中並公家諸法度を制定。徳の高い僧に紫色の僧衣を贈る(紫衣授与) の特権を規制しましたが、後水尾天皇は無視して与えた とを 幕府が問題にして これを取り消した。幕府に抗議を行った大徳寺の沢庵和尚始め僧たちを出羽、陸奥へ流罪にした。徳川家の権力が天皇を超えたということです。
沢庵和尚が出羽国に流されてから4年後の1632年、徳川秀忠が亡くなり大赦令が出され、家光は和睦して沢庵和尚に帰依した。
・境内 南東の総門から直ぐの所にある 勅使門 天皇からの使者を迎える門で、もとは御所の南門で、後水尾天皇より拝領し、1640年に移築されたものと伝えられている。
・金毛閣(重文) と呼ばれる丹色の三門は、室町時代に始まった応仁の乱で焼け落ちたあと 連歌師 宗長 により1階が再建され、安土桃山時代に茶人の千利休によって2階がつくられ「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。
・仏殿は大徳寺の本殿で 応仁の乱で焼失後 尾和宗麟が再建、1665年に京の豪商 那波常有による寄進で建て替えられた。本尊の釈迦如来坐像は 方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。
秀吉が建立した高さ19m京の大仏 は地震で崩壊、秀頼らによって再興されたが不運が続いていた。豊臣家が滅んだ後も倒壊と再建を繰り返し、1798年の夏の落雷によって大仏は灰に。
釈迦如来坐像は 大仏製作を手掛けた仏師 玄信により 大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたもので 本尊を祀る須弥壇の彫刻も豪華なもの。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図。
・法堂(はっとう・重文)は応仁の乱で焼失後、家光の乳母 春日局の子である 小田原城主 稲葉正勝の遺言で息子の正則が現在の場所に再建した。法堂は修行者に説法を行うためのもので、中央の須弥壇で住職が 修行僧に法を説く。内部の天井には狩野派の絵師 狩野探幽による雲龍図が描かれていて、絵の下で手をたたくと竜の鳴き声のような音が反響することから「鳴き龍」とも呼ばれています。
唐門(国宝)は「桃山の三唐門」の一つに数えられる壮麗な門で、1日中眺めても飽きないことから「日暮門」の異名も持つ。秀吉の聚楽第の遺構とされています。明治になって 方丈の唐門(明智光秀寄進)が南禅寺に売却されたので、唐門は現在地に移築されました。
本坊の方丈(国宝)は 住職の生活の場所で、1635年 一休和尚の時代 堺の豪商尾和宗臨によって寄進されました。和様で 普通方丈は6室ですが、8室で 大燈国師の木像を安置する 雲門庵を設けた。自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたためこのような形になった。
京都府庁の 文化財保護課が 令和2年より 6年かかる 修復工事中の 方丈です。
無数の丸太が、頭上遥か高くまで組み上げられた迫力の大空間、修理中の建物を雨風から守ったり、大工さんの足場や作業場にもなるもの。一般的には鉄パイプですが丸太を使用
長年屋根の重みがかかったために、傾いてねじれた建物を元に戻すことです。そのため一度解体すると、木材の質の良さが判ります。長さ約6m・重さ約800㎏という立派なヒノキ材の桁は樹齢400年ぐらいのもの。
今回の 400年前のノミが原形をとどめ 屋根を支える垂木と板の間に挟まっているのを発見。また畳の裏に「寛永十三年 結夏日」の墨書が確認され 1636 年のもので日本で一番古い畳である事が判った。
沢庵 宗彭(たくあん そうほう)和尚
沢庵宗彭は、(1573年生~1646年没) 安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した、臨済宗の僧侶です。但馬国(現在の兵庫県北部)を治めた山名氏の家臣の子として生まれた。羽柴秀吉によって滅ぼされたため、10歳で出家し浄土宗の唱念寺に入る。様々な寺を転々としながら修行を重ね、37歳という若さで京都にある大徳寺住職に就任しますが、わずか3日という早さで辞職します。沢庵は、自分は一つの場所にとどまるよりも、様々な場所をさすらう方が合っていると考えたのです。その後も沢庵は、多くの大名たちから住職就任の招きを受けましたが、それを断りながら修行を重ねていったのです。
寛永6年の紫衣事件では出羽上山に配流されましたが、徳川家光の時代になって赦され、後にその罪が許され京都へと帰ります。武将であった柳生宗矩 に 相談役として江戸へと招待され、家光も沢庵の豊富な知識と人柄に深く感銘を受けます。家光からの信頼を得た沢庵は東海寺の住職に就任することとなった。
たくあん漬けを沢庵和尚が考案したとか、家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が「タクワエ漬ニアラス沢庵漬ナリ」と命名したなど諸説あります。
大徳寺の塔頭寺院 興臨院・総見院・黄梅院
BS11 京都浪漫 悠久の物語☆第118回 大徳寺の塔頭寺院を巡る~興臨院・総見院・黄梅院~
大徳寺の茶づら
京都 紫野の大徳寺は、「一休さん」こと一休宗純や沢庵宗彭といった名僧を輩出してきた臨済宗大徳寺派の大本山。司馬遼太郎は『街道をゆく』で「以前と変わらず厳然と俗化を拒む大徳寺のみが、その昔平安貴族の禁野であったというかつての紫野のたたずまいを残していると感じ入る」と記した。
大徳寺の茶面(ちゃづら)と称されます。
今までは非公開として来ていた。しかし 時代の流れで 特別公開が行われるようになった。
大徳寺 の創建は鎌倉時代末期の1315年 に大燈国師 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師を開山とする。応仁の乱で荒廃しましたが、一休禅師が再興し、安土桃山時代には豊臣秀吉をはじめ諸大名が伽藍の建立に力を入れたため隆盛を極めた。大徳寺の塔頭は22箇寺。
大徳寺塔頭 興臨院
大永年間(1521-1528)に能登の守護、畠山義総が開山に大徳寺86世 小渓紹怤(しょうけいじょうふ)を迎えて建立、畠山義総の法名を取って寺名を興臨院とした。
畠山家の衰退と共に荒廃するが、1581年に 前田利家が再興、畠山家に加え前田家の菩提寺となった。
・表門(重文 室町時代)は 興臨院の古門と呼ばれ 創建当時の姿が残る
・唐門(重文 室町時代)は唐破風、檜皮葺、波型の連子窓、客待の花頭窓が室町時代の禅宗様式の特徴をよく表しています。
・方丈(本堂)(重文 室町時代)は入母屋造・檜皮葺の建物で、床の間は日本で最初のものといわれます。典型的な禅寺の間取りで6つの部屋がある。
礼の間の襖絵は水墨画家 村石米斎が描いた「葡萄図」
室中の奥の仏間には 開祖 小渓紹怤の像が安置され、襖絵は村石米斎 筆「夏景山水図」・「冬景山水図」
檀那の間(檀家の人を迎える部屋)の襖絵は村石米斎 筆「寒山拾得図」
・方丈前庭は、昭和50年より3年間にわたり行われた方丈の解体修理に際し、資料を元に「昭和の小堀遠州」と称えられた中根金作よって復元された。その昔、中国の僧 寒山拾得が生活していた天台山国清寺の石橋を模し、大石・松をあしらって理想的な蓬莱世界を表現したものです。
・茶室「涵虚亭」は昭和3年に壇越の山口玄洞氏が寄進した。戦国武将 古田織部好みと言われる四畳台目に隅板を加えた茶室で、2つの入り口(腰を落とせず入れる貴人口と利休が好んだにじり口)がある。
大徳寺塔頭 総見院
信長の死後100日目に葬儀が7日間に渡って大徳寺で執り行われた。一周忌に合わせ 織田信長の菩提を弔うために秀吉が建立した 塔頭の総見院。寺の名は 信長の法名の最初の3文字から付けられた。
信長の供養塔があります。信長の子供達・正室の濃姫の供養塔、側室のお鍋の型の墓誌もあります。いくつも信長の墓があるが秀吉が認めたのはここだけで 表門の横に「信長公廟所」の石柱が建っています。
本堂が再建されたのは 昭和3年のこと、屋根瓦に信長の「木瓜紋」が記されています。
特別公開期間中は、信長の座像が安置されている本堂に入ることができます。等身大の織田信長公座像(重文 桃山時代)は、運慶の流れを汲む 仏師 康清の作で、亡くなった翌年彫られ 眼光鋭く厳しい佇まいは本人に最も近い像と言われており、秀吉も大満足だったと伝わっています。
木像は2体作られ、遺体の代わりに棺に入れ荼毘に付しました。もう1体は新しく作った菩提寺に奉納しました。燃やした木像は香木を使ったために京都中に甘い香りが漂ったそうです。
当時は広大な境内に豪壮な伽藍が立ち並んだと伝わりますが、明治の廃仏毀釈によりその多くが失われました。開祖は千利休の禅の師匠でもあった 古渓宗陳(こけいそうちん)。秀吉は船岡山に信長の菩提寺の建立し 古渓宗陳を迎える約束をしていたが 頓挫し、抗議した古渓宗陳が秀吉の勘気に触れ 九州に流刑となったが、千利休の働きかけなどで 1年余りで許された。しかし 千利休が秀吉の逆鱗にふれて切腹させられた。大徳寺の山門の2階に雪駄履きの千利休の木像を安置したことが不遜であると 秀吉の逆鱗に触れ、秀吉は大徳寺をつぶそうとしたが 古渓宗陳が命がけで守った。
総見院には茶の湯の聖地「茶禅一味」の心が伝えられ、3つの茶室があります。その1つ 寿庵席は山口玄洞が大正13年に寄進したもので、八畳の茶席 には茶の湯の聖地の礎を築いた一休禅師の掛け軸が懸けられている。
境内には秀吉が千利休より譲りうけ 植えたとされる 樹齢約400年の侘助椿があります。
皐盧(こうろ)庵茶舗
宇治田原に 自社農園を持ち、お茶の栽培から行なっています。皐盧(こうろ)は良いお茶という意味です。濃茶をいただけます。抹茶挽き体験、抹茶製造体験もできます。
黄梅院
1562年 に織田信長が父 信秀の追善供養のため、春林宗俶(大徳寺98世)を迎えて創建、当初は黄梅庵と名付けられた。1589年 豊臣秀吉に普請奉行を命じられた 小早川隆景の援助で本堂が建立されて、小早川家と本家筋の毛利家の菩提寺になり、黄梅院と改められた。今も表門などで毛利家の家紋「一文字三星」をみることができる。
・唐門(重文 桃山時代) 1586年 秀吉の援助で建てられ 本堂の玄関になっている。
・本堂(重文 桃山時代) も 1586年 秀吉の援助で落慶しました。狩野永徳や長谷川等伯と並ぶ桃山時代の絵師 雲谷等顔の襖絵、室中の「竹林七賢図」(重文・桃山時代 複製)や檀那の間の「西湖図」(重文・桃山時代 複製)など44面が遺されている。
・破頭庭(はとうてい)は 本堂の前庭にあたる簡素な枯山水庭園。
・書院 自休軒(じきゅうけん) 広々とした空間です。ここには 武野紹鴎が造ったされる 茶室 昨夢軒(さくむけん)が組み込まれている。紹鴎は 千利休の茶道の師 で、「佗茶の祖」とされる 村田珠光の 孫弟子にあたる。珠光が見いだした「わび茶」を紹鴎がさらに洗練させ 利休が完成させたといわれる。
・直中庭(じきちゅうてい)は 書院の南にある庭で 千利休62歳の時に作られ「苔の枯山水」とも称される。豊臣秀吉の希望による瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている。
・作仏庭(さぶつてい)は本堂の北裏側にある枯山水庭園で 生々流転を表しているという。
・閑坐庭は 心静かに座ることを意味し、本堂と庫裏の間にある坪庭。
・本堂の東側に隣接して建つ 庫裏(重文 桃山時代)は、日本の禅宗寺院において現存最古の庫裡です。この時期の庫裏・客殿が揃い残る例はきわめて少いという。禅宗塔頭庫裏の典型であり、僧侶の居住空間、台所の役割を担った。典座(てんざ)寮 には、院内の人々の食事一般を担う僧が居た。納所(なっしょ)寮 では 金銭工面・米麦などの食料調達などを行っていた。 役職ごとの寮舎になっていた庫裏は禅宗寺院の生活様式を今に伝えています。
渡月橋~法輪寺から宝厳院 世界遺産 天龍寺へ~
BS11 京都浪漫 悠久の物語☆第94回 渡月橋で春を想う~法輪寺から宝厳院 世界遺産 天龍寺へ~
渡月橋と法輪寺
渡月橋は 平安時代 836年に僧である道昌が架橋したのが始まりとされ、当初は100m~200mほど上流にあったとされている。もともとは橋の南にある法輪寺に渡るために作られ「法輪寺橋」と呼ばれていた。
鎌倉時代に亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と詠われたことで「渡月橋」と命名された。
しかし、洪水が多く橋はたびたび流失し、応仁の乱など戦乱による焼失もあった。1606年に角倉了以によって保津川の開削工事とともに現在の位置に架け替えられた。
法輪寺はおよそ1300年前の和銅6年(713年)に元明天皇の勅願により行基菩薩が創建。清少納言の『枕草子』や『今昔物語』にも描かれています。868年に空海の弟子の道昌がここに自ら彫った虚空蔵菩薩を安置した。しかし 幕末の禁門の変によりお堂の大半が焼失、その後、お堂や山門、多宝塔が再建されました。
嵐山の中腹にあり「嵯峨の虚空蔵さん」で知られる寺院。ご本尊の虚空蔵菩薩は智恵と技芸をつかさどる。毎年3月13日から2ヶ月間の「十三まいり」では、数え歳13歳になった子どもたちが智恵と福徳を授かるためお参りをする。平安時代のはじめ、幼くして帝位についた清和天皇が数え年十三歳になった折、成人の証として法輪寺で勅願法要を催したのがはじまりでした。寺に伝わる「法輪寺参詣曼荼羅図」には応仁の以前の「十三まいり」様子が描かれていて 橋の通行料を徴収していた。お参り後、渡月橋を渡り切るまでに振り返ってしまうと、授かった智恵を返してしまうと伝わる。
本尊である虚空蔵菩薩が丑年・寅年の守り本尊であるため、本堂前には 狛牛と狛寅が置かれているほか、虚空蔵菩薩の使いとされる羊の像も置かれている。
法輪寺の山門をくぐり、石段を上がって行くと、電気・電波を守護する 電電宮 が祀られています。
さらに石段を登ると、正面に本堂が見えてきます。その左手には多宝塔があり、右手には舞台と呼ばれる見晴台があり 渡月橋をはじめ嵯峨野や京都市内を見渡すことができます。
福田美術館
日本文化の新たな発信拠点として、京都・嵯峨嵐山に2019年10月に開館。
江戸時代から近代にかけての、主要な日本画家の作品で構成されるコレクション約1,500点を有しております。また、大堰川と渡月橋が最も美しく見える絶景カフェも併設。
天龍寺の塔頭 宝厳院
法輪寺のほど近くにある天龍寺の塔頭寺院 宝厳院は 明治の文豪 夏目漱石の日記にも登場する。
室町時代の1461年 に天龍寺の初代住職 夢窓疎石(むそうそうせき)の孫にあたる聖仲永光が開山。応仁の乱で焼失し、その後いくつかの地を移転して、平成14年(2002)に現在地に移転しました。
ご本尊は十一面観音菩薩、脇仏には三十三体の観音菩薩、足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像が祀られており、西国三十三ヶ所巡りに等しいと伝えられています。
春と秋の年2回特別公開される。
一番の見どころは、嵐山を借景として巧みに取り入れた借景回遊式庭園「獅子吼の庭」
獅子吼(ししく)「獅子が吼えて、百獣を恐れさせる威力」を意味しています。室町時代に策彦周良(さくげんしょうりゅう)禅師が作庭したもので、江戸時代の京都の名所名園案内記「都林泉名勝図会」にも掲載されているほどの名園です。広大な敷地の回遊式枯山水庭園で、庭園内に横たわる巨岩「獅子岩」は目を凝らすと獅子の姿が浮かんできます。
宝厳院本堂は、平成二十年 再建され、60メートルにわたる本堂障壁画58面「風河燦燦三三自在」は、現代の洋画家・壁画家の田村能里子によって描かれました。33人の老若男女の人物が描かれており、タムラレッドといわれる独特の赤により彩色されています。感性を生かした筆使いの美しさは一見です。
世界遺産 臨済宗天龍寺派大本山 天龍寺
天龍寺は後醍醐天皇の菩提を弔うため 1339年に足利尊氏を開基とし夢窓疎石(むろうそせき)を開山として創建された。元冦以来途絶えていた元との貿易を再開し 利益を造営費用に充てた(天龍寺船の始まり)。天龍寺は京都五山の一位として栄えた名刹。
庫裏の正面玄関に置かれた衝立には 達磨図 が掲げられています。モチーフは禅宗の初祖で インドから中国に渡って禅宗を始められた達磨大師です。天龍寺前管長 平田精耕老大師によって描かれた。
大方丈に祀られた本尊は釈迦如来坐像(重文 平安時代)度々の火災にも助けられた仏像です。
多宝殿は、後醍醐天皇が学問所とした地で、中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られています。後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えら、吉野で崩御された後醍醐天皇がいつでも桜が目愛れるように 多宝殿の周りを桜が取り囲んでいます。多宝殿西側の望京の丘からは京の町を一望でき、多宝殿の桜を見下ろすことができます。
法堂は住持が仏に代って衆に説法する場所で、平成9年に 法堂移築100年・夢窓国師650年遠諱記念事業として 日本画家 加山又造画伯によって描かれた巨大な雲龍図は、どこから見ても目が合う八方睨みの龍として知られる。以前は 鈴木松年により明治32年に描かれた雲に乗る龍の絵でした。
曹源池庭園は初代住職の夢窓疎石が作庭した。借景となる亀山は、後嵯峨天皇や亀山天皇が亡くなられたあとに火葬された聖地でもある。曹源池の由来は、夢窓疎石が池の整備時に「曹源一滴」と記された石碑が見つかったことから名付けられた。
将軍と天皇の意外な関係 石清水八幡宮・ 天龍寺・等持院・南禅寺
BS朝日 2024年4月25日OA
あなたの知らない京都旅 将軍と天皇の意外な関係
源氏の氏神 石清水八幡宮
京都府八幡市 男山の山上に建つ 石清水八幡宮。御祭神は本殿中央に応神天皇、西に比咩大神(ひめおおかみ)、東に神功皇后 の八幡三所神といわれる。
平安時代初め 清和天皇の貞観元(859)年、僧 行教(ぎょうきょう)によって、九州の宇佐八幡宮から男山に勧請され、860年に朝廷により建てられた社殿に祀られ、源氏の氏神です。
武家として知られる清和源氏は 清和天皇の第六皇子貞純親王の子である 経基王が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡る。源頼朝や足利尊氏、新田義貞など武士の棟梁が生まれました。徳川家康も、新田義貞の末裔を自称して源氏姓を名乗っています。
石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造(はちまんづくり)の神社建築であり、本社を構成する10棟の建造物と棟札3枚が国宝に指定されています。創建以来、何度か再建を繰り返し、現在の社殿は1634年に徳川家光の命で修造したものです。
八幡造りの本殿と前面に連なる幣殿及び舞殿などを瑞籬(みずがき)と回廊で囲み 緊密に一体化したもので、社殿 10棟は、2016年に国宝に指定されました。御本殿を囲む 国宝の瑞籬には、江戸期の名工 左 甚五郎一派の作と伝えられる 極彩色の欄間彫刻が150点以上も施されており、祇園祭の蟷螂山でおなじみの「百合とカマキリ」や「鹿とモミジ」「葡萄とリス」「天人」など珍しい彫刻がある。
内殿と外殿の「相の間」には、織田信長寄進の「黄金の雨樋」が架けられています。
足利将軍家の菩提寺 等持院
1341年に 夢窓疎石を開山とし、足利尊氏によって創建され 足利将軍家の菩提寺となった。霊光殿には足利歴代の将軍像が並ぶ。庭園は東西に分かれ、西の庭は芙蓉池と称し衣笠山を借景にした池泉回遊式であり 北側に茶室清漣亭がある。東の庭は心字池と称し、こちらも池泉回遊式である。
足利義満は 征夷大将軍と太政大臣と法皇の全ての地位を得ました。日明貿易で多くの収益を上げ 金閣寺などを作った。
南禅寺
京都市左京区にある南禅寺は、紅葉の名所としても有名な歴史ある寺院で、広大な敷地を誇る境内には、石川五右衛門の名セリフ「絶景かな、絶景かな」で有名な重要文化財の三門がある。
鎌倉時代後期の1291年に、亀山法皇が自らの離宮を禅寺に改め 無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えたことが始まりです。三代将軍 足利義満 によって京都五山及び鎌倉五山の最高位の寺格である五山之上に昇格。以来、傑出した禅僧が住持となり、五山文化の中心地として隆盛を極めました。しかし応仁の乱で伽藍のほとんどが焼失しました。
現在の三門は、1628年に藤堂高虎が大阪夏の陣で倒れた家来の菩提を弔うために再建したもので、禅宗様式独特の圧倒的な大きさと力強い列柱群が特徴です。
塔頭 金地院は 江戸時代のはじめ、徳川家康の信任を受けて以心崇伝がこの地に移して再興した。
方丈(重文)は伏見城の遺構と伝えられ柿(こけな)ぶき入母屋造り、書院造りの代表建築で、内部は狩野派諸家のふすま絵で飾られている。茶室八窓席(はっそうせき)は小堀遠州の設計で、三帖台目(だいめ)の遠州流茶席として有名である。方丈庭園(特別名勝)もまた、小堀遠州が直接指揮して作庭した確実な証拠を持つ唯一の庭園で、寛永9年に完成した名園である。境内の漆黒の東照宮(重文)は寛永5年の建築です。
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